第2話

「“あれ”なら、私も見ましたよ」


 私が進級して先輩と呼ばれるようになった頃。後輩の女子学生のKさんが、言った。

 いつものように、“あれ”の話になったときだった。


「気配を感じる」


と答える後輩や同輩たちに混じって、一人「見える」と答えたのがKさんだった。



 しかし、それから半年ほど経った頃。


 Kさんには、明らかな奇行が目立つようになった。


 Kさんの同級生、留学生のIさんは学部生の頃から男女問わず人気のある男子学生だった。Kさんは告白したが、「付き合っている彼女がいる」と振られてしまったのだそうだ。付き合っている彼女は、同じ科の日本人学生だった。

 振られても諦められないKさんはストーカー行為を繰り返すようになったと言う。


 学科の研究室、他の学生がたくさんいる前で


「頼むから、もう後を付けないでくれ!」


と、Iさんが怒鳴っても、ストーキングは止まらない。むしろ、悪化していった。



 日本文学研究科の研究室は、大学院研究棟の9階にあった。

 当然、ほぼ学生の全員が、階段ではなくエレベーターを使用する。


 ある日、Iさんはいつものように、「お先に失礼します」と挨拶をして、9階からエレベーターに乗った。


「お疲れ様でした」


 見送る中に、Kさんの姿もあった。

 帰り支度もしていない。他の学生たちと普通に話をしている。


「今日は、大丈夫か」


 Iさんは安心してエレベーターに乗った。


 1階でエレベーターホールに降り立ったIさんは、愕然とした。


 目の前に、Kさんが笑顔を浮かべて立っている。


「一緒に帰りましょう」


 息ひとつ切らさず、Kさんはそう言って微笑んだそうだ。



 研究室で、Kさんと共にIさんを見送った他の学生たちも驚いたという。

 Iさんがエレベーターに乗るまで、確かにKさんは研究室にいたのだそうだ。


 そして、エレベーターが動き出す頃になって、突然、


「私も失礼します」


と言って、Kさんは荷物を持って研究室を出て行った。


 研究室から階段までの距離もあるし、たとえ、研究室のすぐ隣に階段があったとしても、エレベーターより徒歩で階段を降りる方が速いなどとても思えない。

 教室棟のエレベーターと違って、研究棟は人の出入りも少ないため、エレベーターが混雑して途中階に何度も止まることなど滅多にあることではないし、その日もスムーズに1階まで降りたのだとIさんは言う。


 では、なぜKさんはIさんより先に徒歩で1階まで辿り着くことができたのか。


 それは、いまとなっては永遠の謎である。


 Kさんはそれからしばらくして、病気のため大学院を退学してしまったからだ。


 大学院に退学手続きにやって来たKさんは、歩くのもおぼつかない状態で、両側をご両親に支えられるようにやって来たと言う。


「目が……、どこを見ているかわからないっていうんですかね。焦点が合っていない……。半年であんなになってしまうなんて」


 最後にKさんを見た人は、そう教えてくれた。

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