【起】第一章 其の地、アルフェイム

#2 うつろな陥穽 うつろえる娘





 某日、雨森あまもり 真輝那まきなは不機嫌だった。


 百と八つの理由のサンプルを幾つか挙げよう。まず、お気に入りの菓子パンが今朝コンビニから姿を消していた。お前にはがっかりだ。次、さっき頬杖をつきそこねて眼鏡に指紋がついている。超見づれえ。次、眼鏡拭きをケースごと家に忘れた。ド畜生! さらに次、美千代ちゃんと一緒に帰ろうとしてたのに、呼びつけられてタイミング逃した。寂しい。その次、確率アップって言うから無料石全部放出してガチャ回したのにいいもん一個も出ねえ。虚無い。

 そして何よりも最大の理由が――放送委員というだけで、このクッソ重い放送機材を放課後一人で運ばされているということだ。

 賃金をくれとは言わないから、せめて反対側を持ってくれる人が欲しかった。

 ああ、アナウンスが楽しそうとか、何もしないよりは何か愉快なイベントがありそうとか、そんな理由で委員会に立候補するのではなかった。貝のように黙り、ウニのように動かぬべきだった。……ウニは動くか。ん? あれどうやって動いてるんだ?


 ともかく。

 花の女子高生が思わず現実逃避がてらウニに思いを馳せてしまうほど、今日の真輝那は疲れ切っていたのだ。もし隣にパトラッシュがいたら、もう天使が横でスタンバってるし、なんなら既に半分くらい浮いているだろう。

 そうして歩いている間、周囲への注意が疎かになっていたのではないか? と問われれば、疎かになっていましたね……と答えるほかない。

 果たして何があったのやら、横の教室から後ろ向きに飛び出してきた知らない上級生が、俯きながら若干ガニ股気味に機材を運ぶ真輝那の肩にぶつかった。


「あっ」

「ひょっ?」


 何しろ全く予測していなかったものだから、我ながら、すごく間抜けな声が出ていたと思う。

 肩に受けた衝撃は、そんなに強いものではなかった。ただ、斜めにぶつかったせいで体勢を崩されたのはまずかった。真横に階段があったのはもっとまずかった。

 重い機材を抱えたまま、ぐるんと直角に身体をひねった真輝那は、手に抱えたそれを落としてはならぬと本能的な使命感を覚え、必死に体勢を戻そうとした。崩れた重心を戻そうとして、足を後ろに踏み込んだ。


 踵が踏むべき床が無かった。


「待゛っ、これマズッ……」


 宙に浮いた身体は重力に惹かれ、頭を下にして大きく傾ぎ、その真上から、重い重い機材が真っ直ぐに向かってくるのが見えた――。





 ――――


『俺達の異世界転生物語がどうにも思ってたのと違う件について』

  (原題 『盈虚の円環、あるいは朔望の終焉』)


 一


 ――――




「はン」


 平原を埋め尽くさんばかりに黒々と広がる魔国の軍勢と相対し、彼が第一に浮かべた表情は嘲笑だった。

 金の髪の隙間に揺らぐ翠玉のような瞳が、冷たく、しかし充分な怒りを横溢させて地平線を睨めつける。吹き抜ける風が外套を翻し、金糸銀糸の綺羅びやかな刺繍を威圧的に広げてみせた。


「下級妖魔風情が、雁首揃えてままごといくさか。忌々しい」


 白毛の馬上に跨ったフェルド家当主、『世捨卿』キララクラム・エフ・フェルド・アーデルクラムは、嘲りの形に歪めた口角の向こうで憎々しげに歯を軋ませる。

 憤慨も当然である。他国の者に領民を殺されて怒らぬ領主がどれほど居ようか?

 東のチェド村から、たった一人の生き残りが馬を走らせて来なければ、このように迅速な布陣は成らなかっただろう。――報いねばならぬ。他の何もかも奪われてなお報せを運んだ彼女にも、彼女を逃がすために生命を散らしたという村人達にも、報いねばならぬ。

 冷ややかに燃えるその凶眼の傍らで、控えていた褐色の肌の男が、獣の毛並みのような短い黒髪を風の吹くままに逆立てながら、静かに唇を開いた。


「キル。……前に出るか?」

「否、まだだ。シパード以下黒鎧こくがい隊は待機しておけ。戦列歩兵隊、前進。後続の騎兵隊の道を残し方陣を維持せよ」


 よく通る声を『拡声魔法』によって殊更に張り上げ、『世捨卿』は号令を出した。命令復唱の声がこだまし、魔法兵団の列が動く。

 ――妖魔や魔獣というやつは、確かに力は強く、個体数も多いようだが、統率が取れていない。魔人は奴らを尖兵として好んで使うと聞くが、この有様では良くて捨て石、資源の無駄遣いと言うほかあるまい。

 前線が群れに迫る。彼我ひがの距離、目視にておよそ百テトゥム。


「榴弾魔砲兵、詠唱開始。霞弾魔砲兵は一旦下がれ」


 号令に応じて、戦列が蠢いた。

 戦列歩兵陣形――ひとかたまりの方陣を組んで列を成した兵が、最前列から一斉に爆裂の魔法を放ち、射撃を終えたら既に詠唱の済んでいる二列目の兵と代わる。これを繰り返すことで絶え間なく弾幕を張り続ける、密集陣形のひとつだ。

 魔法による狙撃や砲撃が主となる上位魔人共が相手なら陣を組み替えるところだが、人海戦術の白兵戦が主となる下級妖魔が相手ならば、最大限の効果を発揮することだろう。

 彼我の距離は――凡そ三十。射程だ。


「撃て」


 振り下ろした指先に幽光が舞い、次いで爆音が鳴り渡った。

 炸裂する爆焔に押し広げられるようにして、圧縮された大気の層は岩塊のごとくしたたかに妖魔どもを打ち、次いで襲い来る高熱の舌先は宙に浮いたその身を舐め焦がした。ばらばらに散った身体の破片が巻き上げられては、後続の進軍を阻害し、滞った流れの淀みをまた爆発が弾き散らした。


 そうして平原を広くどよもす爆炎が、幾百幾千の生命を呑み込んだか知れぬ頃。その炎と煙を切り裂いて飛来する一条ひとすじの刃を、馬上の槍が閃いて受け止めた。

 色素の薄い銀髪、灰色に近い肌、それを覆う禍々しい意匠の甲冑……そして何よりも、両の側頭からうねるように伸びた角。魔人である。

 キララクラムは、剣を受け止めた槍の穂先を素早く引いて逸らし、再び突いた。魔人は剣の腹でそれを受け止め、わざと弾かれて距離を取る。


「貴様だな、指揮官は?」


 問われ、馬上の『世捨卿』は、眉をひそめて眼前の魔人を眇め見た。


「……ほう。些か考え難いことなのだが……まさか、それを判断するために、あたら兵を散らしたと?」

「それも、ある。他にもな」


 魔人は広げた手のひらで、おそらく手勢の妖魔の進撃を止めた。奴らは崩れた戦列を整えることも、強引に押し広げることもせず、距離を取って遠巻きに眺めている。


「はン」


 キララクラムはひらりと身を翻し、白馬の上から魔人の前へと躍り出た。


「流儀を合わせるも一興か」


 この偏屈が何を考えてのか、その瞬間に察したのだろう。後ろに控えていたシパードが、ぎょっとして構えを取る。


「おい、キル! 何度言や解るんだッ、テメェの立場を自覚――」

「シパード。まあ今は手を出してくれるな。魔法兵団、戦列を崩さず掃討に専念せよ」


 手にした槍をぴたりと構えれば、白銀の軽装甲冑が陽光を受けてきらめく。その表情は、なんとも愉しげな微笑に歪んでいた。


「……ッたく」


 油断なく構えたまま、シパードは主の意に従って後退した。――解ってはいる。この場合、彼が目を光らせるべきは伏兵であり、浸透戦術への警戒だ。飛び込んできた魔人一人に動揺し、過剰な包囲のために陣形を崩せば、その虚を突かれかねない。

 何もしなくても、戦術的には充分に有利だ。……そこの馬鹿が今すぐ酔狂をやめてくれれば、もっと有利なのにな、とも思うが、今更言うまい。もしもの時は、奴が何と言おうと割って入る。


「偉大なる『祖なる神』のために……行くぞッ」

「来い、愚物め」


 交錯の刹那――


「ニギャ――――ッッ」


 素っ頓狂な悲鳴が、上空より響き渡った。


「ア?」

「は?」


 見上げれば、青い空、白い雲、輝く太陽、そして流星のように降ってくる奇妙な服装の女と、何かはわからないが重くて固そうな物体――。


「オ゛ッ」

「あっ……」


 避ける間もなく、斜めに落下してきた物体は激しい衝突音と共に魔人の後頭部を見事に直撃し、次いで、少し離れたところで数匹の妖魔を下敷きにしつつ、「アオッ」という声とともに女性がバウンドして転がった。

 地面に突っ伏した魔人の頭部からは、結構すごい勢いで血が吹き出し、草原に血溜まりを広げている。


「……えっ死んだ?」

「死んだな……」

「死んだかァ……」


 思わず素でその様を覗き込んでしまったシパードに、迎撃態勢で槍を構えたままのキララクラムが淡々と返す。

 周囲の歩兵隊も、騎兵隊も、黒鎧部隊も、妖魔たちでさえも、その状況をしばらく呆然と見ていた。


 その後、我を取り戻したキララクラムが残存勢力の掃討と女性の保護を命じ、勝機なしと見た妖魔兵団が敗走を開始するまで、彼らの体感時間で数分の間を要した。



 ――雨森真輝那(16)、初陣。

 手柄、魔人一名(将官級)、妖魔兵三名。


 決まり手……重力。



*



「ふむ……」


 フェルド家の屋敷にて。

 言葉の通じぬ異邦人の錯乱パニックをやっとの思いで鎮めた後、キララクラムは執務室で一人、机に足を乗せて物思いに耽っていた。

 戦疲れもあるにはあるが、無論、いま頭を悩ませているのは別のことについてだ。


「おや……お行儀が悪いですよ、坊っちゃん」

「む、シェマか」


 開け放ったままでいた扉の向こうから、『とんがり耳』の執事が、咎めるように声をかけた。彼は細身の少年のようにも見えるが、実年齢はキララクラムよりも少しばかり上だ。ところどころ跳ねたふわふわの銀髪と、宝石のように赤い瞳は、魔人どもを除けば彼らくらいにしかいない、特殊な色彩である。

 若き当主はばつが悪そうに笑いながら、がりがりと頭を掻いて姿勢を正した。


「済まん、見苦しい姿を見せたな。謝るから坊っちゃんはやめてくれ」

「いえ、此方も分を弁えぬ物言いを致しましたゆえ、お許しください」


 シェマは淡々と言って、恭しく頭を下げる。キララクラムはやれやれとばかりに溜息をつくと、ゆっくりと椅子から立った。

 目で合図をして部屋を出れば、執事は何も言わず、彼の背に追従する。


 アーデルクラム王家の正統な血を引く公子の身分でありながら、彼の屋敷はあまり広くはなく、調度品などにも贅の気配は見えない。こうして廊下を歩いていても、他の使用人とすら滅多にすれ違わないほどだ。

 これは彼が野心を持たぬがゆえのこと――というよりは、自身の知的好奇心を満たすもの以外にほとんど頓着しない性格からくるもので、見も知らぬ者達からの『偏屈者』との評は、そのような生き様に起因する。

 普通、位の高い貴族は家族と共に暮らすものだが、彼は研究の邪魔になるだとか、関わり合いが鬱陶しいだとかで、本来の自分の屋敷を出てまでこんな辺境に引きこもっている。いや、鬱陶しがられて追い出されたのが先だったか――とにかく、ここには彼と、彼に従うものしかいない。


「にしても丁度いいところに来た。例の客人についてなのだが」

「目を離していてよろしいのですか? 素性も知れぬのに危険すぎますよ」

「見張りはシパードに任せてある。……あやつは些か目つきが悪いからな、怖がらせんか心配だが」

「恐れながら当主様、正直どっちもどっちかと」

「うむ。その分を弁えぬ物言い、それでこそシェマよ……」


 廊を反響しながら渡っていた、二重の跫音きょうおんが不意に途絶える。彼女を寝かしている客室の前だ。キララクラムはその扉を手の甲で指した。


「シェマ。我が執事よ。日々忙しいところ悪いが、あの娘に言葉を教えてやってくれ」

「は、仰せの通りに」

「そうだな……余のおもいでボックスに、子供用の文字教本があったろう。高級品だが、あれもくれてやって構わん」

「随分と執心なさいますね。世捨卿ともあろうお方が、一目惚れでもなさいましたか?」


 『世捨卿』は、ふ、と含み笑いを漏らして、昼よりなお輝く翠玉の瞳を、両の瞼で愉しげに撫ぜた。


からかうでない。あの服と装身具を見たろう。さて、未来か異界か……口に出せば荒唐無稽だが、高次文明の民と見たぞ。迅速な情報共有が必要だ」


 そう言って、感興を包み隠さず口角を上げる彼を見て、シェマは言外に察した。

 ――ああ、これは、アレだ。今まで見たこともなかった、とにかく絶対に面白そうな玩具を偶然拾って帰ってきた子供のする表情だ。

 今度こそ彼が世俗事にも興味を示す契機となるのか、と二パーセントほど思ったが別にそんなことはなかった。いや、個人的には彼にはそのままの彼で居てもらいたいのだが。

 シェマは半ば呆れたような苦笑を素早く無表情に変え、主に向き直って承諾の礼をした。何にせよ、これだから彼の下で働くのは楽しいのだ。


 なお、英語の成績評価は『頑張って2』の真輝那に、第二言語を新しく教えることの難しさを、シェマはまだ知らない。




*



 その真横の室内で、真輝那はベッドに寝っ転がりながら、早速、異文化交流の第一歩を踏み出していた。


「……シェパードさん? って言うの?」

「シパード。シパード、だ。発音は惜しいな。サン、は要らん」

「シェパードかぁ……っぽい気はする……いぬだ……」

「何かすごく失礼な事を言われている気がすんだよなァ……」


 踏み出した一歩が少しでも前に着地できているかどうかは、危うい。


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