最終話 霧島十歩の物語

最終話 霧島十歩の物語 ①

「十歩さん!」


「十歩!」


 いちと十一が悲鳴を上げる。一瞬で崖の裾から消えた姿を追い掛けて、十歩が立っていた場所に駆け寄るも、既に十歩の姿は滝壺のどこにも見えなかった。しばらくの間、轟々と流れ落ちる滝を呆然と見下ろしていた二人は、やがてその場にへなへなとへたりこんだ。


「そんな……」


「十歩さん……」


 ざり、と音を立てて、打ちひしがれる二人の後ろに一人の女性が立った。――葉桜二子だ。


「ふ、二人とも? ……残念だけどあれじゃあ十歩さんは助からないわ。ここにいても危ないからひとまず車に戻って――」


 いちと十一は同時に顔を上げ、キッと二子を睨みつけた。


「あっ、あんたが十歩を突き落としたんじゃないか!」


「そうよ! 私たち見たんだから!」


「何を言ってるの? あれはただの事故よ」


「嘘だ。お前に誘われなかったら十歩はあんな場所に行かなかった」


「あなたが十歩さんに下を覗きこませなければ十歩さんはあんなに簡単に落っこちなかった」


「ただの偶然よ」


 しらばっくれる二子をいちと十一は睨みつけ続けた。二子はその視線を受け止め続けたが、ふと、ハァと息を吐くと持っていたカバンの中に手を入れた。


「あなたたちには見られないようにやったつもりだったのにね……」


 それは犯行を認めたも同然の言葉だった。いちと十一は立ち上がると二子に怒りの眼差しを向けた。二子はそんな二人を見て、笑った。


「あら、そんなに怖い顔しないでちょうだい」


「人殺し……」


「なんで十歩を殺したんだよ、この人殺し!」


「あんまり強気な言葉は使わないことね」


 二子は笑みを深めた。


「これでも同じことが言えるかしら」


 カバンから引き抜かれた二子の手の中にあったのは、一丁の拳銃だった。いちと十一は思わず後ずさった。


 お互いを庇いあうように立ったいちと十一を前に、二子はにやりと口の端を歪めた。


「いちちゃんと十一くん。あなたたちのうち、鍵をもっているのはどちらかしら?」


 二人は肩をびくりと震わせると、素早く目配せをした。


「鍵?」


「何のこと?」


「隠さなくったっていいのよ。神社で着替えてた時、私、ちゃんと見てるんだから」


 ぐっと言葉に詰まった双子に、二子は目を細めて問いかけた。


「あれ、例の幻の宝石の鍵なんでしょう?」


 いちと十一は一歩後ずさった。


「なんで、」


「それを……」


 動揺で震えはじめたいちと十一を、二子は嘲笑った。


「昨日、秋月ろくさんに聞いたのよ。まあ、詳しく聞く前に死んじゃったんだけどね」


 二子は改めて拳銃を構えなおした。


「さあ、持ってるのはどっちなの? 教えてくれたら命までは取らないわ」


 その問いかけにいちと十一は何も答えなかった。ただ二子と二子の持つ銃の銃口を睨みつけ続けるいちと十一に、二子が苛立って声を上げようとしたその時、双子は何の合図もなく、同時に踵を返して駆け出した。


「待ちなさい!」


 二子はそうやって叫び、拳銃の引き金に指をかけた。


 パンッと乾いた音が響き、銃弾が銃口から吐き出される。銃弾は逃げ出した二人に迫り、いちの左肩を貫いた。


「つっ……」


「姉さん!」


「いいから走って!」


 いちは撃たれた左肩を押さえながらも走り続け、十一とともに森の中へと走り込んだ。


「このっ……!」


 背後から乾いた音が複数回聞こえたが、二人には当たることなく森の中へと消えていった。二人は必死で足を動かし、森を駆けていった。


 残された二子は一度息を吐くと、拳銃に弾を詰め直して、にやりと笑った。


「逃がすもんですか」






 五分ほど二人が走り続けた頃、ふと木の根に足を引っ掛けて、いちは倒れ込んだ。


「姉さん!」


 十一が助け起こそうとするも、いちは撃たれた左肩を押さえて息を切らすばかりだ。肩を支えようとした手にべっとりと赤色がつき、十一は顔を青ざめさせる。


「姉さん、血が……!」


「だ、大丈夫、まだ走れるわ……」


 いちは立ち上がると、十一を安心させようと微笑んだ。しかし十一は泣きそうな顔になるばかりだ。


「行きましょう、早く逃げないと」


「うん……」


 しかし走れば走るほどいちの息は荒くなるばかりで、背後からは二子がいちと十一を探す声が聞こえてくる。二子との距離は徐々に詰められているようだった。


 やがて立ち上がるのも難しくなったいちを岩陰にもたせかけて、いちと十一は、二子が通り過ぎてくれるのを待つことにした。だが、二子の声は徐々に近づいてきているようだ。


 いちは痛みで朦朧としながらも顔を上げ、十一をまっすぐに見上げた。


「十一、逃げて」


「え」


「逃げて誰か大人の人を呼んでくるの」


 十一は動揺してしゃがみこみ、いちに目を合わせた。その目には見る見るうちに涙が溜まっていく。


「でも……!」


「私はここに隠れてるから」


 いちは十一を安心させるように、十一の手をぎゅっと握った。


「大丈夫。きっと見つからないよ」


「姉さん……」


 いちは握りしめていた十一の手を離し、その肩をどんと押した。


「行って! 早く!」


 十一は涙を拭いて立ち上がると、何度も振り返りながら走り出した。岩を踏みつけ、近くにあった小さな崖をよじのぼる。がけを登り切り、ふと振り返ると、数メートル下方に座り込んでいる姉のすぐそばに二子が迫ってきているのに気がついた。


「姉さ……」


 思わず姉を呼ぼうとした十一の声を遮るように、いちは叫んだ。


「逃げて、十一!」


 その声に二子はいちと十一の存在に気付いたようだった。十一は咄嗟に、いちに言われるがままに走り出していた。


 逃げ去ろうとするその背中に二子は銃口を向ける。いちは立ち上がり、二子の後ろ姿に向かって叫んだ。


「待ちなさい!」


 振り返る二子に、いちは服の中に隠していた鍵を取り出して掲げてみせた。


「鍵ならここよ」







「姉さん、姉さん……」


 必死で足を動かしながら、十一はいちを呼び続けていた。顔はすでに涙でぐちゃぐちゃになっており、今どこを走っているのかも分からないありさまだ。


 やがて何かに足を取られた十一は、顔面を派手に地面に打ち付けて転んだ。


 顔についた泥と涙を拭いながら起き上がり、十一は自問自答する。


「俺、どうして逃げ出しちゃったんだ……」


 逃げろと言われたから?


 すぐそこに二子が迫っていたから?


 だけど姉さんを置いて逃げてきてよかったのか?


 置いてきた姉さんはきっと今頃――


「ね、姉さんを助けに戻らなきゃ」


 今更になって事態を理解してきた十一は立ち上がると、いちを置いてきてしまった方向に向かって再び駆け出そうとした。


 ――が、それは叶わなかった。


「えっ」


 十一の足は地面に縫い付けられたかのようになって、一歩も動けなくなっていたのだ。十一は必死で足を動かそうとしたが、無駄であった。なぜなら十一の行動は、『私』の言葉による宣言によって制限されているからだ。


 十一は怯えたような眼差しで斜め上を見上げた。


「だ、誰?」


 『私』は地の文である。


「地の文……?」


 おめでとう、十一。君は新たな主人公に選ばれたのである。


 読者の要望によって、これ以降この物語はアクション・サスペンス・ミステリーという方針でいくことになっている。覚えておくように。


「地の文って……あの十歩がいつも会話してた……」


 その通りだ。だが、霧島十歩は読者の需要から外れてしまった。読者が求めているのはもっと若々しく、感情移入しやすい主人公だ。そう例えば――君のような。


「俺が、主人公?」


 そう。主人公交代だ。


 霧島十歩は主人公に相応しくなかった。だから死んでもらった。


 十一はまだ『私』の言葉を理解しきれていないようだった。しかし、ただ一点においてのみ、今の十一にも理解できることがあった。


「お前が十歩を殺したのか」


 間接的にはそうなるね。


 『私』の言葉に激高したようで、十一は斜め上をキッと睨みつけた。


「十歩を返せ!」


 不可能である。霧島十歩は死んだのだ。


 十一は唇を噛み締めて泣きそうな顔になった後、すぐに怒りに満ちた表情になり、再び『私』を睨みつけた。


「じゃあさっさと足を放せ! 俺は姉さんのところに戻るんだ!」


 そう言うと十一は、地面に縫い付けられた足を動かそうともがき始めた。しかし、やはり足はぴくりとも動かない。


「動けっ、動けよ!」


 無駄である。君たち登場人物(キャラクター)は、地の文の描写には決して逆らえないのだ。


「ふざけるな! 俺はお前の言うことなんて聞かない!」


 そうも言っていられないのではないかな?


 君の大切なお姉さんは悪党に捕まり、君は逃げ出してしまった。――お姉さんを助ける必要があるのではないかな?


「だからこうやって姉さんを助けに行こうと……!」


 今の十一は無力であった。拳銃を持った相手に打ち勝つ力もなければ、姉をさらった車を追い掛けることができる方法もない。その上、この広い森の中で、元いた場所に戻ることすらおそらくできないのだった。


 十一は打ちひしがれそうになり――ふと何かに気付いたようで顔を上げた。


「……待って、姉さんは車でさらわれたのか?」


 その通り。秋月いちは葉桜二子に捕まり、車に押し込められて、さらわれた。地の文の宣言だ。間違いない。


「姉さんは生きてる……!」


 安堵から崩れ落ちそうになり、すんでのところで踏ん張ってこらえる。十一は斜め上に向かって叫んだ。


「おい、地の文!」


 何かな、新しい主人公?


 十一は力強い眼差しで『私』に問うた。


「俺はどうすればいい!」


 おや、『私』の言うことは聞かないのではなかったのかな?


 十一は苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。


「うるさい! お前の言いなりになるつもりなんてない! お前を利用するだけだ!」


 と、十一は屁理屈をこねた。


「屁理屈じゃない! さっさと教えろ!」


 獣であれば唸り声を上げていたであろう目つきで、十一は憎々しげに『私』を見上げていた。


 そうだね、とりあえず君には協力者が必要だろう。それも大人の協力者だ。


「大人の協力者……」


 少し考えた後、十一は南に向かって――村のある方向へと駆け出した。


 想像していたよりは時間はかからなかった。走り続けて村に辿りついた十一は、村の中で一番広い道路を駆け抜けて、その場所へと急いだ。


 走り続けて、足からは血が出ている気がするが、ここで足を止めるわけにはいかない。


 やがて見えてきたのはこじんまりとした一件の宿。この村にある唯一の、十一たち三人が泊まっていた宿だった。


 目的の人物の姿を認め、十一は叫んだ。


「江戸さん!」


 宿の前に立っていた江戸探偵が、十一を振り返った。

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