7-2

「…ト!ユディト!」

 自らを呼ぶ声に、過去に沈殿していた意識が徐々に浮かび上がる。

 目の前でぼんやりと揺れる紅の瞳に、あの日船上で見た母の瞳が重なった。幻影を振り解くように、漫然として思考が朧気になった脳を強制的に目覚めさせ、ユディトはかすれた声を漏らした。

「…ネヘミヤ?」

「うたた寝するなんで珍しい。それに、魘されていたわ」

 心配そうなネヘミヤの顔に、自分の状況を省みる。全身が汗にぬれ、服や髪が肌に張り付いてうっとうしい。声を出すのも億劫だった。

「顔色も悪いし、体調でも悪いの?」

 汗で張り付いた前髪を払い、ネヘミヤは熱がないか額にそっと触れた。

「いや、大丈夫。夢見が悪かっただけだ」

 その心配の手を振り解くようにユディトは呟いた。

 心配されるのは性に合わない。だが、悪夢は人に話してしまったほうがいいと昔誰かが言っていた気がする。

「夢?」

「正義に殺される夢」

 その単語だけで、ネヘミヤの顔が曇る。

 ネヘミヤはいつもそうだった。ユディトがあの日を夢に見る度、本人よりも苦しそうな顔をする。それがどこか寂しくて、同時に嬉しいと感じている自分がいるのを、ユディトは自覚していた。

「不安になると、いつもこの夢をみる。俺は今、迷っているのかもしれない」

 正直、ユディトは自分で自分の感情を把握できていなかった。思考はいくらでも思い通りになるのに、感情は少しも自分に従ってはくれない。

「怖いの?」

 母親が子どもに掛けるような優しい声でネヘミヤは問うた。

 あの日から、ネヘミヤとトビトは、全てを失ったユディトの唯一だった。亡き両親の代わりに育ててくれた二人が、ユディトにとって全てになった。

「怖いなら、全部やめてしまう?トビトも私も、あなたが望むのなら、今すぐにでもあなたを連れ出してあげる」

 二人はいつでも、ユディトにとっての最善を探している。他人がどうなろうと、どうでもよかった。ユディトにとって二人がそうであったように、二人にとってもユディトは唯一だったのだ。

「…分からない。でも、逃げることはできない。それじゃ意味がないんだ」

 二人の優しさに支えられながらも、その手を完全にとることが、今はできない。

「俺は、俺の望む結末のために、これからもここで生きなきゃいけない。それだけは変えちゃいけないんだ」

 それは強い意志だった。誰にも覆すことのできない、今やユディトにすら揺るがすことのできない意志。十五年前のあの日から、時の止まってしまった心の一部。

「ひねくれ息子に手を焼く母親の気持ちが分かる気がする。これが母性かしら」

 ユディトの変わらない意志に苦笑を漏らす。どれだけ心配したところで、この頑固者の意志が変わらないことは分かっていた。

 だから、ネヘミヤはユディトの意志を無理矢理変えようとはしない。でも、自分の思いを伝えることを諦めることもしない。

「分かってる。あなたがいつも悪者の振りをしていることも、あなたが本当はとても優しい子であることも知っている」

 ユディトの頭を、ネヘミヤはそっと抱きかかえた。幼子にするように、優しくその背を撫でながら、愛を織り込んだ言葉で包んでいく。

「大丈夫。私は、あなたを見ている。あなたのすべてを見届ける。それが私の生きる理由だから」

 ユディトはそっと目を閉じた。今はまだ、その心の全てを受け取ることはできない。

 でも少しだけなら、このあたたかさに身を委ねてもよいように思えた。

「なあ、ネヘミヤ。俺は、あの日の感情をどうやって忘れたらいい…?」

「ユディト…」

 腕の中で小さな呟きが漏れる。

 ネヘミヤはその問いに対する答えを持っていなかった。だから、ユディトへ返すべき言葉の何が正しいのか、分からなかった。

「誰かが…誰かがきっと忘れさせてくれる」

「誰かって?」

「それは私にはわからない。でも、あなたが私に今をくれたように、きっと誰かがあなたに未来を与える」

 かすかに小さな頭が動き、不満げな瞳がネヘミヤを見つめた。

「ネヘミヤやトビトじゃないの?」

「あら、甘えてるの?」

「違う」

「素直じゃない。その気持ちは嬉しいけど。私たちじゃだめなのよ」

 やんわりと否定するネヘミヤに、ユディトは子どものように不貞腐れた。

 この青年は傲岸不遜な態度で自分の意見を容赦なく並べ立てるため誤解を受けやすいが、決して我儘でも自分勝手な人間でもない。

 こんな表情を見せるのも気を許したネヘミヤやトビトの前でだけだ。だからこそ二人はユディトを甘やかしてしまう。だからこそ、二人はユディトを変える存在にはなり得ない。

「俺の”秘密”を知ればみんな逃げだす。二人以外、みんなそうだった。だから、そんな本当にあるのかも分からない可能性に賭けるくらいなら、俺はもっと別の道を選ぶ」

 不器用で頑固な言葉に、ネヘミヤは小さく肩を竦めた。ユディトをここまで歪めてしまった”秘密”を知るがゆえに、ネヘミヤにはもうどうしようもなかった。  

「恐怖から逃れるために、自分の手で恐怖を生み出すなんて、本当に愚かな人」

 どこか不承不承の体ではあるが、それでもユディトをまっすぐと見据えて柔らかな笑みを浮かべた。

「でもだからこそ、それはあなたの選んだ道になる」

 ネヘミヤはただ、ユディトの描く道を共に歩むだけ。だからネヘミヤにユディトは救えない。

 だが、救うことはできなくとも、運命を共にすることはできる。その背に背負うものの重みを分け合って、世界の果てまでついていく。それがネヘミヤの覚悟だった。

 でも同時に、心のどこかで願っている。この愛し子の運命を変えてくれる、誰かの存在を。

「あなたの望みを教えて…?」

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