4-3
地下書庫は大きく分けてユディト達の居住空間と書架とに区切られている。
普段誰も寄り付かない場所であるせいか、書架側には机と椅子がユディトのための一組しかなく、足台くらいしか閲覧できる場所がなかった。
居住区域に行けばまだあるのだろうが、一応私的空間である場所に踏み込む勇気はない。
「あらまあ、こんなところで!」
しばらく経った頃、エステルがあまりにも不遇な場所で読書していることに気付いたネヘミヤは声を上げた。
「ソファで読めばいいのに」
「いえ、ソファはユディトの寝床ですから。それに私、読書ならどこでもできるので大丈夫です」
何故かあの男は一応寝台があるにもかかわらずソファで寝ることを好む。
だからソファを使うことが他人の寝室に勝手に入ることのように感じられ、どうしてもできなかった。
「そう?もしものときはユディトをどかすから遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます」
優しく微笑むネヘミヤに、姉に対するような母に対するような不思議な感覚を抱いた。
「そういえば、ネヘミヤさんって御幾つなんですか?」
「あら、気になる?」
女性に年齢を聞くのは失礼であるが、同じ女同士、ネヘミヤも特段気にした様子はない。
しかし、どこか困ったように空を見つめ、答えあぐねている。
「実は、自分でも自分の年が分からないの。少なくともユディトの曽祖父さんの曽祖父さんより年上だと思うのだけど」
それが事実であればネヘミヤは少なくとも二〇〇歳は軽く超えていることになる。
しかし、エステルがその発言についてさして驚いている様子は見られない。
「それがネヘミヤさんの力なんですか?」
「ええそうよ。もしかして、私が聖者だって知っていたの?」
「いいえ。ですが、瞳の色から感じました」
聖者。それはこの国に稀に生まれ出る特別な力を持った人間のことを言う。
”神に祝福された子”とも呼ばれる彼らは、何かしら常人とは違う身体的特徴を持ち、一目で見分けることができるといわれているのだ。
ネヘミヤの瞳の色は普通とは違う。初めて会ったときから薄々聖者なのではないかと感じていた。
しかし、聖者と遭遇するのが初めてであったため、その予感は今日まで確信に変わることはなかった。
「私、聖者の方に会うのは初めてです。本当に奇跡の力を操れるのですか?」
「奇跡の力…。まあ、一応ね。そうか、エステルさんは十六歳だから神剣が存在した時代を知らないのね」
エステルが生まれたのは今から十六年前。政争が十五年前であるため、神剣が消失する少し前には生まれていたことになる。
だが、生まれていたとしてもせいぜい生後数か月。神剣の存在などエステルの中ではあってなきようなものである。
聖者は神に仕える神官と同じく神殿に属する。彼らは他者のためにその力を使うが、それは災害現場や貧民街などに限られ、貴族の娘が聖者に会うことは滅多にない。
だから、エステルが神官に生まれて初めて会ったというのも、ありえないことではないのだ。
「王は神剣に認められることで人間を統治することができると教わりました。だったら、ユディトもまた神剣に認められていたのでしょうか」
神剣は、聖者の力を無効化する。神に嘉された聖者をも従えるその力を唯一行使できる存在こそが、この神国の王である。
しかし、神剣の失われた今、神殿が王を認める基準としていたものが意味をなさなくなった。王はただ血脈で選ばれ、神の存在は人々の中で薄れた。
エステルがその一番の例だ。エステルは神というものをあまり信じてはいない。
神に選ばれなくとも、エリヤや先王は良き王であった。だからこそ、神剣というものが示す正統性に疑問を抱かずにはいられないのだ。
「それは、ユディトにしか分からないわ。私たちには神の存在を感じることはできない。聖者の力という間接的なもので、どこか現実味をもつことができているけど。真の意味で神に近づけるのは王族だけ」
「でももし、ユディトが本当に神に認められた王であるのなら、どうして間違いが起こってしまったのでしょうか」
十五年前の悪政を指す言葉に、ネヘミヤは複雑な表情を浮かべ少し考え込んだ。
「かつては神に選ばれることが王の条件であり、当たり前の正しいことだった。神の存在が薄れたいまだからこそ、その正義が見直されつつあるわ。けれど、当時は王の言葉は神の言葉であり、どんな言葉であれ正しかった」
「ならば、神も間違えると?」
「所詮神も不完全な存在なのかもしれない。だから、”神剣なき即位”と言われても、陛下や先王陛下は素晴らしい行いをした。神に認められることが、すなわち正しいことではないのかもしれないわね」
ネヘミヤの言葉にほんの半刻ほど前の記憶が甦る。さらりと受け流してしまったユディトの言葉が、再びエステルに問いを投げかけた。
「さっきユディトも同じようなことを言っていました。正義は、時代によって変化すると」
「そう。それで、あなたはどう思ったの?」
「…分からないと思いました。ですが、私はまだそこに関して考えを抱けるほど知識も経験もないのだということも痛感しています」
だから、とエステルは持っていた本を音を立てて閉じ、まっすぐ前を向いた。
「とりあえず次の本です。学ぶために本を読むしかありません!」
「読むのすごく早いのね」
「速読も私の特技です!」
決めるやいなや、ネヘミヤを取り残すような勢いで山積の文献へと舞い戻った。
「次はどれがいいのでしょうか?」
無秩序に積まれた本を目でなぞる。
ほぼ全てが見たことのない書物だが、その中にひときわ目を引く文献があった。
「異端見聞録…」
背表紙にそう銘打たれているそれは、他の文献とは違い簡易的な装丁しかなされていない。まるで生の原稿をそのまままとめたような質素なつくりに、興味を惹かれる。
何よりも、その副題の構成が今までの歴史書とはまるで違う特殊な構造になっていた。
「不思議な本。どうして同じ政変に関して何冊も記述が分かれているのですか?」
おそらく第一巻であろうものを手に取り、表紙をめくる。どうやら正しかったらしく序文が目に入った。
「待て。それはお前にはまだ早い」
「え…?」
しかし、それに目を通す前にユディトの鋭い声によってその行為は制止されてしまった。
ネヘミヤが指示を受けるよりも前にやんわりとエステルの手から本を抜き取り、後には消化しきれない好奇心だけが残され、胸の奥で燻っている。
「私を子ども扱いしているのですか?」
「違う。ただそれは、お前が読むべきものじゃない」
行き場のない知識欲を発散するように不平を述べれば、ユディトにはすげなく受け流されてしまった。
「『異端見聞録』はいまだ執筆途中の未完成品だ。だから、それを読んでも中途半端な情報しか得られないぞ」
「じゃあ、完成したら教えてください」
駄目だと言われれば余計知りたくなるのが人間の性だ。しかし、ユディトの反応はあまり判然としていなかった。
「…完成すればな」
煮え切らない返事に不満が募る。
「この本の作者は現役の官吏だから、今のお仕事を続けていればいつか会えるかもしれないわね」
なだめるようにネヘミヤは補足した。
「特別書記官ナザレ…。ユディトはその人を知ってるの?」
「知ってるわけないだろ」
即答。聞くまでもない話ではあったが、それもそうだろう。
ユディトは十五年間この場所から動いていないのだ。おそらくその間の話し相手は二人だけで外に知り合いはいないのだろう。考えてみれば、その人物を知っている方が不自然だ。
そう思うと、なんだか急に目の前の男がとても寂しい人物のように感じられてきた。絶対、同情はしないが。
「この方に会いたいと思っても、ここにいる限りその望みは絶望的ですね。ということでユディト、早くここを出ましょう。私のために」
「またその話か…」
何度も振出しに戻る会話に、ユディトはついに頭を抱えた。
そしてそのまま、何か考え始めること数分、突然閃いたかのように顔を上げた。
「思いついた」
「何を?」
「お前を諦めさせる方法」
良いことを見つけた、とでもいうように口の端がきれいな弧を描く。不敵で不吉な笑み。
「俺の仕事を当ててみろ。仕事に関して、俺は嘘をつかない。お前が正解を言い当てたら、俺は素直にお前の望みを叶えよう」
相当、言い当てられないことに自信があるのだろう。ユディトはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、エステルを挑発するように見た。
たったそれだけのことで、いとも簡単にエステルの闘争心は焚きつけられてしまう。
「…いいでしょう。約束です」
この男に自分を認めさせるためなら、この程度朝飯前だ。ただ少し怖いのは、この男の言葉がそのままの意味でとらえてしまってよいものなのか分からないことにある。
しかし、現状エステルにできる最善はこれしかない。自分のために、そしてなにより敬愛する兄のために、この挑戦を受けずにはいられなかった。
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