2-5
「我が名はユディト。サムエル王ユディト。民よ、この名を忘れること勿れ」
目の前の男は、高らかに宣言する。美しい闇色の瞳が心の奥を見透かすように見ていた。
「こんなところにいるなんて思わなかった?生きてるなんて、想像もしなかった?」
値踏みするような視線がエステルを捉え、嘲るように歪んだ。
「先王陛下はユディトを殺さなかった。“愚王の遺産”…そのような名を与え、この場所の収蔵物にした」
沈痛な面持ちでネヘミヤは告げる。
地下書庫の管理を任されているのが何故本職の司書官ではなく武官なのか。
それは、最重要機密であるサムエル王の存在を漏らさず、そして監視するため。逃亡を図った場合、即座に切り捨てるため。
「それで、お前は俺をどうするんだ?」
陽の光の届かない地下室で、自らの命を他者に握られたまま生きている男が、エステルに問いかける。
「処分しろ、ということは俺を殺すのか?」
彼にとってその言葉は、きっと心を揺らすものではないのだろう。死は、いつでも彼の隣にあった。
「分かりま…せん」
どうしたらいいのか、どうするのが最善なのか。目の前に淡々と並べられた事実に、つい先日まで一般市民であったエステルに答えを出すことはできない。
「これを…。ここに、どうすればいいのか書いてあると」
唯一の助けに縋るように、勅書と共にマソラに渡された手紙を差し出す。ユディトはつまらなさそうにそれを見遣り、口を開いた。
「俺の代わりに開けろ」
空洞の袖を示すようにハタハタと動かし、顎で示した。
エステルは恐々と封に手をかけた。それは正式な文書ではなく、ただの手紙のようだ。中には綺麗に整った見覚えのある文字。王の筆跡だ。
『財政難によりお前を養うのが難しくなった。経費削減のため、今すぐそこを出て自活しろ』
内容はおよそ王が書く正式な文章とは程遠い、乱暴な言葉遣いだった。一目で二人の仲があまり宜しくないことがわかる。
「つまり、この書状は実質的なサムエル王の釈放通知…」
「そういうことになるな」
自分が恐ろしい歴史の分岐点に立っているような気がしてきた。いや、歴史を変えてしまうほどの力をもつものを、実際にその手にしてしまっているのだ。
「エリヤが馬鹿ではないと信じていたが、こんなことを考えるとは」
「なっ、不敬ですよ!」
“エリヤ”という言葉に、つい過剰に反応してしまう。
この国には伝統として、二つ名の習慣がある。王には生まれた時に与えられた名前とは別に、即位時に王としての名前、尊称が与えられるのだ。
現王の尊称はヨシュア。もとの名はエリヤであるため、公的にはヨシュア王エリヤと記される。
王の本名を口にすることを許されるのは一部の血縁者に限られる。許されない者が下手に呼べば、不敬罪で即処刑だ。
エステルも、私的な時は「エリヤお義兄様」と呼んでいるが、仕事中は『陛下』と呼んでいる。
「エリヤは俺の従兄弟だ。それに、どうせ聞いてるのはお前だけなんだから、お前が言いふらさなければ問題ない。そして、地下書庫で見聞きしたものには守秘義務が課せられる。いずれにせよ、お前が情報漏洩罪で捕まるだけだ」
「なにをっ…!!」
むきになるエステルを適当にいなし、ユディトは話を本題に戻した。
「とりあえず、エリヤが何を言おうが、俺はそれには従えない」
ユディトは平然と王命を却下した。
「死ねというのならば従わないこともないが、出で行けというのは却下だな」
「どうして?」
死すらも受け入れるのならば、何故この男はかたくなにこの場所から動こうとしないのか。理解ができない。
「俺を下手に外に出すと大変なことになるぞ?」
ユディトが鋭く言い放つ。
「もし俺が誰かとの間に子どもを作ったらどうなる?その子どもは曲がりなりにも王家の血を引いている。本人に自覚がなくともな」
「…それが周囲に知れたら、現王朝に反対する人たちに目をつけられる」
「それも一つ。だが、足りない。この国の王族の血はただの血じゃない」
この国の王族は神に選ばれた一族。人間の統治を神に任され、神の依代である神剣を手に人々を導く。
神剣に触れることができるのは王族だけ。故に、その血は決して外に漏らしてはいけない。
「でも、神剣は…」
「消失はしたさ。でも、見えなくなっただけでどこかにはあるんだよ。海の底か、地の底か、はたまたまったくもって想像の及ばないどこかとか」
「もしかしてどこにあるのか知っているのですか?」
「知らないよ。でも、誰かがそれを見つけ出したとしたらどうする?その時、王家とは別に王族の血を持つ人間がいたら?」
失くした張本人が何を。そう言いたかったが、今更言ったところで現状は変わらない。まだ、その問題を理解している彼の方がましなのかもしれない。
「それに、この体で生きていくのは難がある。サムエル王であると宣伝しながら歩くようなものだ。俺の姿を見た時、国民はそれをどう思う?」
エステルにとって政争は物心つく前の出来事であるが、国民の大半にとってはそうではない。特にニーベルクの圧政による困窮は今でも尾を引き、国民の生活に影を落としている。
「問題が多すぎる。俺への処罰は先王の決定だ。エリヤであっても簡単には覆せない。覆したとしても、国民に何も知らせないのは王としての責務を怠っているととられる可能性がある。合議制の導入された今、エリヤが勝手に動けば臣下からの不評は免れないだろうな」
つらつらとユディトはこの決定の問題点を挙げていく。まるで準備していたかのようなそれを、本当にこの一瞬で思いついたというのだろうか。
「幽閉という処罰の意味を考えろ。サムエル王がここで、自由を奪われたまま生きている、その事実に意味があるんだ。俺がここを出た時点で、サムエル王という存在は消失する。俺はそれを許さない。せめて、俺が死んだということにするならいいのかもしれないが、それも国民に公表しなくてはいけない。それにまだ、俺にはここでやることがあるしな」
言いたいことを言いたいだけ吐き出し、ユディトは大きく息をついた。
「今言ったことを全部エリヤに伝えろ。その答えが提示されるまで俺はここを動かない」
「私がですか!?」
いくら身内と言えど、新米官僚が王に直々に対面するのは不可能に近い。
「俺に行けと言いたいのか?お前は馬鹿なのか?それとも覚えられなかったか?どちらにせよ馬鹿ということか」
「そんな…!」
「まあ、さっきの質問にも平凡な答えしか返せなかったし」
「私を試したんですね!」
「最初にネヘミヤがそういったじゃないか。やっぱりお前、馬鹿だな。エリヤの臣下は愚か者の集まりか。その愚か者の頭のあいつも・・・」
「黙りなさい!」
最後の言葉にエステルの堪忍袋の緒が切れた。自分が罵倒されるならどれだけでも耐えてみせる。
しかし、大切な義兄を侮辱されて我慢していられるほど器が大きくない。
「わかりました。陛下にはそうお伝えします。ですが、これで終わりと思わないでください!」
完全に負け犬の遠吠えだ。
後に冷静になったエステルはこのときの言葉を大いに後悔する。感情のままに動き、あまつさえ王命を遂行できないままのこのこ帰るなど、官吏の足下にも置けない。
あらためて思った。地下書庫は危険だ。知らなくていこと、知りたくもないことであふれている。
物理的に殺される危険はなくなったが、いつ社会的に殺されるか分かったものじゃない。というかそれ以前に精神的に殺されかねない。
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