第一話 霧島十歩の混乱 ③

 東京は有楽町の辺りにある、とある雑居ビルの三階にその探偵事務所はある。


 その事務所の入口のドアは非常に立てつけが悪く、なんとかしてそれを開いた先には引っ越し直後なのかと疑いたくなるほど、ひどい有様の部屋が広がっている。


 ドア付近には怪しげな置物が立ち並び、その横には申し訳程度に用意された来客用の机とソファが鎮座している。ソファの向こう側には、捜査資料と思われる書類の束が床に直接置かれ、足の踏み場もない。


 その少ない床面積を器用にひょいひょいと辿って、秋月姉弟は部屋の奥、壁際に埋もれるようにしてある、霧島十歩のデスクへと辿りついた。


 二人が積み上がった書類の陰を覗き込むと、霧島十歩は腕を組み、体を背もたれに預けて、顔を俯かせていた。二人が近づいてきたというのに十歩は何の反応もすることはなく、ただすうすうと気持ちよさそうな寝息だけが聞こえてきていた。


「十歩さん居眠り中ですか?」


「十歩はまた惰眠をむさぼってるのか」


「だめですよ、こんなところで寝ちゃ」


「仕事もせずに良いご身分だな」


「上着でもかけて寝ないと風邪ひきますよ」


「うわっ! 止めろ、姉さん! 俺の上着をはぎ取ろうとするな!」


「なによ、十歩さんにかけてもらったほうが上着も喜ぶと思うわ」


「なんだと、俺の上着の何が分かるっていうんだ」


「たとえば先週牛乳をこぼして慌てて洗われたこととか」


「なんで知ってるんだ姉さん!」


「もう、御託はいいからさっさとよこしなさい」


「いやだ、離せ、この助平!」


「よこしなさい!」


「いやだ!」


「よこせー!」


「いやだー!」


「うるせーーッ!!」


 十歩は突然顔を上げると、椅子を蹴って立ち上がった。


「黙って聞いてりゃギャーギャー、ギャーギャーと! どうしてお前らはいつもいつも俺の仕事の邪魔をするんだ!」


 秋月姉弟は揃ってきょとんとした顔をした。


「仕事?」

「仕事?」


「なんだその目は。なんか文句でもあんのか」


 二人は顔を見合わせて、ひそひそと何事かを言いあった後、口を揃えてこう言った。


「だって寝てたじゃないですか」

「だって寝てたじゃないか」


「ぐっ」


「仕事なんてしてないわよねえ」

「仕事なんてしてないよなあ」


 これには十歩もぐうの音も出ない。完全論破というやつである。


「うっせー! 黙れ、地の文!」


 秋月姉弟は眉根を寄せた。


「地の文さんに当たるのはよくないわ」

「幻覚に八つ当たりするとは寂しいやつだな」


 矢継ぎ早にかけられる辛辣な言葉に十歩は顔を歪めて何かを言おうとしたが、どうにもうまい反論が見つからなかったらしく、勢いよく秋月姉弟を指さした。


「こっ、こういうのはな! 寝てるんじゃなくて、思索を深めてるって言うんだ、ほっとけガキども!」


 言うが早いか、十歩は元通り椅子に腰を下ろして、腕を組んだ。どうやらもう一度居眠りをし直す――もとい、思索を深めにいくらしい。

 秋月いちは弟の上着を引っ張りながら、十歩に問いかけた。


「あっ、十歩さん上着要ります? 風邪ひいちゃいますよ?」


 十歩は閉じかけた瞼をカッと開いて、いちに向かって吐き捨てた。


「要るか! そんな牛乳臭い上着!」


「牛乳臭くなんてねーし!!」


 いちに上着を引っ張られながら、十一は涙目で反論した。


 同じ年、同じ日付に生まれたはずなのに、姉のいちは男の十一よりも強かった。具体的には筋力が強かった。筋力勝負になってしまえば、自分には勝ち目がない。だんだん伸びていく上着の生地を思いながら、十一は涙がこぼれそうになった。


 このまま上着が破れてしまうという最悪の事態も想定したが、幸いにも姉のいちは、十歩に上着をかけることをすぐに諦めたらしく、パッと手を離され、十一は床に尻餅をついた。


「ひどいよ、姉さん」


「もっと踏ん張りなさいな、十一」


 無茶苦茶なことを言いながら、いちは十一に手を差し伸べた。十一は素直にその手を取って、立ち上がった。二人の周りには辛うじて積み上げてあった書類が見るも無残に散乱していたが、二人は気にするそぶりも見せない。


 二人は顔を見合わせて、首を傾け合った。


「さてどうしよう」

「さてどうしよっか」


「十歩さんは寝ちゃったし」

「お客さんが来る気配もない」


「本を読もうにも辿りつけないし」

「書類整理なんてもってのほか」


 ちょうどその時、壁時計がボーンボーンと三時を告げた。

 二人は同時に頷いた。


「お茶にしよっか」

「そうだね、お茶にしよう」


 いちはまたひょいひょいと書類の間を縫って給湯室に向かい、十一はお茶菓子の入った戸棚を開けた。


「姉さん」


「なあに、十一」


「こんなのがあった」


 給湯室だけ顔だけ覗かせた姉に、十一は戸棚から取り出した箱を見せた。箱の表には『和と洋の融合 星空もなか』の文字が躍っている。


「それ、お客様に出すためのお菓子よ」


「でももうすぐ期限が来るよ」


 十一は箱を裏返した。そこに印字された年月日は、今日から数えて二日後になっている。


「あと二日だって」


「二日かあ……」


 秋月姉弟は考え込んだ。霧島十歩の探偵事務所は、こう言ってはなんだがあまり繁盛していない。来客は一週間に一度あればいい方。持ち込まれる依頼を十歩が断ってしまうこともしばしばだ。ならば二日以内に来客が来る確率は――


 二人は同時に、うん、と頷いた。


「勝手に食べちゃおうか」


「うん、勝手に食べちゃおう」


 言うが早いか十一は『星空もなか』の包装をバリバリと破いた。星空をイメージしたであろう藍色の包装紙をくしゃくしゃと丸め、ゴミ箱に放り込むと、その中身を豪快に三つ四つ掴み取り、菓子置きに乗せた。


「姉さん、お茶の準備は?」


「ばっちりよ、十一」


 ちょうどいちも湯呑を二つ持って、給湯室から出てきたところだった。


 二人は来客用のソファに歩み寄り、困ったように首を傾げた。


「招き猫、邪魔だね」


「うん……」


 来客用の机のど真ん中には、抱えるほど大きな招き猫が一匹、鎮座していたのだ。片手を上げたその猫が何を招いているのかは二人は知らなかったが、二人にとって今重要なのはそんなことではなかった。


 その招き猫はソファに座ってお茶をするには、非常に邪魔だったのだ。


「どうしてここにあるんだったかしら」


「どうしてだっけ」


 二人はうーんと考え込み、すぐに眉を下げた。


「思い出せないや」


「思い出せないや」


 お茶と菓子を一旦机の隅っこに置いて、二人は招き猫を眺めまわした。


「どうしよう」


「どうしようか」


 少しだけ考え込んだ後、十一はぽんと手を叩いた。


「そうだ。お客さんのソファに置いちゃおう」


「それがいいわ」


「そうしよう」


「そうしましょう」


 十一は招き猫を抱え上げ、向かいのソファに座らせた。招き猫の重量で、ソファの表面が大きく沈む。


「これで問題解決ね」


「これでおやつが食べられるね」


 二人はいそいそとお菓子の包装紙を剥くと、口を大きく開けてそれを食べようとした。


「いただきまー……」


「ごめんくださーい!」


 姉弟はぴたりと動きを止め、不機嫌そうに事務所の入口を見た。どうやら来客のようだ。


「はーい!」


「開いてまーす!」


 そう叫びながらお茶の準備を片付けていく。もし依頼人ならこのもなかはお預けになってしまうだろう。二人は内心、地団太を踏んだ。


 一方、開いていると言われた訪問者は、ドアノブを何度もひねって、ドアを開けようとしているようだった。しかし、ドアの枠がぎしぎしと鳴るばかりで、ドアが開く気配はない。


「あれっ、開かない……」


 困惑している訪問者に気付いた二人は、ああ、と言いながらドアに駆け寄った。


「そのドア、開け方にコツが要るんです」


「ちょっとどいててくださいね」


 ドアの向こうで訪問者が離れたことを確認すると、十一はドアノブをひねって、ほんの少しだけドアを持ち上げた。


「いくわよー」


「いつでもいいよ、姉さん」


 ぐるぐると足首を回して準備運動をするいちに、十一は頷いた。それを確認したいちは、右足を軸にして、ドアの角を思い切り蹴りつけた。


「セイッ!」


 どごっ、と鈍い打撃音が響いた後、ぎい、と音を立ててゆっくり戸は開いた。そうして訪問者の目の前に広がったのは、悲惨なほど散らかった事務所の様子だ。


 困惑する訪問者に向かって、双子は優雅に一礼した。



「いらっしゃいませ」

「ようこそ霧島探偵事務所へ」

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