人工生命に関するSFショートショート

@hngt_a

授粉

その男が住むアパートは、建てられてからそろそろ100年が経とうとしていた。賃料の安さと中心街への近さに惹かれてその3階建てアパートの2階に住み始めた。元は軍士官の家らしく、頑丈な作りでほとんど壊れる気配はなかった。先の大戦の戦火や、大地震にも耐えたそうで、向こう数十年はまだまだいけそうだ。

しかし、彼はこの家が本当に住みづらくてたまらなかった。時代錯誤な備え付け家具のせいで、自分で家事やらをしなければならないし、邸宅を無理矢理に改装していくつもの部屋に分けたせいで、全く頓珍漢な間取りだった。

ユニットバスに入るためのドアが廊下の壁につっかえてほとんど開かない。彼がもう少しでも腹回りがあったら入ることはできないだろう。リビングの隣の部屋に入るにもドア枠も歪んでいて入れない。また、でかい洗濯機や冷蔵庫が並んでいる横で、邸宅備え付けのどう考えても大きすぎるキッチンのせいでほとんど立つ場所がない。

しかし、彼の収入ではここ以上の物件に住むことは叶いそうもない。

ある夜、彼はいつものように狭いベッドに横たわり、物思いにふけっていると、突然呼び鈴が鳴った。男はめんどくさそうに玄関の方に向かうと、恐る恐るドアを開けた。目の前には少し息の荒い男が立っていた。一瞬、その光景を以前にもみたことがあるような強烈な感覚に襲われて、少し呆然としていると、その男が、急に何か気づいたように言った。

「あなた、今の家にご不満があるようですね。近年、建築物自身が居住者の住みやすい形に自ら改変する技術が開発されました。そのベータ版の被験者としてご協力いただけないかと。もちろん、無料ですよ。」

セールスは基本断るたちであったが、その男は全くセールス風の格好ではなかったし、何かひとを納得させるような雰囲気があった。

無料だというし、この家に何か未練があるわけでもない。試して損をすることはないだろう。男は彼に施工を頼むことにした。

「では、早速作業に移らせていただきますね。」というと、部屋中に何かニスのような物を塗りだした。

急に男は不安になって、「これは一体…?」と聞くと、その男は「これを塗ると、あなたが住みやすいように家が自分で自分を改変するようになります。だいたい一日ほどで染み込み、建材の内部構造を変化させていくそうです。」という。

全く意味のわからない説明であったが、その男の方も詳しい仕組みは知らないらしい。しかも、施工はこれで終わりだとういう。

その男は連絡先を残してそそくさと帰っていった。

ベータ版にしてもほどがあるだろう。勝手に変な薬剤を塗って帰られるだけなんて。

ゴロンと横になると、部屋じゅうになんともいえない匂いが立ち込めていた。コケの匂いのような、少し足の裏の匂いのような。

翌日、起きて見ると、特に変わった様子はないようだ。昨夜の匂いはもう感じなくなっていた。いつものように水漏れのひどい洗面台で顔を洗おうとユニットバスへ行こうとすると、何か違和感がある。ドアが当たる方の廊下の壁の下には何か削られたような木のクズがあり、壁は若木のような明るい色をしていた。そこは顕著だったが、よく見ると他の至る場所に木くずとか鉄くずみたいなものが落ちていた。

あのニスに何かあるのは確かなようだ。結局、その日は部屋中のクズを掃除する羽目になった。

その現象はその来る日も来る日も続き、あの男に文句の一つも言いたくなったが、もう連絡がつかなくなっていた。

それから数日たったころ、ほとんど開かない洗面所のドアの反対側の壁が、綺麗に広がってドアが問題なく開くようになっていた。さらに、ずっと入ることができなかったリビングの隣の部屋にもいつのまにか入れるようになっており、大きすぎるキッチンも少しばかり小さくなっている。男は初めてあの男の言葉を少し信じ始めた。

いつのまにか入れるようになった隣の部屋を覗いて見ると、奇妙な光景が広がっていた。

大量の木くずとその上に大量のキノコが群生していたのだ。男は少し背筋がぞわぞわとする思いをした。その割には部屋を置いて出ていく気にもなれなかったので、もうしばらく様子を見ることにする。

あの男に謎のニスを塗られてからというもの、男はいつのまにかあまり外出をしなくなっていた。近所に弁当を買いに行くくらいだ。

それに、最近はあのキノコのことが頭から離れない。あれを早く駆除しなければと冷静に思う一方で、どうしてか、ものすごく食べてみたいという気になっていた。

そして、理性と衝動の境界でせめぎ合った挙句、生はさすがにということで焼いて食うことにした。

キノコの中でも一番害のなさそうな色のやつをとって、焼いてみようとすると、そこにはフライパンとこのキノコのための調味料が揃っていた。不思議に思いながらキノコをフライパンに乗せると火が自動的についた。

スマートハウスには憧れがあったが、このキッチンは紛れもなく100年前のものだろう。これもあのニスのおかげなのだろうか。

数分ののち、キノコはいかにも美味しそうに焼けていた。恐る恐る口に運ぶと、今までに食べたことのないほどの最高の味だった。今までで最高のキノコじゃない。今までの全ての料理の中で最高だった。

それから、彼の主食はキノコになった。さらにいうと外出が一切なくなった。

家の居心地とか食べ物のことに関しては何不自由なく生活できていた。

でも、彼一人だったので少し寂しさも感じていた。

あの日から何日経ったかはもう数えていない。男は、柄にもなく、運動不足を気にして部屋全体の木くずを片付けることにした。隣の部屋など山盛りの木くずだろうと思ってみて見ると、意外にも部屋は綺麗になっていた。勝手に部屋が木くずをどこかへ排泄しているのだろうか。また、彼のリビングからは再びあのニスのような液体が湧き出していた。なかなか、当初よりも嫌じゃない。むしろ少し飲みたい。

部屋を見回すと、隣の部屋には知らないドアがあった。部屋が作り出したのか、もともとあったのかはわからなかったが、恐る恐る開けて見ると、さらに広い空間が広がっていた。その空間の真ん中にはタケノコのようなものが群生していて、これの育ったものがすぐ横で壁になろうとしていた。新しい部屋が出来始めていたのだ。今まで気づかなかったのだが、よくよく探すといたるところに新しいドアや階段ができていた。男は楽しくなっていろんな部屋を探検した。

するとアパートのお隣さんとか上の階の人とかが男の成長した部屋に飲み込まれていて、これはどういうことだ、私の家がなくなってしまった等々のことを言い寄られたが、答えようもない。でも、彼らも不思議とこの生活に満足し始めているようだった。

男は寂しかったこともあり、彼らをリビングに呼んでキノコ料理をもてなした。思いの外意気投合し、楽しく過ごすことができた。

彼らの一人が「久しぶりにものすごい外の空気が吸いたくなってきたな」と独り言を行ったが、男の方も同じ気持ちだった。同じ気持ちというよりもう抑えきれないほど外に出たくて仕方なくなっていた。他のものも同じであったらしい。

皆で外へ出た途端、外の空気が本当に気持ちよくて、強い衝動にかられて皆散り散りバラバラに駆け出していた。

男はできる限り遠く遠くへ気のすむまで走った。そして、ここだ!とピンと来るところで立ち止まった。どこかの家のドアの前。

いつのまに片手にあの家から分泌されていたニスのようなものをもってきており、気づくともう一方の手が呼び鈴を鳴らしていた…

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