第2章 川でとれるのは魚とは限らない
衛士隊から解放され、日も高く昇り始めた頃、レイ達はドノヴァの北西二キロの地点にある、カルム川の河原に立っていた。
この川は、アストラ山系カロン高地を源流に、アストラ森林帯やポートリエ平原を潤しながら、ドノヴァの街を二つに分ける様に横切り、ドノヴァ湾に注ぎ込む川だ。
支流が少ない為に長さに割には、川の規模は小さく流れは穏やかなのだが、多種にわたり水生生物が生息している。街の外れでは川遊びする者も居るが、それ以上に貝や小魚を取って小金を稼ぐ者が多い。
そして、レイ達もその例に漏れず、小金を稼ぐ為にここに立って入る。
ただ、目当ての生き物は魚でも貝でも無く、石の裏などに巣を作るフルーフ虫の幼虫だ。釣り餌を扱う商人から冒険者ギルドへ依頼があったのを、レイ達が引き受けたのだ。
「レイ。本当にそれだけ集めるつもりなのか?」
ミオは、レイの肩掛け鞄から飛び出している瓶を一瞥して、彼に尋ねる。
レイは牛乳瓶程の大きさの瓶六本を、小ぶりの鞄に詰め込んでいた。
「これぐらいは集めないと、次の支給日まで安心出来ないだろ?」
依頼は二本で銀貨十枚だが、納品の本数が多ければ、一本当たり銀貨五枚を加算するとの事だから、なるべく沢山集めるつもりで多めに瓶を用意した。
「お金が無いのは、レイが見えを張って、船乗りに奢るからだろ」
「ミオだって、
ミオはそのせいで財布の中身が全て無くなり、不足分をレイに泣きついて立て替えて貰った。お陰でレイの方も資金が底をつき、今に至る。
お互いその失敗を
不思議な事にレイは、自身の印象が他人に残り
仕事をする上で、中々顔を覚えて貰え無いと言うのは、様々な局面で障害となる。
常に一見さん扱いだから、冒険者ギルドでは中々良い仕事を回して貰えないし、初めに紹介が必要な所は、次回からは入れなくなる。
武器や防具を預けたら、必ず取り違えられるなど、面倒事もかなり多い。
今回船乗りに大盤振る舞いしたのも、近々船が必要となりそうなので、印象をきっちり残して、必要な時に話を通し易くする為だ。所謂、必要経費と言う訳だ。
「ふう、
「ふむ。そうだな」
レイがそう言って促すと、ミオも同意して、レイの鞄に入っている瓶を取り出し、靴を脱いで川の瀬に足を浸ける。レイもまた鞄から瓶を取り出して、川沿いを歩いて虫が巣食っていそうな川の瀬を見つけると、ミオと同じく靴を脱いで、川に足を浸けた。
それからしばらくの間、せっせと虫取りに専念していると、日も昇りから降りに転じ、気温が上がって来た。しかし、水が冷たいお陰で、かえって心地良い。
今の所、レイが捕獲した虫は瓶二本分までに至り、三本目に突入していた。ミオの方はと言うと、二本目を半分まで取った所で、レイの直ぐ近くに移って虫を取っている。
「レイ、そろそろ一休みしないか? さっきからずっと腰を曲げ続けていたせいか、腰が痛い。それに、少し空腹も覚えた」
虫を取る為に捲り上げていた石を置きながら、ミオはレイに休憩を持ち掛ける。
「そうだなぁ。二人掛でその瓶を一杯にしたら、昼飯にするか?」
彼女が手にしている瓶を指差しながら、彼女の提案を受け入れる。
「よおし、早く片付けてベーコンサンドを頂こう」
「張り切り過ぎて、怪我するなよ」
すると、ゴールを明確にされたミオは、定宿にしている『カルム亭』で用意して貰っていた昼食用の弁当の中身を口に出すと、
一方レイは、張り切り過ぎて、よく怪我をするミオに注意を促すが、直ぐに注意の意味がなくなった。
「イタッ!」
「ほら 言わんこっちゃ無い!」
ミオから短い悲鳴が上がると、注意した尻から怪我した事に呆れながら、駆け寄るレイだったが、彼もまた足に痛みを感じ、短い悲鳴を上げる。
「イテッ!」
「……言わんこっちゃ無い………」
胡乱気な視線を
二人は岸に上がって、傷の応急手当てをして、しばらく休憩する事にした。
レイは拾った投げナイフ二本を、それぞれの手に持って見比べる。
どちらも同じ造りで、よく武器屋などでセット販売されている物だったが、これと同じ物をつい最近、他の場所でも見た。衛士詰所の遺体安置所で男女の遺体を見た時に、女の方の遺留品の中に同じ物があったのを思い出したのだ。
確かその遺留品は、ベルトと合わせて七本一組のセットだった筈だが、何故か二本だけ無くなっていた。これはその消えた二本に見えたが、細部までは覚えていないので、じっくりと見比べないと確証が持てない。
「一度詰所に行って、確認するしかないな」
独り言を呟くレイに、露骨に嫌そうな顔でミオがそれに応える。
「またあそこに行くのか……」
「嫌なら、宿屋で閉じ籠ってくれれば良い。ただし、勝手に出歩くなよ」
「それも嫌だから、同行する事にしよう」
「好きにしてくれ」
そう言ってはみたが、レイはミオを詰所に連れて行くのには消極的だ。
そこの詰所にいるサイラスの上司にとって、ミオは天敵以上に因縁深い。
ミオにしてみても、不埒者がサイラスの上司だと分かれば、兎角思考に飛躍の見られる彼女なら、ここの領主宅へカチコミに行き兼ねない。
だが、ミオを宿屋に残しても、レイの言いつけを守る保証は何処にも無い。
以前も勝手に出歩いた上に、絡んできた裏組織の子飼いを半殺しにして面倒事を作ってくれた。
イザコザが起こりそうな場所に彼女を連れて行くか、目の行き届かない所で勝手に問題を起こされるかの二択は、レイに取って悩ましい所だ。
取り敢えず、その考えたくない未来を脇に置いて、再びそのナイフを見つけた場所に近い河原に立ってみる。
この辺りの川は緩やかなカーブを描き、その内側は瀬になっている。その瀬は入り口と出口こそ狭いが、広い所では川幅の半分を占めていた。レイ達が虫取りしていた所は、そのカーブの内側にある瀬だったが、ナイフが落ちていたのは、そのカーブの入り口に近い浅瀬だった。
レイはその浅瀬のすぐ側にある橋に目を向ける。
重要度はそれほど高く無いのか、その橋は殆どが木で作られていた。
そして橋のたもとには、付近の貴族の荘園からの収穫物を運び出す為と思われる、小さな船着き場が備えられていた。
一度河原から出て橋へ向かい、今度は橋の前に立ってその橋を観察する。
橋の上は二台の馬車が擦れ違えるぐらいの幅はあるが、それほど往来は多く無いのか、橋の上に敷かれた木の板に目立った傷は無かった。
取り敢えず向こう岸まで行ってみようと、橋を渡る事にした。
木で出来ている割にはしっかりした造りで、重い荷物を積んだ馬車が二、三台乗っても大丈夫そうに見えた。ただ、この橋には欄干や手摺などは無く、夜中に明かりも無しで渡ると、転落事故を起こすかも知れないと思った。
橋も終わりの方に差しかかった所でレイは、通路の上流寄りに不自然な汚れがある事に気付く。そしてその汚れに近づいて、初めてそれが滴下血痕だと言う事に気付いた。
しかも素人目で見ても、一目で分かる不自然な付き方だった。
広範囲にわたって飛沫血痕の様に飛び散っているくせに、滴下血痕の様な痕跡の付き方をしていて、血痕の形状も殆ど高さの無い所から落ちた様に縁のギザギザも無い。
そして何よりも不自然なのは、これだけ広範囲に飛び散っている割には、血の量が少な過ぎる事だった。
しかし分析しようにもレイは素人だ、『ミカゲ』本部の科学調査班や帝都の犯罪分析班なら、もう少し突っ込んだ分析も出来るだろうが、ここの衛士隊に、それを求めるのは、少々酷かも知れない。
ただ、〈氷槍〉によって殺害されたと仮定すれば、この血痕の付き方も、ある程度説明が付く。〈氷槍〉によって氷点下に下がった血液が、体の中で凍る直前に噴き出してそのまま凍り、その飛び散った氷状の血液が解凍されれば、あのような跡になるかも知れない。そう考えれば、ここが昨晩起こった殺人の殺害現場の可能性が出てくる。
勿論、これは机上の空論なので物証とは程遠い。『ミカゲ』本部の科学調査班の様に、DNA鑑定でも出来れば、この血液だけでも物証になる。しかし、『ミカゲ』本部はチョット来て、と言って呼べる程近くには無いし、組織の存在は公然の秘密で、公にその存在は認められていない。それ故、仮に正しい情報だとしても、公には採用される事は無い。
因みに『ミカゲ』とは東ディアランド海の真ん中に浮かぶ、ミカゲ島を本拠地に飛び抜けた科学技術と、世界中に情報網を持つ結社だ。基本的には平和主義で、どこの勢力とも与せず中立の立場を取るが、世界を揺るがす事件には進んで協力する。ただし自分達を侵してくる者に対しては容赦しない。
約五百年前の事だが、ファビウス帝国がミカゲ島を奪取しようとして、派遣した大艦隊全てを数時間で海の藻屑にされた。
それ以来ミカゲ島は〝禁忌の島〟と呼ばれ、その島と組織への干渉は、世界中の国々が禁忌としている。
現在でも存在こそ公然の秘密となっているが、組織の構成や活動内容などを知る者は極少数だ。
「・・・ッ、ィ、イテテ!」
レイのいつもの発作が始まった。『ミカゲ』の事を考えると、時々頭痛が起こる。
旅の最中だと、それ程頻繁では無いが、本部に戻ると酷くなる。それどころか何かを忘れているような、何とも言えない不安に襲われ、精神的にも不安定になる。その為、組織の頭領でありながら、各地を巡察する仕事に就いて本部を離れている。
何故そんな彼が、組織の頭領をしなければならないかは、彼自身良く分かっていない。
ただ一つ分かっている事は、彼をヴェクター村から拾ってきた、アヤメとモミジと言う女性達を始めとした、『ミカゲ』の幹部達が口を揃えて、彼には資格があると言っていた事だ。
頭を押さえて、頭痛を収める素振りを見せているレイを見て、ミオが心配そうに声を掛ける。
「レイ。大丈夫か? またいつもの発作なのか?」
心配そうに顔を覗き込んできたミオの頭に手を置いてひと撫ですると、レイは頭痛を振り払うかのように、ガブリを振って彼女に応える。
「心配掛けてすまない。もう大丈夫だ」
そう言うと、再び歩きだして橋を渡り切り、橋のたもとにある船着き場に降りる。
船着き場に降りたレイはそこから川底を眺めてみる。一応この部分は淵になっていて見た目以上に深そうだが、水が澄んでいるので川底が良く見える。
更に目を皿のようにして、川底を観察するレイは、一瞬だけキラリと光る物を見つけた。
早速レイは服を脱ぎ、下着だけの姿になると、横にいたミオは激しく動揺する。
「レ、レイ! 流石にこんな所でなんて……こ、心の準備が……」
「ん? 何を言ってるんだ?」
レイは、ミオの勘違いを、然程も気に掛けずに川に足を浸ける。
流石に春先の水は冷たいので、ゆっくりと川の水に身を浸し徐々に慣らしながら川に浸かる。やがて全身が川に浸かると、水の中に潜り込んで川底を漁り始めた。
暫らくの間、潜水と息継ぎを繰り返していたが、ようやく目的の物を見つけたのか、川から上がって、鞄に入れてある手拭いを出し、体を拭いて再び服を身に着けた。
そして、鞄の横に置いていた戦利品を再び手に取ろうとする前に、ミオの不機嫌そうな表情に気付いて、戦利品を取りながら「どうしたんだ? ミオ」と尋ねるが、ミオは不機嫌な表情を隠さずに「別に~」と言ってソッポを向こうとした。
しかし、レイが手にしている物に気付くと、思わずレイに声を掛けてしまった。
「何だそれは? 一見すると冒険者カードの様に見えるが?」
「その通り。冒険者カードだよ。それも、昨晩起こった殺人事件の被害者のな」
そう言いながらレイは、鞄の中にその冒険者カードを仕舞い込む。
冒険者カードには、本人の氏名に生年月日、レベルに称号、ギルドでの階級が明記されている。そして、特に目を引くのは、最新の魔導技術を使ったフォトグラフによって、本人の顔写真も刷り込まれている事だ。もっとも、フォトグラフの装置は非常に高価なので、業務用のみしか無く、一般には普及していない。
「それじゃ、一旦帰るか」
レイはミオに声を掛けて、船着き場から土手を上がって橋の横に出ると、二人の男が立ちはだかり、いかにもな人相の男がレイ達に向かって誰何する。
「怪しい奴らめ! てめえら何者だ! ここで何をしてやがった!」
トサカの様な髪型をした、世紀末がとても良く似合う男だった。
レイが、自分より怪しげな男に、怪しい者扱いされて心外に思っていると、トサカ頭の子分らしき男が怒鳴る様に続く。
「てめえら、こんな所で何してやがったのか聞いてんだよ!」
レイは拭き足らなかったせいで、水に濡れてしまった服に視線を落として男に答える。
「水浴び?」
何故か疑問口調で答えたレイに、
「「
「舐めてなんかいないさ。本当に川に浸かっていただけなんだが………」
勿論、川底で拾った物には触れない。
「まだ水も冷てえのに、川で水浴びなんぞする奴なんぞ居るか! どうしても言わねえってぇんだったら、言いたくなるようにしてしてやるから、コッチに来な!」
トサカ頭はレイの腕を組むようにして動きを封じて連れ去ろうとする。
「おめえは、俺達のお楽しみだよ」
子分の男が下卑た顔つきでそう言って、後ろから抱き着いてミオを拘束しようとする。しかしミオは、その男をアッサリと躱すと、振り向きざまに魔力をタップリ乗せた拳を、
彼女の拳から繰り出された、内臓を
「汚い奴だ……」
ミオは顔にかかった
その様子を見たレイは、荒事が不可避になった事を悟ると、素早く行動に移る。
背後の異変に気を取られたトサカ頭の足を払い、バランスを崩させて組まれていた腕を容易く解くと、逆にその男の頭を掴んで地面に叩き付けた。
「成敗!」
レイがそう呟くと、横からミオが口を挟む。
「顔を地面に叩き付けるなんて、
「大丈夫だろ。物凄く頑丈そうだったし・・・・・・・・・。それよりミオこそ、あの一撃は無いだろう。あの男こそ、内臓破裂で死んだんじゃないか?」
「心配は要らない。この男も物凄く頑丈そうだから」
そして二人とも、ピクリとも動かなくなった男達に目を遣って同時に切り出す。
「「それじゃ、帰ろうか」」
ピタリと意見の一致を見た二人は、逃げる様にしてこの場を去り、街へ戻った。
*****
レイ達は街に戻ると、早速冒険者ギルドに立ち寄る。
衛士隊の制度が発足して以来、冒険者ギルドに依頼される討伐などの仕事は減少していた。その為に現在は、お使いや薬草集めに、小さな害獣や害虫の駆除などの仕事が多くなっている。戦闘などのスキルを要求されないそれらの依頼は、専業冒険者では無く、一般市民が副業を求めて登録している兼業冒険者が、小遣い稼ぎに受けている。そのせいなのか、ここの冒険者ギルドは、ガラの悪い者はあまり見掛けない。
ギルドの扉を開き中へ入ると、思った以上に混雑していた。
受付は五か所もあるのに、何れも塞がっており、順番待ちの列も結構長かった。
仕方が無いので、レイ達は順番待ちの列の最後尾に並び、自分達の順番を待った。
小一時間ほど経って漸く順番が回って来たので、案内された窓口に立ち、虫の詰まった瓶を鞄から取り出しすと、レイ自身の冒険者カードを添えてカウンターに置く。
「依頼の品物だ。二本多めに納品させて貰うが、報酬の方はどうなる?」
受付の女性は、レイの冒険者カードを確認した後でカウンターを離れ、向こうに掲げてある黒板に、びっしりと書き込まれた依頼と冒険者番号を確認する。やがて、レイの番号を見つけてその内容を確認し、カウンターへ戻って来た。
「そうですね、ヴェクターさんがお引き受けになった依頼の、フルーフ虫の幼虫集めは、瓶二本の依頼でしたが、それ以上の納品は瓶一本で銀貨五枚が加算されます。提出される瓶も全て規定の条件を満たしていますので、依頼の二本以外に、あと二本追加納品と言う事で、合計、銀貨二十枚になりますが、これでよろしいでしょうか?」
「ああ、結構だ」
「それでは、暫らくお待ち下さい」
そう言って受付の女性は、再びカウンターから離れ、直ぐに銀貨を乗せた皿を持って戻って来る。
「報酬の銀貨二十枚です。どうかお納め下さい」
「有難う」
受付の女性に礼を言って二十枚の銀貨を受け取ると、それを鞄の財布に収めて、代わりに鞄の中から、川で拾った冒険者カードを取り出して、受付の女性に見せる。
「これをある所で拾ったのだが、この冒険者の事は知っているかい?」
「ええ、知っていますよ。ウォル・タイラーさんですね。私共の方で、ご本人に返して置きましょうか?」
どうやら衛士隊は、まだこの男の身元を特定出来ていないらしい。
「いや、名前さえ分かればいい。俺が直接彼に返そう。それより、彼とよく組んで仕事をしている女性を知らないか?」
「どうしてそんなことを知りたいのですか?」
不審に思った受付の女性が尋ねると、レイは淀み無く出まかせを言う。
「郊外で困っていた所を、彼等に助けて貰ってね。どうしてもお礼を言いたくて探している。このカードも恐らくその時の落としたのだろう」
「そう言う事なら分かりました。恐らく同行している女性はトリッシュ・マーラさんだと思いますよ。ただ、彼らがどこを定宿にしているかまでは分かりません」
「それじゃあ、つい最近の彼等の仕事について教えてくれるかい? もしかしたら今も取り掛かっている最中かも知れないから、居所に当たりを付けられるかも知れない」
少し強引かとレイは思ったが、上手く行けば儲け物と思って尋ねる。
「申し訳ございません。『ギベール商会』からの依頼なのですが、依頼内容も護衛とあるだけで、詳しい内容は判りかねます。同じ依頼が今日も来ていますが、あなたも如何ですか?」
詳細を明示せずに依頼している仕事と言う物は、やばい仕事と相場が決まっている。専業冒険者なら受ける者も居るかもしれないが、兼業冒険者天国のこの街だと、受けようとする者も限られるだろう。それが証拠に、一日金貨一枚という破格の好待遇だが、半日過ぎたのに未だに引き受ける者が居ないらしい。
「少し考えさせてくれ。どうせ、そんなやばそうな仕事を受ける奴なんて、早々居ないだろう?」
「は…はあ……。まあ確かにそうですが……」
「まあ兎に角、気が向いたら引き受けるさ。それじゃあ、手間を取らせて悪かったな」
そう言いながらレイは、片手をあげると受付を後にした。
ギルドの外に出ると、随分と日が傾いていた。
レイは空を見上げながら、大きな溜息を一つ吐いて呟く。
「ふ~~~。 忙しいだけで随分と密度の薄い一日だなぁ」
「レイ。この後、衛士隊の詰所に行くんじゃ無かったのか?」
「そうだな、気は進まないが行くしかないだろう。なにせ衛士隊の連中、身元の特定にも手間取っているらしいからな」
正直そこまで付き合う義理は無いと思ったが、重要な遺留品を二つも抱えて素知らぬ顔を決め込む訳にも行かないので、『南街衛士隊詰所』に向かう事にした。その詰所にいるサイラスのボスが不在である事を祈りながら。
程なくレイ達は、『南街衛士隊詰所』に到着する。
この詰所は、没落した貴族から屋敷を買い上げている為、見掛けはかなり豪奢である。
玄関には立派な車寄せがあり、その手前のロータリーの真ん中に立派な噴水がしつらえてある。ただしその噴水、水が噴き出すどころか水すら張っていない。その何とも言えない、うらぶれた様子から、今の主の懐事情が滲み出ていた。
その無常を感じさせる噴水の横を通り抜けて、レイ達は玄関に辿り着く。
玄関の扉は常に開け放たれていて、自由に出入り出来る様になっている。
玄関から中を覗き込むと、だだっ広いエントランスに、カウンターを並べて仕切り、無理やり窓口の様にしていた。ただ、そのエントランスが無駄に広いので、それぞれの受付の間隔が広く空き過ぎて、優雅どころか寂寥感すら感じてしまう。
レイは、向かって左端に座っている、若い衛士の受付に声を掛ける。
「サイラスはいるかい?」
すると、その衛士は新米なのか、一瞬誰の事だかよく分からなかった様だ。しかし、直ぐに気付いたみたいで、レイに確認する。
「スタンレイ衛士長のことですか?」
「ああ、そのサイラス・スタンレイだ」
「分かりました、直ぐ確認してきます」
その新米と思しき衛士は席を離れて、奥の階段を駆け上がって行った。暫くしてその衛士が戻って来ると、レイにサイラスからの言伝を伝える。
「二階の捜査課まで来てくれとの事です」
「分かった」
「ええっと、ご案内しましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
レイ達は、今朝方ここに来ている。勿論、捜査課のある場所など知らない訳が無い。
新米の衛士は、横にある潜り戸の
「それじゃ、この潜り戸から中へお入りください」
レイは開いた潜り戸を抜けて、今朝来た捜査課の部屋を目指す。
階段を上り、二階の廊下を暫らく進むと、やがて目的の部屋へと辿り着く。
ドアをノックし、中へ入ると、サイラスが奥の机で書類を書きながら、簡単な食事を摂っていた。
それを見たレイは遠慮しながら声を掛ける。
「忙しいのに悪いな」
「気にするな。部下の報告書を手直ししているだけだよ、大した事をしている訳じゃ無いさ。そんな事より、わざわざお前さんがここに姿を現したんだ。余程の事だろ?」
レイがミオを伴って衛士隊詰所に来るのは、相当な覚悟があっての事だとサイラスは理解している。それ故に、重要な要件で来た事など察しはついている。
「あんたとこのボスはいないのか?」
「大丈夫だ、心配無い。もし居ても、自分がお前さんらを連れ出すだけだよ」
そう言いながら、口にしようとしたハムサンドを皿に戻し、改めてレイに尋ねる。
「で、どんな要件だ?」
話を振られたレイは、鞄の中から二本の投げナイフと、冒険者カードをサイラスの机に並べる。サイラスはナイフ二本で眉を顰め、冒険者カードで顔色が変わった。レイは取り敢えずその様子は無視して説明する。
「このナイフと冒険者カードは、カルム川を二キロ程遡った所に架かっている、橋の近くの川で拾った物だ。落ちていた場所は微妙に違うがな」
ここの地下で眠っている二人の遺留品と思われる物が、二キロ先の川で発見された。しかも、冒険者カードに載っている写真は、明らかに男性の被害者の物だ。
「男の名前はウォル・タイラーか」
「そして恐らくだが、女の名前はトリッシュ・マーラだろう」
サイラスが、カードに記載されている男の名前を読み上げると、レイがギルドで聞いた女の名前を告げる。すると驚いた顔をしてサイラスが尋ねる。
「女の名前まで掴んでいるのか?」
「あくまで名前だけだ。ギルドに依頼の品を納品しに行ったついでに聞いた。他に聞いた事と言えば、その二人が受けた最後の仕事が、『ギベール商会』からの依頼と言う事ぐらいだ。まあ詳しくは、あんた等の職権を持って聞き出した方が良いな。『ギベール商会』は兎も角、ギルドは準公的機関だから、それほど非協力的じゃ無いと思うぞ」
レイが口にする情報は、犯人に辿り着く様な決定的な情報では無い。しかし、捜査が暗礁に乗り上げているサイラスに取っては重要な突破口だ。
「すまない。早速、ギルドと『ギベール商会』に当たってみよう」
解決の糸口が見えてきたサイラスは、早速捜査方針を決めると、改めてレイへの謝意を口にする。
「レイ、本当に有難う。二日間で三件の案件を抱える羽目になって往生していたんだ」
「ほう。三件立て続けか。そいつは大変だったな」
「何を他人事の様に言っているんだ? その内の一件は『陸亀亭』の乱闘事件だぞ」
他人事の様に思っていたレイは、サイラスにそう指摘されて自分の額を軽く叩く。
「ああっ! そうだった……その節は迷惑を掛けたな」
「まあいいさ、そいつは手早く解決したしな。それよりも、一昨日起きた『闇夜の鮫亭』で起きた乱闘事件が解決していなくてね。三人は拘束出来たんだが、二人が行方不明なんだ。なにせその直後、二人の内の中年男の方が店の弁償とお勘定を置いて、もう一人を抱えるようにして酒場から逃げたからね。尤も、逃げた方は『正義の味方』でな、酒場にいた者の証言によれば、乱暴狼藉を働いていた三人の男を諫めて、乱闘になったとの事だ」
事件のあらましを説明したサイラスは、もう一つ思い出した事を付け加える。
「そう言えば逃げたのは、黒髪の中年男と、青み掛かった銀髪の…少……女………」
サイラスは口にしながら、心当たりに気付いて、前に立っている二人に視線を移す。
すると二人とも、視線を逸らして明後日の方を向いていた。
サイラスは確認するように二人に尋ねる。
「まさかとは思うけど、お二人さん、一昨日の晩、『闇夜の鮫亭』に行ったりしてないよな?」
そう言ってサイラスは二人を観察する。そしてミオの額から頬に掛けて、一筋の汗が流れて行くのを見逃さなかった。
「はぁぁ………。やっぱり、そうだったか………」
大きな溜息を吐いてサイラスが呟くと、レイは恐縮しながら謝る。
「黙っていて申し訳ない。あの件は確かに俺も一人に怪我を負わせたが、それもやむをえずの事だった。詳しい動機についてはミオに聞いてくれ」
レイはそう言いながら、ミオを前に差し出すが、サイラスは手の平をこちらに向けて、不要だと言うジェスチャーをする。
「それについては不要だ。今は別の理由で大々的に捜索していたからな。今ここに人が居ないのも。半数以上がそれに割かれているからなんだ」
「別の理由とは?」
「ふむ。まあお前さんらにとっては朗報かな? 実はあの三人、とある国が賞金を掛けていてな。その国の大使が、是非とも捕らえた者に直接会って、賞金と共に謝辞を送りたいとの事なんだ。確かに捕らえたのはうちの連中なので、普段ならそれに関わった者にその賞金を均等に配分するところだが、今回は事情が違う」
「何が違うんだ?」
「大使が直接謝辞を与えるのは異例中の異例なんだよ。余程今回の賞金首は思い入れがあったんだろうね。そんな所に、直接賞金首を仕留めた者じゃ無い者が謝辞を受けて、後でその事がバレたりすれば、この国の品位と信用に傷が付く事になるからね」
「成程、だから本物を探せと血眼で探していたわけだ」
「そう言う事だな。そして、欲して止まぬ尋ね人が現れたお陰で、この件もアッサリ解決という事に相成ったのさ」
しかしサイラスは、解決したという割には浮かない表情だった。
「随分と浮かない顔だな。他に心配事でもあるのか?」
「まあな、朝に一度会っているのにそれに気づかず、こうして日が傾き始めるまで全員を振り回したんだ。どんな顔して、見つかりましたって言えば良いんだか………」
「気にするなよ。二日連続で乱闘騒ぎを起こす少女が居るなんて、誰も想像出来んよ。現に、こうして二度も現れているのに、気付いたのはあんただけだぞ」
確かに言う通りである。彼女の風体などの情報は、衛士隊詰所の全員に行き渡っている筈なのに。誰一人として気付く者が居なかった。尤も、見た目は華奢で人形のように美しい少女が、酒場で荒くれ者相手に乱闘するなんて誰が想像するだろうか。
「まあ、そう言ってくれるなら幾分気分は楽になるか。――――それはそうと、謝辞と賞金は受けてくれるのか?」
「ああ、ここで断って、あんたを苦しめるのは流石に忍び無い。良いか? ミオ」
「うむ。そう言う事なら良いぞ」
「そうか! それなら助かる。じゃあ早速手続きを進めて置こう」
肩の荷が下りたサイラスは、心底ほっとした表情になって言った。
そこへ、突然入り口の扉が開く。
「サイラスはんちょ! たっだいま戻りました~」
元気よく入室して来たのは、今朝方見た女性衛士の一人だった。何か重要なネタでも掴んで来たのか、かなり上機嫌の様だ。
彼女は、周りの物には目もくれず、サイラスの所まで一直線で近づき、彼の机に手を突いて、今しがた手に入れて来た情報を得意げにサイラスに話す。
「はんちょ! 女性の被害者が~所持していた投げナイフを当たってみたんですが~、彼女に~それを売ったと言う武器屋が~分っかりました~。そこでその武器屋に~聞き込みに行ったら~、武器屋の主人が~このナイフを~彼女に売ったと証言しました~」
そう言いながら、持ち出した遺留品のナイフを、サイドポーチから取り出して机に置くと更に続けた。
「それに~このナイフは~、ワンオフ品でなので~、セットの七本以外に~同じものは無いそうで~す。そして~、これをセットで~購入したのは~………」
「トリッシュ・マーラか?」
「はい~、その通りで………え~っ! 何で知ってるんですか~?」
会心の持ちネタの筈なのに、既にサイラスが知っていた事に、その女性衛士は驚きを隠す事が出来ず、思わずサイラスを凝視した。
暫らくの間、彼女の置いたナイフを眺めていたサイラスの視線が、彼女のナイフから外れ、横に置いてあったナイフに移ると、彼女もその視線を追って驚く。遺留品のナイフは、捜査する者にそれぞれ配られて、ここには一本も残っていない筈なのに、同じものが二本もそこに置いてあるからだ。
サイラスは元から置いてあった方を一本右手に持ち、彼女が持ち帰った方を左手で持って、二本を比べる様に眺める。
「ふむ。刃の形状も殆ど変わらないし、柄の装飾も同じ様に見受けられるな。殆ど差異が見られない様だから、この二本が足りない分で間違いなさそうだ」
サイラスの呟きを聞いた女性衛士は、もう一つのナイフを指して尋ねる。
「これ、どうしたんですか~?」
「そこの二人が、郊外のカルム川で発見したそうだ」
「この人達は~?」
「セリーヌ・ドラン二等衛士! 朝から彼等と会ったのを、もう忘れたのか? ヴェクター殿とヴァレリー殿だ」
もう忘れている事にサイラスは少々呆れながら、もう一度二人を彼女に紹介した。すると、漸く思い出したのか、ミオを指差して声を上げる。
「あーっ! ヴァレリー家のお姫様~!」
「失礼だから、指を差さない」
礼節を何処かに置き忘れた彼女を、サイラスは頭を抱えて
「彼女………、大丈夫か?」
心配そうな表情でレイが尋ねると、サイラスは溜息を吐きながら彼女を弁護する。
「大丈夫だ………これでも一応優秀なんだ。確かに普段の彼女は、ネジが一本抜けているかも知れないけど、肝心な時には判断を誤らないんだよ」
意外と評価の高いセリーヌに少し驚いたが、能力の高さと欠点の大きさが正比例する見本を、身近に置く身としては、納得せざるを得なかった。
「そうだ、レイはこの後予定があるか?」
「特に予定は無い、一仕事するには、時間が遅すぎるからな。まあ例の橋までなら何とか往復出来そうだが」
唐突に予定を尋ねられたレイは、その意図汲み取って返事をする。
「なら話は早い、早速そこへ行く事にしよう。――――ドラン二等衛士。悪いが至急、馬を四頭用意してくれ、それと君も一緒に行くんだ」
「え~っ! あ~っ、はぁ~い! 馬を~四頭ですね~?」
そう言って部屋を出ようとしたセリーヌは、何か思い出した様にピタリと足を止めて振り返り、サイラスに尋ねる。
「え~っと、どちらへ~行かれるんでしたっけ~?」
馬を借りる手続きは、誰が何時からどこへ行くのかを、記録しなければならない。
「行先は行ってのお楽しみだ。帰ってから記入すれば良い。それより急いでくれ、直ぐに日が暮れてしまうからな」
「わっかりました~!」
その言葉を残して、セリーヌは厩へ急いだ。
「それじゃあ我々も急ごうか。暗くなると、手掛かりを見落とし易いからね」
そう言ってサイラスが部屋から出ると、レイとミオもそれに続いた。
*****
再び昼間来た橋まで到着した頃には、辺りの景色は朱に染まっていた。
川上の方から、ドノヴァに向かうポートリエ発の乗合馬車が橋の前を横切る。
ポートリエはドノヴァの半分程度の規模の街だが、西へは帝都、北へはミュール、ベルメールへと続き、南はゴルドバへと至る街道が交差している交通の要衝だ。
今通り過ぎた馬車は、六時頃にポートリエを出発し、途中にある村々を経由して、十七時頃にドノヴァへ到着する。この後も、一時間毎に二便あるが、何れの馬車もいつも満員だ。それと言うのも、ドノヴァは海の向こうの外国との玄関口であったからだった。
しかし、それが故に治安は他の街と比べて悪くなり、衛士隊結成の経緯ともなった。
最近では、帝国内で密造された麻薬を海外に流す拠点にされるなど、この街ならではの問題も浮上している。
サイラスは通り過ぎていく乗合馬車を眺めながら話す。
「昔はあの馬車を使って、麻薬の密輸をする奴が、後を絶たなかったんだ」
「今はどうなんだ?」
「今は居ない。なにせ乗合馬車の乗客全員を、チェックしているからな。尤も、そのお陰で保安課の連中は大変らしい。特にこの時間帯は、あの長距離便や貨物便含めて、二十便以上あるからな」
臨検に要する時間は、一台当たり二十分程度掛かる、だから一チームが一時間で出来るのは、精々三台までだ。二十台の馬車が同じ時間帯に殺到すれば、五チーム居てもパンクする。結局は後ろの時間までズレ込む為、休み無く働き続けなければならない。
それでは、その時間帯以外は、忙しく無いから良いじゃ無いかと思うだろうが、そんなに甘くは無い。何も保安課は、馬車の臨検だけをしている訳では無い。彼等の主な任務は、市民同士のトラブルの仲裁や地域の防犯対策から、
「まあ兎に角、人が足りないのさ。うちは危険が大きい割には実入りが少ないので、中々人が集まらないからなぁ。――――おっと! 話が逸れたな、じゃあ、投げナイフと冒険者カードを発見した場所に案内してくれるか?」
サイラスに促されて、早速、投げナイフを発見した河原に案内する。
河原に降りて、二人が足を切った場所をそれぞれ案内すると、サイラスは水に濡れるのも構わずにその場所に立つと、対岸、河原、土手、そして橋と順番に眺める。そして、川から上がって再び河原に戻り、投げナイフが落ちていた場所を中心に手掛かりを探す。だが、何も発見出来なかった様だ。
すると、今度は橋に目を付けて、橋を調べ始める。
レイは恐る恐る橋の向こう側に目を遣ると、誰かに助けられたのか、それとも自力で帰ったのかは不明ではあるが、昼に倒した男達の姿は見えなくなっていた。
その様子に、レイだけでは無くミオもホッと胸を撫で下ろしす。
その二人の様子を見ていたサイラスは、不審に思いつつも、橋の向こうに目を向ける。するとレイが発見したように、サイラスもまた橋の板に付着した血痕を発見する。
「レイ………。随分と意地悪をするじゃないか、こんな痕跡があるなら、最初から教えてくれよ」
サイラスがレイに向かって恨み言を言うと、レイは呆れながらそれに応える。
「何を言っている。捜査に先入観を持たせない為に配慮しただけで、別に意地悪をした訳じゃ無いぞ。それに余計な先入観は捜査の目を曇らせるだけだ」
まるでベテランの捜査官が言う様な言い草に、サイラスは驚いて尋ねる。
「レイ。お前さん、過去に衛士みたいな仕事でもしていたのか?」
「さあな。何せ俺には昔の記憶が無いんだよ。周りの人間は、色々と言ってくれるのだが、悲しいかな、思い出す事が出来ないのさ」
「そうか……それは悪い事を聞いたな」
余計な事に触れてしまった事を後悔して、サイラスはレイに謝るが、レイの方は思い出せないものは仕方ないと割り切っているので、然程気にはしていない。だが、何時までもこの事を引きずられるは困るので、別の話を彼に振った。
「気にするなよ。それより、その痕跡を見て違和感を覚えないか?」
「ああ、色々と凄惨な現場は目にしてきたつもりだが、この血の付き方は初めて見たな。――――お前さんならこれをどう見る?」
「そうだな。随分と矛盾に満ちた、不自然極まる血痕だと思うぞ。広範囲に広がっているのに、飛び散った様な付き方じゃ無い。それにその血の跡にしたって、殆ど高さの無い所から滴り落ちた様な痕跡だ」
「高さの無い所?」
「ああ、そうだ。通常の滴下痕は落下高度が高くなるにつれ、その痕跡の縁に付いたギザギザ模様が大きくなる。しかし、こいつはそのギザギザが殆ど見られ無い。こんなふうに伏せないと、そういった付き方にはならない筈だ」
レイは腕立て伏せをして、血痕跡すれすれの位置で止めて見せる。
それを見たサイラスは納得したように頷いて呟く。
「成程、確かに不自然だな」
納得して貰えた事が分かると、レイは腕立ての姿勢を止めて再び立ち上り、手をパンパンと叩いて手の汚れを落とし更に続ける。
「ここからは仮定になるけど、出血の際に急速に冷やされた血が、噴き出しながら氷の礫を作って散らばり、その後に溶けると、こんな風になるんじゃないかな。尤も、噴き出した血の多くは、川に落ちて流されたか、赤いダイヤモンドダストになって風に流されたのだろう。それならば残された血の痕跡が少ないのも説明出来る」
その仮説を感心しながら聞いたサイラスは、大きく頷きながら呟く。
「成程、〈氷槍〉なら、そういう痕跡が残るかも知れないな」
「そう言う事だな。ここが殺害現場である疑いが濃厚だと、言って良いだろう」
「だそうだ。ちゃんと聞いたか? ドラ…ン……おや? ドラン二等衛士は何処へ行った?」
「そう言えばミオもだ」
お互いの連れが居ない事に気付いて、二人が辺りを見回すと、橋の脇の草むらからセリーヌの叫び声が聞こえる。
「キャー! 何これ~! 何か汚いの踏んじゃった~!」
叫び声の内容は切迫したものと言うより、どちらかと言うと少し間抜けな内容だったが、少し身に覚えがあったレイは、サイラスと一緒に駆け付けた。
駆けつけると案の定、吐瀉物を踏んづけたセリーヌがあたふたしている。そしてミオはと言うと、別の場所でしゃがみ込んで、蟻の行列でも観察しているかのように、地面を凝視していた。
サイラスは、セリーヌが踏んだ吐瀉物をじっと見据えて呟く。
「この場所でも何か起きたのか?」
「い、いや、……それは別口だろう」
レイは少しキョドりながら、事件とは無関係だと主張する。
「何でそんなことが言…え…る………ん? レイ! さてはお前さん。これに覚えがあるんだろう!」
不審に思ったサイラスは理由を尋ねようとしたが、途中でその理由に思い当たり、レイを問い詰めた。
サイラスの剣幕に観念したレイは、事情を説明する。
「実は、その下の船着き場の近くの川底で、例の冒険者カードを拾ってここまで上がって来た時に、品の無い兄さんに絡まれてな。その時にミオがその兄さんに乱暴されそうになって、咄嗟に当て身をして窮地を脱したんだ」
レイの言い訳に、サイラスは呆れながらツッコミを入れる。
「当て身程度でこんな事になる訳ないだろ、吐瀉物に血がかなり混ざってる」
サイラスの指摘を聞いたレイは、ミオを非難する。
「ミオ! やっぱりやり過ぎてるじゃないか!」
すると、先程までしゃがんでいたミオが立ち上がって、凝視していた地面を指差して、レイに非難を返した。
「レイこそやり過ぎじゃないか! この夥しい血の跡はどう説明を付ける!」
サイラスは、ミオの傍まで駆け寄ると、彼女が指を差す地面を見た。
すると、そこの部分の地面だけ大量の鼻血でも吸い込んだのか、頭の大きさの三倍程度の赤黒いしみを作っていた。
「ほう! 致命的では無いが、随分と出血していた様だな」
木や石の硬い床とは違い地面は水分を吸いこみ易い。それ故、血の跡は出血の量の割には大きくは広がらない。
「レイはここで、トサカの様な髪型をした男の顔を、地面に叩き付けたんだ」
ミオの証言を聞いたサイラスは、レイとミオを見ながら溜息を吐いて、二人の肩に手をポンと置くと厳かに告げる。
「話は大体わかった。取り敢えずは詰所に戻って、続きをじっくりと聞かせて貰う事にしようか。――――ドラン二等衛士! そろそろ詰所に戻るぞ!」
そして帰投を宣言しながらセリーヌの方を見ると、彼女が必死になって足の裏についた吐瀉物を、河原の草むらに
「はあ~い! わっかりました~」
彼女の仕草と間の抜けた声色に脱力感を覚えたサイラスは、頭痛でもしているかのように指で額を抑えながら、少し大きめの溜息を吐いた。
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