5-2

「疲れた…」

「お疲れ様です」

 執務室の椅子に腰かけ力なく崩れ落ちたエリヤに、ルルが頼んでいないにも関わらず肩を揉む。

 二人のその姿は、まるで長年連れ添った熟年夫婦のような謎の貫録があった。

 情けないことに、最近ひどい肩凝りにエリヤは悩まされていた。ルルの肩もみの技術もどんどん上達し、情けなさが降り積もっていくようだ。

「どうやっても、俺には一つの問題すら解決することができない。なんとも不甲斐ない…」

 愚痴をこぼすのも本心を吐露するのもルルの前だけ。

「あいつの件だって、まったく思い通りに進んじゃくれない」

「それは、とても繊細な問題だと思います。あまり急いて解決しようとするべきではないのではないですか?」

「確かにあいつの”秘密”は簡単には触れられない。だが、そうそう悠長なことも言っていられないんだ。オリアスがエステルの名を出したように、いつあいつの存在に目をつける輩が現れるか分からない。これ以上の面倒は御免だ」

「あら、本心は別にあるようにお見受けしますが。まあ、それは言わなくてもよいことですわね」

 ルルには全てお見通しのようだ。エリヤがひた隠しにしているもう一つの理由に、どうやら感づいているらしい。

「先ほどのエステルの件ですが…。つい熱くなってしまい、陛下にお気を使わせてしまいました」

 いつになく沈んだ様子のルルにエリヤは少し驚いた。姉のようなこの妃は何事にも動じず、どちらかといえばいつもエリヤが諫められているのだが、これは珍しい。

「気にするな。エステルは私の大切な妹だ。それ以上の理由は必要ない」

「エリヤ…」

 肩にあった手が体の前に回される。耳元で囁かれた名前に無意識のうちに口の端がゆるんでいた。

「名前」

「良いではないですか。二人きりなのですから」

 悪戯を隠す子どものようにルルは笑った。

 ルルがエリヤの名を呼ぶのは二人きりの時だけ。故にその音は特別な響きを持っているように感じられる。それだけで肩を揉まれるよりも、よほど疲れが取れるのだ。

「エステルのことは今すぐ動きたいのが本音だが、そうもいかない。エステルはいま登試のことで国中の注目を集めているからな。下手に守ろうなどとすれば邪推をされかねない。それに、神殿の動きも予測し難い」

 エステルのことを思っても、悪い噂を立てさせるわけにはいかない。ようやく官吏として歩み始めた義妹の未来を奪うようなことを、エリヤはできなかった。

「恐れるな。動けないのは向こうも同じこと。後宮入りの希望が潰えつつある今、下手にエステルに接触すれば裏があると自ら公言して回るようなものだ。シード家もすぐには動けまい」

「だといいのですが…」

 不安そうなルルに、表面上だけでも気丈にふるまう。

 シード家が今動きを見せる可能性は低い。

 だが同様に、この状況でエリヤにできることもまた限られている。

 今ある問題を解決できないのであれば、せめて争いの種を消すことくらいしなくてはいけない。

「私はまだ、父王陛下の足元にも及ばない。あの方なら、餌を撒いて敵を釣るくらいのこと容易にできただろうに」

「ですがそれは、先王陛下の才覚だけでなく、長い時間王として培った経験と臣下との信頼関係があってのことです。陛下はまだ、即位してそう長くないではないですか」

 エリヤの現在の政治基盤は、そのほとんどが先王から引き継いだものである。

 それ故に、エリヤ自身が臣下と直接的に信頼関係を結べているというわけではないのだ。

 唯一宰相とだけは信頼関係を築けているといえるが、それも外戚という血縁的なつながりによるものであり、真の信頼とはよべない。

「そうであればいいのだが…」

 そう呟く顔は晴れない。

 空気を変えるように小さく咳込むと、「ところで」と少し言いづらそうに口を開いた。

「ちなみに興味本位の話なんだが、オリアスの言っていたことは本当なのか?その…数多の女の中で一番と褒めそやされるほうが、という。お前がそれを望むなら…」

「陛下」

「いや、もちろんお前以外を正妃にするつもりはない!お前以外の女と寝るなど無理だ!絶対!」

「ふふ、何を焦っておいでなのです。床を共にする気がないのに妃を入れるなど、その妃がかわいそうですわ」

 顔を赤くしながらも必死で弁明する年下の夫に笑いを堪えることができない。

 生真面目だがどこかずれているその言い訳とどこか初心な反応に、つい意地悪したくなる。

「でも、あなたの誠意は十分に伝わりました」

 意地悪をする代わりに、抱きしめている腕に力を籠める。ただでさえ子ども体温の体は、今日は一段とぬくぬくしている気がする。

「世の女性のことは知りません。正妃の立場で我が儘を言うことが許されるとも思いません。ですが、エリヤの妻としていうのであれば、わたくしはエリヤのたった一人の人でありたい。たとえ、形式であっても、一時でさえわたくしの夫を誰かに渡すなど嫌ですわ」

 はっきりと、ルルは言ってのける。回された腕をほどき振り返れば、優しい瞳がじっと見つめていた。

(ああ、綺麗だ…)

 無意識に、視線が釘付けになる。

 もちろん見た目だけに惚れているわけではない。性格だって誰も勝ることのできない素晴らしい女性だと胸を張って言える。

 しかしここ最近のルルは大人の女性になったというか、美しさとはまたちがった魅力が増しているような気がする。

「よかった」

 エリヤとして心の底から漏れ出た言葉。でも、それは今だから許されるものであり、王としては許されない言葉だった。

 ルルもそれは重々承知している。それでも、互いの想いが同じであることを時々確かめ合わねば不安になるのだ。

 指を絡め、視線を交わす。

「今じゃなくていい。でも、いつかは…」

 不安に染まる瞳が、ルルを見上げた。その言葉が何を指しているのか、そんなことは容易に想像できた。

 正直、不安でたまらない。

 このまま子が生まれなければ、ルルの肩身は狭くなる一方だ。

 結婚に至るまでに色々あっただけに、もう二度とそんな思いはさせたくなかった。

「問題があるとしたらきっと俺の方。もともと王族は子どもが生まれにくい。妃の数が原因なのではないと、俺は考えている」

 王族の減少。それは単に王の繁殖力の低下の所為なのかもしれない。

 後宮にある不文律により、王家の血は分かれては交じりあい、代を重ねるごとに濃くなっていく。近親での婚姻が増えればその分、子は生まれにくくなるのが自然の摂理だ。

「エステルじゃだめな理由。俺の妃がお前じゃなきゃいけない理由。ここにも一つある」

 シード家の血を引くエステルは、ルルよりもはるかに王家の血に近い。

「何故、それを言わなかったのですか?」

「それが、全ての理由にはならないから。エステルがだめでも、王家から遠い家柄の娘を迎えればいい。そう言われたら何も言い返せなくなる」

 妃は一人でいい。それは単にエリヤの願望だった。どれだけ綺麗な理由を並べても、その後ろにあるのは一人の女を独占したいという下卑た願いなのだ。

 しかしそれは、ルルも同じだ。

「わたくしもあなたも我が儘ですね」

「そうだな。俺は我が儘だ」

 論点をずらして綺麗にまとめようとしたが、それは結局問題を先延ばしにしたに過ぎない。

 ユディトの件も、子どもの件も、財政難という問題を盾に逃げているだけだ。直視するのが怖くて、目を逸らそうとしているだけなのだ。

「本当の俺を知れば、エステルは失望するだろうな」

「そんなことありません。あの子はあなたを心から慕っています」

「でもそれは、嘘の俺だ」

 父の見よう見まねで張った虚勢。それが今の王としてのエリヤの姿だった。

「即位してからずっと、俺は自分の王としての資格を問うている。父王陛下には及ばなくとも、少しでも近くことができればと、そうありたいと望んでいる」

「エリヤ…」

「だが、中々にそれは難しそうだ。俺は自分で思っているよりもずっと、弱い人間なのかもしれない」

 宵闇よりも澄んだ薄明の瞳が不安に揺れる。

「俺はきっと、あいつを生かす”秘密”を心のどこかで恐れている。いつか誰かが、あいつの方がよかったと言い出すかもしれない。それが、本当は怖い」

 心のどこかにあるその恐怖が、無意識のうちにユディトを追い出すという決断をさせたのかもしれない。

 そんな考えを抱いてしまうほどに弱い心の内が、何よりも情けなかった。

「あの子があなたを慕うのは、あなたが優しいから。わたくしだってそう」

「俺は優しくなんかない」

「いいえ、あなたは優しい。いつも誰かの幸せを願って、そのために、最善を探している。そのせいで自分を傷つけてしまうこともあるけど、あなたはそれでもいいと思っている」

「…でも、それすらも本当は自分のためなのかもしれない」

「本当の偽善者は、自分が偽善者だなんて疑いません」

 きっぱりとその言葉は、エリヤの中の卑屈を否定する。

「あなたがどう思おうと、その行動に意味をつけるのは他者です。そしてわたくしは、今回のあなたの行動を優しいと考えます。そのための、最善の判断だと考えます」

 だから大丈夫、と微笑む顔に、闇に沈んだ心に光が差す。

「結末がどうなろうとわたくしは最後まであなたに従います。もしも間違いだと思ったら、わたくしがこの命を懸けてあなたを止めますから」

 誰よりも近くで、自分を肯定してくれる存在があることが、これほどまでに幸福なのだと、ルルはいつでも教えてくれる。

 繋がりを確かめるように、絡めた指に力が籠った。

「さ、お仕事をしましょう?ああでもその前に、お茶の時間ですね。新しいお茶を用意しないと」

 くるりと表情を変える妻に、エリヤもつられて笑う。

「ああ、頼む。砂糖はいれないでくれよ」

「承知しております」

 甘いものが苦手なエリヤは、ストレートティーを嗜む。

 実はエステルがストレートを好むのはエリヤを真似ている、というなんとも微笑ましい理由があるが、それは姉妹だけの秘密だ。

 そんなことはつゆとも知らないエリヤは、ティーカップを片手に呟いた。

「甘い茶など論外だ」

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