7-1-3 追憶:通歴924年8月22日

《追憶:通歴924年8月22日》

 自分は今、王城から遠く離れた地に立っている。


 遡ること約一月前、満月の晩。

 屈強な兵士に抱えられ生まれて初めて城の外に出た。半年近くに渡って未だ続くゼファニアとの攻防に、もはや王城は安全な場所ではなくなっていた。

 遠くに城の影が見える。初めて見る城の外には誰も教えてくれなかった現実が広がっていた。

 月明かりに照らされて浮かび上がる、風化し今にも崩れそうなあばら屋。耕す者がいなくなり、荒れ果てた田畑。白く浮かび上がる光は、よく見るとからからに乾いた頭蓋だった。

「母様…」

 あまりの恐ろしさに目を背け、母に助けを求めた。しかし、そこにあった母の姿は自分の目を疑うほど、変わり果てていた。

「声を出してはいけません」

 息子を窘める姿にはもう、王太后としての輝きは欠片も残っていなかった。

 母を飾っていた宝石たちは、一つも持ってくることができず、いつも丁寧に結い上げられていた髪は解れ、豪奢なドレスはところどころ破れボロ雑巾のようになっている。

 生まれてこの方、走ったこともないような貴婦人はそれでも死ぬのが恐ろしいのか、鬼の形相で歩を進めていた。

 ニーベルク家の家臣であろう兵士に先導され、走り続ける。途中からは馬車に乗り換え、多くの兵に守られながら西へと下って行った。

 やがて一月半以上の逃亡の後、ようやく目的のエブライア海峡にたどり着いた。そこは、隣国との国境線にもなっている場所だった。

 母方の伯父であるニーベルク当主によれば、このまま船で海に出て、隣国に亡命する手はずになっているのだという。

 王が国を捨て、隣国に助けを求める。それがどういうことなのか、自分以外の人々は分かっていた。

 しかし、彼らは国を売ってでも、生きることを望んだのだ。

「こちらには王家の証である神剣がある。これさえあれば、隣国も篤く饗してくれよう」

 数多の宝飾類すべてを手放してきたが、唯一伯父たちによって王城より持ち出されたものがあった。

 自分も即位の際に手にした神器。誰もが喉から手が出るほど欲する、唯一無二の至宝。正統の王にしか扱うことのできない神剣。

 ニーベルクはあまつさえそれを隣国に売り、助命を乞おうとしていたのだ。

 死すらも恐れぬ武人の一族。その誇りは、一族の栄華と共に廃れ、腐り落ちていた。

「陛下、こちらへ」

 船の上で、祖母が手を引く。生まれて初めての海。生まれて初めての船。何もかもが初めての中、小さな胸は期待に膨らむことはなく、積もっていく不安にただ縮こまるだけだった。

「しばらく辛抱なさいませ。さすれば、数日中には陸に着きましょう」

 船の中で母と祖母に囲まれ、下手に身動きを取ることもできない。外がどうなっているのか、うかがい知ることもかなわなかった。

 ただ、時折壁の向こうから聞こえてくる水音に、本当に水の上にいるのだという実感が恐れを伴って浮かび上がった。

 しかしいくら気を張っていようと、所詮は齢八つの子ども。慣れない長旅の疲れと、ほどよい船の揺れに、気付けば深い眠りに落ちていた。


 どれほど経っただろう。人の気配がいくつも動くのを肌で感じ、まだ重い瞼をこじ開けた。

「何が…」

 妙に船内が騒がしい。もう陸に着いたとしてはかなり早すぎる。先ほど祖母は数日はかかると言っていたではないか。

 幼い頭はそれでも必死に状況を知ろうと考えを巡らせた。

 その時、隣にいたはずの祖母や母の姿がどこにもいないことに気付いた。これ幸いと、ほんの少し開いた戸の隙間から、外に出ようとする。

「陛下!」

 しかし、その思いもむなしくすぐに護衛の一人に見つかってしまった。

 それにより、母や祖母が戻ってきた。

「どうしたのですか?」

 疲れた表情の母と祖母に聞いた。二人は自分の顔を見ると、なぜか泣きそうな顔をした。その表情に不安がこみ上げ、二人の服の裾をぎゅっと掴んだ。

「母様?おばあ様?」

 しかし、その手はすぐに引きはがされ、二人は腰を折って視線を合わせると、肩にそっと手を置いた。その瞳には、今まで見たことのない光が灯っている。

「陛下、陸へ行くことは叶わなくなりました」

「なら、どこへ行くの?」

 海の先へは行けない。ならば、もと来た道を戻るのか。それならそれで、どちらでも良い。自分はただ、早く帰りたかった。

「わたくしたちは違う場所へ向かうことにしました」

「それは遠いの?」

「ええとても、とても遠い場所です。ですが、心配することはありません。我々が望めば、それはすぐそばまでやってきます」

 優しく紡がれる祖母の言葉が理解できなかった。だが、それを信じ従う以外の選択肢を自分は知らない。

 幼い自分は何も知らなかった。その時、逃亡先の隣国がゼファニア側につき、畳みかけるように陸と海の両方から一行を包囲していたということを。

 それは、母国さえ捨てることをいとわなかった一族の、最後の希望が消えうせた瞬間だった。多少の生き恥をさらしても、他の土地で再び力を得られるのならばその程度の犠牲は安いものと思っていた。

 しかし、彼らにはもう何も残っていなかったのだ。

 最後の希望を失った人々は、ただ力なく崩れ落ちた。

 自らが高貴なものであると信じて疑ない、都合のいい矜持は退路を断たれ、反逆者の汚名に塗り替えられた。

 罪人として殺されていくことなど、この中の誰も耐えられない。

「どういうことですか、母様。母様?」

「良いですか、陛下。この世界にはもはや、わたくしたちの安寧はないのです」

 母の目は、もう自分を映してはいなかった。息子に言い聞かせるようにして、彼女は自分自身に語り掛けていた。

「しかし、わたくしは思うのです。この海の底にこそ、本当の幸福があるのだと」

 わたくしも、わたくしもと賛同の声が反響するように増幅していく。視界の端で、祖母が静かに頷くのが見えた。

 次の目的地は海の底。死の先にある永遠の平安。

 もう、逃げ場などなかった。

「王太后様…」

 闇の中から影のような侍女が姿を現す。その手に捧げ持たれた神剣を一瞥すると、母は奪うようにそれを手にした。

「紐を」

 忠実な侍女は、命令に従いどこからか見つけてきた紐を差し出した。

「これを持ちなさい。ほら、抱えるのです」

 母の意図が読めないまま、ただ言われるがままに押し付けられた剣を抱きかかえた。手にするのは即位の儀以来だ。

「陛下、これは陛下のものです。陛下以外の誰ものでもない」

 ぐるりと、紐が体に巻き付いた。剣と体が離れないように何重にもきつく縛られる。

「痛い…母様、痛いです」

 皮膚に食い込むほど強く、絡みつく紐に苦悶の声が漏れる。涙に滲んだ瞳で必死に母に訴えた。

 しかし、母はまるで聞こえていないように譫言のような言葉を零す。

「決して…決して逆賊になど渡してなるものかっ!」

 鬼の面。いつか、王宮の宝物庫でみた舞台の面のような顔が、憎悪がくっきりと刻まれた顔が目の前にあった。

「かあさま…」

 今にも泣き出しそうな声。その声を聞き、ようやく母は少しだけ冷静さを取り戻したように見えた。

「陛下、決してこれを離してはなりませんよ」

 離したくとも、もう自力ではどうしようもない。呪詛の言葉と共に縛り付けられた剣は、もうこの体の一部のように離れない。

 静かに、母は何も言うことなく自分を見ていた。濡れた瞳が、自分を映して揺れている。

「お母さま。わたくしにはこの子を連れていくことができません」

 振り返ると祖母に母は震える声でそういった。

「ええ。安心しなさい、陛下はわたくしがお連れしましょう」

 その言葉に頷くと、母は強く自分を抱いた。剣の柄が当たるのも気にせず、きつく抱きしめられた。

 そのとき、生まれて初めて母という存在に、本当に出会えた様な気がした。

「母様…」

「ユディト…、先に行って待っていますから」

 ぬくもりはすぐに消えうせた。その手を追うことも、自由の利かない体ではできない。

 大きな水しぶきとともに、海の濃青は母を飲み込んだ。

 彼女に仕える女官たちも、間をあけることなく次々と飛び込む。いつしか甲板には祖母と自分の二人だけが取り残されていた。

 遠くでいくつもの船の明かりが揺れ、心臓を鷲掴みするような男たちの叫びが風に乗って聞こえてくる。刻一刻と、それは迫っていた。

「さあ、陛下。おばあ様と一緒に行きましょう。みな、待っていますよ」

 自分を抱きかかえ、祖母は笑う。大きくなりましたね、と嬉しそうに呟いた。

「おばあ様…」

 祖母と母の顔が混ざり合う。

 ああ、どうして今さら、自分たちは気づいてしまったのだろう。

 そう後悔するよりも早く、意識は濃紺に塗り替えられた。

「…!!」

 幼い言葉は、音になる前に泡へと変わり、海へ解けた。

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