エピローグ バスターミナルにて

 昼下がりのバスステーションは、十数か所にも及ぶ停留所の前に観光客やビジネスマンの集団がそれぞれに陣取り、友人同士らしい二、三人ほどのグループなどもそこここに固まって、大いに観光立国としての賑わいをみせていた。

 声を張り上げるコンダクターが人混みを掻い潜って、グループを先導する。売店へと買い出しに向かう男女。ぐずって泣き出す幼な子。大声で笑う壮年の男達。

 笑顔が弾けるような一見楽し気な南国らしいその賑わいは、しかし注意して見れば、どこか落ち着かなげな雰囲気を纏っていることに気付くだろう。それは人々の、互いを盗み見るようなさりげない視線や、ふとした瞬間に微かな不安を滲ませる、その表情が生み出すものだった。


 ネット上から飛び出して収集がつかぬほどに乱れ飛ぶ一方の、一昨日未明のに対して、未だトゥームセラ政府は公式な見解を示してはいない。発覚当初に揉み消しを図るような動向が窺えたことも相俟って、他国からの来訪者のみならず、自国民の間にも不穏な気配が漂っていることは、もはや隠しようもなかったのである。


 ましてや。

 昨日未明にセイングラディード島で『何かがあった』ことを察知してしまえば、表面上の賑やかで平穏な日常を、心の底から信じられるような人間などいるはずもないだろう。

 殊更に不安がって浮くよりも周りの人々に合わせて平穏を装う、人々のそんな処世術によって、明るい日差しの下、トゥームセラで最も発展している観光地でもあるシティは、常時の賑わいを生み出しているのだった。

 ───もちろん、その結果があまりにも見え透いたものであるのは、言うまでもないのだが。


 その賑わいの中、エレはニーオと並んで、この三日間ずっと一緒にいた姉弟と向き合っていた。


「君達を追う者は、もういない。モスキートが失われた以上、今さらトゥームセラの機関の人間が君達に接触する理由はないからな」

 ニーオが穏やかに言いながら、ぶら下げていたジェイの荷物を彼女に手渡した。

「それでももし万が一、何か困った事態が起きたら、渡しておいた番号に電話をかけるといい。後のことは、彼らが上手く処理してくれる」


 自らの『仕事』の報酬としてまず何よりも先にニーオがもぎ取ったのが、救い出した子供のフォローだったことを、エレは身をもって知っている。

 実際のところ、犠牲となる子供になど全く関心を持たないコルドゥーンといえど、『箱』であるニーオの要請を退けて彼の逆鱗に触れるよりは、多少の融通を利かせる方が実利となる。そのあたりは、彼らも合理的に割り切っているのだろう。

 その実例を、ほんの僅かではあるものの、エレは見てきたのだ。


「本当なら君達の自宅まで送り届けるのが、一番安心なのだがな。

 私達が同行することで、やっと平穏を取り戻した君達に、かえって余計な迷惑をかけることになりかねない」

 苦虫を噛み潰したように唸るニーオに、ジェイが笑う。彼の言い分も彼の心境も、ちゃんとわかっているから、と告げるその笑みに、ニーオはますます口角を引き下げた。

「申し訳ないが、現時点ではまず間違いなく、君達の家は複数の陣営のコルドゥーンに監視されているだろう。

 しばらくは……いや、私達がトゥームセラを出たら、奴らは一斉に引き上げるはずだ。それなりの消息を提示すれば、連中はすぐに察知する。

 すまないが、それまでは我慢していてほしい」

「大丈夫。どのみち、監視しているっていうコルドゥーンは、私達には興味なんてないんでしょう? そもそも監視されていたとしても、私達じゃきっと、そんな気配さえわからないだろうから」

「……すまない」

 ジェイが首を振った。

「ううん。助けてもらったのは、私達の方なんだから。ニーオとエレがいなかったら、私もサミーもどうなってたかわからないもの」


 彼女の傍らで、もう泣きべそをかいているサミーの頭を撫でていたエレは、そして、ジェイが心配そうに自分を見下ろすその視線を感じて、そっと口元に笑みを刻んだのだった。



「圧倒的なのね」

 昨日、夜明け前にアンジェリカが用意したミニ・ホテルに辿り着いた後で、ぽつりとジェイは言った。


 初めに通されたあの部屋でエレが意識を取り戻した時、すでにアンジェリカの姿はなかった。

「今回は貸しを作れただけで、良しとしておいてあげるわ」

 鮮やかな笑みを閃かせて、彼女はあっさりと去ったのだという。


 傍らのベッドでは───つい今しがたまで、もうひとつのベッドでエレ自身が寝ていた、ということなのだろう───ニーオが眠っていた。

 正確に言えば、ニーオが自らの痛覚を再び引き戻したから、エレが目覚めたわけではあるのだが。


 アキの力により回復しつつあったとはいえ、ニーオの体の損傷の度合いは、一日で完全に元に戻るという状態ではなかったということだろう。つまり、アキでさえ一日で修復出来ぬほどの重体だったということだ。

 それなのに、その体で自ら歩き、エレとジェイの許へと赴いた。のみならず、アキと共闘してセイングラディード島を、モスキートを食らった。

 いくら一時的に苦痛を捨て去り、それを感じずにいたとはいえ、身体にかかる負荷はとんでもないものだったのだろう。

 子供達を安全な場所に連れ出すまでは、意地でも倒れたりはしないだろうが……苦痛を感じることこそなくとも、その肉体が意志の制御から外れかかっていたとしても、何ら不思議ではない。


 アンジェリカがさっさと退去したのは───もしかしたら、彼女なりのだったのかもしれなかった。


 前日に引き続き明け方に戻ってきた彼らに、眠っていたはずのサミーはすぐに目を覚ましたという。

 自分に飛びついて大泣きした幼い弟が、未だぐすぐすと鼻を鳴らすのを、抱きしめてその背を撫でながら、ジェイは悄然と言葉を落とした。

「きっと、私が馬鹿な事をしなければ、ニーオは怪我なんかしないで、もっと簡単にモスキートを封印していたのよね」

「いや……、うん」

 エレは言葉を濁した後、正直に答えた。

「かもしれないけど……どのみちそれでも、アキが余計なことをしないでいたかどうかは、わからないしなあ」

「……楽しそうだったものね」

 僅かに引き攣ったジェイの顔を見て、アキがどうやら盛大にやらかしたらしい、と嫌な予感と共にエレは悟らずにはいられなかった。

 案の定、ジェイが語った事の顛末に、彼は頭を抱えたのだった。


 アキが具現した無数の黄金の仏とそれらが展開した蓮の天蓋は、完全に、外界とセイングラディード島とを切り離し遮断する、障壁であったらしい。あれほどの爆発───閃光も爆風も激震も、炎や噴煙すらも───に伴う様々な異変の何ひとつとして、トゥームセラ本土には漏らすことがなかったからだ。

 サミーを宥めるジェイの横で、エレがスイッチを入れたテレビには、昨日の空爆の映像───すでに政府の制御を離れて、堂々と放映されていた───こそ映されはしたが、セイングラディード島のそれには全く触れられることがなかったことからも、明らかだった。


 もっとも、政府の最深部の一部であるはずのの異変を、当局が察知しないはずはない。

 という非常事態のすぐ後だ。泡を食ったその動きをマスコミが嗅ぎつけるのも、遅かれ早かれ時間の問題だったのである。


 現にその数時間後には、遠くから撮影されたものとはいえ、封鎖された橋梁の先の異様な風景と、その上空や海上に一切の部外者を排除するためとしか思えぬ、物々しく展開された軍隊の威容が放映されることになったのだから。


 その原因を作った───エレが意識を失っている間に散々蹂躙の限りを尽くしたアキとニーオは、トゥームセラの悪霊モスキートを食らい終えると、悠々と踵を返し、燦然と輝く焦土をジェイの元へと引き返してきたのだという。


 そして、ジェイとエレを囲い込んだまま球状に仕立てられた護りに、無造作に

 金色に輝く蓮の結界は、確かに質量を持っているように見えてはいたが、もちろんジェイにはそれに触れてみる勇気はなかった。けれど輝く蔓草のような護りのに無造作に手を伸ばしたニーオは、事もなげにそれを握りしめたのだ。

 その途端、子供達をその内に乗せたまま球状の護りは、ふわりと宙に浮かんだ。

 その高さは、せいぜい一メートルもなかっただろう。それでも、金色に輝く瓦礫の大地の何処にも掠ることなく進むには、十分な高度だった。

 血や肉や阿鼻叫喚の惨劇を全て呑み込み、地獄の果てに燦然と輝く涅槃と化したセイングラディード島を、緩やかな速度でジェイとエレを包んだ護りは滑り出した。

 馬車の後部に控え立つフットマンのように、ニーオがその側面に掴まったまま、彼らの他に生者の存在しない黄金の大地を、球状のは滑空していったそうだ。

 美しく整備された広大な庭も、それすらも含めた宮殿の敷地そのものを囲っていた森も、見る影もなく黄金の瓦礫と化している。地上から目を上げると、視界を遮る物など全く無くなったはずのその上空には、輝く無数の仏───の姿をしたと蓮の花の天蓋が、駆け抜けていく彼らを見下ろしていた。


 畏敬の念───それが聳え立つ、作られた像などではない数多の仏に対するものか、変わり果てた世界の一部に対するものかは、彼女自身にもわからなかったが───に打たれて、ただ魅入られたようにジェイが天を仰いでいる間に、球状の舟はセイングラディード島を横断したのだった。


 黄金の結界は、本土と島を結ぶ橋梁のまさに境界にまで及んでいた。

 つまり、検問のブースそれ自体さえもがアキモスキートの起こした変容に取り込まれ、跡形も無かったのだ。

 奇異な眺めだった。

 瓦礫と化したゲートには、もちろん人ひとり存在しない。恐らくは宮殿の男達のように、モスキートの齎す変異じごくに呑み込まれて埋没し、その一部と化してしまったのだろう。

 しかしその瓦礫を超えると、何の異常もない……平穏な風景が長い橋梁を含めて広がっていたのである。


 七百メートルにも及ぶ橋梁には、もちろん等間隔に街灯が灯されている。その下を滑り渡っていく金色の球体は、見る者がいれば、まさに異様な存在ものだっただろう。

 けれど、目撃者の有無などはなから考えてもいないように……それこそ鼻歌でも歌いそうな様子で、ニーオは球体をしていた。


 ああ。

 そんな男の端正な面差しを横目で窺いながら、ジェイは思った。


 ニーオではない。

 少なくとも彼なら、エレとジェイという護るべき子供達の安全を最優先にして、気を緩めるようなことはしないだろう。ましてや、己の身代わりになったエレを思えば、なおさら。

 だから、今、傍らの男のに現れているのは、ニーオではない。


 変化とその結果を指向するという───人ではない存在。

 世界の一部を全くその理とはかけ離れたモノに変え、そのことに……溶解し変質した大地、人工物、人間のその全てをもって変容したセイングラディード島の有様に興を示す、慈悲無き存在。

 それが、ここにいるモノなのだ、と。


 漠然としたジェイの感慨、それはすぐに確信へと変わることになった。

 橋梁を渡り専用道路から一般道へ出た瞬間、出くわしたトラックに、ニーオが……アキが、にやりと笑ったのだ。

 それは、躊躇いもなく球体を激突させて強制的に対手を停車させるという、暴挙に向けた前兆だった。


 明け方前の、他に通行する車がいない幹線道路を規定よりも遥かに速いスピードで飛ばしていたトラックが、出合い頭にみるみる迫ってくる。突如、目の前に現れた光輝く球体に、運転手の顔が引き攣ったのが、ジェイの方からも見えた。

 急ブレーキに軋むタイヤの音。

 しかし、間に合うはずもない。


 確かにあれほどの爆発の連鎖を、変容する大地や大気を、ものともしなかった護りけっかいだ。

 とはいえ、まさに目前に迫りくるトラックを前にして、竦まずにいられるはずもない。喉の奥に詰まった悲鳴を吐き出すことも出来ずに、咄嗟に衝突を覚悟したジェイは本能的に固く目を瞑った。


 衝撃は、なかった。

 それでも消えたブレーキ音と、それまで肌を掠めていた風の消失に、恐る恐るジェイは目を開けた。


 目の前に、トラックのフロント部分があった。

 球体との衝突は、トラックに損傷ひとつ付けはしなかったようだ。そもそも、本当に衝突したのかどうかすら、ジェイにはわからなかったのだが。

 それでも、どう考えてもあのスピードでは止まれるような位置ではない彼女らの眼前に、間違いなく停車している以上、両者がぶつかったのは確か……だろう。

 エアバッグも作動していない運転席で、運転手がハンドルに突っ伏しているのが見える。こちらが衝撃を感じなかったように、エアバッグが開いていないあちらにも衝撃はなかったはずだ。

 しかし運転手は、ぴくりとも動かなかった。


「さてさて」

 さっさと球状の護りを消し去って───金色の蓮の花や絡まり合うその根が消えた瞬間、エレに膝を貸したまま、ふわりとジェイはアスファルトの上に着地した───身軽く道路に降り立ったニーオは、無造作に歩み寄った運転席の、扉を開いた。

 ロックされているはずのそれが、あっさりと開く。

や、兄さん。こちとら急いでるもんでね」


 その言葉の後に、ニーオ───アキが起こした行動についてだけは、ついにジェイはエレに語ることが出来なかった。


 昨日、エレが死者を使役下に置くその瞬間を、ジェイは目撃している。

 それがどういうことであるのか。理を捻じ曲げる……人間の生死のみならず、その尊厳すら踏み躙るの所業でしかないことを、最初から、言い訳ではなく事実として、エレはジェイに説明していた。

 ───彼には、その自覚があったのだ。

 そして覚悟をしていたつもりのジェイでさえ、現実にそれを目にした時、止むを得ないのだから、仕方のないことだから、と何度も自分に言い聞かせずにはいられなかった。そうしなければ、その行為の惨さに耐えられなかった……正気を保てなくなることを、本能的に悟っていたのからである。


 だがアキがしたことは、エレのそれなど及びもつかないものだった。


 悲鳴も苦痛の呻きもない。血の一滴すら流れることは、確かになかった。

 しかし静かに、生きながらにしてモスキートに作り変えられていく人間の姿を、おそらくこの先一生、ジェイは忘れることは出来ないだろう。


 ニーオがアキを止めなかったのは……この暴挙を是としたのは、おそらくジェイと同様だったのではないだろうか。

 一刻も早くこの場を離れるためには止むを得ない、と彼が自らに欺瞞の言葉を繰り返していただろうことを、ジェイは確信してしまったのだ。

 そして、せめて彼女には見えないようにと心を砕いていただろうことも。


 もっとも体の負荷を抱えた彼が、興に乗ったアキを止めきれるはずもない。

 ジェイの反応に興味を持っているだろうモスキートは、そして、容赦なく彼女にそれを見せつけたというだけのことだ。


 ───それを、ジェイはエレに伝えるつもりはなかった。

 罪もない人間を巻き込んでしまったことで慙愧に耐えるニーオだけでなく、少年にまでわざわざ心痛を味わわせるような真似はしたくなかったのだ。


 いずれにせよ傀儡と化した運転手の横に、少年を抱えた大柄な男と並んで、ジェイは乗り込むことになったのである。

 そして、彼らはアンジェリカとサミーの待つミニ・ホテルへと向かったのだ。


 僅か数十分後には、見覚えのある建物の前で、彼らはトラックを降りていた。

 大規模なホテルではないにせよ、観光立国、それも中心地であるシティのホテルだ。セキュリティに抜かりはないだろうし、常駐する警備員がいないはずもない。

 しかし、小さな車回しを正面にするフロントには、アンジェリカがたったひとりで待ち構えているばかりだった。


「───世話になる。アンジェリカ」

 もはや黒ずんだ血の跡に全身を染めた、惨殺死体もかくやといわんばかりの姿のニーオに声をかけられても、彼女は眉ひとつ動かさなかった。

「貸し、ひとつ。それが坊やとの約束だからね」

 そして彼女は、ジェイにはにっこりと笑いかけた。

「部屋はわかってるわね?

 貴方の坊やは眠っているから心配ないわ。あの子が目を覚ます前に、そっちの酷い有様の男を、少しはマシな状態にしておくことね」

 カードキーを手渡し、ニーオの腕の中のエレを一瞥すると、アンジェリカは踵を返した。


 ちなみに、アンジェリカに対面する前にアキはすっかり鳴りを潜めてしまっていた。

 一通り、好き勝手に世界を改変したことで満足したのか。あるいは───

 いずれにせよ激動の一夜を越えて、三人は人知れず小さなへと消えていったのだった。



「トゥームセラという一国家が信奉していたモスキートを、ニーオの力は遥かに凌駕していたわ。この世界を変容させるっていうその力よりもずっと。

 簡単に抑え込むだけじゃ飽き足らずに、パフォーマンスめいた真似までする余裕があるほどにね」

 まさに天変地異のように荒れ狂った大地も、ニーオの支配下にだけは、その影響を及ぼすことは出来なかった。それに、セイングラディード島を出て振り返ったジェイは、あれほどの光輝く神仏の世界が……そうと見せかけた結界が、一瞬にして消え去っていることをその目に見ている。

 それらを全て見届けた彼女の言葉は、重かった。

「アキは、ずいぶん楽しそうにこの世界の成り立ち……構成? を壊して作り変えて、それによって引き起こされる余波を楽しんでいた。確かに、神様か悪魔だとしか思えない様子だったわ。

 でも、それでもアキは、一応ニーオの意向に背くようなことはしなかった」

「………」

 傍らでこんこんと眠る疲れ切った男の寝顔を、ふたりはそっと見下ろした。

「ねえ、エレ。あんなものは絶対、人ひとりが負えるようなものじゃない。負っていいものじゃない、と思う」



 長距離バスの発車時間が迫っている。

 ニーオが片膝をついて、サミーに目を合わせた。

「元気でな、サミー。いい子にしているんだぞ?」

「お姉ちゃんやお母さんと、仲良くするんだよ?」

 優しく言い聞かせる言葉の、どこまでを彼が理解しているのかは、問題ではない。

 ただニーオに続いて抱きしめたエレにも、幼な子はぎゅっとしがみついてきてくれた。

 それで十分だと思う。

「また会える?」

 立ち上がったふたりに、泣きそうな顔でジェイが問いかける。

 ニーオが曖昧に苦笑を浮かべるのを横目に見ながら、エレは首を傾げてみせた。


 本来、救い出したサクリファイスこどもの殆どは記憶を消している、とエレはジェイに隠さず話している。


 帰る家があるのなら家族の許に帰したい、というのがニーオの願いだからだ。

 夢物語だと頭でわかっていても───おそらくニーオは信じたいのだろう。死の淵にまで追い込まれ、傷つけられた子供が、温かく迎えられ、今度こそ守られることを。

 決して不幸な生い立ちではなかった……施設の内外の人々に助けられ、世間に傷つけられることも表面上はなかったのだから、自分は十分に幸運だったのだと、ニーオは言う。それでもやはり施設育ちの彼には、血の繋がった家族というものにある種の幻想あこがれがあるのかもしれない。


 

 それが、ただの願望だとわかっていても……彼は信じたいのかもしれなかった。


 対してエレは、現実の体現者だ。

 好きで捨てたわけではない。けれど、。血の繋がった家族の本音を、嫌という程理解している。


 何よりも優先してニーオがもぎ取った報酬───救い出した子供のフォロー───を、だから、ふたりは現実的に擦り合わせて、最も妥当な手段を生み出したのである。


 サクリファイスを連れ去った人間───組織であり、企業であり、今回のように国家である場合すらある───は、まずモスキートの奪取と共に、彼らによってほぼ壊滅させられる結末を迎えると言っていいだろう。

 子供を救うこと。そして、その子供を利用しようとした存在を許さないこと。

 それが、ニーオが彼自身に課した贖罪でもあるのだから。


 ならば、後はそれを事故という形で世に示し、たまたまそれに巻き込まれたという状況を作り出して、サクリファイスである子供の記憶の改変し、公に戻す。

 子供を奪い取った存在が消滅している以上、連れ去られた───それが合意の上であろうと───子供が、家族の許に戻ったところで、何の問題もない。

 家族の良心の呵責も、子供自身に記憶が無いのであれば、僅かであれ軽くなるだろう。あるいは呵責ゆえに、より子供を大事にするかもしれない。

 それすら望めない境遇の子供に関しては、やはり記憶を改竄し、新たな養父母を付ける。

 コルドゥーンとて、その程度のは構築している。もちろん、本来の目的は別のところにあるのだろうが。


 救い出した数少ない子供達の大部分は、今のところそれでなんとかなっている。

 少なくとも、時折ふたりが情報を確認している現在まで、彼らが新しい、平穏な人生を送っていることにエレとニーオは安堵しているのだ。


 しかしジェイの場合は、トゥームセラという国家自体の主導だったのだから、今さら記憶を消しても意味がなかった。

 彼女が覚えていなくても、すでに義父は存在せず、『セオドア王子の呪い』が周知の事実であるこの国では、事故として処理したところでどこからか綻びが生じるだろう。

 幸い彼女の母以外は、ジェイが国の犠牲になりかけていたことを知らない。モスキートに関係する機関が壊滅した以上、国の他の機関の者達がジェイに今さら接触する意味もない。


 記憶の消去は、必要ない。

 それが、ニーオとエレの判断だった。

 生きているうちに見るべきではないものを、たくさん見てしまったとしても。

 ───ジェイ自身がそれを望んだから。


 だから。

 お互いに二度と顔を合わさないことが彼女のためでもあると、きっとジェイもわかっている。


 深く息を吸い込んでから、ジェイが言葉を継いだ。

「私ね。絵を描く仕事に就きたいの。これから勉強もしていくつもり」

 泣きそうな眼差しのまま、それでも彼女は笑顔を作った。

「せっかく普通の人が見ることの出来ないものを、目に焼き付けることが出来たんだもの。昨日のあの光景を、いつか絶対に描いてみせる。

 ここに見える現実だけが全てじゃないって、知らせることは出来なくても、ひとつの作品として見てもらいたい。たくさんの人に見てもらうために、頑張って……いつか発表してみせるわ」

 たくましい言葉に、エレは目を細めた。唇が自然に笑みを浮かべる。

「だから……いつか、見に来て。見に来て」


 ───でも、だからこそエレがいなくちゃいけないと思う。

 昨夜彼女が言った言葉が、エレの中で甦った。


 ───ひとりであんな力を背負っていたら、エレが心配するようにニーオだって、いつか壊れてしまうかもしれない。

 でも、エレと一緒ならきっと大丈夫だと思うの。どちらかが壊れるような方法じゃなくて、ふたりで助け合える方法を探すことだって、出来るんじゃないかと思う。

 ねえ、そうでしょう? エレだって、ニーオが大切なら今さら彼をひとりにすることがいいことだなんて、思わないよね?

 サクリファイスを救うこと。それだけを、貴方達の願いにしなくてもいいでしょう?

 だから……。


 そして、ジェイは両手を伸ばした。

 一昨日、サミーがニーオに抱擁を強請ったように。

 屈みこんだニーオの頬に少女は、唇を寄せる。続いて、エレの頬にも優しく唇が触れた。


「───諦めないでね」

 小さな囁きに、エレは目を細めた。すぐ傍にいるジェイにしかわからないほど小さく、頷く。

「……うん」


 ニーオが必要としてくれる。傍にいて、彼を助けられる。エレにとっては、それで十分なのだ。それ以外に、望むことなど何もない。


 だから。

 もう少し。

 弟を守りきってみせた臆病で勇敢な少女に、エレは約束するように微笑む。


 バスの乗車を促すアナウンスが、青い空に響き渡った。




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サクリファイス・エンジェル 高柴沙紀 @takashiba

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