4-1 通歴940年4月23日
《通歴940年4月23日》
「任せてください」と、義兄には啖呵を切って言ったものの、エステルの心は既に折れかけていた。
地下書庫勤務を命じられてから早くも一週間。依然、状況はまるで進展を見せていない。
「トビトぉ~お茶」
「はいはい、しばしお待ちを」
ユディトの好みを完璧に反映したトビト特性茶。お茶はストレートで味わいたいエステルにとって、このごちゃ混ぜ茶は邪道であるが、ユディトはこれが大変お気に入りらしい。
ちなみにどんな味かというと、お茶本来の味をまるで消し去った甘味の塊である。それはもう、舌が馬鹿になりそうなほど。
「子ども舌…」
「何か言ったか?」
不機嫌そうな目でじとりとこちらを睨む。
ここ数日ユディトを観察していたことでエステルにはいくつか気付くことがあった。
その一つがこのティータイムだ。
もともとが器用だったらしく、大抵のことは腕がなくとも足や他の部位を使ってこなすことができるようだ。
口に筆を咥えることで文字を書くことも可能であるし、今もディーカップの持ち手を器用に足の指で摘み、茶を嗜んでいる。関節がどうなっているのか、多少心配にならないこともないが。
ちなみにエステルは一度だけ目にしたことがあるが、ユディトの筆跡はかなり美しい。ネヘミヤがそこに関してだけは厳しく教育したらしく、こんな性格にも関わらず繊細で流麗な文字を書く。
「本当に器用ですね。それと、体が柔らかい」
「適応だよ。生きていくうえで必要だったから身に着けただけ」
興味なさげに言う。
「それに、どっかの誰かさんと違ってちゃんと体は動かしているんだ。だから、この程度で体を痛めたりなんてしない」
気付いたこと二つ目。いつも一言余計。
洞察力に優れているのだろう。魔法かといいたくなるほど、この男は相手の心情を読み取ることに長けている。
そして、分かったうえでいちいち鼻につくような発言をするのだ。
「私だって、それなりに運動はしている…はずです」
「はずってなんだよ。どう見ても運動不足だろ。特にその腹」
「なっ…!」
本当に、どうでもいいことにばかり目が行く。長所と言うのが憚られるほど、その使い方がよろしくない。
「陛下が処分といった理由が分かりました。さっさとここを出て仕事を探しましょう。それだけ器用で頭が働くなら、いい勤め先が見つかるはずです。タダ飯は心苦しいでしょう?」
この男にどれほど響くかはわからないが、とりあえず情に訴える言い方をしてみる。
「は?俺がいつ働いてないなんて言った?」
「だって、この一週間見てましたけど、本を読んでるかお茶を飲んでいるかで、働いているようには全くみえませんでした。ここの責任者と言うのも、ネヘミヤさんの冗談でしたし」
見たままありのままで反論すれば、あからさまに大きなため息を吐き、反論するように袖をばたばたと動かした。
ネヘミヤ曰く、あの長い袖はユディトのわずかに残っている肩先の動きを強調するためらしい。
「観察眼のない奴だな。俺は自分の食い扶持くらい自分で稼いでるんだが」
「でも薄給よね」
すかさすネヘミヤが合いの手を入れる。地下書庫の同居人は収入の詳細まで知っているらしい。
「使わないからいいだろ?」
「まあ、確かに無駄遣いはしてないわね。できないというのが正しいのかもしれないけれど」
働かない人間に価値はない。確か、エリヤはそういったはずであるがネヘミヤの言動からしても、ユディトの言っていることは事実らしい。
もしや、エリヤに秘密で働いているのか。
「どんな仕事なんですか?」
「守秘義務」
たった一言でそれ以上の追求全てを突っぱねる魔法の言葉。それを簡単に突きつけ、ユディトは会話を終わらせようとする。
「気になる…」
しかしながら、エステルがどれだけ問いつめても一度言わないと決めたことをそう易々とは覆さないだろう。
気付いたこと三つ目に、この男が意外と頑固だということがある。
少なくとも今日は、どれだけ追及しても口を割ることはない。少し残念な気もするが、焦る必要はないと頭を切り替えた。
「仕事のことはまあいいです。ですが、それとあなたがここを出ないことは関係ありません」
「しつこいぞ」
「これが私の仕事ですから」
「面倒な仕事だな」
皮肉たっぷりに言われるが、目下エステルが一番したい通常業務を妨害しているのがこの男の存在なのだ。ユディトさえ命令に従ってくれれば、面倒な仕事はなくなるのに。
「同情するなら命令に従ってください。陛下も、深い考えをお持ちなんです。それに逆らってまで得られるものがあるとは思えませんが」
「ほお?深い考えとは?」
試すような視線を向けるユディトに、エステルの闘争心がくすぐられる。この際、この男に分からせる必要があるようだ。
「十五年前の政争以来、この国は重大な経済的危機に直面しています。先王陛下からいまにまで続く地道な努力により、なんとか最悪の状況は脱しましたが、未だに余裕があるとはいえない状況です」
「それで?」
「陛下は、ご自身も節制に節制を重ね、民の手本であろうとしています。その陛下が、あなたをここに置いていることが国庫の負担となると考えているのです。あなたも、この国のことを思う心が欠片でもあるのなら、陛下のお姿に倣うべきだと思いますが」
胸を張り、一息に言い切ったエステルであったが、ユディトが彼女に向ける視線は、どこまでも冷ややかだ。
「ぐだぐだ長く言っているが、簡潔に言えば節約だろ。深い考えもなにもないじゃないか」
あえて避けていた一言で話を要約され、エステルは完全に出鼻を挫かれた。
「さっきも言ったが、俺は働いている。ここでなにもしていないわけじゃない。それなのに俺の存在が邪魔だと?ふざけるな」
ユディトは日頃の鬱憤をはらすように文句を並び立てるる。言葉は荒いがその口調に怒気はあまり感じられない。ただ、どこか少し哀惜の情が滲んでいるように聞こえた。
「本当は、俺の存在が邪魔なだけじゃないのか?」
「お義兄さまはそんなこと考えません!!」
その言葉に、ついエステルの頭に血が上った。思考が追いつく前に、口は勝手に言葉を発していく。
エリヤは決して、自分の私利私欲のために動く人間ではない。ユディトが邪魔だなどという理由で、こんな重大な決定を密かに行うなどあり得ない。
敵意をむき出しにするエステルに、ユディトはどこかあきれるような表情を浮かべた。
「どうして、そこまであいつのことを信じられるんだ?」
「これまでの陛下の行いが、そのお心の素晴らしさを証明しているではありませんか!」
臣下としてよりもずっと長く、エステルは義妹としてその姿を見てきた。いつだって、エリヤはエステルにとってこれ以上とない最高の兄で憧れの存在だった。
官吏になるために学ぶ中で知ったこともある。
三年前、先王ゼファニアが流行り病で急逝したことにより、十七歳という若さでヨシュア王は即位した。若さなどまるで苦にすることなく発揮された敏腕は、新たな政策を早々に取り入れていった。
それだけではない。自ら先陣を切って節制に身を置く姿、凛々しく常に高潔であるその姿勢、そのすべてがエステルにとって絶対的な尊敬につながっている。
「陛下の取り入れられた合議制。これは歴史に残る偉業だと私は考えます!」
新政策の一つである合議制。御前会議とも呼ばれるそれは、王と正妃、そして宰相を含む十三人の家臣によって構成される最高意思決定機関だ。
王による独裁を防止するため、王自らが必要性を説いて導入された。
「合議制にすることで王や外戚などの一部の横暴が抑えられ、より公正な政が行われるようになりました。そしてなにより、貴族だけでなく登試によって起用された官吏を政治の中心に引き込むことに成功した。これを偉業とせずしてなんとします!」
ついつい語る声に熱が入る。
しかし、それを聞くユディトの目はどこまでも冷え切っていた。
「確かに、エリヤの合議制は中々に理にかなってる。公正でより広い見識を集めるのには効果的だ。かつて政治は貴族と王だけが行える特権だったからな」
「そうでしょう!」
いつも辛口なこの男が褒めるとは珍しい。しかし「だが」とユディトは続けた。
「貴族は不服だろうな。神聖な政の場を道理もよく弁えていない平民たちに踏み荒らされた。血統や伝統を大事にする貴族にとっては一大事だ」
「踏み荒らすなんてそんな…」
「そう思う奴もいるんだよ。でも、この制度は貴族にとっても利点がある。先王によって行われた官吏と貴族の大規模な粛清。登試の導入によってただでさえ特権の剥奪された貴族たちがそれに反発しないわけがない。貴族の威信は落ちる一方。それに歯止めをかけたのがこの制度だな」
「貴族枠のことですか?」
「四大貴族に関しては、その地位が不変のものであると証明されたようなものだろう。貴族の頭目である彼らがないがしろにされれば、末端の者たちが騒ぎ出す」
新たな制度を採り入れるうえで旧勢力の反抗を抑えるには良い手段だったと言える。完全なる平等には及ばないが、急な変化は様々な弊害を持つ。これくらいの妥協は必要なのだろう。
「政争以来、貴族社会にも変化が起き始めている。現王の外祖父であり宰相のラファル家。正妃の生家のモルディアス家。いずれも政争以前は、低級貴族の端くれでしかなかった。それが今となっては国内でも屈指の有力貴族だ。四大貴族のお歴々からして見れば面白くないだろう」
先王も現王も、今まで陽の目を見ていなかった低級貴族たちに目を配る政治をする傾向がある。
ニーベルク家の一件で散々辛酸を舐めてきた上流階級の者たちは警戒心を露わにするのも頷ける。
「この不満が積もり積もっていき、いつかそう遠くない未来で現在の政治体系は崩壊する」
「前のほうがよかったというのですか」
「そうではない。ただの可能性の話だ。それにそんなこと、俺の立場では口が裂けても言えない」
珍しくユディトは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。やはり飄々としているこの男でも、触れてほしくないものの一つや二つあるのかもしれない。
「ただ俺が言いたいのは、どんなものにも長所と短所がある。目の前にあるものが絶対の善だと信じていればいつか足元を掬われる。常にそれを疑ってかかるべきだ。そういった考えが、今の平和ボケした官吏には欠けているということだ」
「それってもしかして私のことも含んでいます?」
「自分は違うとでもいいたいのか?」
さも当たり前のようにユディトは言う。エステルに自覚がないことを、少し驚いてもいるようだ。
その表情にエステルは胸が締め付けられるような感じがした。確かにエステルにもそういうことに心当たりがないわけではない。
だがしかし、それを言っているのがこの男だということだけでその真意が疑わしく思えてしまう。
「あなたはそのように考えるのかもしれません。でも、私は王に使える官吏。王を信じ、そのために行動することが私の役目です」
「だが、王も間違える。現にその結果俺はこうなっているしな」
「ヨシュア王陛下の決定は常に民のためにあります。それが正しくないわけがありません。だから私はそれに従うのです。陛下のために、そしてなにより、この国の人々のために」
言外に、あなたとは違うのだと言い放つ。ユディトはその言葉に、何か得体のしれないものを目にしたような顔をした。
「…反吐が出る」
吐き捨てるようにそう呟く。
「どういう意味です?」
「清々しいほど正義感にあふれていて胸やけがする。気持ち悪くて吐きそうだ」
心から、そう吐き捨てたユディトに、エステルは怒りより先に悲しみを感じた。
「十五年前のことについては、まだ幼かったあなたにすべての責任があるとは言いません。ですが、少しでも後悔や自責といったものは…そういうものはないのですか?」
「…ないな、そんなもの」
きっぱりと言い切られたその言葉を、エステルは信じられなかった。信じたくなかった。
「どうして…。どうしてそんな風に思えるのですか」
握りしめたこぶしを震わせながら、じっと自分を見つめるエステルに、ユディトは冷淡な言葉を浴びせかける。
「お前に何が分かる。綺麗な忠誠心を掲げて、”正しさ”を疑おうともしないお前に。自分が正しいと信じ込んでいるお前に、俺の気持ちなんて分からない」
それは、ユディトとエステルの間にある溝を浮き彫りにする言葉だった。
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