9 追憶:通歴424年10月27日

《追憶:通歴424年10月27日》

 海鳴りが聞こえる。それはまるで、海に沈んだ一族の、地獄から響く怨嗟のようだった。

「ん…」

 頬に触れる砂の感覚。目を閉じているはずなのに、頭の中がかき混ぜられているような強烈な酩酊感に吐き気がこみ上げる。呼吸するたびに胸の奥に激痛が走り、体が思うように動かなかった。

 それでも、なんとか瞼を抉じ開け、かすんだ瞳で周囲を見渡した。

「生きてる…?」

 自分は生きていた。一人、生きていた。

 打ち上げられた浜辺。よく見ると、周囲には一族人間が物言わぬ死体となって山を作っていた。

 ついさっきまで自分を抱いていた祖母が、美味しいお菓子を作ってくれた侍女が、守ってくれた衛兵が。物言わぬ肉塊となって浜に打ち上げられる。

「あ…あぁ…っ!」

 生き残ってしまった。自分だけ、安寧の地に行くことができなかった。

 否、知らないふりをしていただけなのだ。海の底にある楽園を、信じていると思い込んでいた。

 しかし、そこにあったのは沈黙する岩々と、先に沈んだ一族の躯。口を開けた化け物たちの地獄絵図。奴らが自分を飲み込もうと待っていた。

 それは、真っ黒な記憶だった。気づけばお守り代わりの神剣はどこかへ消え、小さな体一つだけが浜辺に取り残されている。

「あああああ…っ!!」

 喉が裂けんばかりに叫んだ。力の入らない手が浜辺の砂を掻き、か細い線を残した。喉が、手が、全身が痛い。

 しかし、痛みを無視して幼い体は感情を爆発させる。胸のうちの、行き場を失ってしまったすべてを、吐き出してしまいたかった。

 どうして自分は、生きることを望んでしまったのだろう。海の底にも、地上にも、安息などないことを知っているのに。

 一族の者たちにとって、自ら選んだ死は救いだったのかもしれない。

 でも、それを受け入れられなかったのは自分だ。価値観を強制する一族が、それに従うしかなかった自分が、許せなかったのは自分だった。

「いつから…いつから間違った?」

 今度こそはっきりと、言葉は喉を通し、空気を震わせて世界に紡ぎ出された。

 大切なことに気づくのはいつも、取り返しのつかないところに至ってからだった。それはいつも目の前にあったはずなのに。

 自分の犯した間違いに、今更気づいてしまった。

「生きていたのか」

 絶望の淵に立ち、人生のすべてを悲観していると、まるで見計らっていたかのように死神は現れた。

「誰…?」

 見覚えのない顔に、恐怖と警戒心が高まる。

「まさか、大将だけが生き残るとはな。王のくせに民を捨てて隣国に逃げようとするなど、愚か者が」

 容赦なく、その男は正論を叩きつける。もしや。

「叔父…上?」

「ああ」

 自らに破滅をもたらした男、ゼファニアが不敵に嗤う。

 しかし、それを見てもなお仇敵であった叔父に、何の感情も抱けなかった。憎悪を育むほどの興味も、怒りをぶつけるための力も、何一つ湧いてこない。

 そして何よりも、自分はこの男を知らなかった。無知は何よりも怖いということを、この身は嫌というほど経験している。だから、知らないものに対して不用意に感情を抱くことはもうない。 

「お前は最初から、王ではなかった。お前の人生そのものが、間違いだった」

 冷ややかな声が、全てを否定する。

 自分は王ではなかった。そんなこと自分が一番分かっている。自分のこれまでの人生がどれほど無意味で、害悪しかもたらさなかったことか。

 そして、無知だからと言って犯した罪が許されるわけではないことも理解している。

「…知ってる」

「そうか。まあいい、お前は子どもだ。せっかく生き延びたんだから、その幸運に対して一度だけ機会を与えてやる。好きな方を選べ」

 それは、生まれて初めて目の前に提示された選択肢。どちらを選ぶも、自由だった。

「お前は生きたいか?それとも、今ここで死にたいか?」

 霞んだ視界の中で、叔父は笑っていた。


 その問いへの答えを、自分は覚えていない。

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