2-1 通歴940年4月15日

《通歴940年4月15日》

 神に嘉された国、ベルリア神国。

 全てはひとえに神の恩恵か。神によって選ばれた王に統治されたこの国は、九百年以上に及ぶ歴史を今日も脈々と綴り続けている。

 そんな長い歴史と伝統を持つ王城はその日、いつになく多くの人の気配に満ちていた。

 集められた十代から五十代までに及ぶ三十人ほどの人々は、皆一様に緊張した面持ちで、どこか落ち着きがない。

 しかし、それも仕方のないことなのだろう。今日彼らの人生の、その大部分が決まってしまうのだから。

「これより、官吏登用試験合格者の叙任式を執り行う」

 老齢の役人の宣言が朗々と響き渡る。ざわついていた空気が一瞬にして静まり、その声にすべての意識が収斂されていった。

 官吏登用試験。通称“登試”と呼ばれるそれは、その名の通り新人官吏を発掘するための試験である。

 王城に集められていたのは、約一月前に発表された今期の合格者たちだ。そして今日は彼らが正式な官吏として任官される日だった。

 優秀な人材を発掘するために登試が始められたのは今からまだ五年ほど前のことである。しかし、市井にも開かれた政治参加への扉に、受験者は年々増加。今では多くの熱意ある者たちが、希望と期待に胸膨らませて国中から集まってくる。

 難関であることで高名なこの試験の合格者は、多い年であってもせいぜい四十人前後だ。そして、配属希望は前もって聴取されるものの、合格後にさらに課される試験の結果で決められることの方が多い。

 合格者たちの任官は本人の人生、そしてベルリア神国の未来も左右する。その

ため毎年のことではあるが、その注目度はかなり高い。

 しかしながら、今年の登試は例年とは違った意味で注目されていた。

 そして、その注目の真っただ中にいる少女は、緊張した面持ちで発表の時を待っていた。

 少女の名はエステル・モルディアス。十六歳になったばかりの、言ってしまえばどこにでもいそうな普通の少女である。

 しかし、彼女の名を知らない者は、ここに一人もいなかった。


『現国王の義妹が国試に合格した』


 その知らせは、合格発表と同時に瞬く間に国中に広まった。

国王ヨシュアの正妃ルル・モルディアス。エステルはその妹である。未だ先例のない、王の外戚の登試合格。それが意味することは計り知れない。

 新米官吏の配属先にいちいち王が口を出すとは思えないが、義妹となれば話は別。特に王の正妃への寵愛っぷりは、見ている周囲の人間が恥ずかしくなるほどだとまで言われている。

 そうともなれば尚更、義妹の希望を叶えるために王が介入してくる可能性は否めなかった。

 そうでなくとも、エステルは王の身内である。これからの政治にエステルの存在が及ぼす影響は、彼女の任官先によって大きく変化するにちがいない。

 人々が思い思いに思考を巡らせる中、表面上は厳かに任官式は進められる。

次々と名前と配属先が読みあげられ、終盤に差し掛かってようやくエステルの順番が来た。

 瞬間、本人だけでなくその場に居合わせた人全てが固唾を飲んだ。

「エステル・モルディアスを国立図書館所属司書官に任命する」

 読み上げられた官名に、何よりも早く生み出された感情は、エステルを除く全ての者たちで一致していた。

(まさか…!!)

 予想だしなかった結果に優秀な頭脳たちが高速で思考を生み出し始める。そして、解散を告げられた途端に、口々に憶測を飛び交わし始めた。

「義妹との癒着を疑われぬよう、王が閑職に任じるようにしたのではないか?」

「しかし、そうするくらいならば試験の時点で手を回して不合格にすればよいものを」

「司書官と油断させて、落ち着いたころに中央へ呼び寄せるつもりでは」

「単に試験の結果が悪かっただけかも…」

 悪意、疑惑、失望、安堵。爆発的に膨れ上がった、まとめようもない多種多様な感情を一身に受けながらも、エステルは気にすることなく手渡された任命書に目を落とした。

「…やった」

 小さく呟き拳を握る。その口元は緩み、綺麗な弧を描いていた。

そう、エステル・モルディアスが司書官に任命されたのは、王の作為でもなんでもなく、単に本人が希望したからという至極単純で面白味のない理由だった。



 司書官は通常の司書とは違う官職である。国中の文書、出版物を管理し、時には重要な公文書を取り扱うことのある国立図書館に勤務するのが司書官だ。  機密性が高いゆえに、国内にいくつか存在する公立図書館の中で唯一、王城に仕える正式な官吏の司書官によって運営されている。

 ただし、その仕事内容からあまり出世は見込めないため、希望する人間はほぼいない。

 そんな司書官を自ら希望した風変わりな新米官吏は、早くも自らの職場に顔を出していた。

「マソラ館長!」

「おぉ、お嬢さん。司書官になられたそうで、おめでとうございます」

 国立図書館の館長室。真っ白な髭と白髪をたっぷり蓄えた老人が、新米司書官を迎え入れる。

「お願いですから敬語はやめてください。私は配属されたばかりの下っ端なんですから。それと、お嬢さんも」

 読書という行為をこの世の何よりも愛しているエステルは、幼いころからいつでも図書館に入り浸っている子どもだった。

 毎日のように通うのはもちろんのこと、ひどいときは家にいる時間よりも図書館にいる時間の方が長いこともある。

 そんな生活をしていれば、図書館職員とも顔見知り以上の関係になるのも自然んのことだ。特にこの館長は、お嬢さんと呼んで実の孫のようにかわいがってくれていた。

「お嬢さんはお嬢さんですよ。こーんなに小さいころから見てきたんですから、今更変えようもありません」

「色々と問題になりそうなんですが」

「ならば、二人だけの秘密にすればよいのです」

「そういうものですか?」

 そうです、と人差し指を口元に寄せる仕草に乙女心がくすぐられる。

館長は可愛い。白くてふわふわしたその見た目だけでなく、ほけほけとして穏やかな館長は、厳つく気難しい祖父よりも親近感を持てた。

「登試を合格するとは。優秀なお嬢さんだとは思っていましたが、流石です」

「夢を叶えるためです。一応貴族の娘ですが、何分女に生まれてしまったために貴族枠で官吏になることもできず…。長い道のりでした」

 登試に合格する以外に官吏になる方法が一つだけある。

 貴族に生まれれば、無試験で任官されることができるのだ。それも、高貴な家に生まれれば生まれるほど、高い地位から始めることができる。

 ただし、それは男子にのみ適応される制度だった。

 なんとも女性や一般市民にとって不公平な制度であると思うが、登試が始まるまではこの方法だけだったのだ。門戸が開かれただけ、まだましといえよう。

「何をおっしゃいますやら。その年齢で合格する人は滅多にいないんですから、もっと胸を張って堂々となさってください」

 そうは言われてもエステルには堂々としにくい理由がある。館長もそれを分かっているだろうに、よほどエステルが合格したのがうれしいのか自分のことのように誇らしげだ。

「しかしながらお嬢さん、注目されてますなあ」

「あえて口にしなかったことを館長ははっきりと…」

 あまりうれしい注目ではないのだが、館長はそれすらも喜ばしいことらしい。

 エステルだって馬鹿ではない。無論、王の義妹である自分が登試に合格したと人々が噂しているのを耳にしたのは一度や二度ではない。同期たちの自分を見る視線が、値踏みするような、探るような意志を含んでいたことにも気づいている。  周囲の人間が、自分にどんな感情を向けているのか、気付かないほど愚鈍ではない。

 しかし、エステルにとっては本当にどうでもよいことなのだ。官吏という地位自体にも本当はさほど興味がない。中央政治に手を出すつもりもなかった。

 配属先を決めるための試験。義兄の力を借りずとも、エステルの実力であればどこの部署にだって入ることができる。

 だが、事実がどうであれエステルの存在を快く思わない人間がいるのもまた確かだった。

「義妹だとはいいますが、私はそもそもお姉さまとも血のつながりがないのですけれどね」

 苦笑を零し、自虐するようにそっと呟いた。

 さほど知られてはいないが、エステルはモルディアス家の実子ではない。生まれてすぐに養子に出されたため実の両親が何者なのかはまるで知らないが、正妃ルルと血のつながりがないことは確かだ。

 しかし館長は少しも気にすることもなくエステルの手を取った。

「血のつながりなど関係ありません。大切なのは、その人そのものですから」

 噂する人々は、養子であれ実子であれ噂することに変わりはないのだろう。だが おそらく館長が言いたいのはそういうことではない。血縁に関係なくエステルを大切に思っている人間もいる、と言いたいのだろう。

「そうですね。私は私の夢を叶えようとした。何も間違ってませんよね」

「ええ」

 エステルが登試を受験しようと決めたきっかけは至極単純だ。

 国立図書館で働きたい。そのためには司書官になる必要があり、司書官は官吏の役職の一つである。つまりは登試に合格しなくてはいけない。とても分かりやすい流れだ。

 司書官であれば、国立図書館に収蔵されている一般公開されていない文書も閲覧することができる。それこそがエステルの狙いだった。

「安心してください。ここにいる職員は皆、お嬢さんの人となりをよくわかっています」

「館長…」

 優しい言葉に涙がこぼれそうになる。その姿に、館長は嬉しそうに微笑んだ。

「ところで、早速ですがお仕事の話をしましょう」

 先ほどと変わらない口調ではあったが、がらりと変わった話の内容に、自然とエステルの背筋が伸びた。

 もちろん叙任の報告に来ただけではない。今日からここは職場になったのだ。給料分、いやそれ以上の働きで今まで受けた恩を返さなくてはいけない。

 仕事という言葉に自然と身が引き締まる。

「驚かないでくださいね?」

 よくわからない前置き。しかし、その後に続く言葉に、館長がそんな前置きをした理由が判明した。

「陛下直々にご指名です」

「陛下が?」

 陛下、それは言うまでもなくエステルの義兄である現王である。王からの命令、つまりは勅命だ。新人官吏に勅命など、おそらく前例はない。

「陛下は何をお考えで…」

 確かに王はエステルから見ても身内に甘いところがある。特に正妃ルルには非常に甘い。

 しかし、同時に公私の区別ははっきりとしている人だ。王としての彼が身内としてエステルに接してくるはずがない。

 エステルの登試合格は無論、自身の努力によるものだが、王の立場からしても難しい問題であっただろう。最終的に本人が司書官を希望したため大きな問題にはならなかったが、それでも、いまのエステルは王が簡単に動かせる駒にはなりえない。

「ご指名、といってもこれは正式な勅命ではありません。どちらかと言えば密命と言った方が正しいでしょうか」

「そういうことですか」

 密命であれば、エステルが選ばれた理由もなんとなく察しが付く。見知らぬ司書官ではだめな理由が。

「陛下からのお言葉です。『“愚王の遺産”を処分しろ』と」

 命令はたった一言。その内容に、心当たりはない。

 命令書には玉璽がないため、確かに正式な勅命書ではないようだ。しかし、その流麗な筆跡は間違いなく義兄のものである。

「謹んで拝命致します」

 密命とはいえこれは王命。とりあえず形式だけでも受け取り、首を傾げた。

「館長、“愚王の遺産”とは一体…?」

「詳しくはここではお教えできません。地下書庫へ向かってください。そこに担当の者がいます。彼らに聞けば教えてくれるでしょう。」

「地下書庫…ですか」

 国立図書館地下書庫。そこは例え館長であっても特別な許可がなければ立ち入ることのできない特殊な領域だ。

 噂によると、決して表に出すことのできない闇の公文書が保管されていたりするらしい。

 未知の書物の気配に不謹慎にも胸の奥が高鳴る。

 それを察したのか、館長は困ったように微笑んだ。

「それからこれを。担当者にこれを渡してください」

 懐から一通の手紙のようなものを取り出した。真っ白な封筒だが、中身窺い知ることはできない。

 疑問をいくら浮かべてもどうしようもなく、実際に自分の目で確かめるしかないようだ。

「地下書庫への入り口までご案内します。それから先はお一人で。私はまだ死にたくないので」

「…ん?今なんて?」

「さて、行きましょう」

 非常に不穏な言葉が聞こえた気がする。エステルはそれが空耳であったことを祈って、先行く館長を追いかけた。

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