10-3-1

 トビトの操る馬に揺らされながら、エステルはずっと考えていた。

「ユディトはどうしてこんなことを…。十五年前のことをまだ不満に思っていて、お兄様に反抗しようとしているのでしょうか」

 どれだけ頑張っても、一般的な普通の考えしか浮かんでこない。

 常人とは違う思考回路を持つユディトのことだ、今回もおそらく、エステルには到底及ばないような次元で物事を考えているのかもしれない。

 これが自分の限界かと、かつてユディトに言われた言葉をまざまざと見せつけられたような気がした。

「それはありません。ユディト様は別に誰のことも恨んではいませんよ」

 やんわりとトビトは否定した。

「でも、いつもお義兄様に対して反抗的です。恨んでいるからそういう行動をするのではないのですか?」

「いいえ。それは単に陛下のお考えが、ユディト様の規則に反していたからというだけのことです」

「規則?」

「そうです。人生において判断を下すための基本的な指標です。ユディト様だけではない、ネヘミヤにも私にもそれはあります。私たちのような弱い人間は、そういったものがないと、間違ってしまうんです」

「弱い?ユディトやトビトさんたちが?」

 エステルは素っ頓狂な声を上げた。

 何かと神経が図太そうなユディトが弱いとは到底思えない。

 ネヘミヤやトビトにしても、あの男に付き従えるくらいだからかなりの精神力を持っているように思えるのだが。

「いつも虚勢を張っているからわからないでしょうが、ユディト様は、本当はとても臆病で怖がりなんですよ」

「嘘でしょ!?」

「いえ本当です」

 なかなか信じようとしないエステルにトビトは苦笑を漏らした。

「昔、夢を見るのだと、私にそうお話になったことがあります」

「夢?」

「十五年前の夢です。その夢を見ては何度も飛び起き、私やネヘミヤを探すのです。そしていつも、その話をするとき、ユディト様の細い肩は震えていた」

 そんな弱弱しい姿、エステルの前では一度も見せたことがない。

「この十五年間、ユディト様があの日を思い出さなかったことは一日たりとてありません。ユディト様は決して、何の罪悪感も抱いていないわけではないんですよ」

 穏やかに、しかしどこか苦しそうに紡がれたその事実に、エステルはかつてユディトと交わした言葉を思い出した。

『少しでも後悔や自責といったものは…そういうものはないのですか?』

『…ないな、そんなもの』

 その言葉に裏があるなど、あの時のエステルは少しも考えなかった。いつもユディトは言っていたではないか。目の前にあることが全てではないと。

 それを知りながら、考えようとしなかったのはエステルだ。

「私、ユディトにひどいこと言いました。何もわかっていないのは自分の方だった」

「仕方のないことですよ。誤解を受けやすい言い方しかできないユディト様にも非はあります」

 ですが、とトビトは続けた。

「やはり十五年前のことに関しては、少し不服ですね。歴史に“愚王”と刻まれるあの方の素顔を知るものは、数える程度しかいないのが、私にはどうしようもなく悲しい」

 十五年前の光景を、実際に見てきた眸が悲しみに歪む。

トビトの瞳にはきっと、人々が知るサムエル王とはまるで違う姿映っていたのだろう。

「確かにサムエル王は愚かでした。しかし彼は、人々にそうあることを望まれていたのです。時に、贅をつくし民を苦しめる王であり、時に、意のままに操られる傀儡の王であることを」

 幼いユディトはそうあることに懸命になった。それ以外の生き方を知らなかったから。そうあらねば、自分がどうなるのかを知っていたから。生きるために、自ら仮面をかぶることを選んだ。

 そして、祭り上げられた愚王は、仮面の下の顔を誰にも見せることなく世界から消された。

「でもそれは、私たちがいけないんです。そういう風に望む存在から彼を守れなかったから」

 誰かの所為にすれば、苦しみはほんの少しだけ軽くなる。軽くなった分の苦しみを押し付けられる存在など、本当は誰でもよかったのだ。多くの人の「誰でもよかった」が、やがて収束し、一人の都合のいい存在へと向かった。

 全てを背負ったまま死んでも、それが彼の役目だったと一言で済ませられる存在。人々に消費されるためにある存在。王族とは、きっとそういうものなのだとユディトはどこかでいつも諦めている。

「知っていますか?“愚王”と誹られる陰で、同時にサムエル王を“悲劇の王”と呼ぶ人たちがいることを」

「“悲劇の王”?」

「あの日ネヘミヤは、ユディト様から両腕を奪いました。でもユディト様は何も言わなかった。たった八歳の子どもが、悲鳴一つ上げずにただ耐えていた」

 想像を絶する痛みに顔を歪めながらも、かつての王は何もいわなかった。

その光景は恐ろしいまでの静寂に包まれ、強烈な印象を持って人々の心に刻み付けられた。

「だから人々は忘れることにしたんです。その姿を見ていたら分からなくなるから」

「分からなくなる?」

「正義が…信じるべきものがなんなのか分からなくなる。暴君は英雄の登場によって倒された。そのはずなのに、そこにいたのはただの子どもだったんです」

 化け物のような大男でもなく、欲望に顔を歪めた狂人でもなく、どこにでもいるような小さな子どもが血に染まる瞳で人々を見ていた。

 ただじっと、全ての苦しみを受け止めるように。

「分かりますか?あの方は何も言うことなく、全ての“正しさ”というものを否定したんです。人々の歴史の中で積み重ねられてきた、“正義”を否定したんです」

 みじめに命乞いをする者。無様に喚き散らす者。罪人が愚かであるほど、その残虐な行為は正当化されていく。でも、あの日誰もが疑った。

 目の前で繰り広げられている光景が本当に“正義”であるのかを。

「私にも、心当たりがあります。ユディトと話していたら自分が信じているものが本当に正しいのか分からなくなる」

 ユディトと話す中で、自部の中で絶対の正義であった義兄の存在が、なんど揺らいだか分からない。

 義兄のことだけではない、目の前にあるものすべてが疑わしく、その裏に見るべきでない何かが隠れているように感じるようになってしまった。

「でも、正義を否定されたのは民衆だけではないんですよ。ユディト様だってそうだったんです」

「ユディトが?」

「ユディト様は政争の中で、自分の信じていた正義をゼファニア王によって徹底的に否定された。人々にとって悪でしかなかったそれは、それでもユディト様にとっては唯一の正義だったんです」

 悪政も、何も知らない人間からしてみれば正義だった。ユディトにはそれを正義だと信じる以外の道がなかったのだ。

「でもその正義は否定された。逃げ惑う中で、気付かないうちに自分が悪になっていたんです。その恐怖は、きっとそこらの人には理解しえないほど強い」

 たった一晩で信じていたものすべてがひっくり返され、自分が悪になる。普通に生きていれば体験することのないそういった経験がユディトの今につながっているのなら、彼の少々過激な言動は彼なりの警告だったのかもしれない。

「ユディト様は何よりも奪われることを嫌がります。それは、あの日の恐怖を想起させるものだから」

 奪われること、という言葉にエステルの中の何かが反応した。しかし、それがなんであるのかすぐには浮かび上がってこない。

 胸の内の違和感に首をかしげるエステルを他所に、トビトは続けた。

「お願いします、ユディト様を救ってください。それができるのは、エステルさんだけなんです」

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