#3 目指す者 点しゆく影(ひかり)の路
「――放射波形、一致しています。エデリオン、ルシオン両粒子の生成に再現性あり。成功と言っていいでしょう」
「虚数質量振動が量子場に干渉して云々っつー仮説、間違ってなさそうですね……一宮さん」
測定結果を示す三次元グラフを肩越しに見つめながら、くたびれた中年の博士は、様々な感情を
「やっといて何だがよォ……ここ数年の技術の進歩っつうやつは、なんだ、怖ェなー……」
「研究すんなら予算が出まくってる今のうちですなあ」
「こんだけ行方不明者でも出ねえと金出してくれやがらねーんだよなァ」
白髪交じりの髪をがりがりと掻きながら、一宮博士はよれた白衣のポケットに片手を突っ込んで部屋の中を無意味にうろつきまわった。
若い研究員が、椅子を軋ませながら、その後ろ姿へとにこやかに声をかける。
「ま、この調子だと……来年か再来年くらいには、ミクロスケールでの亜空間バブル生成実験くらいには入れそうな気がしますよ」
「マジでSFの世界だなァ、オイ」
軽い目眩すら感じながら、一宮は小さく肩をすくめた。
『意識体』――というものが物質的に存在し得るという仮説が出たのが、数年前。
どうやらそれが、かの相対性理論で予言された虚数質量物質と関わりがあり、さらにブレーン宇宙論を裏付ける幾つかの実験結果から、重力場を始めとしたある種の力場が膜宇宙の範囲を抜けて作用しており、その虚数質量体と相互に干渉し得るということが示されて、更に
そして、ここ最近で上昇傾向にあった『異常空間遭遇』と思しき行方不明事例に関して、被害者の強い感情の動き――恐らく死の危険に瀕するほどの強い恐怖か、逃避願望か――が、意識体の強い振動となって現象を誘発しているらしきことが類推できた。
特に――雨森真輝那とか言ったか。数ヶ月前の彼女の失踪事件は、目撃証言が多く、転移地点を示す状況証拠もはっきりしていたため、本人には気の毒だがものすごく役に立った。彼女があんなに分かりやすく被害に遭ってなければ、この研究はあと半年は遅れていたことだろう。
あと僅か――とは未だ到底言えないが、着実に、現象は解明に向けて進んでいる。
*
「フォックス!」
よく干された心地よい草の匂いに包まれながら、真輝那は両手両足をぴんと突っ張ってくしゃみをした。(くしゃみをする時に身体がこうなってしまうのは癖である)
相変わらず表情の薄い顔で、まあ多分心配そうにしているのだろう、シェマが横から覗き込む。
「……どうしました、マキナさん。風邪ですか?」
「お前のくしゃみは絶妙に独特だな……」
その反対側では、キララ(真輝那はキララクラムを普段こう呼んでいる。響きがかわいいからだ)が半ば呆れたような、半ば感心したような微妙な表情で顎に手を当てていた。ちょっと前まで、このステレオ再生スタイルで絵本のようなものを読みながら公用共通語の勉強中だったのだが、既に勉強の時間は終わり、本はすぐ隣の棚にしまわれている。
真輝那はかりかりと指で鼻先を掻きつつ、一息ついて、にへらと笑った。
「噂されてるんじゃないかなあ……噂をされるとくしゃみが出るんだよ」
「マキナの故郷にはそういう呪いがあるのか。害意よりも娯楽性の高い呪いだな」
興味深げに頷くキララ。呪い……ではないと思うのだが、ひょっとしたら呪いの側面もあるのかもしれない。故に今、絶賛日本文化の勘違い進行中と思われる彼に対して、否定にせよ肯定にせよ、真輝那がハッキリと言い切ることはできないのだった。
にへらと笑った笑顔のまま、真輝那はゆっくりと背中に体重を預けて、のんびりと言う。
「まあねー、そりゃ噂もされるよねっていうかねー、あのねー……」
貴族特有のやたらと大きな一つの高級ベッドの上で、左右から添い寝状態の二人に挟まれながら。
「寝れねえ!!!!!!!!」
「慣れろ」
「無理だよ慣れるわけないだろおー!! 彼氏どころか男友達もロクに居たこと無いんだぞ畜生ァー!!」
「すみませんマキナさん……年頃の女性なのに本当すみません……」
……なんでも『超重要人材であることがわかったので、厳重保護を行いつつ言葉と文化を学びながら客室をちゃんと空けておけるうえ保温材の確保までできる画期的手段を取る』とかなんとかいう話だった。
最初からなんでもかんでも喋ろうとせずに、記憶喪失のフリとかして様子を見るべきだったのかもしれないが、時既に時間切れ、タイムイズタイムオーバーというやつだ。
こういう時は海洋生物に思いを馳せるに限る。どんな状況に置かれていても、クラゲの刺胞細胞の射出の仕組みについて考えていれば、ゆっくりと眠りに落ちられるものなのだ。この発見で特許を取りたい。
ちなみに文化の話で言うと、上流貴族ならともかく、寝具もケチる庶民の間では家族外の男女の同衾くらいわりと普通のことらしく、多分すげーえらいので真輝那よりも貞操が(政治的に)重要っぽいキララも、『別に契りを交わすのでもなければ大したことはあるまい』とあっけらかんと言っていた。
実際この何ヶ月か、本当に誰にも何も手を出されたりしていないし、シパードも居るときは普通に壁際に立って見張っている。
やっぱり犬なんじゃないかなあの人。
ところで私は何をどうしたら家に帰れるんでしょう。ツタヤの延滞料金が心配でなりません。
*
雑多を極める一宮
つらつらと英字の文章が印字されたそれを、彼は短い三つ編みの髪を揺らし、首をひねりながらゆっくりと眺める。
「――量子的……多重構造論か。これってパラレルワールドとは違うのかい?」
「根本的に違ェな。並行宇宙っつーのは波動力学の確率解釈の一つだろ」
私室でも白衣を着たままソファに寝転がっていた博士は、彼にも解りやすい言葉を探すように言葉を区切りながら、落ち着きなく指先でソファを叩いた。
「こいつは飽くまで分岐も何もありやがらねえ『一つの宇宙』だ。一つの宇宙の、一つの空間的座標に、重なり合った粒子、量子場が存在してやがる」
「原子核が融合して爆発するでしょ、と真っ先に言いたいとこだけど……」
「まあ察しの通りだろうな。虚数質量を持つタキオン粒子と、実数質量を持つターディオン粒子が、同じ一つの空間に存在していながら相互干渉できないように、『原子』と『なんかズレた原子』が同時に存在してやがるんだ。この『なんかズレた原子』には普通何をしても触れねえ。俺達の身体の構成物質ともなんかズレてっから」
博士はその状況を身振り手振りでなんとか説明しようとして、あまりにも表現が難しすぎてやめたようだ。行き場をなくした両手のひらは、なぜかイヌの影絵を作って、博士の言葉に合わせて腹話術のように口を開いている。
青年は、ぺらぺらと捲っていた英語の論文を、諦めるように机に戻した。
「えーっと、今やってる虚数振動による亜空間素粒子制御ってのが、それを――」
「そ。質量はエネルギーと等価で、エネルギー密度は空間歪曲を起こすだろ。だから超々高密度のプラズマをエミッターから放出して亜空間力場の泡を形成しやがってだなァ、そいつで区切られた限定的な時空間の位相を一度ムッチャクチャにズラしやがってから、片側に調整することで『いつもの時空間』から『ズレた時空間』に……ッて、こんくらいまで解るか? ムズい?」
影絵の『イヌ』が二匹の『キツネ』に分離した。もはや何を表現しているのか意味がわからない。
青年はくすりと含み笑いを漏らしてから、姿勢を崩して床に両手をついた。
「一宮博士ってさ、なんか普通のおじちゃんみたいだって思ってたけど、やっぱ普通にすげーよね」
「普通のおじちゃんだよ俺ァ。あとお前も英語は今から頑張って読めるようになっとけな、俺みてーに苦労すんぜェ」
普通のおじちゃんはそう言って、クックッと引きつるように下手くそに笑う。
確かに、学校英語の授業はさほど苦手ではないものの、実際に長々と連なる英文を苦もなく読めるかというと全くそんなことはなかった。青年は己の前にそびえ立つ試練をぼんやりと感じながら、ふう、と長い溜息をつく。
「兄さんも……まだその中にいんのかな」
一宮博士の指の動きが、ぴたりと止まった。
彼にも何か思うところがあるのか、珍しく真面目な語調で、諭すように唇を開く。
「……冴羽の息子よォ。物理学者は可能性にロマンは見るが、夢は見ちゃなんねェ。現実ってのは得てして期待はずれなもんだ」
「『我々は魔法を作れない。ただ初めからそうだったものにやっとの思いで気付いては、尤もらしく頷くだけ』……子供の時に兄さんが言われてたのを覚えてる」
「ははッ、奴らしい言葉だ。こういうとこだけ教授に似やがって」
くたびれた物理学者は、そう言うと、ゆっくりと身を起こした。
「アイツは多分……好きに生きちまう。
人は決して人を自由にゃできねェ……アイツが自ら望んでそこにいたのは、お前ェの母ちゃんとこだけよ。だから戻ってこねえかもな。でも寂しがんなよ、アイツの人生を奪ってやるな」
「うん。いいんだ、俺も好きに生きるから」
――果たして二年後、同研究を常に最前線で行ってきた物理学者、
待ち受けるものの何もかもが未知の状況下において、最新の宇宙服と最善の生命維持装置、そして折り返し一回分の小型転移装置とジェネレーターを持って旅立った父は、おそらく重合世界への転移には成功したことが示唆されたが、一月、二月経っても帰らず、それきり消息を断った。
以降、失踪の原因究明と、さらなる安全が確認されるまで、人体転移実験は無期限に凍結された。
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