2-2

「本当に館長は来ないのね…」

 地下書庫への扉を開いた時には既に、館長の姿はどこにもみあたらなかった。おそらく逃げたのだろう。

「でも、こんなところに入り口があったなんて気づかなかった」

 一般閲覧室の奥隅にあるそれは巧妙に隠されていた。普通の書架と同じように、本棚の形をしており、収納されている本の配置を動かすことでその扉は開く仕掛けになっている。

 あれほど複雑であれば、間違って一般人が開いてしまうこともないのだろう。

確かこの棚の本を閲覧したこともあったはずだが、そのときはまったく気づかなかった。

「暗い…」

 扉の向こうに隠された真っ暗な階段。踏み外さないように一歩一歩慎重に下っていく。

 実際に歩くと分かることだが、完全に真っ暗闇というわけではなく、ほんのり明るい。等間隔に設置された小さな灯りに、人の手がちゃんと及んでいることが感じられる。

 僅かに漂う人の気配に安堵の息を零した時、背後で金属を引きずるような鈍い音が響いた。

「ひっ…!」

 再び湧き上がる恐怖に総毛立ち、情けない声が漏れる。音のした方を向く瞳は既に潤んでいた。

(閉じ込められた…?)

 先ほどの音は扉が閉まるときのものだったらしい。一人でに閉じた扉に、余計恐怖心が煽られる。

 そもそも、エステルは扉の開け方を知らない。もしもこの先に誰もいなかったら、エステルは閉じ込められたことになる。館長のつぶやいた「死」という言葉が思考の隅をちらつき、背が粟立った。

 恐怖を打ち払うように、ただ目の前の階段に集中することにした。

「多分きっとそういう仕掛けなだけ…たぶん」

 そうだ、秘密の地下書庫への入り口を開けたままにしておく方がおかしい。おそらく、閉め忘れ対策のための機能なのだ。きっとそうであってほしい。

 そう、自分に言い聞かせるように繰り返した。

「とにかく進もう」

 震える足を奮い立たせ、再び前を向く。

 地上で言う二階分ほどの段数を降りたとき、ようやく平坦な地面にたどり着いた。しかし、細い廊下がはまだまだ続いている。灯りの感覚が、奥に進むにつれ短くなっていた。   

 少しずつ明るくなっていく廊下に、ほんの少しだけ安心感が増す。

 灯りが一段と増した時、道の先に小さな鉄の扉が見えた。

 少し錆びている扉に手をかけると、重厚な音とともに案外簡単に開くことができた。

「失礼します…」

 恐る恐る室内に足を踏み入れたその瞬間、視界の端で黒い影が閃いた。

「っ…!?」

 一閃。

 鮮やかな軌跡を描いて鈍色の刃が光を放つ。刃はエステルに届く直前で静止した。

「何者だ!」

 熊のような大男が低く唸る。目に見えるほどの殺気が全身に叩きつけられた。首元に添えられた凶器の冷たさが意識の侵食していく。

 何が起きたのかわからない。ただ、置き去りにされた思考なくしてもわかることは、自分が命の危機にさらされているということだ。

(死にたくないってこういうこと!?)

 死ぬといっても、知らなくていいことを知って社会的に殺されるとかそういうことだと思っていた。まさか、本物の生物的な意味での死だったとは。

「今一度問う。お前は何者だ!」

 エステルに刃を突き付けたまま、大男は怒鳴った。

 館長から連絡が来ていないのか。とりあえず、自分が不審者でないことだけは分かってもらわねばならない。

「ほ、本日付けで国立図書館に配属になりました、司書官のエステル・モルディアスです!」

 舌を噛みそうになりながらもなんとか言い切る。途端、大男の体から放たれていた圧力が跡形もなく消えうせた。

「あぁ、司書官殿でしたか。まさかこんなお若いお嬢さんだとは思わず、てっきり不届き者が侵入したのかと。これは失礼しました」

 こんなお若いお嬢さんが何のために侵入するんだ。そんな疑問が一瞬浮かんだが、エステルは無視した。そういうこともあるのかもしれない。

 申し訳ないと委縮する熊男に、案外いい人なのかもしれない、と脳内印象を少し書き換えた。

「仕事柄仕方ないこととはいえ、怖がらせてごめんなさいね」

「ネヘミヤ…」

 男の後ろから女性が姿を現した。

 淡い金色の髪に柘榴のような紅の瞳。埃っぽい地下書庫には似合わない涼やかな美女だ。

「私はネヘミヤ、そしてこの熊みたいな男はトビト。私たちはこの地下書庫の管理を任されている武官なの。マソラ館長からお話は聞いているわ。こちらへどうぞ」

 どうやら、自分がここに向かっていることはちゃんと知らされていたらしい。トビトのあの行動は、無条件に侵入してきたものに対して行われる“仕方ないこと”のようだ。

 促されるまま、奥へと進む。そこには小さな机と椅子が一組あったが、大量の書物がギリギリの均衡を保ち、大きな塔をその上や周囲でいくつも形成している。

「ごめんなさいね、整理できてなくて」

「いえお構いなく。それよりも本題に入りたいのですが」

 積み上げられた書物にも興味がそそられるが、今は仕事中。“愚王の遺産”がどのようなものなのか早く知りたい。

「“愚王の遺産”なるものの処分を、陛下は私にお命じになられました。しかし、私はそれがいかようなものか存じあげません。館長には地下書庫にいる人に聞けば分かると言われたのですが」

「それは…」

 エステルの言葉に二人が顔を合わせる。どうやら心当たりがあるらしい。

「ご存じなんですね?」

「ええ、まあ一応は」

 その返事はどこか煮え切らない。もどかしさにエステルはさらに口を開こうとしたが、それはネヘミヤによって遮られた。

「“愚王の遺産”は非常に機密性の高い史料です。たとえ陛下のご命令であったとしても、信頼できぬ者にその存在を明かすことはできません」

「ならどうしろと?」

「あなたが信頼できる人間だと証明するために、私たちの質問に答えていただきます。すみません、これも仕方のないことなんです」

 またか、とエステルは内心で思った。しかし、地下書庫には地下書庫のルールがある。たとえ王命を携えていても、新人のエステルを簡単に信頼できないというのも然りだ。

 重大な機密を扱う地下書庫の管理人としてはきっとこれが理想の姿なのだろう。

「質問とは?」

「簡単なことです。“愚王の遺産”について、愚王が誰であるか、あなたの考えを教えてください」

「私の考え…?」

 まるで登試の問題のようだ。正直、この質問によってエステルの何が分かるのかは理解できないが、答えなければここから追い出されるであろうことは分かる。

 脳内に記憶された歴史書を高速でめくり、かつて“愚王”と称された人物を探し出す。

 歴史上、暴君と称された王は複数名存在するが、その中でも最も“愚王”と表現されることの多い人物は一人だけ心当たりがある。

「…愚王とは、アシェル王朝のサムエル王のことと考えます」

 サムエル王とは現国王から遡ること二代前の王である。

 現国王の父である先代ゼファニア王とサムエル王の父であるアシェル王は異母兄弟であり、アシェル王の系統がアシェル王朝、ゼファニア王の系統がゼファニア王朝と呼ばれている。

 つまり、現国王はサムエル王からしてみれば傍系の従兄弟にあたるのだ。

「ご名答。ところでエステルさんは、愚王…二代前の王のことをどれくらいご存知ですか?」

「知識としては多少。さほど詳しいわけではありませんが」

「では、貴女なりに説明してください。遺産を扱ううえで、その重要性を知っているかどうかは、とても大切なことなんですよ」

 あまり釈然とはしないが、ネヘミヤの言い分にも一理ある。

 最初から司書官を目指していたため、エステルはあまり政治に関しては詳しくない。言ってしまえば専門外だ。しかし、仮にも最難関と言われる登試を合格した官吏。この程度の問いに答えられないわけがなかった。

「サムエル王が即位したのは通歴917年。わずか二歳の時のことです」

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