袖引く村の物語

探求快露店。

父の手記

 ふと鼻腔をくすぐった珈琲の香りに顔を上げると湯気を立てる二つのカップを盆に乗せた妻の千智と目が合った。

「熱心に何をお読みになられていたんですか?」

 柔らかな彼女の声に知らず知らずの内に詰めていた息を吐き出して、私は手元に視線を落とす。

 ……何と言えばいいのだろう。

 埃の匂いの染み付いた黒革の表紙には掠れた金字で『Diary』と記されている。四年分の記録を残せるだけの分厚い日記帳だ。開いた先に綴られているのは、日々の記録という意味では表紙通りの内容である。

 けれど、他愛ない日常の断片などではなく延々と苛まれる恐怖、後悔、葛藤……あの日、あの時と過去を振り返る言葉が頻繁に繰り返されるこれを素直に『日記』と呼ぶことは憚られた。

「父の……手記、になるのかな」

「お義父さんの?」

 腰掛けているソファの側まで来た千智が珈琲の注がれたカップを差し出しながら目を見開く。

 彼女が驚くのも無理はない。

 私が二十歳を過ぎた頃、何の前触れもなく突然失踪した父の死亡手続きを済ませたのはついこの間のことだ。

 三十年が経ってようやく整理しようかという気になれた遺品の中から見付けたのだと話せば千智は納得した面持ちになった。

「いったいどんなことが書かれていたんですか?」

「……聞きたいか?」

「ええ、それはもちろん」

 受け取った珈琲に口を付ける。

 ミルクたっぷりのそれはもはやカフェオレで、溶けきらず底に溜まった砂糖がゆっくりと流れ落ちてくる。

 甘ったるさがインスタントの安っぽい味の代わりに舌の上で転がった。

 無邪気な乙女のように微笑みを湛える千智に、私はやはり言葉に悩んだ。

「あまり面白いと言える内容ではないよ」

「と、いうと?」

「始終要領を得ない文面で、ただ読み進めていくとある一つのことについて綴られていることが分かる」

 口数の少なかった父は、けれど私から見ればどこにでもいる普通の父だった。

 そんな『普通』を装いながらこんな狂気の沙汰といえる文面を書き連ねていたのかと思うと背筋がゾッとするようだった。

 父の帰りを信じ待ち続けた末に失踪から三年後、心労で倒れてそのまま亡くなった母はこのことを知っていたのだろうか……。

 分からない。

「父の荷物が祖手引そでひきダムというところで見付かった、という話はしたことがあったかな?」

「ええ、見付かったのは荷物だけでご遺体は上がらなかったって」

 届けを出して一年は経たない頃のことだ。

 自宅から三百キロは離れたダム湖に父の物と思われるハンカチが浮かび、さらに近くの山小屋で財布やスマートフォンなど最低限の持ち物が発見された。

 何故そのような場所に……と当時から疑問には思っていたが、この手記によれば失踪より更に三十年は昔、父が大学生だった頃に一度訪れたことのある場所だったらしい。

「ダムに沈んだ村に友人たちを置き去りにして来たそうだ。それからずっと、ずっと呼ばれていると……」

「……怖い話?」

 幽霊や怪談話がめっぽう苦手な千智が表情を強張らせて身構える。

「ああ、それも体験談」

「この話はやめましょう」

 即答だった。

 それがいい。

 薄ら寒さに耐えるように肩を抱いた千智にははっと軽い笑い声を漏らしつつ、聞かせずに済んだことに私自身、内心でホッと胸を撫で下ろした。

 ……あまりに生々しく、凄惨で、信じがたい話だ。


 祖手引ダムに沈んだ祖手引村。

 水の底に沈んだ村に入る方法があるという。

 人伝に聞いたなら作り話だろうと笑い飛ばしたに違いない。

 オカルト話を試した末に、父は友を失った。

 失った友の遺体は父と同じように見付からなかったらしい。

 今もなお、彼らはダムに沈んだままでいるのだろうと……。

 信じがたい話だが、冗談一つ言わない生真面目な父が残したこの手記を作り話と否定することはできなかった。

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袖引く村の物語 探求快露店。 @yrhy

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