何もない

カワヤマソラヒト

何もない


 とてつもなく筋金入りの怠惰なヒトであることを、今のDは誰よりもよく分かっていた。

 何をするにもまず面倒だと思う。

 外に出る必要があると、どうにか部屋に籠るべき理由はないかと思う。

 不精者、怠け者、愚か者、うつけ者……様々な言い方があると思う。

 しかし、自分が他ならぬDであることこそが、すべての比喩を内在した万能の固有名詞であると思う。

 表現を変えるならば、Dは自分について考えることすらしたくない。

 だから配偶者はいないし、当然子どももいない。

 他人と関わることは嫌いだし、そんなDを好むほど奇妙な女性はいないはずだ。

 仮にいたとしても、自分に近づいてほしくない。

 会話が必要とは思えない。

 放っておいてくれとなら言うかもしれない。

 が、それ以上話すことはない。

 それでもなお可能性があるならば、こう言うかもしれない。

 ぼくはきみを放っておく。きみは何も束縛されはしない。

 ぼくときみは対等な関係である。

 きみはぼくを放っておく。ぼくは何も束縛されはしない。


 誰ともつきあいを持たないことほど、ヒトとして自由でいられることはない。

 自死する意志がない以上、Dにとってそれは必要十分条件であり、極めて大切なルールでもあった。

 できることならあらゆる事柄に無関心でいたい。

 何事にも振り回されたくないし、振り回すつもりもない。

 何もなければ、すべては安定する。

 安定とはその文字が意味するままだ。

 安らかでいたい。

 何もなければいちばんいい。

 それが理想なのだとDは考えていた。

 何かがあるのは何故なのか。

 それはDがずうっと疑問だった。


 何もしたくない。

 したいことはない。

 だが、Dは経済的理由だけでさえそれが不可能だと骨の髄まで理解している。

 Dにとって裕福な暮らしは夢物語だし、どこからかなんらかの手当てが支給されることはない。

 親や縁者の経済状況は自分と似たり寄ったりで期待は全然できない。

 ならば稼ぐしかあるまい。

 Dは外面をよくできる才能を持っていた。

 両親が自分にくれた最も素晴らしいもの、それはこの才能であることに違いない。

 Dは1度として疑うことはなかった。

 もしも両親がくれたものがさらにあるのなら、次点は、適度にいろいろとこなせることだろうか。

 Dは自分のルールを遵守するなら労働なぞ以ての外だと分かっていた。

 金のための労働は愚の骨頂だ。

 とは言え、背に腹は変えられないことも分かっていた。


 多くの者が血相を変えて深刻に就職活動と呼ばれる障壁に挑んでいくのを、Dは遠くからぼうっと眺めたことがあった。

 あんなに面倒で非効率なことを自分ができるとは到底思えなかったし、やるなんて想像することは不可能だった。

 学校は同級生からうまくノートを借りて、なんとなく卒業した。

 いずれは自分で稼がなくては仕方ないと覚悟していた。

 最低でもどこかの大学を出た方がいいだろう。

 少しはエネルギーを浪費することになるだろうが、そこをクリアしておけばそれ以上の浪費は2度としない。

 その先は安穏であるはずだ。

 自由であるためには、時として不自由を許容することがいちばん簡便かつ手っ取り早い。

 Dが長い学校生活で学んだことは、それに尽きていた。


 就職活動をするのは自分にとって有り得ないことだと確信していたDは、当時つきあいがあった友人らしき同級生に紹介してもらったアルバイトを始めた。

 履歴書を書いたり面接を受けたりといったどうでもよいことをしなくて済む。

 このアルバイトをやるかやらないかは、その1点だけで判断した。

 それ以外の点はどこでどんな仕事をやろうが自分にとって大差はないと思った。

 Dは新聞社と呼ばれる企業の、編集助手になった。

 たくさんいる記者の人から頼まれるあれこれをやっつける雑用係だ。

 Dは勝手が分かるまで、忙しい様子で働いているように見えるための方法を探った。

 1週間経つと、Dは分かってきた。

 編集助手がいれば誰かの仕事は捗るかもしれない。いなくても誰かの仕事が遅くなることはない。Dの前任の 編集助手は存在しない。それでも仕事は普通に回っていた。編集助手がいると誰かが仕事を出さなくてはならない。仕事を出すために時間をとってもらうのは本末転倒だ。

 不特定多数の人から用を頼まれる立場を積極的に利用して、Dは持ち場を離れている時間を増やした。Dがそこにいない方が、仕事は問題なく動いていく。

 Dは数多くの隠れ場所でのんびり過ごすようにした。

 昼寝のためにいちばん多くの時間を割いた。

 状況を把握するために1週間分のエネルギーを浪費したが、その後は安楽に過ごせたし、浪費にしても学校を出るために失った分と比べる必要は皆無だった。

 Dは約三年ほど編集助手の立場にいた。

 その間、一年後には正式な編集者になることを偉そうな人から打診された。

 Dは真顔で断った。そんな力は今の自分にはない。正直に答えた。

 エネルギーの浪費をしたくなかったし、お気に入りの昼寝時間を手放したくないからだった。

 こうした本音についてもちろんDは言わなかったが、嘘をついた訳ではない。

 偉そうな人はDの言葉に納得して、Dは見所があると言った。来年また訊くから、前向きに考えるように言われた。

 三回ほどそんなことを繰り返すと、一年に一度だけとはいえ、Dはうんざりした。

 自分には編集者は向いてないと分かったと三回目に答えて、Dは編集助手を卒業した。

 学校にいたことを思えばなんの苦もない三年間だった。

 これに気づいたときに、Dは学校の存在意義を知った。修行の場として優秀な場所に自分はいたのだと思った。


 部屋に籠っていられる日々の限界を察すると、Dはやむを得ずアルバイト雑誌を手に取った。

 駅やコンビニのゴミ箱の中に、きれいな雑誌がよく置いてあった。

 Dはそれを借りてひととおり目を通すと、元の場所にきちんと返した。

 結果的によい節約ができた。

 履歴書を書いたり面接を受けたりといったどうでもよいことを、1度くらいは渋々やってみるのも仕方ない。

 Dはそう妥協して、次のアルバイトを探した。

 求人は職種を選ばなければたくさんあった。Dの基準は職種ではなかったのでほどなく次は見つかった。

 履歴書は取り上げられてファイルに綴じられてしまったが、面接らしきことは何もなく、行ったその日から働くことができた。とにかく作業員を増やすことに主眼があるようだった。

 Dは宅配物の巨大な集積場所で、仕分けをする係になった。

 夜勤が中心となるシフトだったが、そのことはDの心配になるはずもなく、賃金がその分良くなるので好都合だった。

 Dにとっての問題は、まず第一に作業上の安全確保のためという理由でそこら中に取り付けられた監視カメラだった。最大の難関はそれらのカメラへの対策であるのは一目瞭然だった。

 第二に、この係では同僚の目をくらますことも大きな障壁だった。

 前職であった編集助手の場合は、たくさんいた同僚のほぼ全員から昼寝の確保を奨励されたし、自分と同じような時間の使い方をしている者が多く見られたから、Dは安心して過ごすことができた。

 逆に、仕分け係で同じように過ごすのはひどく困難で神経をすり減らすことになり、エネルギーを急激に浪費するものと思えた。

 予想どおり、状況把握のための1週間で、Dは自分で驚くほどのエネルギーを浪費してしまった。

 仕分け係の賃金と労働時間帯はDに申し分なく向いており、作業内容には何ひとつ難しいことはなかった。ところが、人目が多いのは予想を上回る非常なネックだった。Dの許容範囲は1週間足らずで大幅に超えられてしまったのだった。

 DはDなりにうろ覚えながらもリスク評価をした。その結論は速やかに出た。次を探すということだった。


 Dは駅から近い公園でペンキが剥げたベンチに腰掛けていた。

 再びゴミ箱から借りてきたアルバイト雑誌を見回していると、Dは自分の名を呼ぶ声に気がついた。

 スーツに身を包んだ男が近づいてきた。

 Dは目を凝らして警戒したが、男が近づいて来るにつれその顔に見覚えがあるという思いが強まった。


「しばらくだなあ、卒業以来だよな。こんな所でどうした?」


 スーツ男は親しげにDの肩をぽんぽん叩きながら言った。

 男の喋り方がさらにDの記憶を呼び起こし、この男は友人らしき同級生のひとりだったと思い出すまでに至った。

 スーツ男は、すぐそこでクライアントとの打ち合わせがあったと言った。

 せっかくだからコーヒーでもどうだとDは誘われた。

 この辺りは何度も来ているから、けっこう詳しいんだ。

 そう言うと、スーツ男は小洒落たコーヒー・ショップのドアを開けた。

 カラカラという音が聞こえた。

 Dは雑誌を持ったままスーツ男に従った。


「スーツなんて着慣れてないからギクシャクしちゃうよ」


 スーツ男はウェイトレスを呼ぶと、マンデリンとチーズケーキ、と言った。メニューを見るのが億劫なDはスーツ男と同じものをオーダーした。

 壁に貼ってあった「今月のおすすめ」という小さなポスターを目にすると、Dはその高級そうな値段に面食らった。


「今日はおごらせてくれよな」


 笑顔のスーツ男による神々しい声がDの両耳に届いた。

 スーツ男は店の奥まった場所にある4人がけのテーブルを選んでいた。

 ひと呼吸置いた後にようやくアルバイト雑誌を自分の隣の椅子に置くと、値段はさておき、Dは奥まったこの場所は自分向きだと思った。


「普段はこんな格好はしてなくて、くたびれた作業着を着てる」


 スーツ男は本来「作業着男」なのだとDは知った。


「あんなの見てるってことは、お前は今無職なのか?」


 今日はスーツ男である作業着男に、Dは自分の現状についてごく簡単に話した。


「だったら、ちょうどよかったかもしれない」


 Dは疑問を持ちながら話の先を待った。


「よかったら、俺の仕事を手伝ってくれないか?」


 数日前に部下の女性が寿退職をしてしまい、手が足りなくなったとのことだった。


「すまないけど、いきなり正社員というわけにはいかない。まずはアルバイトとして来てほしい。そのかわり、ではないけど、オレの紹介だと上司に話せば必ず採用になる」


 堅苦しい面接や履歴書は不要だ。

 そのひと言が決め手となって、今日はスーツ男である作業着男の下でアルバイトをすることを、Dは引き受けた。


 指定された時間の10分前に、指定されたとおりにS駅の改札前に行ってみると、既に作業着男が立っているのがDに見えた。


「早いな。やる気満々てことだな」


 作業着男は勤務先へDを案内した。

 なるほど分かりにくい所にあるものだと、Dは思った。

 いきなりここまで来いと言わなかった作業着男は気が利くやつだと感じた。

 勤務先のビルが接している道路は幅が広く、一時的にならトラックを停めたとしても問題はなさそうだった。

 ただし、勤務先のビルを含め、周りの景色に特徴がない。

 殺風景な街の片隅ならどこにでもありそうなものだと、Dは思った。


 作業着男が、いや、あのときはスーツ男だった彼が言ったとおり、上司だと紹介された初老の男性は挨拶が終わるとすぐに、堅いことは抜きで今日からでも働いてください、とDに言った。

 手早く状況把握をするために、Dは言われたとおり即日勤務を承諾した。

 作業着男はにこやかに「とっても助かるよ」と言った。

 作業着男の隣がDの席になった。デスクトップ・パソコンが置かれていた。周りのどの机にも同じものと思われるパソコンが置かれていることに、Dは気がついた。

 この時代なら当たり前だと思うけど、全部のパソコンが社内ネットワークにつながっていて、ファイルをサーバーで管理している。メインに動いているものの他に、ミラーリングしているのが2台あって、毎日24時に実行されるようになっている。

 作業着男はネットワークについて事務的に話しているとDは感じた。作業着男にはつまらないことなのだろう。


「この前ちらっと話したけど、そこは寿退職した『彼女』がいた席なんだ」


 作業着男は早速Dにデータ入力を依頼してきた。

 一昨日してきたばかりの調査結果のデータだと作業着男は言った。


「一連の仕事の流れを覚えてほしいから、まずは常にデータ作成の最初となる作業からお願いするよ」


 パソコンのOSはウィンドウズだった。Dは学生時代から使い慣れているので問題なく作業できると伝えた。


「ならよかった」


 エクセルで雛形を作ってあるから、それを使ってくれ。

 作業着男は嬉しそうに言った。


「初日だし、今日は定時前に上がってくれてもいいぞ」


 上がるときはひと言でかまわないから進捗をメモっておいてほしい。

 作業着男はそうDに言い残し、上司には「現場に戻る」と伝えて部屋を出ていった。

 机がたくさん、一見して20程度はあるのに、部屋は上司とDだけになった。

 今日はみんな外に出ているのだと上司が言った。

 環境調査をしていると作業着男から聞いていたDは、今日はどんな調査をしているのか尋ねた。

 河川の水質調査で、2時間おきに10箇所同時に採水しなくてはならず、計12回することになっている。24時間の作業である。そのため人手が通常の水質調査よりもだいぶ多く必要なため、外注して協力会社にも人を出してもらっているのだ。

 上司の答えは回りくどくて分かりにくかったが、Dはそう理解した。

 作業内容はよく分からなかったが、24時間というのはハードであるに決まっている。作業着男は真面目な人間に違いないとDは思った。

 定時になると、Dは作業着男にメモを残して上がることにした。

 お先に失礼しますとDが挨拶すると、上司はお疲れさまと返してくれた後で、Dにこう訊いてきた。

 そのうちDくんにも現場に出てほしいが大丈夫だろうか。

 回りくどい言い方だったが、Dはそう理解した。

 大丈夫ですよとDは答えておいた。柄にもなく空気を読んだつもりだった。

 作業着は会社で用意するから。

 上司の言い方は相変わらず回りくどかったが、Dはそう理解した。


 自分も作業着男になってから約三年後、Dを誘ってくれたあのときのスーツ男は退職した。

 事前に焼き鳥屋に行こうと誘いを受け、友人らしき同級生のひとりでもある今は作業着男1の話を聞いた。

 作業着男1と2が、S駅から5、6分歩いた所にある焼き鳥屋に入った。


「会社のやり方についていけなくなった」


 お前も無理はするなよ、と作業着男1は言った。

 寿退職した「彼女」とはやっと離婚した。

 子供たちは「彼女」に任せた。

 しばらく揉めたが慰謝料はなしにした。

 円満解決だと思っている。

 作業着男1はDにさらさらとそこまで話したが、理由については徹頭徹尾何も言わなかった。


「多少しわ寄せが行くかもしれない。悪いな」


 大丈夫だとDは答えた。そう答えておくものだと思った。


「お前さえよければ、俺が次に務めることにした会社に来ないか?」


 今度は初めから正社員としてな、と作業着男1が言った。

 考えてみる、と作業着男2が答えた。そう答えておくものだと思った。

 日付が替わる寸前に解散した後、Dは作業着男1ことあのときのスーツ男と再会してから今日までのことを思った。

 1はどうやらたくさんの山あり谷ありでたいへんだったらしい。

 1の不安定さは自分なら一瞬も耐えられないだろう。

 何もないこと、それよりも平和なことがあるなんて、空が落ちてこようともDには思えない。

 明日、太陽が西から昇っても、どこからも昇らなくても。


 あれから10年が経過していた。

 Dは疲れ果て、動けない。

 Dは自分がとてつもなく筋金入りの怠惰なヒトであることを、ずいぶん久しぶりに思い出した。

 この10年、どうしてそのことを思い出さずにいたのか、いくら考えてもDにはその理由が分からない。

 Dは自分の望みどおり自由になっていた。

 誰に対しても、何に対してもしがらみはない。

 周りにはとうに誰の姿もない。

 思い残すようなことも一切ない。

 何をしてもかまわない。

 何もする必要はない。

 DがDである必要もない。

 呼吸をしてもかまわないし、する必要もない。

 ないものばかりがある状況で、あると断言できるものはあるだろうか。

 Dの意識は自問自答してみる。

 表には裏があり、表は裏のウラである。

 裏がなければ表はなく、表がなければ裏はない。

 善と悪についても同じだ。

 光があるから影がある。しかしこれは逆もまた真なりと言えない。光がなくても影は影として存在している。影があるから光があるのではない。

 時計の針なら一回りすれば元の位置に戻る。

 100分率にすれば「0」から「100」へ、そしてまた「0」へ。

 始点は終点、終点は始点。寸分たがわぬ同一のもの。

 行ったきりでは「旅」とは言えない。帰ってくるから「旅」なのだ。

 どれもこれもDが最初に唱えた言葉ではない。

 そう思い当たると、Dはこれで真の自由が手に入ると感じた。

 長い時間をDとして過ごして、最後の最後にDの意識が到達したのは、Dの理想だった。


 何もない。

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