第12話 倒幕の勝鬨

 千早籠城もひと月ばかり過ぎた頃、春も近づき種まきの準備で城内の畑をいじっていた正成の許に、ばつの悪そうな正季が現れた。


「兄様、少々張り切り過ぎたようで……」


「どうしたのだ」


「矢が足りなくなりそうです」


 と、正季が頭を掻くと、ワサワサとフケが飛ぶ。


「そうか。では、それにうってつけの策を授けよう」


「そのような妙案があるのですか」


からの国がその昔、三国に別れて争うた時代に諸葛亮、あざなを孔明という人物がいてな……」


 深い朝もやの中、鬨の声を上げて楠木軍がうって出ると、ありったけの矢を射かけて引き揚げる。

 幕府軍はこれを追い、敵影と見れば矢を射かける。

 城に迫るとまだ百以上の兵が外にいるではないか。

 と、一斉に矢を射かけていざ突撃というところに、またしても木石の雨あられで撤退を余儀なくされた。

 その幕軍の兵が、帰りの途次に林の陰にふと目をやると、矢の刺さったわら人形が数体、楠木方の甲冑を身に付けて倒れているのが見つかったという。

 鎌倉では、得宗北条高時入道が、膠着状態の千早城攻略に苛立ちを募らせていた。

 千程な小勢で立籠る悪党を、実勢十五万を五十万騎とも八十万騎とも称して送り込んだ軍勢で取り巻いているにもかかわらず、手をこまねいているなどと喧伝されては反幕府、反北条の勢力が増えかねない。

 彼は「援兵が必要ならいくらでも出す。費用を度外視してでも早期に決着せよ。さもなくば総大将だんじょう以下、全員に切腹を命ずるぞ」と、連絡して寄越した。

 実際、大塔宮からの令旨を受けたはり赤松あかまつ則村のりむらにゅうどう円心えんしんなど、官軍を名乗って挙兵する例が畿内を中心に増え始めていた。

 大塔宮が再び兵を集って活動を再開したという報も届いている。

 実のところ、これらの情報の大半は、楠木党の恩地左近配下が放った流言である。

 が、流言を信じて挙兵する者も出てきているので、六波羅としても放ってはおけず、情報に接する度に東奔西走させられた。

 噂は噂を呼び、やがて真実となる。

 赤松軍が京を窺うまでになると、りょうげんの火の如き反幕勢力が各地で兵を挙げ出した。

 一刻も早く千早城を落とさねばならなくなった攻囲軍は、数を恃んで力攻めする。

 木石の尽きるまで、どれだけの兵力を犠牲にしてでも攻めるつもりだったかも知れない。

 だが、いつまでも木石で防衛するような正成ではない。

 大木などで一気に倒される事を避けて攻め寄せてくる相手には、矢の雨を降らせる。

 矢を防ぐ為に大きな盾を頭上高く構えてくる寄せ手には、沸騰した湯の雨を降らせた。

 かけられた兵は、鎧の隙間から流れ込んでくる煮え湯に、のたうち回りながら退却して行く。

 ある時などは、藁にもすがる思いで中国の故事にならい、巨大なはしごを作って谷を越えようとしたが、これには熱した油がかけられた。

 熱いやら滑るやらで多くの将兵がはしごから滑り落ちて行く。

 さらにその上、頃合いを見計らって油に火を放たれたので、多くの将兵が炎に包まれて谷底に落ちて行った。

 幕軍の被害甚大なる事このうえない。

 こうなるともう、兵の士気に反映する。やってられなくなるのは一般兵たちだ。

 不満は戦術面だけではない。

 まずは食糧の調達が思うように行かない。

 なにせ正成の命を受けた左近が、楠木党の影響力の及ぶ限りの地域に手を回し、食糧の供給を停止させている。

 馬借、船頭たちには、扱う商品におよそ考えられないような法外の値をつけさせていた。

 他方、攻囲軍の御家人たちが本国領地から運ばせて来る分は、近在の土豪らを語らって、悪党働きで奪うなどしてみせる。

 そして、女。

 とにかく近隣の女子衆は一切を隠してしまい、遊女たちにも圧力をかけて差し止めていた。

 さらに夜中に突然、鬨の声を上げたり、矢を射込んでみたり、終夜陣屋の周りで篝火を焚かせてみたりと、攻囲軍を休ませもしない。

 食欲、性欲、睡眠欲と人間の根本的欲求をことごとく抑制されてしまうと、軍紀などは締めようがない。

 夜陰に紛れて個人的に散じる者が出てくるのも当然だし、新田氏のようにまたしても「当主御病気」と称して、陣ごと引き払う例もあった。

 左近は、軍勢を建て直した大塔宮とも連絡を取り合い、動いてる。

 目に見える象徴「錦旗」は、主君正成が千早城で守り通している。

 精神的な象徴、いまや反幕府勢力の担ぐべき神輿としての存在価値を高めた大塔宮も、健在である事を令旨の発行や軍事行動で全国に示していた。

 完全に包囲されている正成には、集めようのない情報も、大塔宮の許には集まってくる。

 左近はそれを利用して、二月以上籠っている正成を助ける為に老骨に鞭打ち、畿内全域を駆け廻っていた。

 楠木氏は商家といっていい。

 流通を握り、商いで生計たつきを立てている悪党だ。

 その中で彼は、多忙な正成に代わり経営を任されていた言わば大番頭である。

 情報戦だけならば、正成にも劣らない活躍を見せていたといっていい。

 やがて、その左近のもとに後醍醐天皇が隠岐おきを脱出し、伯耆ほうきの豪族名和なわ長高ながたか(のちの長年ながとし)を味方につけて、せんじょうさんに拠られたとの報せが入った。

 帝の玉体が船上山に迎えられたという報せは、高時を慌てさせた。

 反幕行動は、河内千早城を中心に日に日に活発化している。

 赤松軍との激突だけを見ても、もう六波羅探題だけで京の都を死守する事は難しいと見て、京へ送ったのが誰あろう足利高氏(のちの尊氏)である。

 高氏は「時こそ今」と胸に秘め、京へ入ると早速船上山へ使者を送って綸旨を賜り、官軍急先鋒赤松軍を隠れみのに、遂に叛旗を翻した。

 連日のように猛攻撃を仕掛けて来る赤松軍でさえ、手を焼いていた六波羅軍である。

 足利謀叛に戦意を失い、崩れるように都落ちして行った。

 一方、病を口実に千早攻めから陣払いした新田義貞は帰路、八方尽くして大塔宮から令旨をもらい受けようとした。

 源氏の嫡流という自負が、北条氏に見切りをつけていたのだろう。

 戻って来た使者が手渡してくれたのは、綸旨であった。

 綸旨とは、帝の綸言をしるしたものである。

 大塔宮がいかなる意図を持って、これを授けたのかは判然としないが、義貞にとってありがたい事この上ない。

 本領上野こうずけに戻っていた義貞が、帝が船上山に拠られたとの報せを受けて足利党が出立した後の鎌倉を見ると、全くの手薄といってもいい事に気がついた。

 義貞の「時こそ今」である。

 上野で挙兵すると、電光石火で鎌倉を目指した。

 「彼我の形勢今まさに回天せり」と北条氏に見切りをつけた御家人が次々と源氏の旗の下に集い、瞬く間にその勢力は膨れ上がった。

 鎌倉では、戦火がいよいよ坂東に飛び火したという動揺激しく、急遽招集した幕府軍は、小手こて指原さしはらばいがわと押し切られると、遂に鎌倉で最後を迎える。

 滅亡にのぞんで、得宗北条相模守さがみのかみ高時の自刃に殉じた者が一族で二百八十余名、郎党以下八百七十余人と伝えられている。

 千早城で孤軍奮闘を続けていた楠木軍に、天下の趨勢すうせいを教えてくれたのは、山野に充ち満ちていた包囲軍である。

 ある日ざわざわと動揺したかと思うと、翌日には大半の軍が陣を払って逃げて行く。


「兄様」


 櫓の上でその様子を見ていた正季は、隣で放心したような兄正成を振り返り、逃げ去る包囲軍を指差した。

 知略の限りを尽くし、時には先頭に立って味方を鼓舞し続けて来た闘将楠木多聞兵衛正成は、やつれた体に鎧の重さを感じながら、頬を伝う涙も構わず、ただ「うんうん」と何度も頷いた。

 まもなく、白髪のめっきり増えた恩地左近が「六波羅陥落」の報をもって登城して来る。


「勝鬨じゃ、勝鬨をあげるぞ」


 楠木七郎正季の号令で、三度の勝鬨があがった。

 長い戦いだった。

 再挙兵より実に七ヶ月、千早城に籠ってからでも百日の時が経っていた。

 その後、鎌倉から高時の自決、幕府滅亡の報せが入り、楠木一党は金剛山を下りた。

 京六波羅ははすでに陥落している。

 いよいよ帝がご還幸かんこうするそうだ。

 とは、左近が千早城に来た時に既に知らされていた。

 正成は、今回の戦に一度でも楠木軍として参戦したすべての兵を集めて、西宮まで赴いた。

 その数七千余騎。

 彼は、帝に見てもらいたかったのである。

 義を奉じて正成に従ってくれた者たちを。

 帝は御輿の御簾みすを上げさせて、お側近くに正成を呼び寄せると「ひとえに汝が忠戦にあり」と、お声を掛けて下された。

 三度目の直言である。

 しかも、戦勝の報告に際するそれは労いの言葉だった。

 感激はひとしおであったろう。

 しかし、正成の感動も昂揚もそこまでだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る