5-1-2

 エステル。

 その名に重鎮たちが息を飲む音がした。ここでその名が出てくるとは。

 いずれなんらかの形でその名が利用されることは予想していたものの、エリヤもまた意表を突かれる形となった。

「エステル嬢といいますと、正妃の妹君にあたられるあの?」

 おずおずとヴィルバン家当主エミルが疑問の声を上げる。

 普通であれば一貴族の娘など把握している方が珍しいが、エステルは正妃の妹として最近話題になったばかりである。いくら政治に疎いヴィルバンであってもその違和感に気付いたのだろう。

「そうです。ご存じないとは思いますが、彼女は私の妹が生んだシード家直系の血を引く者です。母親がすぐに亡くなったため養女に出しましたが」

 養女という言葉に余計人々の顔が曇る。それならば、シード家に口出しをする権利はないではないか。皆一様にそう思った。

 しかしオリアスはそんな空気をまるで気にせず動じることなく話を続ける。

「どうでしょう陛下。エステルをシード家の娘として迎えては?」

 そんな無茶が通るわけがない。その場にいる誰もがそう思った。

たが、それを平然と言ってのけるのがオリアスという男だった。

「おっしゃっていることの意味が分かりません」

 その発言に静かに怒りをあらわにしたのは誰でもなく、エステルの姉であるルルだった。

「エステルはモルディアス家の娘。何を戯けたことを言っていらっしゃるのかしら?」

「たしかに、十六年前、エステルはモルディアス家に養女に出しました。しかしながら、今のモルディアス家にエステルは必要でしょうか?陛下の寵姫の一族として申し分ない立場におられる今、これ以上娘は必要ないでしょう?」

「だからエステルを返せと?」

 淡々とルルは問いつめる。

 正妃として王家に嫁いでいる今、表だって生家に関する発言をすることはできない。しかしこの件に関しては事が事だ。流石のルルも黙って看過することはできない。

「返せとは申しておりません。ただ、伯爵家の娘として一生を終えるより、侯爵家の娘として王家に嫁ぐことが、彼女にとっての幸せだと私は叔父として思うのです。姉妹として育った手前、手放すのを惜しく思われるのもわかります。ですが、だからこそエステルの幸せを一番に想うのであればこの案にのるべきではないでしょうか?」

 オリアスの口角が醜く吊り上がる。

「もしや、正妃の位を奪われるなどと恐れておられるのですか?」

「…何をおっしゃっているのやら」

 その言葉がルルに火をつけた。どんなことがあっても絶えることのない笑みが凍り付く。

「エステルはモルディアス家の娘です。エステルが望まぬかぎり、手放すつもりは毛頭ございません。彼女の幸せは彼女に決めさせます」

 このままでは周囲へ飛び火しかねない。

 青ざめる重鎮たちの中で、なおもオリアスは口を開こうとした。

「双方落ち着け」

 それ制止したのは王の平坦な声だった。

 怒りはおろか、一切の感情を含んでいない冷静な声。

「シード家当主。お前の言い分はわかった」

 シード家が後宮での権勢について焦っている。それは少し前から分かっていたことだ。

 三年前に先王までもを死に追いやった病の大流行。それにより、シード家も年頃の娘を全て失ってしまったのである。

 そして、新たに即位した王には既に意中の娘がおり、多少時間がかかったものの順当にその娘が正妃の位に立ったのだ。

 ニーベルク家が滅亡した今、再び過去の栄光を手にせんと画策するシードが後宮政治に目を向けないわけがなかった。そして、それに利用できる娘がいなくなった状況で、養女に出した娘の存在を考える可能性は大いにあった。

 シードの考えは早計であるとは思うが、このまま子どもが生まれなければ、いずれ他家からも同様の進言があったのだろう。

 ここではっきりと自分の考えを伝えておくべきかもしれない。

「お前は私の正妃を、子を産むためだけの存在だと思っているのだな」

「そんなことは!」

 あまり良い言い方ではないことは自覚している。しかし、皆に印象付けるのはこれくらいの強烈さが必要だ。

 確かに妃が一番に果たすべきは王の子をなし、その血を次代につなげることである。

 しかし、正妃の役割はそれだけではない。正妃は後宮の主として王の私的な面を管理すると同時に、妃の中では唯一国政に参加することができる。

 そもそも側妃と正妃は立場が全く違うのだ。

 後宮の主である正妃は後宮の人事、側妃の管理なども仕事に含まれている。

 本来一族の娘を後宮にいれようと思うなら王よりも何よりも先に正妃に伺いを立てなくてはいけない。その点においてルルを怒らせるような言動ばかりしているオリアスは根本から間違っているのだ。

「正妃が果たせていない唯一の責務を側妃に成させようと思うのです。側妃とはそのための存在でしょう?」

「そうだな。確かに側妃の役割はただ一つだけ。身体的な理由などで遂行不可能である可能性がある妊娠出産を代行すること。簡単にいえば、王の子を孕むだけということだ」

 子を産むだけの存在とは言えど、歴史上正妃よりも寵愛された側妃など数多に存在する。

 それだけでなく、正妃側妃に関係なく生まれた子どもは男児であれば生まれた順に継承権の順位が決まる。側妃の子が王になることなどざらだ。

 しかしエリヤにとって重要なのはそんなことではない。

「だからこそエステルを側妃にすることは許されない。側妃の身分で国政に手を出せばそれは越権行為になるからな」

 その言葉に数人が、特に登試組の官吏が得心した。

「皆も知っているように、エステルは先の登試に合格し既に官吏として王城に仕官している。ただでさえ難関である登試をわずか十六で突破した優秀な人材を、一側妃にしておくことはできない」

 閑職と下に見られることの多い司書官であっても官吏は官吏だ。その才を疑う余地はない。節制の王と呼ばれるエリヤが、使える人材を無駄に浪費させるなどありえないことだ。

「エステルは十六年間モルディアス家の娘として生きていた。ならば、今更どうしてシード家が彼女の進退に関われようか?」

 ここにモルディアス家の当主がいないことが幸いした。

 あの厳めしい老人は表には決して出さないが、孫たちを非常に可愛がっている。エステルやルルを愚弄されたとあれば、執務室に乗り込んでくるに違いない。

「まだ、何か言いたいことがあるのか?」

 これほどまでにはっきりと断られ、周囲の冷たい視線にさらされながらもオリアスの表情に諦めに色は見えない。

「恐れながら、陛下の行いはこの輝かしい王位を貶めることと思います」

「貴様まだ言うか!正妃を愚弄するだけでなく陛下の御前でぬけぬけと、不敬であるぞ!」

「…よい。続けろ」

 流石に声を荒げたシーラ宰相を諫めエリヤは気づかれないように嘆息した。

 今更この男に不敬も何もないだろう。王としては守らなくてはいけない体面があるが、それ以上にこの男の浅慮を叩き潰したいという個人的な欲求が生まれているのも否めない。

「後宮の繁栄は王家の繁栄、王の権威の強さを示します。高貴なるものは必要不要に関係なく、その高潔さを守るためにそれ見合うものを手にする必要があるのです」

 例えば城、身に着ける宝飾類、饗する食事。市民や貴族には真似することのできない生活を送ることが、王家の存在を高嶺と知らしめる。

 後宮に多くの妃を抱え華やかな生活を送ることも、王家の格式を守るためには必要だと言いたいのだろう。

「つまりお前は、この王位の威信を守るために後宮に妃を入れろと。そういいたいのだな」

「はい。それに、正妃に置かれましても、大勢の妃の中で研を競い、唯一の人と誉めそやされることが幸せかと」

 なぜこの男が、今更ルルの幸せを語るのか。しかしながら女性の恋愛観、結婚観に関しては男には理解しかねるところがある。これに関しては、オリアスが正しいのかどうか判断できない。

「…正妃のことは意見しかねる。しかし、この国の財政に妃を複数抱える余裕がないということは事実。ありもしないものを、ただ権威の誇示のために使えば、そのしわ寄せは誰に来る?」

 何をしようにも金がない。その事実に変わりはないのだ。貧乏だと公言することは憚られるが、見栄を張るにも今はその時ではない。

「かの王がなぜ愚かだったのかを考えるがよい。たとえ王であっても、変えられないものはいくらでもある。我々がなすべきことは失墜した威信の回復ではなく、誤った過去を繰り返さないようにすることだ」

 後宮の繁栄は国家の衰退と紙一重。それが過去から学んだことであり、子孫に伝え残したいことでもある。

「民があってこその国であり王だ。それをはき違えるでない」

 統治者の鑑のような言葉にどこからか感嘆の息が漏れる。

 このまま穏便に話を終わらせようとしたとき、最後のあがきと言わんばかりにオリアスは吐き捨てた。

「ここにいる誰よりも、確かな血筋の娘です」

 怖いもの知らずとはこの男のことを指すのだろう。それは正妃を下賤の出の賤しい女と言っているも同義だ。

「…それは、彼女の父親が誰なのか分かってから言うべきだな」

 エリヤはただ、冷酷な声で一蹴した。

 父親が誰であるかわからない。それが、シード家がエステルを手放した理由。

 自ら発した言葉が、自らの胸に刺さる。胸の奥に降り積もる罪悪感に、呼吸するのも苦しかった。

 妻と義妹への愛、そして王という立場の間で板挟みになる。

 傷つけるしかない言葉であっても、言わなければ王としての信頼が揺らぐ。王という立場は、いつもエリヤの大切なものを傷つけた。

「あまり愚かな発言は、慎んだ方が良い」

 絞り出すようにそう告げ、エリヤは席を立った。


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