#13 静かなる侵略 幻燈の灯りに焔降る


 そうして突如としてアメリカ東海岸上空に出現した浮遊する巨大な艦を、人は当初『黒艦ブラック・シップ』と呼んだ。


 大方の予想や危惧に反して、それが出現して以降、最初に取られた行動は『沈黙』であった。転移と同時に解き放たれた飛竜などの獰猛なアルフェイム産原生生物が人を襲うという事件はあったが、その艦自体がいずこかを襲撃するでもなく、何らかの声明を出すでもなく、ただ緩やかに東へと飛行し、どこの領海でもない大西洋上空に漂った。


 唯一、領空侵犯と生物による人的被害を受けたアメリカ合衆国政府は、『黒艦』相手に様々な方法を用いて通信を試みた。しかし何ら成果は上げられず、強いて言うならば航空機などでそれに接近しすぎると何らかの障壁に阻まれて墜落することや、機関砲、ミサイル、爆撃などのあらゆる攻撃は同様に未知の手段で防がれることが判明した。

 憶測が憶測を呼び、民が扇情的に騒ぎ立てる中、国連は事実確認に奔走した。

 やがて、遭難者捜索中に現地の紛争に巻き込まれていた調査隊員の証言によって、その巨大な艦を実質的に率いているのは二十五年前に死亡したと思われていた遭難者、理学博士ヨゼフ・グライフェルトであると仮定されたが、目的はその時点では不明とされた。

 世界間交流に対する危惧の声や、無責任に異世界人全体を批判する声も当初は俄に立ったが、主導者が地球人であることが公表されると、彼の率いる集団に対する恐れこそあれ、そういった人々の活動は僅かに収まった。それでもこれ以上の危険を招きかねない実験への反対運動は各地で頻発した。『実験が行われなければ、この事件はもっと悪い形で同じように起きていた』との言葉は、そういう者は聞き入れないものである。


 彼ら――『円環アリストゥム』からの最初の声明文がネットワーク上に発表されたのは、その艦が最初に確認されてから三週間が経過する頃だった。

 声明には英文で、まず転移時に巻き込まれて被害を受けた人々とその遺族に対する深い謝罪と哀悼を。

 そして、ただ人が人らしく生き、暮らし、栄えるために、望むならば、我々の『円環』の中に加わって学び、研究することができるという事と、また自由に外れることもできるのだという旨を、二つに分けて簡潔に述べていた。特にとは、あらゆる人種、国籍、性別、傷病、身分、嗜好、宗教――そして世界の違いに囚われないことと、故にここに名を連ねる者は他者への差別と暴力の行使を禁じるという制約は、本文中で強調されて伝えられた。

 反応は様々だった。勧誘の声をテロ組織やカルト教団に喩えて揶揄するものもあったが、事実、『円環』は特定の宗教思想を持たず、どこに攻撃を仕掛けるでもない。故に遠巻きの慎重な批評と困惑、そして特に明確な予想のない漠然とした不安が大多数を占めた。されど、なまじ平和や進歩、繁栄を説かれたが故に、不明瞭な危険性を煽るマスコミとは対照的に、ネット上を中心として、公に批判しづらい空気が少しずつ形成されていた。


 ――地球上には、実に七十億を超える、生きた人間がいる。

 その中には、顧みられることのなかった人物は、一人もいなかっただろうか。

 充分な能力を持ちながらも、国籍や思想、性別などを理由に不当な扱いを受け、嘲弄に晒されながらロクな労働環境も用意されずに疎外され、嘆く人々はいなかっただろうか。

 不理解な国や企業に提示される予算の少なさに苦心しながら、人材も設備も足りずに緩慢な成果しか出せずにいれば役立たずと嘲笑われる、そんな風潮に辟易している者達はいなかっただろうか。

 国家そのものの貧しさに、制度上の問題に、人種や紛争の壁に阻まれ、学習環境すら手の届かないところに置かれて夢を諦めざるを得ない若者はいなかっただろうか。

 あるいは、今の自分の置かれた環境や、過去の汚点に囚われて悔い、未来には絶望して、ほんの僅かでも未来のありそうな言葉に思わず縋ってしまうようなどうしようもない人々はいなかっただろうか。

 

 

 老若男女を問わず、国々の手が届かずに零れ落ちた人は、いつの世も存在している。

 だから、そういった顧みられぬ者どもの中から、ほんの一しずくでも、その突然差し出された銀の杯に流れ落ちてしまわないと誰が言えただろうか。

 誰かが最初に『辿り着いた』。姿を消した者の周りで、そう噂が立った。

 先駆者は後続を呼び、未知の怖れに躊躇っていた好奇心を、次々に揺り動かした。

 やがて食うには困らぬはずの貴重な技術者の流出までもが問題視されかける頃、国家や社会がどのように呼びかけても、そもそも国家や社会から弾き出されたが故に異なる帰属を求めた者達にとっては無意味だった。


 それは、拉致ではなかった。自発的な渡航と帰属であり、環境が合わなければ自由に帰ることができた。事実、一時的に彼らの提供する環境で研究を続け、成果を手土産に帰ってくるものもあった。

 確かに『黒艦』の環境では、研究ジャンルの向き不向きがある。当初は無かった設備の導入も進みつつあるとはいえ、あまりに専門的な研究設備を完璧に揃えるのは難しい。だからそういう時、彼らはただの『出資者』になった。それを受ける資格があるのは、『円環』の研究者だけだ。

 多くの研究者にとって、資金源に興味はなかった。一説には中国や南米あたりにアルフェイム産の金属資源を輸出して外資を得ているとか、逆に地球側に豊富な廃品等の金属部品を買っているとか言われていたが、飽くまで噂であり、だからどうという話ではなかった。

 故に、諸国政府はあれこれと手出しをすることができずにいた。

 危険思想を持たず、特定の派閥に属さず、ただ技術の発展と経済の循環に貢献する、海上を舞う無国籍の研究者集団。そのようなものを攻撃する理由がどこにあろうか。提示される意見は数多あったが、傍観を覆すに足るものはなかった。

 『円環』は、そうして地球にも根を張ったのである。

 その数ヶ月後にはすでに、異世界そのものを危険因子として扱う者や、アルフェイム人排斥の運動をするような輩は、差別主義者として民意に糾弾される立場となっていた。


 そして地球時間で二年の時が過ぎた。


 彼らのゴーレム技術が応用され、障害や加齢などによって日々の生活に不自由する者達のために、安価な小型強化外骨格が開発・販売されたことは記憶に新しい。製造は権利を渡された数種の企業に依存したが、独占によって利益を吊り上げることを『円環』は直々に禁じた。

 だが、まさにその数ヶ月後――――識者の懸念は、現実の悪夢となった。


 中東のとある紛争地帯で、反政府組織が小型の搭乗式メタルゴーレムを所有していたという報告が上がった。

 アメリカ南部の麻薬カルテル構成員が、同じものを三機も乗り回していたという証言がなされた。

 それを鎮めようとする政府軍や警察組織もまた、対抗できるようにと強力な兵器を買い付けた。

 主要国家群の軍事・経済支援によって暫しの間抑えつけられていた民族紛争が、宗教戦争が、各地で再び火勢を上げはじめた。

 ――こういった事態を防ぐために当初国連によって敷かれた異世界との交流制限が、皮肉にも、その外側に追いやられていた者達の鬱憤を爆発させる結果となったのである。


 戦争ジャーナルの掲示したその写真は大々的に報道されたが、二年間のうちにばら撒いた布石によってか、民衆の声は批判と擁護とで紛糾した。銃や戦闘機、戦車開発の是非を問う際に常々繰り返されてきた問答だ。

 鹵獲されたメタルゴーレムは貴重な戦力として使われ、また、類型の兵器を同じくらい安価に量産できないものかと、各地の軍需産業会社で盛んに研究された。何せ、国が滅ぶか否かの瀬戸際なのだ。惜しみなく研究予算を出すものは多かった。戦の火で焚かれる竈のように、技術は進歩した。

 自分達の研究成果が人殺しに使われたことにショックを受けて離反する研究者もいたが、そうでないものもいた。今となっては、残るものだけでも充分だった。


 『円環』は――――自らは戦わずして、再び、繁栄を操りはじめたのだ。



*



 幾多の研究資料が粗雑に散乱する部屋。一宮博士は白衣のポケットに両手を突っ込み、深く懐かしむように窓の外へと目を向けた。


「……グライフェルト教授か。案の定生きてやがった」


 一人ソファに腰掛けた紫音は、ただ黙して三つ編みを揺らしながらその言葉を聞いている。昔よくここに来ては気になって洗っていたマグカップが、机の上でまたコーヒーの跡だらけになっていた。


「奴は……天才だった。間違いなく……だが理知的すぎた。数字に囚われて倫理観が欠けてやがんだよ」


 振り向いて、博士は落ち着きのない子供のように、背を壁に預けてパタパタと足を鳴らした。掃除の行き届いていない、部屋の隅の埃が僅かに舞う。


「理数系なら覚えあんじゃねーの? 病人百人生かすために健康な五十人殺せっつわれたら『殺すか~』って即断で殺せやがるタイプ」

「ああ……トロッコ問題とかか。俺もそうかもしれない、五人生かすために一人突き落とせと言われたら……罪悪感はあるけどさ」

「だろ? 俺も俺も。だがアイツのヤベェところは、その状況を強いられんでも罪悪感皆無で自発的にやりにいっちまうとこなんだよなァ……」


 ちいさな部屋に沈黙が降りる。染み付いたコーヒーの匂いだけが、ただ充満していた。


 あれから、アルフェイム時間で一年。王を失ったアーデルクラム王国は、ひとまず王城復旧までの間は即位式は行わず、三人の公子達が連名で主導する暫定政府を発足させて混乱する王都を治めた。

 紫音は消費した弾薬量と共に事態を事細かに報告し、いくつかの事実は伏せられたまま、しばし魔人化現象などに関する検証に奔走した。エナや真輝那達の証言もあって、武力行使は全て『自衛』の範疇に入るものとされたが、しばらくは報復等の危険があるとの名目で調査拠点からの外出を禁じられていた。

 その間はキララクラム達はもちろん、真輝那もエナも自分なりの方法で王都の復旧作業に尽力していた。街も少しは灼かれたが、被害の大多数が王城にのみ集中していたのは不幸中の幸いと言えるだろう。

 争いは起きなかった。もとより友好的なエメリスも、常々緊張していたベネギアも、王も城もないこの絶好の機会に領土を簒奪しようとはしなかった。風の語るには、エメリス・ベネギア間にも目立った戦闘は起きなくなったという。まるで操り糸が突如外されてしまったかのように。


 『円環』の潜在的な危険性については幾度となく説明したつもりだ。しかし向こうから直接手を出されていない以上、全面的にそれを聞き入れてはくれなかった。地球側でも同様に危険視する声は上がっているようだが、では、誰がそれを攻撃する予算を出し、誰が生命を捨ててまで直接実行するのだ、という話だ。どこの国にもメリットが無かったし、そもそもあの超技術の塊が、どれだけの攻撃をかければ墜ちてくれるかも不明だった。


 そして、これまでのような仮設駅ステイションではなく、帰還用の転送装置がティルフルグ高原に正式に敷設され、転移制限が一部解除される頃――


 地球の戦火は、静かに、されど既に取り返しがつかないほどに広がっていた。


 未だ許可と手続きが必要とはいえ、地球・アルフェイム間の自由な行き来が可能になった紫音は、わずかな休暇を取って、他の誰よりも先に彼のもとに来ていた。

 父の死を、その最期の姿を改めて自分の口から告げ――そして何より、彼らの恩師グライフェルト教授に会ったということと、その邂逅の時に感じた確実な危険性について、詳しい話を聞きに来たのだ。心のうちの迷いを晴らすために。


「俺……どうしたらいいのかな」

「好きに生きやがんじゃなかったのかよ?」


 三つ編みを解いてはまた結びながらぼそりと問う紫音に、一宮はその体勢のまま、微笑を作って言う。

 彼の言わんとしていることは解る。それでも紫音は真剣な面持ちで顔を上げた。


「うん、だから訊いてるんだ。答えを出すために……一宮博士だったら、どうする?」


 途端、彼は思わず吹き出して身を屈め、きょとんとする紫音の視線の先で、押し殺したような下手くそな笑い声を上げた。

 子供っぽさを笑われたのかと、紫音が頭を掻きながら憮然と口をとがらせたところ、彼は手のひらをあげて言葉を制し、答える。


「……いや済まねぇ、嘲笑の意図はねーんだ。冴羽のヤローと全く同じヤツに対して全く同じ事言いやがるもんだから笑っちまったよ」

「父さんと?」


 一宮は猫背気味な姿勢を正そうともせずに悠然と室内を歩き、コーヒーメーカーに残っていた黒い液体を洗っていないマグカップの上にそのまま注いで一口すすった。

 ああ、また跡が一つ増える、とそれをぼんやりと眺める紫音の向かい側で、床に直接腰を下ろして、彼はカップの黒い水面に思いを馳せるように、語る。


「その二十五年前、あのクソメガネが無茶な実験しようとしてた時だよ。一応師匠みてーなもんだしよォ、止めるべきか手伝うべきか……『一宮さん、貴方ならどうします?』って真剣な顔でさ」

「その時は……どう答えたの?」

「今お前に言う言葉と同じさ」


 ぴし、と、彼は使い古して草臥れた服の袖からはみ出した指先を、まっすぐに紫音に向けた。


「『俺も聞こうと思ってた』。俺に何して欲しいかってな……ッたく、何も成長してねェよ。もうジジイの癖して情けねえ……なあ紫音、俺ァどうしたらいい?」


 言われて紫音は目を丸くする。はじめて、彼が紫音に弱音を吐いた気がした。


 紫音も、少しずつ年齢を重ね、周りのものたちを見ていると、次第に解ってきた。

 大人になるとは、思っていたより素晴らしい事じゃない。子供時分と同様に年輪を増やす日々も、幼き頃のような『成長』ではなく、ただ『老いる』ばかりの日々になっていく。本来の精神性は若く未熟な情熱を持ったままなのに、気付けば身体が活力を失い、諦観のうちに灯が消えていく――紫音はそうなってしまった者を幾人も見てきた。いい歳をして新しい事に精力的に挑戦しては失敗する者を子供だと嘲笑い、しかし内心では、できるなら自分もそうありたかったと思っているような、無力ゆえの屈折を円熟と言い換えただけの人々をたくさん見てきた。

 疲れ果てながらも醜くもがくのか。

 疲れ果てたが故に、もがく者の醜さを嘲笑する側に回るのか。

 では彼は。老いたりとは言え、こんな若輩者を前に、醜く弱音を吐いてみせた彼は。――無論、前者だと信じられる。

 紫音は三つ編みにした髪を肩のうしろに回し、迷いの晴れた目で彼を見た。

 いや、ためらいこそあれ、迷いなど元々なかったのかもしれない。人類の歴史にとって『円環』がどう働くか以前に、紫音はそれを。それだけで充分だった。


「博士。手伝って欲しいことがある。……その人生を賭けていいのなら」


 一宮博士は、白髪交じりの無造作な髪をかき上げ、熱を秘めた眼で、紫音を鋭く見返した。


「ハッ、言ってみやがれ。

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