#7 開かれた扉 泪にやどる靈(すだま)


 ティルフルグ高原にて、兵からの報告を聞き終えたキララクラムは、馬上から、遠く小高い丘の上に陣取った『兵団』をすがめ見た。

 爆炎の魔法を二発、威嚇に放って誰何すいかの声をかけたらしいが、どうやら向こうには公用共通語が通じないらしい。相手方からも、奇妙な呪文のような声が雑音混じりに響いてきたが、その意味は誰にもわからなかったという話だ。

 だが、確かに少なくとも交戦の意思はなさそうである。彼はひとまず安堵の息をつき、妙に疲弊した様子の真輝那の肩に手を乗せた。


「どうだ、マキナ?」


 そんな真輝那の眼鏡越しの瞳にも、丘の上の一団ははっきりと見えていた。彼女は汗に濡れた頬を手のひらで拭い、事前の推測を肯定するようにゆっくりと頷く。


「……やってみます。あの号令の魔法、かけてくれます?」

「良かろう」


 キララクラムは両手の指で円を作り、小さく呪文を唱えると、そこに薄い光の膜が生じた。内側からの空気振動をこの膜が受け止めて増幅し、外側に発振するという、初歩的な風の指向性魔法のひとつだ。よく戦場での号令や、広場での演説などの際に、広範囲に声を届けるために用いられるものである。

 真輝那は緊張を抑えるように胸に両手を当てながら、ぴんと背筋を伸ばし、すうっと息を吸い込んだ。




*




 なだらかな丘の微妙な起伏に身を隠すように屈み込みながら、冴羽紫音は、警戒態勢でこちらを見返している『異世界人』の集団を眺め遣った。

 人類の存在自体は、父の手紙にも記されていた事実だ。さらに言うなら、父は彼らの文化を知り、四年間もここで生き延びている……即ち、交流があった可能性は高い。恐らく彼らもこちらを警戒しているだけで、野蛮な集団ではないのだろう。

 兵士達の服装は、地球で言うところの近世中後期における欧州南部の様式に近い――とは、調査隊として同行している歴史学者の弁である。

 しかし、文明の発達段階についてもその程度だと断じるには早計であるということは、先程、狙いを外して放たれた射出式の爆弾のようなものを見れば明らかなことだった。


 紫音は三つ編みにしていた自分の後ろ髪を指でほどき、少し跡のついた髪を手櫛でかすと、また別のところから髪を一房ひとふさ手にとって三つ編みを始めた。――沈思黙考に耽る時の、幼い頃からの癖だ。

 と、その横に、あの柔らかな瞳の米軍人が双眼鏡片手に腰を下ろした。紫音の二倍は体重がありそうな巨躯を持ちながら、接近されるまで足音も聞こえなかったのは流石と言うべきだろう。


「回り込んで偵察してきたけど、迫撃砲や擲弾筒のたぐいは無さそうだよ」

「雰囲気的には焼夷弾か榴弾に似てた気がするんですけどね……」


 三つ編みをくるくると指に巻き付け、紫音は吐息で草を揺らす。生物学者いわく、恐らくどれも地球の植物と共通の祖先を持つと見られる小さな草。


「……焼夷弾は無い、違う」


 後方から、少し陰気な痩せ型の軍人がぼそりと呟いた。彼は組んだ両手に顎を乗せ、常に気怠げな三白眼は、じっと空を流れる雲を眺めている。


「そうなんですか。なんでまた?」

「いいニオイがしない。焼夷弾を近くに撃たれた時は、燃焼剤が反応・揮発していいニオイがする」

「はあ」


 全くピンと来ない答えに、隣の巨漢をちらりと見れば、何か懐かしげに腕組みをしてしきりに頷いていた。なんだその『戦場経験者あるある』みたいな反応は。

 ともかく、現状は完全な膠着状態である。

 紫音は一つ大きな溜息と共に再び三つ編みを解き、屈めていた上体を起こして、凝ってきた腕を回した。


「さて、どう出るべきか……向こうもわざと外して対話を試みてたみたいだし、なんとか身振り手振りででも話せませんかねえ」


 そう言う彼の両肩を、がしっと上から掴む華奢な手があった。

 同行していた地質学者のベルベル人……らしい女性だ(彼女にはそう言われたが、紫音には北アフリカ~西アジア系の人種の区別はつかない)。彼女はストレート・パーマをかけた長い髪を紫音の真上から垂らして、そのまま鷹揚に問いかける。


「ではここで質問です。いきなり自国領土に現れたテロリストかもしれない謎集団が、威嚇射撃しても言葉で警告してもお構いなしに無言で装甲車に乗って近付いてきたらアナタはどうするでしょう?」

「殺す~~~~!」

「だよね~~~~!」


 二人の作った爽やかな笑顔は、視線が合うと共に真顔に戻った。


「慎重にいきますか」

「おう」


 そんなやり取りの横で、先程から空を見ていた痩せ型の軍人が、ぴくりと反応して視線を下に向ける。


「誰か来た。馬で」

「馬いるんですねここ……いや、人がいるんですから、今更ですけど」

「指揮官っぽいな。判断を躊躇い指示を待っていたのかもしれん」


 一同の注目が集まる先で、白毛の馬に跨った金髪の男は、現場の兵士と何事かやり取りをしているようだった。

 巨躯の軍人が静かに手で指示を出し、後ろで待機していた他の軍人たちが各自予め命じられていた通りに即応できる態勢を取り、うち数名は装輪装甲車の運転席に乗り込んだ。


 しばしの間があって――突如。


「ハロー! ハローッ! マイネームイズマキナアマモリー! ナイストゥーミーチューッ!」


 トンチキな発音の英語が、大音量で小高い丘にこだました。


「アイムフロムジャパーン! ウィーアー……えっと……ウィーアーノットエネミーッ! ……ダメだ思ったより英語わかんねーッ! だ、誰かそこに日本語わかる人いませんかぁーッ!?」


 丘上の一同は、無言でそれぞれ顔を見合わせ、その中でもつたない発音をなんとか聞き取ることができた者は、第一次調査隊の中でも数少ない日本人――すなわち紫音に、ゆっくりと無言の圧力を向けた。



*



 雨森真輝那――という名前には、紫音にも薄っすらと聞き覚えがあった。

 数多くの行方不明者の中でも、確実に虚数質量体振動による異常空間遭遇を果たしたと思われることと、転移を起こした時間的・空間的座標が最もはっきりしていたため、転移現象の条件を探るための検証において、最も参考にされた犠牲者のひとりだ。量子的多重構造論の論文が書かれる際にも、その事例は引き合いに出されていたはずである。

 十年前の亡霊と呼ぶには、彼女は随分生き生きとして見えた。特にこの調査隊が単なる大量の遭難者ではなく、『調査と帰還路の確保のために、自分たちの意思でここに来た』のだと知ったときの表情の変化ときたら、まるで漫画表現の教科書のようだった。

 きっと何か張り詰めていたものが、ようやくほどかれたのだろう。幼子のように恥じらわず、声をあげて泣きながら喜ぶ真輝那の姿は、たとえ言葉がわからずとも調査隊の皆の胸にひとつの実感を与えた。


 ああ――間違っていなかった。

 我々はここに来て良かったのだ、と。


 それから一向に涙の収まる様子のない真輝那に手持ちのハンカチを与えながら、紫音は周りの視線を感じつつも新しく切り出した。


「ところで、雨森さん。街のほうに、他の遭難者は?」

「うぐっ、ひ、はぅ……い、いえ。あだしの……ほかには……けほっ、みたこと、ないです」

「そう……ですか」


 ほんの僅かに目を伏せる紫音に、真輝那はハンカチで目元を拭いながら背を向け、後ろで腕組みをしながら様子を見ていたキララクラムに現地語で問いかけた。


「キララも知らないよね? 他に私と同じような人……」

「うむ。余の知る限りではマキナが唯一だ。あるいは地方の農村や、王都の側に辿り着いている可能性はあるが……と、そうだな、お前たちの言葉で伝えてくれるか?」

「あ、うん」


 ――真輝那はその時、初めて思い至った。国や民族に関わらず使用言語が一つしかないから、公用共通語には『通訳』という意味を表す一つの単語が無い……あるいはその言葉を知る機会がないのだ。

 彼女は改めて調査隊に向き直り、言われた通りのことを日本語に翻訳して伝えた。その言葉を受けた紫音が、さらに英語に翻訳して後ろに伝える。まるで伝言ゲームのような構図だが、こうして間に二人を噛ませることで、どうにか意思の疎通が可能なようである。


 彼女と接する態度を見ると、どうやら後ろの金髪の青年や、その横に控える黒鎧の男などとは、充分に友好的な間柄を築けているらしい。紫音は暫定的にそう結論した。

 想定の中では、転移者は拉致に近い形として強制労働に従事させられていたり、奴隷か見世物のように扱われていたりということも危惧していたのだが……この場合は『保護されていた』と形容するのが最も近かろう。

 周囲の兵隊の振る舞いを見るに、彼は相応に高い立場の人物のようだ。紫音はちらりと後ろの調査隊の面々を見て、とりあえず問題は無さそうだということを頷いて伝えると、再び真輝那に向き直った。


「どうやら救助の前に、状況を知る必要がありやがるわけですね……雨森さん」

「は、はいっ、雨森ですっ」


 まるで怖い先生に呼びつけられた学生のように緊張した様子の彼女は、ぴしりと気をつけの姿勢を取る。地球の者と話すのも久々すぎて距離感がわからないような、そんな表情だ。

 紫音は努めて柔和に見えるように穏やかな表情を作り、背の低い彼女に目線を合わせて、ゆっくりと口にした。


「しばらく、通訳をお願いできますか? 一刻も早く保護してあげたいのはやまやまなのですが……そちらにも様々な事情があるようですし、あなたは現状唯一『地球の言葉と異世界の言葉を両方扱える』人材のようです。ひとまずは和平の橋渡しになっていただきたい」


 真輝那はその言葉をしばらく頭のなかで噛み砕いていたようだったが、やがて事態の理解が及んだのか、おずおずと自らの頬に指先を当てた。


「……もしかして私、なんか知らないうちに重要人物になってたり?」

「まあ……そうですね、この先のコトを考えると、政治的な場には必ず同席していただくことになるかも……」

「急激にプレッシャーがエグい!!」


 頭を抱えてオーバーに衝撃を受けている彼女の様子を、その後ろの金髪の彼は何か先程よりも満足げな視線で見つめているように思えた。

 なるほど、彼は遭難者を今日まで『保護』してくれていたようだと思ったが、それだけだと言い切るには微妙に語弊があったかもしれない。この雨森真輝那という女性の性格が大まかに解ってくると同時に、謂わば必然的な事実として、紫音は漠然と把握した。



 その後、調査隊一同は装甲車に乗り込み、馬の歩調に合わせながら、彼――『世捨卿』キララクラムが領主として治めるという地方都市レゼントーグへと向かった。(位の分類については歴史上に見るそれとは異なるが、同行していた歴史学者は、便宜的に近い言葉として公爵と訳した)


 真輝那を通して幾つか話をしたところ、地球文明との交流については元々彼にも思惑があったらしく、彼女を異界の民と知って懐に置いたのも、『一度開かれた扉はいずれまた開かれる』と予想し、その時が来る前に予め文化・価値観・倫理観の差などを彼女から聞き出しておき、何より言葉の解る彼女を使うことで地球側の政府と迅速な交渉を行うためといった見込みがあったようだ。

 なお、それらの意図について真輝那本人は知らなかったようで、彼の言葉を通訳しながら「えッ嘘ぉ!?」とか「マジかぁ……」などとしきりにコメントを挟んできていた。


「ふう……こりゃオニール大佐にでもなった気分だ」

「なんですそれ?」

「俺知ってるぜ、スターゲイトだ。爺ちゃんが好きだった」


 未舗装の路面の凹凸を座席の揺れに感じながら、装甲車の後部に乗り込んだ軍人と学者はしばし取り留めのない会話に興じた。

 調査隊人員の多くは、天井の装甲板を開けて、飽きることもなく周囲の景色を眺めていた。とりわけ学者組の興奮ときたら、ひとまず安全が確認されて抑えていたものが溢れ出したせいか、街に着く前も着いてからも変わらず、あちこちの物事に興味を示していた。


「……文字読める人はそんなに多くないけど、まあこれでいいでしょ」


 街門の外に停めた装甲車の側面に、真輝那は見たことのない文字を紙に書いて貼り付けながらそう言った。“危ないから触るな! 死んでも責任とらないよ”という意味らしい。そう話した途端に言語学者が細かい文字構造や文法の説明を求めて早速そこから動かなくなり、それから街に入るまでには三十分ほど要した。

 あのベルベル人の女性地質学者は、建材や石造りの道路に用いられている石に気付けばへばりついていたし、それを呆れたように見ていた生物学者は、店先の肉や町中を歩く動物を見るたびにふらふらと近寄っていった。歴史学者は……もはや脳内に流れ込む思考と考証の情報量を言葉に出すこともできないのか、なぜかずっとクルクル回りながら笑っている。

 護衛として周りに気を配りっぱなしの、突撃銃アサルトライフルを手にした軍人――確か、英陸軍の特殊空挺部隊SASから派遣されたうち一人だ――が、そんな光景を横目に、半笑いで肩をすくめる。


「……小学生の遠足の方がいくらかマシだぜ……」

「そういうヤツなんですよ学者って」


 かくいう紫音も、先程の爆発やメガホンのような効果が『魔法』の産物であったと知った際には、我を忘れる勢いで真輝那を質問攻めにしてしまった。

 彼女越しに兵士に頼み込んで一度見せて貰いもしたが、結局その作用原理は不明であった。物理的には無から有を生み出すことはできず、物理法則自体は変化が見られないため、恐らく大気中の組成物質から可燃性の気体や液体を化学的に生合成し、着火しているものとまでは挙動から推測したのだが……。

 なお、彼がその他の学者連中と共に、まだ燃えている着弾地点にまっすぐに走っていって『あッつ! 熱い!』『本当に熱い!』『アッハッハッハ! すげェー!』とか言いながら燃焼後の生成気体を採取しようとしていたのを見ていたキララクラムと真輝那との間に、「……お前の故郷の連中は皆こんな感じか?」「これは特殊な例かなぁ……」というやり取りがあったことについては、言葉も解らぬため、知ることはなかった。


 そうして石畳の坂を昇ることしばし――

 あちこちに興味を示しながらも緩慢に道行く一行に、ひたと視線を向けるものがあった。

 無論、地球人類の出で立ちは、彼らにとって非常に目を引くものだったろう。門からここまでの間にも、あちこちから奇異の視線を感じたし――それについては色々な理由があるだろうが――、紫音は当然の反応として気にしないようにしていた。


 彼女の蒼い瞳だけは、何か様子が違った。

 それは、肩口で切り揃えられ、尻尾のような一房を後ろで結わえた金の髪に、奇妙な『とんがり耳』を持つ女性だった。年の頃は紫音より一回りほど小さく見える。

 どうやら、この坂道通りに面したパン屋で働く娘らしい。店舗の勝手口から出てきたまま、少女は、小さな革袋を両手で抱えて佇んでいた。


 二つの視線が交錯する。

 彼女は不意に荷物を取り落とすと、しばたまなこを擦り、呆然とした表情で、震える唇を開いた。白い頬に、一筋の涙のあとがきらめく。


「…………リ……オ?」


 紫音の耳は、寸分違わずにその声を聞き取った。

 石畳の上を渡り、駆け寄る跫音きょうおん。前をゆく者達が何事かと振り返るが、構わず、彼は彼女の手を取った。いや――あるいは、彼女が自然と、差し出された彼の手を取ったのか。


「兄さんを……知っているのですかっ!?」


 通じるはずのない言葉でも、紫音は、そう問わずにはいられなかった。

 とんがり耳の少女――エナ・フルルティシュトンの顎の先から、石畳に一滴、涙の雫が落ちてはじけた。

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