4-2
ユディトとエステルの間には決定的な溝がある。
それは立場の違いであり、考えの違いだ。そして、その溝はけっして忘れることも、まして消すこともできない絶対の存在として在り続ける。
「お前は歴史上における”大周遊時代”と呼ばれる時期を知っているか?」
「なんなんですか急に」
「いいから答えろ」
先ほどまで怒り半ばにエステルを誹っていたユディトが急に話を変えた。
しかし、既に何度か同じような経験をしているエステルは、これが彼の血族特有の話法なのだと心得ているため、必要以上に驚かなくなっていた。
「初代国王と多くの聖者によって神国が最も栄えていたと言われる時代ですよね。航海技術の発達により、より遠方まで人々が赴けるようになったため、”大周遊時代”と言われる。教科書では確か、『多くの冒険家や商人たちは海の向こうに夢を抱き、命がけの旅をした。そうした人々の旅の足跡から遠方の人々との交流が始まり、最も豊かな時代は築かれた』と記述されていました」
脳内の情報を述べ上げると、ユディトは珍しく目をまん丸にしてエステルを見ていた。
「教科書を丸暗記しているのか?」
「ええ、まあ。私の特技なんです」
「すまん。ただの馬鹿だと思っていた。記憶力だけはいいんだな」
『だけ』を妙に強調して言うユディトをじとりとにらむ。普通に褒めることさえできないのか。
「それで、大周遊時代がなんなんですか。本当に分かりにくい話の展開をするんだから」
もう一人の似たような話し方をする人には絶対に言えないため、ここで愚痴っておく。
「ああ、だからそういう教科書丸暗記のような考え方しかできないから、お前らは愚かなんだよ」
「ですが、現在流布している教科書はどれも高名な学者などによって作られたものです。間違いなんてあるはずがないでしょう?」
先王の時代に教育の普及が一大政策として注力されていた。中でも教科書制作には多くの費用が費やされ、その完成度は周辺諸国では並び立つものがないと言われるほどだ。
「間違いはないさ。だが、それが本当に”正しいこと”を記述しているかどうかは分からない」
そういうとユディトは本の山の中から一冊を足で示し、エステルに目を通すよう言った。
「それは大周遊時代あたりのことを記述した歴史書だ。ただ、今は非公開文献となっている」
それは、現在とは違う古語で記述された歴史書であった。
読めないわけではないが、使われている古語の年代からもかなり古い文献だと分かる。
「これは…。”神民化時代”?」
文献のどこにも”大周遊時代”という言葉はなく、その代わりに”神民化時代”という言葉が目に付く。
中に書かれているのは長い海の旅や、旅先で辿り着いた新天地での出来事の記録。それも今の歴史書には書かれていない、殺しや強奪の記録だ。
「これじゃあ、周遊というよりも侵略じゃないですか」
「ああそうだ。そもそも”大周遊時代”なんて名前は後世の人間がつけたものだ。そこに書かれている事実を隠すためにな」
目に映る文章のどれもが、表に出ている書物のどこにも記述されていないものばかりだ。
「その時代、この国の人間は海の向こうを未開の土地だと考えていた。自分たちとはまるで違う神を信仰し、違う文化の中で生きる人々に対して思った。『可哀そうだ』と」
「可哀そう?」
「それが当時の神国の正義だった。神国における神を信じていることが、何よりもの幸せであると、人々は信じて疑わなかった。人々の共通理解として、その神の恩恵を享受できない人間はみな不幸だという考えが主流だった」
現代においては到底理解できない考え方だ。
神国は今でも変わらず王や神殿を中心とする神の存在を重視して政治などが行われているが、それを他国に押し付けるようなことはしない。
異文化尊重の精神は、他国との無駄な争いを避けるのに必須のものだ。
「だから神国は完全なる善意のもと、侵略をした。いや、当人たちにはその自覚はなかったようだがな。神の教えを広めることは何よりも善だったから」
「でも、どうして布教で人を殺したり略奪したりするんですか」
「信仰を広めることが善なのだから、それに逆らうのは悪だろう?神官たちは神を否定する悪を聖者の力で、無理やりねじ伏せた。時には殺しを行うこともあった。神という大義名分の下であれば、何でも正当化されたから」
ユディトは、まるでその時代を実際に目にしてきたかのように語る。
だからこそその言葉は現実性を帯びていたが、しかし同時にどこか遠い異国での出来事のようにも思えた。
「いわば”大殺戮時代”。現在広く使われている”大周遊時代”という言葉はその事実を隠し、非道な搾取を美化するためのものだ。教科書だけを読んでいたら決して知ることのなかったことだろうな」
「ならばどうして、この本は非公開文献になり、誰にも触れられることがなくなってしまったのでしょうか」
「その本の内容は、今の神国にとっては都合の悪いことしか書かれていない。神国の神聖さや清廉さを穢すものであると、非公開になってしまった」
「そんな理由で公開が禁止されるなんて、歴史書は中立であるべきです」
素直に考えを述べれば、ユディトはあきれたようにため息を吐いた。間違ったことを言ったつもりはないが、あまりにも大仰な反応に身構えてしまう。
「お前は本当に愚かだな。どうせ歴史書がいつでも中立だと思ってるんだろう?」
「……」
「歴史書っていうのは、それが書かれた時代の正統性を示すものだ。編者は決して、自分の生きている時代を否定なんてしない。お前だってそうだろう?馬鹿々々しいまでにな。だから、この国では結構な数の歴史書が非公開になっている」
神を崇める国だからこそ、その神の存在を否定するものや穢す者の存在は認められない。
ユディトは元王という立場から神の存在を否定することはできないが、だからといって過去の書物が不当な扱いを受けるのを見逃していいとも思っていない。
「この国の官吏はそうやって目をそらしてきた。都合の悪いものを全てここに閉じ込め、見ないふりをした」
まるで特定の何かを示すような言葉運びに、エステルの表情が曇る。
「正義は、時代が変わればともに変わるものだ。過去の正義は、今では悪になっているものもある。ここにある歴史書をよめばそれは明白だ。だが、それでもまだ、お前は今が正しいと言いきれるか?」
「…未来においても正しいとされる正義もきっとあるはずです。それが今かどうかは、どれほど考えても分かるものではないと思いますが」
「それもそうだ。未来は誰にもわからない。だが俺は、目の前の”当たり前”に疑問を持つことができない限り、歴史は何度も繰り返されると考える。教科書的なものの考え方をしている限り、偏った表面的な世界しかみることができないともな」
今までも歴史は何度も繰り返されてきた。人は学ばない。それは単に、過去を正しく知ろうとしていないからだ。
「人間は手の届く範囲でしかものを考えられない。特に自分の生きている時代に関しては。だが、過去のものは違う。過去の書物の、その著者が知り得なかった情報を今の人は知識として持っている。過去であれば体系的に見ることができる。それは、今を生きる人間の特権だ」
「だから、あなたの犯した罪も現代の幅広い視点で見れば正しかった。そうとでもいいたいのですか」
一方的に語られたことへの反撃のように、エステルは最大限の嫌味を込めて言った。
しかしユディトは、それを受け止めてさらに軽く笑って見せた。
「驚くほど浅はかで狭隘な思考だな。ある意味賞賛に値する」
「あなたという人間が、私をそういう思考にむかわせているのですよ」
「それが今のお前の限界ということだ。俺はもうお前には何も言わない」
値踏みするようにユディトはエステルを眺めた。その表情に怒りを覚えるも、エステルには反論する体力が、すでに残っていなかった。
「ほらほら、なに喧嘩しているの。ユディトは女の子に対してずばずば言い過ぎ。失礼でしょう?」
険悪な空気を読み取ったネヘミヤが仲裁に入る。本音を言えば、このタイミングではなくもっと早くに来てほしかった。
「御免なさいね、この子口が悪くて」
「いえ、そこはあまり気にしていないので」
それは嘘であるが、口の悪さよりも無駄に回る頭の作りに悔しさに近いものを感じているから今はどうでもいい。どれだけ勉強をしてもこの男に論戦では一生勝てないような気さえする。
「それよりネヘミヤさん、ここにある文献を読みたいのですが良いでしょうか?」
ユディトの話を聞いて一層地下書庫の書物への興味が増した。ただし、その理由を言えばこの男が調子に乗ることは目に見えて明らかであるため、口には絶対出さない。
司書官に任されているのは地下書庫の管理であり、そこにある文献の閲覧はさらに許可が必要となる。本好きの多い司書官の中には、密かに読む者もいるというが。
エステルも本来はそうして読もうと思っていたが、予想外の住人の存在にすっかりその計画は潰えていた。
「私は別に構いませんよ。ユディトもいいですよね?」
正式な職員でないはずのユディトに何故お伺いを立てるのか。これも地上には知られていない地下書庫の決まりなのかもしれない。
「ああ。そいつの頭の水準にあったものを用意してやってくれ」
「分かったわ」
完全に馬鹿にされている。それどころか、『お前こそ仕事しろよ』と言外に言う目線が全身に刺さって痛い。
「これなんかどうかしら?」
「『栄華正伝』に『神統伝記』、それから『西国列伝』…。どれも聞いたことがありません」
「どれもここに収蔵されている非公開文献ね。『栄華正伝』は、今は『ニーベルク公伝』とも呼ばれているわ」
「『ニーベルク公伝』…」
「ニーベルク家が一族の正統性を示すために書かせた歴史書だ。かなり古い時代まで遡って王家との繋がりを記しているが、どこまで正しいのやら」
適用にユディトが解説をしてくれる。どうやら偉そうなことを言うだけあって、ここにある書物のほとんどに目を通しているようだ。
それもそのはず、エステルはこの時知らなかったが、ネヘミヤがエステルに紹介した本はどれもユディトによって『まだマシ』と分類される、いわば安全圏の書物だったのだ。
下手な本に手を出せば、地上で社会的に抹消されかねない危険な書物もこの地下書庫には多く潜んでいる。一応、エステルに気を遣っているらしい。
「読むのは地下書庫の中だけにしろよ。持ち出そうとしたらお前、即刻首が飛ぶからな」
「分かってますよ、そんなこと」
「あと、中身についても口外禁止な」
「だから分かってます!」
口うるさいユディトを振り切るように書庫の奥へと移動すると、足台に腰かけて書籍を開いた。
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