第11話 兵は詭道なり

 正成が再び天王寺に出陣したのは、つのみや公綱きんつなが十数騎で天王寺に向かったとの報せを受けたからだ。

 正成が天王寺に戻った頃までには、数百騎ほどに増えていた。

 しかし、その後はいくら物見を放っても、軍勢が増える気配がない。


「なにか、ご不審ですか」


 次々と戻ってくる物見の報せに表情を曇らす兄を見兼ねて正季が訊ねた。


「うむ、数がな」


「僅か五、六百騎の軍勢とか」


「ならば、一気に蹴散らしてしまいましょう」


 と、楠木軍と合流していた和田氏が逸り立つのを制して、正成は決断した。


「いや、退こう。相手の軍気を見るに決死の覚悟のもと、主従が一体となっている。ぶつかればこちらの損害も甚大なものとなろう。この戦は幕府、北条氏を討ち滅ぼす為のもの。先は長い。『軍を全うするを上とし、破るはこれに次ぐ』だ。『良将は戦わずして勝つ』とも言うしな」


「しかし、ここで退くのは、六波羅を勢いづかせることになりませんか」


「撤退するとは言っておらん。この場を退くのだ」


 正成の言葉は、居並ぶ武将たちの理解を超えていた。

 正季が問い返す。


「兄様の考えが、この正季にはし兼ねるのですが…」


「孫子の兵法にな、『兵はどうなり』とある」


 兵法は、こう続く。


  能なるもこれに不能を示し

  用なるもこれに不用を示し

  近くともこれに遠きを示し

  遠くともこれに近きを示し

  利にしてこれを誘い

  乱にしてこれを取り

  実にしてこれに備え

  強にしてこれを避け

  怒にしてこれをたわみだし

  卑にしてこれを驕らせ

  いつにしてこれを労し

  親にしてこれを離す


 正成は、説く。

 宇都宮殿は鎌倉方でも特に優秀な武将であろうから、必ず我が軍の行動には意味があると考えるはずだ。

 だから、それを利用するのだと。

 楠木軍はその夜のうちに音もなく、速やかに天王寺から消えた。

 正成の読み通り、公綱は楠木軍の退却を裏のある事と警戒し、味方の軍勢が僅かでもある事から天王寺にとどまり、厳重に警戒した。

 正成は、それを確認するとすぐさま近在の住人を雇って、宇都宮勢をぐるりと遠巻きに取り囲むように夜毎かがりを焚かせる。

 十日もすると兵の気が萎え、軍全体に動揺の色が見て取れた。

 勝機の失せた事を実感した宇都宮勢は、京を発ってから一度も刀を交える事なく、へいした体を引きずるように戻って行った。

 楠木軍にいいようにあしらわれた六波羅探題の権威はまさに地に墮ち、畿内の悪党どもが一気に楠木氏に靡き始め、畿内は騒乱のちまたと化した。

 西国の統治を任されている六波羅探題には、これ以上の猶予はならない事態に陥った。

 さらに、長く消息の知れなかった大塔宮護良親王が吉野で挙兵し、全国に令旨を発しているという報がもたらされた。

 それは、河内赤坂の対応を協議している時であった。

 六波羅の激震は鎌倉へも伝わり、全国へと飛び火する事となった。

 六波羅とて、何もかも鎌倉頼みで右往左往していた訳ではない。

 すぐさま中国、四国、九州と西国の御家人をちょうして吉野、赤坂へ兵を出す。

 吉野は十日程で落ちた。

 笠置によく似た負け方である。

 天険を恃んで守備を手薄にしていたところから、一気に攻められたのだ。

 この戦では死を覚悟した大塔宮を逃げ落とし、宮の身代わりとなって壮絶な自決を遂げた村上むらかみひころう義光よしてると、その息子で、たった一人で殿しんがりを引き受け、追手を防いだとされる義隆よしたかの名が残った。

 この辺りで、およそ純粋な忠義で戦った者たちは絶えてしまったと考えてもいいだろう。

 彼らに政治的な能力があったかどうかは判らない。

 生きて論功行賞を迎えた時に、利にはしらなかったとも言えない。

 しかし、彼らが勝ち目を見て宮方についたのではない事だけは確かである。

 鎌倉幕府に不満を持っているという程度で当時の武士が、身命を惜しまぬほどに無償な協力が出来よう筈がない。

 忠義とは、君主に真心を持って仕える事である。

 この思想は、中国の南宋時代に発達した「宋学(朱子学)」の一部である。

 具体的に言えば、朱子学を大成したしゅが「がん綱目こうもく」で主張した名分節義の考え方である。

 元寇によって元とは国交を断絶していた日本にとって、南宋の文化は唯一の舶来ものであったろう。

 その南宋が、二度目の元寇(弘安の役)に先立つ二年前に滅亡している事と考え合わせると、彼らがまず最新の学問的知識を持っていた人々であった事は間違いない。

 そして一人、正成だけが千早に残った。

 彼の中で、忠義はただの知識から教養に代わる。

 後世「忠臣のかがみ」といわれる、正成の活躍が始まった。

 彼は楠木党を三軍に分け、一隊をひらしょうげんを守将として赤坂城に、もう一隊を千早城にめ、残る遊軍に恩地左近をつけて、河内郡内に散らした。

 「兄様。ただでさえ少ない軍勢を、なぜ三隊に分けてしまったのですか。遊軍は理解出来ますが、赤坂に二百というのが解せません」

 千早城内に設けられた畑の中で、土にまみれていた正成は、弟正季に視線を向ける事なく独り言のように呟いた。


「実は、湯浅定仏殿が建て直した赤坂城には致命的な弱点がある」


「水ですな」


「うむ、それを知っていてあの地に残したのだがな」


「それも兄様の言う戦略ですか」


「戦略といえば聞こえもいいが……なに、田舎者のいたずらよ。赤坂の守将には、無理はするなと言い含めておる。食糧か水。どちらか先に切れたら千早城へ戻って来いと言い聞かせてある。坂東の軍勢が到着するまでに、いくらかでも西国勢を減らしたい。赤坂城に兵を置いたのはそれが目的よ」


 前回、六波羅の主力は笠置に集中し、赤坂城での合戦は話程度に知っているに過ぎない。

 勝った者の語る話だ、自分に都合のよいように誇張されていた。

 正成が情報筋からの連絡を基に立てた作戦は、これも面白いように図に当たった。

 やがて、力攻めは兵糧攻めに変更となり、双方沈黙の内に日が過ぎて行く。

 そのうち寄せ手の某が、湯浅定仏の書き起こしたという城の絵図面を手に入れてみると、どうやら城内に水の手がないという事が知れる。

 寄せ手の将たちが嬉々として水の道を封鎖したので、赤坂城の楠木軍はたまらず、守将平野将監は兵の解放を条件に降伏したが、幕府軍は降伏者一切を京へ引きつれ斬っている。

 陥落した赤坂城の奥、金剛山には大小十五に及ぶ砦群に囲まれた千早城が、菊水の旗印を風に靡かせていた。

 この頃には、坂東から攻め上って来た北条勢に吉野攻略に出ていた軍勢も合流し、その数は実に十五万騎にまで膨れ上がっていた。

 その幕府軍は、複雑な山の地形を利用し、効果的に砦を築かれていて、一見して容易ならざる城と見た。

 が、先に赤坂城を水断ちで落としている六波羅組の例を取り「今度もまたどこぞの谷川から水を汲んでいるのだろう」という事になり、ごえ党の一隊を谷川近くに陣取らせた。

 これならば、前回のような甚大な被害をこうむらないだろう。

 そう考えての事だ。


「なる程、兄様は意地の悪さも天下一と見える」


 小高い丘の上に構えた赤坂城と違い、山深いこの辺りは掘れば水のしみ出る場所がいくらでもある。

 正成は、事前に水源を確保してから城を縄張りしていた。

 だけでなく、屋根にはといをかけ、大きな水甕みずがめもいくつか用意して不測の事態に備えている。

 危険を冒してまで、水を汲みに出る必要はないのだ。

 そうとは知らずに寝ずの見張りに立つ名越隊を見下ろしながら、正季は滑稽さを通り越して哀れなものと思えた。

 十日もすると、明らかに警備も怠慢になったようなので、悪党働きの特に得意な兵を二百人ほど集めて、朝もやの中を急襲させた。

 この戦闘は、敵兵を斬り殺す為のものではない。

 彼はあらかじめ正成が指示していた通り、逃げる者は追わせず、打捨てて行った旗指物はたさしものや陣幕といった戦利品を持ち帰り、これ見よがしに千早城に掲げて見せた。

 鎌倉武士は「名こそ惜しめ」と名誉を重んずる。

 正成の巧みな心理戦術の術中にはまった名越氏は、一族郎党全力を挙げて突撃して来た。

 こうなれば楠木党としては、してやったりである。

 殺到するところに例の大木巨石の雨が降る。

 幕府軍は前回の二の舞いとなる事を恐れ、早々に兵糧攻めに備え、恒久的な陣屋を造り始めたのだが、今度は後ろからも火矢が飛んで来て、出来かけの陣屋を焼き払って行く始末だった。

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