最終話 霧島十歩の物語 ③
「おそらく換字式暗号だとは思うんだがな」
東京に向かって車を走らせながら、江戸探偵は言う。後部座席に座った十一は首を傾げた。
「換字式暗号?」
「ある文字や記号を他の文字に置き換えた暗号のことだよ。ホームズに出てくる踊る人形なんかがそうだ」
躍る人形とはシャーロック・ホームズに登場した、様々な体勢を取った人形の模様のことである。一つの人形が一つのアルファベットを表した、単純な換字式暗号なのだ。
「うるさい。黙ってろ、地の文」
『私』は黙らない。なぜなら、『私』が黙れば読者が困るからだ。
「しかしアルファベット……向かい合ったNとS……」
ハンドルを握りながら江戸探偵は眉根を寄せて考え込む。
「どこかで見覚えがあるんだがな……」
思い出せそうで思い出せない感覚に歯噛みしながら、江戸は車を走らせていく。十一も後部座席に座りながら考え込んでいた。
それからしばらく車は走り続け、細い山道を何度も曲がった後、ふと江戸は鏡越しに後部座席の十一に目をやった。
「……すまない、道を間違えてしまったかもしれない。後ろにある地図を取ってもらえないか」
「は、はいっ」
十一は自分の隣の座席に置いてあった地図を渡そうとした。地図には山から町に抜ける大まかな道が示されており、右上には包囲を示す十字とその上に書かれた『N』の字がある。十一はぴたりと手を止めた。
「あ、N……」
十一の言葉に江戸は一瞬動きを止め、次いで慌ててブレーキを踏んだ。
「N、地図――それだ!」
タイヤがざりざりっと音を立て、車は急ブレーキにきしみながら止まった。混乱する十一をよそに江戸は例の鍵を取り出した。
「Nは北、Sは南という意味だ!」
江戸探偵は鍵のNが左にくるように鍵を持った。すると芯棒の魚は上と左を向いている。
「N――北の英語表記であるNORTHが左に来るとすれば魚の向きは、東と北。――東北。つまり東北地方!」
興奮した様子の江戸探偵に、十一は混乱しながらも異を唱えた。
「で、でもそうだとして、東北だけじゃ広すぎます」
「そうだな、まだ何かあるはずだ、何か……」
江戸は手を口元に当て、考え始め――すぐに手を打った。
「そうか、換字式暗号だ」
慌てて手帳を取り出し、鉛筆で書きつける。
「東がEAST、北がNORTH。頭が離れた魚ということは頭文字。二つの単語の頭文字を取ってEとN。eiとつなげて読めば――『ENEI(えねい)』」
「……えねい?」
「東北地方のどこかの地名だろうな」
江戸探偵は鉛筆と手帳をしまい、車のエンジンをかけなおした。
結局暗号は全て江戸探偵が解いてしまった。ああ、なんて不甲斐ない秋月十一。それでは主人公の名が泣くぞ。
「うるさい、地の文、だまれ」
俺はお前の都合なんかじゃ動いてやらない。
そうやって憎々しげに呟く十一を、江戸探偵は鏡越しに気遣わしげに見た。しかし江戸はすぐに前方に目を戻すと、ハンドルをぐっと握った。
「東北に行くにはどちらにせよ東京に出るのが早い。東京に急ぐぞ、十一君」
「……はい!」
車は山道を抜け、町に入っていく。徐々に周囲の建物の密度は増していき、同時にその規模も大きくなっていく。
住宅街を抜け、盛り場を抜け、ようやくたどり着いた警視庁の前に乗りつけると江戸探偵は、刑事部の篠田警部に取り次いでもらえないかとその辺りを歩いていた職員を捕まえた。
「ええっ、そんな突然無理ですよ。……というかあなたどなたですか」
「探偵の江戸だと言ってくれれば分かるはずだ。頼む。篠田警部を呼んできてほしい」
「だから無理ですって」
二人の押し問答を十一はあわあわとしながら後ろで聞き続けた。
そうして玄関付近でそうやってもめていると、ちょうど外に出ようとしていた人物が江戸探偵に声をかけた。
「……そんなところで何をやってるんだ江戸」
「おお、篠田! ちょうどよかった!」
江戸探偵はパッと顔を明るくし、その人物に近付いた。そこにいたのは警視庁刑事部所属の警部、篠田孝三郎だ。
「お前に頼みたいことがあって来たんだ」
「頼みたいこと?」
「そうなんだ実は――」
江戸探偵が事情を説明しようとしたその時、篠田警部は江戸に手の平を向けてその言葉を遮った。
「ああ、その前にお前に渡しておかなければならないものがあるんだった」
「……渡しておかなければならないもの?」
「ああ、最近の事件にちらほら顔を出しているあの――葉桜二子だったか? あのジャーナリストからお前に手紙を預かってる。もしお前がここに来たら、何より先にこれを渡してほしいってな」
俺は断ったんだが、無理矢理押し付けられてしまったんだ。
と言いながら、篠田警部は大きくため息を吐いた。篠田警部はいかつい顔と性格をしている割に、こういうところで押しに弱いという一面もあるのだ。
「……その情報、今必要だった?」
十一が『私』を睨みつける。
必要だとも。読者にキャラクターへの愛着を持ってもらうためにはこうした描写が必要なのだ。全ては読者ありきの物語なのだからね。
「うるさい、黙ってろ地の文。読者の都合なんて俺は知らない」
そう言いながら十一はそっぽを向いた。
一方、江戸探偵はと言えば、渡された手紙に顔を青くしていた。
その中にはこう書いてあったのだ。
『秋月いちは預かった。返してほしければ、以下の場所に秋月十一の持つもう一つの鍵を持って来い。警察を頼ろうとするなら、秋月いちは殺す』
地の文を読んだ十一も真っ青になり、江戸を見上げた。江戸は篠田警部に見られないうちに慌ててその手紙を懐にしまった。
「それで、俺に用事とは何だったんだ?」
いまだ状況を把握していない篠田警部は、江戸探偵にそう尋ねた。江戸探偵は青い顔のまま硬直した。
「い、いや、なんでもないんだ。ただその……」
江戸は慎重に言葉を選ぼうとした。混乱と焦りを抑えるために深く深呼吸をして、篠田警部を正面から見た。
「篠田」
「何だ、江戸」
「お前に頼みがある」
江戸探偵は手帳を取り出すと、ある地名を――二子に指定された『えねい』の場所を書いて畳んだ。
「――二日だ。もし二日俺たちから音沙汰がなければ、この場所を調べて欲しい」
それを手渡された篠田警部は、江戸を睨みつけるようにして見た。
「……どういうことだ。何かに巻き込まれているのか」
「すまない、何も言えないんだ」
苦虫を噛み潰したかのような表情をする江戸に、篠田は何か重大な事件が起きていることを察した。そして、それに警察が介入してはまずいということも。
「……分かった約束しよう」
「感謝する」
江戸探偵は篠田警部に頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。篠田警部はそんな江戸を呼び止めた。
「だが、江戸」
「なんだ?」
振り向いた江戸探偵に、篠田警部は難しい顔をしながら言った。
「……無茶はするなよ」
江戸は片眉を上げると、そのまま警視庁の庁舎から退出した。十一もその後ろに続き、江戸が運転する車に乗り込む。
「だがこれで行くべき場所は分かった」
江戸探偵は葉桜二子からの手紙をぐしゃっと握りしめた。そこに書かれていた地名を頭の中で反芻する。
「……行こうか、十一君」
「うん」
「目的地は、福島県は相馬郡原町の――江井(えねい)だ」
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