6-1 通歴940年5月1日
《通歴940年5月1日》
今日のエステルは姉である正妃のお話相手になる、という名目で後宮に来ていた。
エリヤがエステルに下した命令は内密のものであり、その存在を知る人間はわずかしない。それゆえに、一司書官でしかないエステルが何度も王に拝謁していては、不審がられる可能性がある。
よって今日は、表向きは私的な用事でエステルが王城にやってきたところ、王に偶然遭遇し姉と三人でお茶することになった、という体になっている。
「そういえばわたくし、少し出かけねばならない用事がありましたの。すぐに戻ってまいりますから、二人で仲良く待っていてくださいませ」
そんな台詞で妹と夫を残し、部屋の女主人はどこかへ行ってしまった。誰が聞いても嘘とわかるような言い訳であるが、ルルなりに気を使ってくれたのだろう。
二人きりになり、エステルは対面に座るエリヤにユディトの件を話し始めた。怪しまれないように、極力普通の会話に近い口調で報告をする。
「…あの場所ですることがあると、願いをかなえるためには必要なのだと。ただそれだけで、願いがなんなのかさえ聞き出せませんでした」
不機嫌に染まった宵闇の瞳が思い出される。あれほどまでにユディトが嫌悪感を示すとは思わなかった。
理由を聞いたのは、純粋にユディトのことを思ってのことだった。ユディトには王に甘えていると言われたが、きっと王が義兄でなくてもエステルは同じことをしたのだと思う。
頑なに意思を曲げようとしないこと根底には、きっとどうしても譲れない信念のようなものが存在するはずだ。
それがもし正当なものであるのなら、それを力ずくで屈服させてまで命令を遂行しようとは思っていない。
それは財政難を解決しようとするエリヤの意志には反する。しかし、理由さえあればエリヤを説得できるかもしれないという確信にも似た自信が自分の中にあったのも確かだ。
エステルは王に忠実な官吏であると同時に、民に寄り添う官吏でもありたかった。王を心から信じているが、それは単にその決定が民のためにあるという確信を持てているからであり、王が義兄であるからというわけではない。
「勝手な行動をしたことは分かっています。でも、知ればもう少しましな解決策が見つかると思ったんです。誰もが納得できる結末を、見つけることができるんじゃないかって」
しかし、いずれにせよその願いは潰えた。知ろうにも、自分はあまりにもあの男に信頼されていなさすぎた。
それだけではない。知ったところでどうしようもないと、甘い考えと無力さを指さされて、エステルの中にあった自信と呼べるものは消滅しつつあった。
故に、エステルはもうこの仕事を辞退しようと思っていた。
命令を反故にすることは決してあってはいけないが、このまま自分が引き受けていても、王の負担にしかならないことは分かりきっている。
「申し訳ありませんでした。お義兄様の期待に応えられず、こんなことに…」
自分を信じこの仕事を任せてくれた王に対する申し訳なさと、自分に対する情けなさで声が震える。
「お前があれと俺のことを思って行動しようとしてくれたことは分かった。だから、あまり気にしすぎるな」
優しい言葉と表情がエステルを包み込む。普段は王としてどこか威圧感のある顔をしていることが多いが、家族に対してはいつもやわらな笑みで接してくる。エリヤのこういったところがエステルが子どものころから大好きだった。
ユディトの言葉からしてみれば、これが甘えてるということなのだろうが。
「寛大なお言葉、感謝いたします。ですが、私にはもうこれ以上どうしようもないのです…」
「本当にもう、何の手立てもないのか?」
「これ以上はもう…。詮索するなと」
すでにユディトとの関係は修復不可能なところまで来ている気がする。
もともと関係と呼べるほど親交が深いわけではないが、そのわずかな繋がりすらも先日の件で断絶してしまった。
きっとユディトは、今後一切エステルの言葉を耳にしようとはしないだろう。
しかし、エステルのそんな不安とは別に、エリヤは何故か仕方ないと言わんばかりに苦笑した。
「あいつは相変わらずのようだな」
「相変わらず?お兄様は今のあの人に会ったことがあるのですか?」
エリヤが昔、まだ自分が王族であることを知らなかったころ、臣下の子としてサムエル王の遊び相手を務めていたことがあるという。
しかし、それは幼いころの話で、ユディトが地下に幽閉されてから十五年、この二人に交流があったのかは分からない。
しかし、エリヤの口調はその人格を知っているもののそれだ。
「いいや。ただ、三年前に一度だけネヘミヤを通して手紙を渡した」
「手紙、ですか」
「まあ軽い近況報告だな。即位したことを一応伝えておこうと思って」
トビトに聞いた話によると、かつてエリヤはユディトとかなり仲が良かったという。いくら王太子と罪人という立場の変化があったとしても、その過去は変わらずエリヤの中にあるのだろう。
大好きだった従兄に、新たな王として踏み出す姿を知ってほしかったのかもしれない。
「返事が来たときは驚いた。ありえないと思ってたから」
「返事?そこにはなんと」
あの大雑把な男が返信をするとは心底意外だ。そもそもユディトだったら手紙に目を通すことなく処分するなどとしそうなくらいだが。
「『貴殿と私の運命は既に分かたれた。二度と、このようなことはしないでいただきたい』。ただそれだけだ」
それは純然たる拒絶の言葉。どんな感情をも許さない、断交を示す言葉だ。
「あの人はいつだって、誰も寄せ付けようとしない。厳しい言葉で、誰も彼もを拒絶しようとする」
勝手知ったるように、エリヤはユディトをそう表した。
「だがそれも致し方がないのだろうな。現に、私とあの人の運命はこうして入れ替わってしまった。あの人の、今日にいたるまでの生い立ちを思えば、誰も受け入れられないのも理解できる」
ユディトが誰彼構わず拒絶しているわけでないことをエステルは知っている。
トビトやネヘミヤといった存在を知るエステルは、でもだからこそ、エリヤの言葉を否定することはできなかった。
自分がはっきりと拒絶されたように、エリヤに対してもまたそうであるのなら、彼に許された人たちの存在はきっと知らないでいるほうがきっとまだ不幸にならない。
「だが、その手紙と今回の件ではっきりと分かった。俺はどうやら、想像していた以上に恨まれているらしい」
どこか寂しそうに、エリヤは微笑んだ。
しかし、エステルは”恨む”という言葉にどこか違和感を覚えた。
「本当にそうでしょうか?恨んでいるのなら、きっと返事などしないはずです。でも、返事はきた」
「やっぱりお前は優しいな」
大きな手が頭を撫でた。完全に子ども扱いされている。希望論ともとれる考えを述べるエステルを、エリヤは子どもに対するように宥めた。
エリヤのこんな大人びて冷静な姿は、普段であれば崇敬の対象だったかもしれない。でも今は、その在り方がどこかでこのすれ違いやズレを生じさせているような気がした。
「でも、恨まれているからといって俺があいつに悪情を抱く理由にはならない。この立場になったからわかる。ここは、どうにも息苦しい。何もかもが、思い通りにならない」
同じところに立ってようやくエリヤはユディトの苦労を理解できるようになった。特に、今以上にサムエル王の時代は窮屈だったに違いない。
もう一度人生があったら、その時はきっと王になりたいとは思わないだろう。
「でもだからこそ、俺はここにいるべきなんだと思う」
エリヤが王としての役目を放棄すれば、この国の王族はユディトただ一人になる。罪人として投獄されている身とはいえ、もしもの際には再び形式上の王として持ち上げられる可能性もあった。
だからこそ、エリヤが王でありつづける必要があった。
「でも時折、あいつが今でも王だったらと考えることがある」
「お義兄様それは…」
決して言ってはいけないことだ。王が自ら、自身の王としての資格を問うことはあってはならない。
ましてユディトは罪人だ。彼が王だったらなど、口が裂けても言ってはいけない。
しかし、エリヤはそれを口に出してしまうほどまでに思い詰めているようだった。
「大丈夫、分かっている。もうこの国にユディトは必要ない。この国の王は俺以外の誰でもない」
半ば自分に言い聞かせるようにエリヤは繰り返す。エステルはその様子にどこか恐怖を覚え、それを止めさせることができなかった。
そして、不意に今までのどの言葉よりも悲しみと孤独を内包した声がエリヤの口から漏れた。
「でもだからこそ、誰も知らない場所で生きてほしいと願うのは間違っているのか?」
「お義兄様…?」
「すまん、こちらの話だ」
とうとう声を上げたエステルに、エリヤはようやく我に返った。そうして適当にはぐらかし、一瞬だけ姿を現しかけた真意を再び飲み込む。
「お義兄様も、あの人と同じです…」
誰も寄せ付けようとしないのは、本当にユディトだけなのだろうか。エリヤの言動に、そんな疑問を抱く。
しかしその思いに蓋をし、エステルは席を立ちあがった。姉はまだ帰ってきていないが、気まずい空気の中、これ上エリヤと会話を続けることはできそうになかった。
「もう少しだけ、私にできることをやってみようと思います」
「そうか、それは助かる」
エステルの返答にエリヤは安堵の息をつく。それほどまでに、エリヤにとってユディトを追い出すということが重要なのだろう。
「最後に一つだけ確認したいことがあるのですが」
「なんだ?」
「陛下は『異端見聞録』という非公開文献をご存知ですか?」
「いや…。知らないな」
その返答が聞ければ今日は十分だ。
「そうですか。では、失礼いたします」
深く礼をし、エステルは部屋を後にした。
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