#4 勇者 眼灼く燈(ひ)のたばしりよ

 魔国ベネギアの中心とも言える幻魔宮殿の、天に仇成すが如く高々とそびえる針山めいた尖塔。

 古の昔には数々の魔人が生命を奪い合ったという血塗られた最上層、儀式の間に、その人はあった。


「よくぞ」


 風啼きの音と共に、振るわれるは邪の波紋。純黒のつるぎに斬り裂かれたくうは、不気味にうねり、歪んで軋む。


「よくぞ人界の身にてここまで戦った――肝胆気は進まぬが、如何いかにも、認めざるべけんやと言ったところか。天の涓滴しずく、地上の星。我が愛しき宿敵よ」


 『魔王』ギオルジェダインは、異形の甲冑と天高く伸びた角から立ち昇る漆黒の蒸気を、小さな竜巻の魔法で振り払った。鎧にも肌にも傷一つなく、魔人の首魁は威厳たっぷりに佇んでいる。

 相対するは――『勇者』と呼ばれたはずの男。エメリスの希望、シス・ジェティマ。折れた剣。剥がれた鎧。貫かれた片膝は、ドス黒い血石けっせきの地面に跪いたまま動かない。

 未だに幼さの残った顔立ちに湛えられたのは、歴戦のつわものをも畏怖せしめんばかりの殺気である。交錯する視線は、いかなる言葉よりも雄弁にこの戦の結末を語っていた。


「……貴様こそ……これほどとはな、魔王。どうせなら……下らん策抜きで戦いたかったものだ……!」

「卑怯と責めるか?」

「無論だ。だが正しいな。戦で知略策謀を巡らすのは当然の選択だ」


 血まみれの『勇者』は皮肉を込めて笑う。二人を取り囲む魔人たちの幾人かが、ほう、と感嘆の吐息を漏らした。その群れの奥には、壁に背を預けて冷淡な視線を投げかける彼もいた。

 ――ザック。剣士ザック・フレード!

 よもや――誰よりも祖国エメリスを想っていた彼が、この旅のはじめから共に戦ってきたはずの彼が、魔王と内通していたとは夢想だにしなかった。あるいは、彼もまたエメリスを想うがゆえに苦渋の決断に出たのかもしれない。

 友という思い込みが目を曇らせていた。王都潜入からこの幻魔宮殿に至るまで、いやに簡単に突破できた時点で罠の疑いをかけるべきだった。あらばシスは思考のいとますらなく、この儀式の間へと誘い込まれることも無かったであろうものを。


 魔王の全身を覆った守護結界を打破するには、専用に波長を合わせた闇の魔力を用いるか、結界強度を超える破壊力で一度貫く以外にない。

 しかし、この儀式の間に仕組まれた大規模な封魔術式によって、シスの力はその大部分が封じ込められている。

 勝機は無かった。それが解っていたからこそ、魔王はこうして自ら姿を表したのだろう。


 しかし魔王ギオルジェダインは、宿敵を前にして粛然と武器を納め、儀式の間の中央に立って両腕を広げてみせた。


「哀れなる秩序の仔よ、強き者よ、余はお前に憐憫と敬意を表す。故に……敢えて今、問う。シスよ。余の配下とならぬか?」


 取り巻いた魔人たちから、ざわめきが巻き起こる。正気を疑う当惑と、度量を讃える嘆声と。


「戯言を……嘲弄に晒す気かッ」

「貴様も理解しておる筈だ。貴様を売った者は『本当は』誰なのか。斃されるべきは人に非ず、魔に非ず、互いの世に絶えず蔓延る『悪』そのものではないのか」


 鋭く細められた魔王の瞳が、跪いた勇者を射抜く。

 しかし、もはや何の武器も防具も持たぬただの少年は、反抗の意思を全身に横溢おういつさせて口の端を歪めた。


「舐めるな……!」


 震動。神速の踏み込みに、尖塔の天地が揺れた。

 白く濁った空気の波と共に振り抜かれた拳の一撃を、魔王の掌が受け止める。ギオルジェダインは密かに微笑した。嘲りに、ではない。もはや完全に無力に見えた、ほとんど生身の子供が、まだこれほどまでの一撃を繰り出せるということに心底驚嘆したのだ。


「貴様は己の国を見たことがないのかッ! 戦に潤う内地の一方で、飢え、渇き、死んでいく魔人の幼子を見たことがないのかッ! 魔人殺しと知りながら水を求めて俺にすら縋ったあの少女の名を! 背に爆弾を縫い付けられ泣き叫びながら駆けてきたあの妖魔の子の名をッ……貴様はぁッ!」


 男は咆える。もう片腕の一撃を、魔王が防ごうと動いた――瞬間、血飛沫を散らして飛んだフェイントの蹴撃が、彼の倍近くもあろうかという魔王の体躯を勢い良く跳ね飛ばした。魔人たちから喫驚の声が上がる。


「俺は秩序の代行者にして秩序に非ず、正義執行装置にして正義に非ず――ほろぶべきが悪だと言うなら、その筆頭は――貴様と俺だッ! ギオルジェダインッ!」


 間に割って入ろうとした幾人かの魔人を手で制しながら、魔王は、鷹揚と笑った。


「フ……やはり相容れぬか。残念だ」


 一度は納められた暗黒の剣が、再び鞘から抜かれる。魔国ベネギアにおいて、歴代の魔王に継がれてきたと言われる象徴の魔剣だ。

 堂々たる威厳に満ちた王の瞳が、ほんの一瞬、憂いを帯びて宿敵を見た。


「そうだな……余も貴様とは一度、策抜きで戦いたかった」


 擾乱じょうらんは引き潮の如し。漆黒の刃は空を裂いて、その切っ先をぴたりと勇者シスの首筋に向ける。


「然らばだ――」


 衝撃。

 静寂。

 飛び散った液体の滴る音。

 貫かれた呼吸器官の隙間から空気が漏れる、甲高い笛に似た音。


「魔の王とは言え――」


 そして――玲瓏れいろうと響く、少女の声。


「――脊椎動物には違いない。脊髄神経を損傷されては、殺さずとも動けまいな?」


 魔王ギオルジェダインの胸郭から、真紅の血にまみれた細い腕が生えていた。

 漆黒の剣を振り上げてたわめたその手を包むように、身体に沿って、深雪みゆきのように白い手が添えられていた。


 彼の背後から、一切の気配なく突如として現れた黒いドレスの少女が、守護の結界に護られていたはずの魔王の胸を貫き、魔剣を奪い取っていた。

 白銀の髪。黄金の瞳。小さくも天をく美しい尖角つの。――魔人である。


「なっ……!?」

「何だ、何が……ッ!」


 ざわめきが海嘯のように魔人たちの間を伝った。勇者シスも、剣士ザックもまた、呆然とその光景を見ていた。

 ――勇者の目にだけは、間近に見えていた。守護の結界を破る方法の、二つのうち一つ。力で破壊するのではなく――同質の魔力を纏い、その波長を同調させてすり抜けたのだ。

 しかし、ここまで徹底した『認識阻害』の魔法強度を保ちながら、魔王を相手にそれをやってのけるとは。シスの瞳には動揺ではなく、警戒の色だけが滲む。


「……古の儀式に曰く。魔王を継ぐ者は、その魔剣を奪い先代の血と生命を吸わせたと云う……」


 残像の尾を引いて虚空に振るわれる、純黒の閃光。禍々しい風啼きの歌。

 少女が腕を引き抜いてなお、魔王ギオルジェダインは血を吐き、ふらつきながらも立っていた。甲冑に動作補助の効果でもあったのだろうか、それとも並ならぬ精神力の成し得たものか……それは定かでないが、少女は意に介さずドレスの裾を翻し、奪った魔剣を両手で構えて彼の正面に回った。


「なれば、儀式は成った。安らけく眠るがいい、ギオルジェダイン」


 一閃、袈裟斬りに振り下ろす。

 肩口からその身を両断された魔王は、断末魔の咆哮をあげ血石の床に頽れた。少女はそれを見て、まるで初めて親に褒められた子供のように、嬉しそうに笑う。


「フフッ……ハハハ! やったぞ! 私は今『魔王を上回った』!」

「き、貴様ぁっ!?」


 狼狽を露わに、魔人の一人が剣を抜く。


「「よせッ!」」


 シスとザックは全く同時に、半ば反射的に声をあげた。

 驚いて止まったその男は幸運だったと言えるだろう。何も言わずに背後から斬りつけようとしていた別の男は止まらず、結果、一瞬のうちに振り抜かれた魔剣の、第二の犠牲者と成り果てた。

 ――強い。不意など打たずとも。

 その時になって、騒乱は爆発的に勢いを増し、儀式の間を揺るがした。


「ぎ……逆賊ッ! 逆賊だッ!」

「兵を呼べッ、非戦闘員の貴族は逃げろ! 魔王様がられたッ!」

「呪法が解けるぞ、逃げろォッ!」


 ――ああ、そうか。

 シスは逃げ惑う魔人の言葉で、今更ながらそのことに気付いた。シスの力を封じていたのは――『術者以外の能力を制限する結界呪法』。呪法を維持していた術者である魔王の生命が絶えた今、その効力は失われる。

 その事実に思い至るが早いか否か――剣士ザックの大剣の一閃が、さっきまでシスの立っていた床を打ち砕いた。


「くッ……!」


 瞬発力が戻っている。推測は確信へと変わった。

 瞬間的に跳ね転がり、シスは、今さきほど少女に斬り裂かれた魔人が取り落としていた剣を拾い、迷いなくかつての友へと向けた。


「我が名は秩序の代行者、揺るぎなき正義の執行装置――記憶に刻め。この名は一欠片の躊躇なく、貴様を粛清するッ!」

「シス……解ってくれ。今のお前は……その人類の秩序にとって最も危険な存在なんだッ!」


 打ち合う剣戟。飛び交う炎と雷。その中心から数歩離れて、少女は楽しそうに微笑み、呑気に首を傾げてその闘争を眺めていた。


「ふふ、これはこれは……思っていたよりもえらいことになったな。ごちゃごちゃだ」


 そんな混乱の中に、報せを聞いて駆けつけたと思しき魔人の兵が新たに踏み入った。


「反逆者めッ! 貴様一体……うわなんかもう戦ってる!? 何が起きてるんだよ誰だよあれ!!」

「ゆ……勇者がまだ生きているのか!? いかん、戦力を逐次投入していては到底手に負えんぞ!」


 結果、状況は更に混乱を極めた。

 退こうとするものと進もうとするものがぶつかり合って転がった。逃げ惑うものと勇敢なものが何故かそちらで争いを始めた。魔人の少女に果敢に打ちかかっては、あたら生命を散らすものがあった。勇者と剣士の凄絶な戦の最中さなかに飛び込んで、両側から粉砕されるものがあった。

 しかし、勇者と称されるほどの兵と言えど、その体力は無尽ではない。それは少女も同じことだ。対して魔人兵は後から後から湧いてくる。未だその時に至らずとも、これらの状況の変化は、結果を推測させるには充分なものだった。


「ふむ」


 魔人の娘は魔剣を鞘――さっきギオルジェダインのベルトから毟り取った――に納めると、握りしめた右拳に渾身の魔力を込め、腰を落として真っ直ぐに壁を打った。

 地響きとともに尖塔の壁が崩落し、暁闇あかときやみの空が露わとなる。あまりの衝撃に交戦していた二人も振り返り、一瞬、その剣戟を止めた。

 少女は、今の正拳のついでに掴み取った瓦礫のかけらを、剣士ザックに向けて指で弾いた。魔法による加速を帯びたその瓦礫片を、彼は正確な剣閃で両断し、弾く。


「……今は退け。二人を相手にはできまい?」


 剣士ザックはその進言に些か驚いたようだが、何も言うことなく、歯噛みしながらも後方へと跳躍して通路の闇へと消えていった。代わりにその向こうからは、また新たな兵士たちが到着した様子だ。

 少女は、訝しげに見つめる勇者を横目に、その兵士達に圧縮した気圧の弾を投げつけて破裂させた。時間稼ぎ程度にしかならないだろうが、殺さぬ程度の足止めには今ので充分だろう。

 岩礁の潮流のごとく吹き荒れる熱風――圧縮された気体は分子運動量が上昇し高温となる。故に気圧弾の反動風は熟練者であればあるほど熱い――に髪を靡かせながら、少女は壁に空いた穴のふちに手をかける。


「シス、と言ったか」

「……ああ」

「五秒待つ。逃げるぞ」

「何っ……!?」


 少年はあからさまな狼狽と躊躇を顔に出す。

 だが、一秒が経過しても彼女がそれ以上何も言いそうにないと解れば、決断は刹那。剣を逆手に持ち直して、その隣に駆け寄った。


「私の前に立て。暴れるでないぞ」

「解っ……うわっ」


 少女は純黒のドレスのしわを両手でぴんと直し、勇者の身体を自分の正面に抱きかかえると、尖塔にぽっかり空いた大穴のへりを蹴った。

 垂直降下も束の間、少女が小さく呪文を唱えると、逆巻く風が二人を包み――瞬間、少女のドレスの背部から、黒い翼膜が展開した。翼は羽ばたかずとも風を孕み、冷たい黎明の空を切って二人を運んでいった。


「そ、空を……」

「飛べはせん。飛行魔法は難しすぎるでな。有翼甲冑と同じ仕組みで滑空しておるだけだ」


 翼膜を広げた少女はそのまま中央尖塔の周りを旋回し、黒い針葉樹の森に身体を向けて再び魔法の風を纏った。確かに、どうやら高度が今以上に上がることはなく、穏やかに加速しながらも、ゆっくりと降下しているようだ。

 シスは背中に夥しい返り血の感触と、少女の体温をじっとりと感じながら、眼下を流れる魔国の王都を見た。


「……何故俺を助けた? 俺はエメリスの勇者だ。あんたを殺すかもしれないのに」

「ふふ……さて、恩人を殺すような奴には見えなんだが。まあ、殺すなら地面に着くまでは待て、仲良く墜死の憂き目を見たくなくばな」

「そうか、責任は持てないので判断は任せる。……じゃああんたを殺すまでの間、何と呼べばいいんだ?」


 狙撃の目を逃れるためか、魔人の少女は再び尖塔を回り込むように旋回しながら答えた。


「ふむ……言われてみれば、こちらから名乗っていなかったな。

 ギオルフィナイト・グ=ベオル・ヴィヴィ・グウェン。『先王』ギオルジェダイン・グ=エデル・フェド・グウェンの第十二の子よ」

「ギオルフィナイト……魔王の娘というわけか。俺が旅に出た時、生きている魔王の子は後八人と聞いていたが」

「どういうわけか隠されていたからな。普段呼ぶ時は……そうだな、フィーネと呼べ。幼名だが響きがよく気に入っておる、かわいかろ」


 耳元で微笑む彼女にシスは言葉を返さず、曖昧に頷いた。

 ……魔王の娘。『どういうわけか』というか、こういう事をするからではなかろうか。世間体のために死んだことにされて隠されてしまうタイプのものというか……。そもそも、他の八人の子供たちをシス達が全滅させたことは知っているのだろうか。言わない方がいいのだろうか。あの時代錯誤の儀式はどういう心算だったのか、とかも、色々と問わねばなるまい。

 様々な考えを頭の中でぐるぐると回らせていると、また少しずつ旋回しながら、不意にフィーネが問いかけた。


「それよりシスよ、どちらへゆけばいい?」

「な……何?」

「どこまで行くか何も決めとらん。地理は疎い。貴様の方が旅慣れておろう、そのエメリスとやらはどちらの方角だ?」


 そうか、ゆっくりと塔から離れながら旋回していたのは探しづらくするためではなく、どっちに行けばいいかわからなくて周りを見ていたのか……。

 シスは顔を上げ、これまで歩んできた岐路を、そして朝焼けに白む空の方角を確かめた。そして口を開きかけ――


「……いや」


 上げかけていた指を戻して、見知らぬ地平を指差した。


「あっちだ。東に向かう」

「ほう」

「エメリスは危険だ。恐らく国の中枢に、ザックを使って俺を嵌めた奴がいる……まずは東の隣国、アーデルクラム王国に亡命する」

「了解した、我が愛しき宿敵よ」


 地平の果てより昇る黎明の光が、勇者と魔王女の去りゆく先を照らしていた――。


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