第一話 霧島十歩の混乱 ⑦
暗号文とにらめっこを始めて一時間。何の成果も得られないまま、時間だけがただ過ぎていく。
頭を抱える十歩の隣では、すっかり飽きてしまった秋月姉弟が猫のイヌを持ち上げて遊んでいた。
前足の下に手を入れて胴体をびろーんと伸ばすと、イヌはにゃーんと鳴いた。双子もその真似をする。
「にゃーん」
「にゃーん」
「うっせえ、双子!」
十歩が怒鳴りつけると、二人は肩をすくめてイヌを解放した。イヌは軽い足取りで部屋の外に出ていってしまった。十歩はふと、いちを見て眉根を寄せた。
「なあ、いち」
「はい」
「ずっと言いたかったんだけどさあ」
「なんでしょう」
「……なんでお前、招き猫持ってんだ?」
ソファに座っているいちの横には、来客用の机に置いてあったあの招き猫が座らされていた。いちは首を傾げた。
「なんでって……事務所にあったから?」
「事務所にあったからって普通は持ってこないだろうがよ!」
バンッと机を叩いて十歩は主張する。しかし彼女にはいまいち伝わっていないようで、いちは招き猫を抱えなおしながら再度首を傾げた。
「そういえばどうしてこの招き猫、事務所にあったんですっけ」
「いつの間にかあったよな」
すごく邪魔だったよね、邪魔だったよな、と言い合う二人に十歩は怪訝そうに目を細めた。
「なんだ忘れちまったのか、お前ら。つい一週間前のことじゃないか」
「一週間前?」
「一週間前?」
一切思い出す兆しのない双子に、十歩はめんどくさそうに頭を掻いた。
「おーい、地の文」
おや、回想が必要かな。
「やってやってくれ。……ああ、二人にも分かるように俺が語っているって体で頼むぞ」
はいはい、ご注文が多いことで。
というわけでここからは回想だ。読者の皆様は心して聞いてほしい。
――その依頼人はとにかく話が長い依頼人だった。
「それで我が家では猫を飼っているんですがね、正確には以前飼っていらっしゃった方から譲り受けた子なんですが。その子がもう可愛くて可愛くて。赤茶色のまんまるに太った子なんですが、もう食べっぷりがすごくてですね。私もあまりあげすぎないようにはしているんですが、隠しても隠してもすぐに餌の場所を見つけ出して引っ張り出して食べているんですね。困ったやつなんですけどそこがまた可愛くて、抱きしめてあげたいんですがあまりべたべたと触られるのは嫌なようで。それでも私が居眠りしたりしていると――」
どこまでもいつまでも続きそうな依頼人の話に、霧島十歩は半ば意識を朦朧とさせながら適当に相槌を打っていた。依頼人はたっぷり二十分は喋り続け、やがて満足したのか言葉を切ると、すっかり冷めきったお茶を一気に呷った。
「それにしてもいやあ、美味しいお茶だ。先ほどお茶を淹れてくださったのは探偵さんの娘さんですか?」
「いえ、娘ではありません」
あんなに大きな娘がいてたまるか、と十歩は内心毒づく。ちなみに十歩の年齢は二十五歳で、秋月姉弟は十二歳である。
「ごほん。それで――本日はどういった依頼でこちらにいらっしゃったんです?」
会話の間隙を縫って、十歩はようやく切り出した。すると依頼人は、おお、そうだったそうだったと笑い、依頼の話を始めた。
「実は遺産の相続権を放棄したいんです」
「遺産の相続権、ですか」
「――とはいっても親族の遺産ではないんです。私の飼い猫の元飼い主さんの遺産なんですがね。それが何故か私に遺されているらしくて」
「ほう」
「ただお金や物がそのまま遺されているならすぐにでもお返しすれば済むことなんですが、その、元飼い主さんは遊び心のある方で、遺産の在処を暗号にしてしまったらしいんです」
依頼人は何故か持参してきていた招き猫を机の上に置いた。
「暗号のヒントはこの招き猫の中に入れてあります。どうか探偵さん。この暗号を解いて……いえ、預かってくださるだけでいいんです。遺産だなんて私には重すぎます。重すぎるんです。もう一日だって持っていたくないんですよ。どうかよろしくお願いします!」
「ええー……」
妙な依頼だった。明らかに探偵の仕事ではなかった。
面倒事に巻き込まれたくないと考えた十歩は、必死で依頼を受けられないことを説明した。しかし、依頼人の方が一枚上手で、怒涛の勢いであふれ出てくる会話に流されてしまい、十歩はいつの間にか招き猫を受け取ってしまっていたのであった。
依頼人が帰っていった事務所で、十歩はぽつりとつぶやいた。
「……うちは倉庫じゃねえんだけどなあ」
すると給湯室から双子が顔を覗かせた。
「倉庫みたいなものじゃないですか」
「そうだぞ、十歩。掃除って概念を知ってるか?」
「うるせー」
散らかり放題の床を踏みつけて十歩はいつもの席に戻り、勢いよく腰を下ろした。
「あー、疲れたぁ……」
背もたれに体を預けた勢いで机に足が当たってしまい、机の上から一枚の書類が滑り落ちた。十歩はそれをぼんやりと眺めた後、ふと思い出したようにいちに尋ねた。
「おーい、いち。今来た依頼人の名前ってなんだっけか」
「もう、それくらい覚えておいてくださいよ」
秋月いちは、十歩の机から落ちた書類を一枚、拾い上げて答えた。
「大脇徹さんですよ」
『第一の被害者が大脇徹で――』
「待てよ、待てよ待てよ?」
回想から戻ってきた十歩は、顔を手でぱしんと覆った。
「猫、譲り受けた……? まさか!」
十歩は慌てて懐を探り、二枚の写真を取り出した。一枚は依頼人、富士省吾の家の女中から渡された猫の写真。もう一枚は殺害現場から拝借してきた、過去の事件で殺された猫の死骸の写真。
「同じだ……」
だとするなら、と十歩は秋月いちに視線をやった。
「いち! ちょっとその招き猫貸してみろ!」
「え、はい、どうかしたんですか?」
招き猫を手渡された十歩は、そのあまりの重さによろめいた。
「重っ……よくこんなの持ち歩いていられたな……」
「姉さんは力持ちだから……」
呆れたように言う十一を放っておいて、十歩は招き猫をひっくり返して大脇徹の言っていた暗号を探した。すると、招き猫の底がかぱっと開き、中から小さな紙切れが出てきた。
「あった!」
紙切れには『タハキ・エタニ・タンハ』という文字が書いてある。十歩は興奮した様子で紙切れを掴んで歩き回った。
「第一の被害者、大脇徹さんの飼っていた猫がガミだとしたら!」
「十歩さん?」
「何か分かったのか?」
双子の疑問には答えず、十歩は斜め上に向かって叫んだ。
「地の文! もう一回、回想だ! 大脇さんとの会話に手がかりを探す!」
ええー、めんどくさいなあ。
「いいから、回想しろ!」
回想しろ、じゃなくて、回想してください、だろ?
「あーもう、分かった! 分かりました! 回想してください、お願いします!」
仕方ないな。
ここからはまた回想だ。余裕のある方は読んでみて欲しい。
「うちの猫の元飼い主さんはそれはもう無類の妖怪好きでしてね?」
十歩の前に座った依頼人、大脇徹が語り続ける。十歩はそれを話半分で聞いていた。
「妖怪の軌跡をたどって四国まで行ってしまうぐらいのお人でして」
「はぁ、妖怪ねえ」
心底興味がないという気持ちを体全体で表現しているというのに、大脇の話は止まらない。十歩はもはや疲れ果てていた。
「ほら例えばこんなのですよ」
大脇は鞄の中から一冊の文庫本を取り出し、とあるページを開いた。十歩はそのページにかいてある文字を読もうとした。
「ええと、『隠神刑部』……? 何て読むんです、これ?」
大脇はにっこり笑って、自慢げに答えた。
「ああこれはですね――」
十歩は立ち止まって、ぱしんと手を打った。既に十歩の脳内では、全ての情報がパズルのように組み合わされ、一つの真実に辿りついていた。
「そうか、そういうことだったのか!」
十歩は大股で部屋の外に出て、依頼人、省吾の部屋をノックもなしに勢いよく開いた。
「省吾さん! 謎が解けましたよ!」
「本当ですか!?」
机に向かっていた省吾が椅子を蹴って立ち上がる。十歩の後ろには慌ててついてきた双子がいた。
「ええと、ああ、そうですね……」
十歩は少しだけ迷ってから、切り出した。
「イヌと同じアメリカンショートヘアを飼っていたらしい人を見つけたんです。もしかしたらイヌが通っていたっていう家なのかもしれません。詳しい話はそちらでします! さあ行きましょう!」
「え、あ、はい!」
十歩の勢いに押されて、省吾は首を縦に振っていた。
場所は変わって連続殺人事件の三番目の現場。
いまだに封鎖されているその場所に、十歩は軽い足取りで駆けこんでいった。
「篠田警部ー! 謎は全て解けましたあ!」
篠田警部は振り返ると、まるで害虫を見つけた時のような顔をした。
「またお前か、霧島十歩」
「へへへ、はい、また自分ですぅ」
へこへこと頭を下げながら寄ってくる十歩に、篠田警部は心底嫌そうに後ずさった。
「何の用だ」
「実はですね。最近起きている連続殺人事件の犯人が分かったんですよ」
「何ぃ?」
篠田警部は視線だけで本当か、と問いかけた。十歩は大きく頷いた。
「はい、本当ですとも。なので、警部にも推理を聞いていただきたくて、こちらに参上した次第なんですぅ」
警部は少しの間だけ逡巡し、野良犬のように卑しくまとわりついてくる十歩を見下ろした。
「……分かった。聞くだけ聞こう」
「言いましたね?」
十歩はにやりと笑うと、腕を大きく広げ、声を張り上げた。
「さあ読者の皆さん! ここからは解答編ですよ!」
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