10-1 通歴940年5月2日
《通歴940年5月2日》
「そこまでにしてもらおうか!」
鈍い嫌な音がして、自分に圧し掛かっていた重みが消え去った。
硬く閉ざしていた目を開くと、先ほどまで体の上にいたはずのオルバが壁際まで吹き飛ばされ完全に伸びていた。
「トビトさん…?」
見慣れた大男の背に言いようもない安心感がこみ上げる。緊張の解けた体からは力が抜け、目には涙がにじんだ。
だが、安堵と共にある疑問も湧いてきた。
「どうしてここに?」
「詳しくは後で。まずはこちらの方が先決です」
エステルの疑問を他所に、トビトは襲い掛かるオルバの専属護衛たちを次々となぎ倒した。
流石、元は王の守り役。いまだにその腕は健在のようで、そこらの兵士など歯牙にもかけていない。
しかしながら、あまりにも悲惨な光景に、敵ながらつい憐れみの気持ちを抱いてしまう。
「そのくらいで…」
忍びなさに耐え切れなくなり、トビトに制止をかけた。少し躊躇はしたものの、トビトはそれに素直に従い、エステルの前に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます。でも、どうしてここに?」
エステルが誘拐されたのはおそらく数日前。それほど長い時間家を空けていれば、家人たちが怪しむのは分かる。エステルに何か接触をするのであれば、実母を知っているモルディアス家ならば容易にシード家を思い浮かべるだろう。
しかし、助けに来たのはモルディアスの人間ではなく、何故かトビト一人であった。
トビトはユディトの監視役であり、彼に付き従っているため外界にはとんと疎い。まして、モルディアス家がトビトに助けを求めるはずなどなかった。
それなのに、トビトはここにいる。
「ユディト様が…ユディト様が命令なさったのです」
「私を助けるように?」
それはおかしい。
お前がどうなろうと、俺には関係ない。そんなユディトの声が今にも聞こえてきそうなのに、現実はそうではなかった。
「何故、ユディトがそんなことを…?」
「それは私にも分かりません。ですが、とにかくここを離れましょう。早くしないと手遅れになる」
「手遅れ?」
トビトの言葉に引っかかりを覚えるも、その答えを得る前に抱きかかえられた。
「きゃっ!?」
「捕まっていてください。走ります」
左腕だけでエステルを抱え、トビトは走り出した。空の右手で行く手を阻む衛兵たちを払いのけ、屋敷の外を目指す。エステルはただ、振り落とされないように捕まることに精一杯だった。
すべての追手を振り切り屋敷から脱出すると、トビトは外壁の近くにつないでいた馬にエステルを乗せた。
「どこへ?」
「王城へ向かいます。このままではユディト様が危ない」
トビトも馬に乗り、すぐさま駆け出した。シード邸から王城まではそれなりに距離があり、馬でも四半刻はかかるだろう。
「さっきから手遅れになるとか危ないとか、ユディトに何かあったんですか?」
半ば叫ぶようにしてトビトに問う。トビトは振り返ることなくそれに答えた。
「ユディト様が姿を消しました。ネヘミヤが今、王城に報告に行っています」
「は?」
地下書庫から一歩も動こうとしなかったあの男が姿を消した。それも、二人の監視に全く気付かれることなく。
そんなことが本当にあり得るのだろうか。
「数時間前のことです。私はネヘミヤとユディト様に頼まれて、久しぶりに外界に出ていました。用事をすべて終えて帰ると、地下のどこにもお姿がなくて…。書置きだけが残されていたんです」
「そこにはなんと?」
「『シード邸にエステルがいる』と」
「だからトビトさんは私を助け、その間ネヘミヤさんは王城へ?」
トビトは首を縦に振り、無言で肯定する。
少しずつ冷静さを取り戻し始めた頭が、あることに気付いた。
「ユディトのことも気になりますが、ネヘミヤさんもおかしくないですか?いつものあの人なら、報告よりもまず先にユディトを探しに行き、できる限り事態を隠蔽しようとするはずです。なのに、真っ先に王へ報告しに行き、トビトさんを私に寄越すなんて」
言葉は悪いが、おそらくこの考えは間違っていない。助けられておきながら言えたことではないが、ユディトのことを何よりも大切に思う二人だからこそ、何よりも先にユディトを探しに行く方が自然だ。
そもそもユディトの書置きには、エステルの居場所が書いてあるだけで助けに行けとは書いていない。そう解釈できないわけではないが、この状況でネヘミヤがそんな不確実なことに時間を割くとも思えない。
「ええ。私もそう思います。だから、おそらくこれは全てユディト様がネヘミヤに指示したからだと思います」
「誘拐のことも、裏でユディトが手を引いていると?」
「そうです」
ある種の確信を持っているように、トビトは強く肯定した。
しかし、そうであるなら余計ユディトの考えていることが分からない。
「ネヘミヤは、私以上にユディト様のために動きます。ネヘミヤがこんなことをするのはひとえにユディト様がそれを望んだから」
この二人が何よりもユディトの考えを尊重しているのはエステルも知っている。
「だから私も、ユディト様を探すのではなくあなたを助ける方を選びました。この誘拐がユディト様の考えによるものならば、貴女を助けることもその一部に含まれているはずです」
「誘拐から助けるまでが計画の一部…」
「ええ。だから私が独断で行動すれば、その計画が崩れることになる。そんなことになったらユディト様ですら予期しない状況になりかねない」
「でも、それならどうしてユディトはネヘミヤさんにだけ話して、トビトさんにはなにも言わなかったのでしょうか」
「それは…。きっと私が知ればなんとしても止めようとする内容だったからでしょう」
ユディトのために、ユディトを捨ててエステルを助けに来た男だ。彼の身に危険が及ぶようであれば、力づくでも止めようとするのかもしれない。
しかしもしそれが、ユディトの願いに反しているとき。この人はどうするのだろう。
「私とネヘミヤは、基本的に同じ考えを持っていますが、その根本はまるで違います」
悔しさと悲しみとわずかな怒りに震える声でトビトは言う。
「私はユディト様の望みを全て叶えて差し上げたい。でも、同時にユディト様にどんな形であっても生きてほしいと願っているのです」
その言葉にエステルは息をのんだ。
ユディトに生きてほしいと願うトビトとは根本的に違うネヘミヤ。彼女はユディトの願いを全て叶えようとする。
それが、たとえ死であったとしても。
「…とにかく急ぎましょう」
胸をよぎる嫌な予感に、エステルの心臓が早鐘を打つ。早く、王に会いたかった。
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