断章 / 導たるは炫耀の鎖
石畳の坂道。満ち満ちたる夜明けの清澄が、
エナ・フルルティシュトンは今日もまた、傍目には
かの戦災より逃げ延びて
悲嘆に暮れ、泣き濡らした日は確かにあった。憎悪に身を震わせ、悔恨に押し潰されるような日々もあった。
優しい思い出だけを手のひらに残して、全てが血潮と
『いかなる立場においても、功には相応の礼を以て報いるべし』と、この地の領主が掲げたとおりに、幾許かの謝礼金を持たされ、エナはただ空と地平のはざまに放り出された。
小娘ひとり保護することくらい、彼らにとっては容易いはずだ。――しかし、謝礼の一言で手厚い保障など行えば、礼を目当てに自作自演を行う者が出る。人の悪意を消し去ることができない以上、相応以上の措置は取られるべきではない。全くもって道理であった。
エナは、暖かい居場所も、優しい人も、すべてを犠牲にして、少しの金を手に入れた。
起こったことはそれが全てだった。
あの時、自分にあとわずかでも力があれば――
あとわずかにでも、知識と判断力があれば――
何かが変わっていたのだろうか。こんな無価値な生命ではなく、他の誰かを生かすことができたのではないか。どちらか一人ではなく、リオと二人で生き残れるような、何か冴えたやり方が見つかったのではないだろうか。そもそも、襲撃の前兆を予め知ることは、本当にできなかったのだろうか。
自分たちはただ、できることを、しなかっただけではないのか。
寝ても覚めてもそんな考えが身を苛み、悪夢に魘されては、ほとんど何も入らなくなった胃の中身を幾度もぶち撒けた。
されど悔いたところで食事は出ず、泣いたところで雨風は凌げない。差し伸べられる手は全て欺瞞に見え、怯えた犬のように逃げて身を隠した。
自分から動かぬうちに降って湧くような幸運は信用に値しない。田舎育ちのエナとて、本能的にそれだけは察知していた。
このまま無意味に死ぬことだけはできない。
皆の生命を犠牲に唯一生かされた自分だからこそ、打てるはずの手を尽くさずに野垂れ死ぬことだけは許されない。
そんな呪いのような観念だけが、エナの身体を突き動かしていた。
手許に残された僅かな資金は、身だしなみを整えるために使った。庶民に敬遠されない程度の清潔感と、精一杯の前向きさを装って、多少の同情をも武器に仕事を探した。
何でも金髪の『とんがり耳』には裏で高値がつくらしく、たびたび危険な目にも遭ったが、十全な警戒を欠かさぬ癖がついたことが幸いして、そういった不逞の輩はすべて警備兵に引き渡されていった。
最初の一年ほどは衣服の修繕と製造に従事していたが、程なくして店主が不幸に見舞われて店仕舞いとなり、それからは教会の隅の一室を借りながら、各種製造工場の魔工機のメンテナンスをして日銭を稼いだ。これは最初の仕事で身につけた技術であった。
そのうち、大通りに建つパン屋の竈の魔法加熱機構を修理したことがきっかけで、その店を営む夫妻に気に入られ、住み込みで働くことになった。人手が必要なようには見えなかったが、きっとエナの小さな姿を見て不憫に思ったのだろう。
晴れてパン屋の看板娘となったエナは、動作効率の良い作業服ばかりではなく客のために着飾ることを覚え、彼女目当てに足繁く通う常連客もつくほどになった。
この街に来て以来、もはや忘れかけていた平穏を、不意に取り戻せたような気がした。
エナは理解している。
この平穏もまた、容易に蹂躙されうると強く実感している。
国家や社会といった、いかにも強固に見える共同体のシステムも、ただ、それなりに強い力に皆して寄りかかっているだけに過ぎない。同じくらいに、いや、それ以上に強い力をぶつけられれば簡単に瓦解してしまうし、内輪揉めで崩れ去ることもあり得るだろう。永遠に続くものなどこの世にはなく、今寄りかかっている柱も、明日には崩れるかもしれないのだ。あの日の
備えなければならない。
一人の力で何もかもを救うことなどできはしないが、いざ何かが起きた時のために、手の届く範囲を広げることは可能なはずだ。
『自分にできること』を、少しでも広げておかねばならない。
故にエナは仕事の合間、朝と夕に、欠かさぬよう魔法の訓練を積んでいた。
『とんがり耳』の一族は、魔法への適性が高い。
庶民がそれを気にすることは少ないが……男でも女でも同じ人類だけど、男の方がちょっと背が高くて力仕事に適する傾向があるとか、そういう事だろうか?
ともかく、この生まれ持った魔法適性は、エナにとって数少ない長所の一つだった。
同じ『とんがり耳』の人族であっても、日常生活における利便性以上の目的をもって魔法技能を磨く者はそう多くない。これは、筋力を鍛えれば身体をより強力に動かせることを皆わかっていながら、必要以上に筋肉を鍛え上げる者はごく一部に留まるのに似ている。
特別な才能が必要だったわけではない。ただ、エナはそうした、というだけだ。
そうやって、一年……二年……それ以上の日々、来る日も来る日も、明け方から魔法力が尽きて昏睡状態に陥る直前まで修練を繰り返し、就業中に自然回復した魔法力をまた出し尽くして夜を迎えた。
近所の住民からは「せっかく可愛いのに、そんなに鍛えてたら嫁の貰い手が居なくなっちまうよ」なんて苦笑されたものだが、今更そんな事は天秤に載せるまでもなかった。可愛さで生命が救えるのなら、考えてもいいのだが。
魔法とは万能技術ではない。未だ不可思議な現象ではあれど、純然たる物理現象である。例えば、薪に火をつけるために炎を出すような簡単な魔法だって、まずは必要に応じて精製する可燃性気体の構造を理解し、また、物質の燃焼反応には酸素が必要なことくらいは理解しなければ、ろくに扱えない。科学において原因と結果は密接に結びついている。望む『結果』を出したいのなら、論理的に正しい『原因』を作ってやらねば、絶対に望んだ現象は発生してはくれないのだ。
故に、応用においては独学の限界に突き当たることもあったが、そんな時は基礎に立ち返って、より優れた精密性や反応規模を只管に追求した。
昨日よりも上手く。昨日よりも速く。昨日よりも精確に。昨日よりも強力に。
そうして彼女の毎日は過ぎていった。
力を司る基礎因子が不安定らしく、重力を操る技術は最後まで身につかなかったものの……身の丈二つ分もある大岩をついに電磁気操作で持ち上げることができた時や、圧縮空気の刃の一撃で木材用の大木を両断できた時は、努力の結実を実感できて純粋に嬉しかったものだ。喜んで自慢してみた相手は皆どん引きしていたのは、ちょっと不服だが。
――身につけるべき力は、これで充分だろうか?
それは何かが起きてからでなければ判るまい。
だが、己の実力が足りていようといまいと、エナは誓いを立てている。己の無力さゆえにリオを見殺しにしたあの時から、変わらぬ思いで。
もはやエナは守られるばかりの非力な存在ではない。いざという時に必要なのは名も知らぬ英雄の助けなどではなく、信ずるべきは自分自身。動かすべきは両手と両足。
そのための努力を、積み重ねてきた。
だから今度こそ、守れる生命は、私が守る。
後悔しないために、成すべきことがあるのなら、できる限りの事をやってみせる。
心持ち新たに、彼女は幼い顔を引き締めて夜明けの修練に向かう。
――――誓いを果たすに足る存在が、この坂道に現れるまで、あと――
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