5-3-3
トビトは純粋に、ユディトという子どもが好きだった。
陰謀と謀略にまみれ、汚れきった王城内で、ただ一人輝く綺麗な瞳を持ったその子どもを愛しいと思っていた。
だから、その子どもが穢れないように、誰に何を言われようと“サムエル陛下”と呼ぶことはなかった。”ユディト”という彼本来の名を、大切にしたいと思った。
しかし、どれだけトビトがユディトを思おうと、世の流れはそう簡単に見逃してはくれない。
『陛下から離れなさい!』
ヒステリックな声が耳の奥に残っている。
一族が王家を裏切った日、大切にしたかった唯一の存在は、トビトの手から強引に奪われた。
「一族が本家を見限ってすぐに私は拘束されました。同じ牢には当時王城に人質としてとらえられていた陛下と母君もいました」
ニーベルク家がエリヤ達をすぐに殺さなかったのは、いずれ人質にでもするか、見せしめとして殺そうとしたのだろう。
それは当然のことで、考える必要もなくトビト達には死以外の未来はなかった。
「本当は逃げようと思えばいつでも逃げられた。それこそお二人を連れて。でも、私にはユディト様を裏切るようなことできなかった」
心の奥底に引っかかっていた幼い君主の存在。今自分が逃げ出したら、誰が彼を守るのだろうか。
自分の命よりも先に、そこへと考えの至る自分に気づいていた。
「ずっと見ていたんです、あの方の成長を。なにより、城が安全でなくなっている状況であの方を置いていくわけにはいかなかった」
トビトは過ぎ去りし日々を振り返る。その時の彼は、子どもの成長を喜ぶ父親と同じ顔をしていた。
「でもある日、護衛の一人も連れずにユディト様が牢に来られたのです。そして、私に言いました。『危険が迫っている。トビトはエリヤたちを連れてすぐにここを出て』と」
小さい手が、どこからか見つけ出したのであろう牢の鍵を握りしめていた。その手には力が籠もり、白くなっていたことをはっきりと覚えている。
「鍵を渡すとき、こう、ぎゅっとユディト様は私の指を握ったんです。その時私は思いました。ああ、立派になられたと」
骨ばった人差し指を捕まえた小さな手。
トビトは知っていた。ユディトがそんな仕草をする時、それは決まって心細さを感じている時であることを。
しかしその日は、ユディトがそれを口に出すことはなかった。じっと漏れ出しそうになる弱気な言葉を、一生懸命飲み込もうとしていた。
「自分は幸せ者だと思いました。傍から見ればただの愚王だったかもしれない。でも、私があの方を守りたいと思ったことが、間違いじゃないと確信できたんです」
たとえ、誰に何を言われようと、そうトビトは断言することができる。
武人にとって仕えて幸せだと思える君主を見つけられたのは、何にも代えがたい幸運なのだ。
「だから約束したんです。私は必ず私は戻ってくると。ユディト様はただ『信じてる』と頷きました。…でも、私はそれを守れなかった」
再び王城へ戻った時、そこには既に幼い君主の姿はどこにもなかった。
そして、ようやく再会できた時には、その顔からかつての清らかで無垢な笑みは消えうせていた。
「私は結果的にユディト様を裏切った。新王朝では。陛下たちを守った功績でユディト様に仕えていたことは免責されました。それどころか、前よりも位の高い役職まで用意されていたのです」
「でも、それを断った?」
「はい。私には無理ですから。あの日、もう心に決めていたんです。何があっても、私は必ずユディト様の味方であると。その隣でお守りすると。私は他の誰にも仕えることはできない」
トビトの目はただ静かに手のひらを見つめていた。かつてそこに触れたぬくもりを思い出すように、目を細めて苦く笑う。
「私はこの通り頭がよくないので、他者よりあの方のためにできることは少ないです。でも、隣にいたいという思いと覚悟は、誰も比肩することのできないほどに強いと自負しています」
「覚悟…」
トビトにとってユディトはたった一人の主君だ。でも、現実は違う。ユディトは罪人としてこの薄暗い地下でその生を閉じる|運命(さだめ)。それに付き従うということは、共に表の世界から姿を消すということと同義だ。
「もう、ユディト様が昔のように私の指を掴むことはありません。でも、あの日私に縋った手が永遠に失われても、あの優しい心が砕けてしまっても、私にとって仕える相手は生涯ユディト様唯一人です。あの『信じてる』という言葉を、私はもう裏切りたくないんです」
トビトはきっとユディトがどこへ行こうとついて行くのだろう。
手を握られることはなくとも、その繊細な心の揺らめきを見逃すことはないのだろう。それがトビトの選んだ道なのだ。
「ユディトの幸せを願うのなら、こんな場所出て行く方がいいではないですか。それなのに、トビトさんもネヘミヤさんもそれには賛同しようとしない。私には分かりません」
幸せを願うなら、その人への最善を選ぶことが優しさであり、思いやりではないのか。
呆れるように、困ったように言うエステルにトビトは諭すように微笑んだ。
「誰かにとっての幸せが、他の誰かにとっても幸せであるとは限らないのですよ」
トビトははっきりと否定するようなことはせず、静かにそう呟き、中断していた作業を再開した。
「そういうものでしょうか…?」
エステルは不服そうな声を漏らす。まだ、その言葉の意味を真に理解することはできなかった。
二人が何を言おうと、エステルにとってユディトは、義兄を困らせ続ける限り排除すべき悪である。悪である限り、ユディトのことを受け入れ、肯定することはできない。
しかし、トビトの話の中のユディトは意外だった。過去のこととはいえ、ユディトにもそんな一面があったということが新鮮で、ほんの少しだけ自分の中の印象が良い方向へ更新されたような気がする。
そもそもたった数週間で一人の人間のすべてを理解できるはずなどないのだ。
だから、もっと知れば、違う視点に立つことができるようになるのかもしれない。そうしたら、もっとましな方法でユディトと向き合うことができるのかもしれない。
「決めた。トビトさん、私もっとユディトのことを知りたいです。そうすれば、私がなすべき最善への手掛かりが見つかるような気がします」
突発的な申し出に一瞬驚きを隠せなかったトビトであるが、理解するとすぐに相好を崩した。
「それはいい考えです。私も、私の好きなものを知ってもらえるのはとても嬉しいですし」
嬉々としてそういうと、トビトは何かに気付いた用に壁の時計に目をやった。
「そろそろユディト様がお茶をご所望する時間です。エステルさんも休憩にしませんか?茶を飲みながらの方がいろいろお話もしやすいですし」
「そうですね。そうだ、お茶の淹れ方を教えてください」
トビト特製茶はユディトの好物の一つだ。どこにユディトという人間を知る要因があるか分からない、こういったこともその人を知るきっかけになるかもしれない。
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