俺達の異世界転生物語がどうにも思ってたのと違う件について(原題『盈虚の円環、あるいは朔望の終焉』)

序章 ついえし夢の鳴り渡る

#1 時の呼び声

 かつて神々は、滅びたる楽園を去りて我々を見つけ、獣にすぎなかった我々に知恵を与え、人たらしめました。

 神は人々を友として愛し、人は神々を讃えよく従いました。


 しかしある時、神とちかしきがゆえに驕りに溺れた人があり、裁きが下りました。

 大地に突き立てられた火の柱から、黒雲が吹き上げて天空を覆い、常しなえの封氷が大地を閉ざしたのです。


 神々は心改め、選定に足る民をのみ、新たなる世へと導きました。


 世を作り直すために力を使い果たした神々は、形を失って眠りにつき、人はこれまでのように神と語らうことができなくなりました。

 その一方で、神に見捨てられた旧き大地は死の世界となり、罪を犯した者の魂は死後永遠にこの大地に縛られることとなったのです。



 ――――アルフェイム神話 創世記より



 ――――


『俺達の異世界転生物語がどうにも思ってたのと違う件について』

  (原題 『盈虚えいきょの円環、あるいは朔望の終焉』)


 序


 ――――



 古に曰く、『旅は賢者をより賢く、愚者をより愚かにする』と言う。

 果たして自身がいずれに属するものであったのか、それは旅を終えるまで判るまいが――冴羽さえば 梨緒りおは割り終えた薪を粗忽そこつに積みながら、そろそろ伸びすぎてきた前髪を汗塗れの手で払った。

 背筋を伸ばして溜息をけば、晴天を吹き渡る微風そよかぜが甘い香りを運んできた。クリム……とかいう、林檎に似た果物のパイがどこかで焼かれているのだろうと思う。材料がたくさん採れるため、焼き菓子はこの村の名物の一つと言っていい。

 日はもうじき中天に昇る。あのまま受験勉強を続けていたら到底縁がなかったであろう、閑雅なひとときであることには違いなかった。


「リオ!」


 名を呼ぶ声に振り返れば、稲穂のような金の髪が陽光を照り返して耀いた。

 梨緒よりも三つか四つは年下に見える、『とんがり耳』の少女が、ぱたぱたと忙しなく駆け寄ってきたところだった。


「やってたこと、もう、おわった?」

「うん。ありがと、エナ」

「ごはんあるよぉ、ごはん!」


 努めて簡単な言葉だけを使って言いながら、少女――エナ・フルルティシュトンは、その金の髪と同じくらいに表情を輝かせた。


 特に何の変哲もないはずだった日本人、冴羽梨緒がこの見知らぬ地に落とされてから、数え間違いが無ければ、既に八ヶ月が経過していた。

 きっかけは――よく覚えていない。高校からの帰路、車道で交通事故が起きて、急制動をかけた別の車から逃げようとして橋から落ちたところまでは覚えているのだが……それ以降は、どこまでが現実なのか定かではない。

 ただ、気付いたときにはこの小さな農村で骨折の手当を受けていて、そこのエナが心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。

 後々話を聞いたところ、どうやら梨緒は村近郊の草原で、まるで高いところから落下してきたかのような打撲を全身に受けて転がっていたらしい。


「……いつも、すまない。本当にありがとう」

「気にしない気にしない! 早く思い出すといいねぇ、故郷のコト」


 くるくると舞うように歩きながら振り返り、エナは無邪気に笑った。――上手く説明がつけられなかったので、彼女の中では梨緒は断片的な記憶喪失ということになっている。


 こうして村の人々と僅かでも意思の疎通ができるようになるまで、一月は要したものだ。そもそも識字率がそんなに高くないものだから、文字を教わるにも相応の人材が必要で、それ以外にできることもないわりに、理解に時間がかかってしまった。

 結果として得られたものが、どうやら日本には帰れそうもないという確信だったとしても――当初想定していたほど絶望はしなかった。ここで当分の間生きていく覚悟は、その頃にはほとんど決まりかけていたし、それは諦観というよりは、決意の最後の一押しだったと言える。


 それからというもの、梨緒は村の新たな一員として暮らしながら、外の情勢や、歴史の成り立ちについて勤勉に調べた。


 この地、アルフェイム(この言葉のスケールは、恐らく我々にとっての『地球』に相当する)においては、通貨はもちろん、距離や重さの単位も聞き慣れない規格で扱われていた。

 使用主言語は『公用共通語』と言われるもので、地域によって多少の訛りはあれど、驚くべきことに国や民族をまたいでも殆ど通用するらしい。地球の歴史においては、民族とは人種の遺伝的形質などよりも使用言語で分けられていたように記憶しているが、『民族』という価値観が希薄なのだろうか?

 主要な信仰に名前はついていなかったが、まあ、地球でもよく聞くタイプの多神教だ。地域によってはドルイド教のような土着の自然信仰がそれに混ざっているようだが、それらは別の宗教ではなく、一つの宗教内での『大神』と『小神』として区別されている。他にも『祖神信仰』というものもあるが……これは一般的ではない。

 村長はそれらの神話に詳しく、共通語を学ぶ際には教材としてよく話を聞かせてくれた。神人分離や死後世界の成立など、こういうモチーフはどこでも似通っているのだな、と変に感心したものだ。


「――リオ、お前は、故郷では学者を志していたと言ったな?」


 ある日、広場の祠で、夜の短い祈祷を終えた村長が、背中越しに言ったことがあった。


「ええ。父もそうでしたから」

「そうか。いや、先日村を訪れた旅人が言っておったのだがな……」


 と、語り始めた彼曰く、この一帯の領主であるフェルド家の今代当主は、やや偏屈な変わり者ではあるものの、理学に関心が深く、聡明な男だと言う。

 言葉さえ通じるようになったのならば、異国の学者として、彼のもとで多少なりとも身を立てることが可能かもしれない。少なくともこんな辺鄙へんぴな村でのんびり暮らしているよりは、故郷に関する情報も入ってこようというものだ。


「……別に、お前を追い出そうとしとるんじゃあないぞ。ここはいいところだ。少なくとも、わしらはそう思えるよう努力しとるよ」


 そう言って、村長はたっぷりと立派な白ひげを指でなぞりながら、梨緒の肩に干からびたような手を乗せた。


「ま、そういう選択肢もあるっつうことだな。運命は自分を選んじゃくれん、運命を選ぶのが自分なんじゃな、うん」


 顔中に深く刻まれたしわを、殊更に深く歪めながら破顔する彼に、梨緒は亡き祖父の面影を見て言葉を詰まらせた。

 ――確かに、この村だけを見ていても判るほど、アルフェイム全体の文明レベルはそう高くない。これでも遭難直前まで物理学者を志して勉学に励んでいた身だ、エジソンの真似事でもしてやれば、多少なりとも文明に貢献できよう。

 しかし、なまじ知識があるからこそ、慎重にならざるを得ないのもまた確かである。

 過ぎたる力は均衡を崩す。己の軽率の結果、奪われる生命に責任は持てない。あるいはその『奪われる生命』とは、己自身のそれであるかもしれないのだ。人民全体の文化レベルが上がらないまま、近代的な文明だけを一足飛びに導入しようとすればどうなるかは、独立ブーム以降のアフリカの失敗国家群を見ていれば火を見るよりも明らかだった。

 今は燻るべきか、敢えて火を見てみるべきか――その結論が出るよりも、わずかに前に。

 破局は突然訪れた。


魔人ディヴァンだ! 魔人が来やがっ……!」


 若い農夫の警句は、途中から断末魔の悲鳴に取って代わられた。

 夕暮れの空に散る血飛沫。炎。刃交はまぜの響き。噎せ返るような匂いと怒号。擦れた黒鉄くろがねのきな臭い火花が、裂けた肉に、折れた骨に、倒れたむくろに飛び散って爆ぜる。

 ――魔人。異形のヒト。異教徒。人類の敵。

 魔人の国は隣国エメリスと長く交戦中であると話には聞いていたが、このアーデルクラムにも遂に侵略の手が伸びたというのか。

 梨緒は窓のふちに身を隠しながら、焼けてゆく村を眺め遣った。奥まった場所にあるエナの家には未だ戦火は及んでいないが、この調子では時間の問題だろう。

 エナの丸っこい蒼眼が、怯えに歪んで彼を見上げる。


「リオ……どうしよう、どうしたらいいの……?」

「逃げよう」


 訊かれる前に決めていた。彼は短く答え、真新しい血のついた薪割り用のなたを握り直す。


「なんて言ったっけ、フェルド家の治める街まで。魔法兵団の駐留部隊がいるはずだ。しらせなきゃ。対応が遅れるのが一番まずい」

「リオも一緒?」

「なるべくね。でも足止め工作だけしていくから、エナは先に逃げて。もし戦闘に入っても無理せず持ちこたえるから、応援を呼べれば助かる。いい?」


 彼女は両目いっぱいに涙を浮かべながら、言葉を堪えて頷いてくれた。

 怖くないと言ったら嘘になる。それでも、恩返しができるのなら、もう今しかない。


 梨緒は傷を負っていた。既に一匹、魔人の尖兵たる『魔獣』と交戦し、エナを庇って背中と右足をやられたのだ。

 日々の薪割りのおかげだろうか、そうやって接近した魔獣の脳天をかち割ることには成功したものの……今の梨緒は、逃げるとなれば足手まといになることは必至だった。彼は泣き言を噛み殺し、最後に、少女の金の髪を撫でた。


 小さな馬――近い別物かもしれないが、まあ概ね馬だ――を巧みに走らせるエナの背を見送り、彼は焔に巻かれる村へと駆けた。

 彼の胸中を支配していたのは、恐怖を追い遣ってなお強く渦巻く憤怒いかりだった。十九年の生涯の中で、最後のたった一年にも満たない間だったが、この村は優しかった。暖かかった。そんな人の生命を、営みを、資源や領土の損得勘定で容易く踏み砕く――戦争とは、目の当たりにすればこれほどまでに理不尽で許しがたい行為おこないであったのか。

 死を予感しながらも、衝動が、彼の身体を突き動かしていた。

 勝機などないと悟りながらも、足を止めることはできなかった。


 ――そうして、彼は二度と帰らなかった。


 炎は盛んに立ちのぼり、空に黒煙を棚引かせる。戦の結末を告げる狼煙のろしのように。



*



一宮いちのみやさん、見てもらいたいものっつうのは」

「ああ、やっと来やがりましたか」


 乱雑な資料の山と奇妙な工芸品に半ば埋もれて、くたびれた白衣の中年は、跡だらけのマグカップからコーヒーを一口すすった。

 男に与えられたこの研究室は、いつものことながら薄暗い。入り口に立った痩せぎすの壮年は、少し眉をひそめながらも、照明のスイッチに伸ばした手を、結局押さずに引っ込めた。

 椅子の上で胡座をかき、キイキイと音を立てて落ち着きなく身体を揺らしながら、中年は卓上のモニターに表示されたドキュメントを顎で指す。壮年は、その態度に何の感慨を示すでもなく、指されるままに身を乗り出した。


「……亜空間素粒子放射?」

「SFっぽくてカッコいいべ」


 そこに表示されていたのは、編集中のレポートの冒頭だった。非常に高エネルギーながら通常空間中では不安定なため瞬間的に自壊し、特殊なエネルギー放射を残すという素粒子の情報が表示されている。これらの素粒子の発見は、数年前、単一領域情報通信体系とやらの開発から目覚ましく発展した分野、時空間力学の産物だったと男は記憶している。


「こっちはまだ論文のろの字も見えてきやがりませんが、先に言っとこうと思いましてね。……ああ、おちょくるような意図は一切ないし、もし悪意的に捉えられたら謝るがそういう意味じゃない、あと」

「前置きはいいですから。前から言ってるけど、一宮さんが神経質になるべきはそういう所じゃありません。まずマグカップを洗いなさい」


 壮年がそう無表情に返すと、一宮と呼ばれるいかにも不健康そうな男は、曖昧に笑ってコーヒーを飲み干した。何重にも層になったコーヒーの跡が露わになる。


「この亜空間素粒子の崩壊時に発生するエネルギー放射、特殊な条件下で自然発生していることが明らかになってやがるでしょ。中間端折って言うけど、異常空間遭遇っつうか、そういう事例の条件が逆算できっかもしれません。見てみ」


 そう言って一宮が紙の山から丁寧に引き抜き、壮年に差し出したのは、ファイリングされた資料の束だ。渡された男は、黙ってそれに視線を落とした。


「これは……」

「『状況的に死んだと思われるが、遺体が見つからない』っつー条件で、雑に絞り込んだ行方不明者のリスト。右側が過去十年、左側がその前の十年。見りゃあわかるが右の方が妙に多いでしょ」


 壮年の目が細められ、額には脂汗が滲む。

 一宮が操る端末のモニターには、数度のクリックを経て、裏に隠れていた別のドキュメントが表示された。その冒頭には、『量子場の多重構造論(仮)』と簡素なゴシック体で書かれている。


「……米・独と共同研究予定なんですが……これ、ちょっと顔出してみやがる気ィありませんか、ねえ……冴羽博士?」


 彼の指先は、資料の右側に羅列されるように印字された、『冴羽梨緒』の文字の下で止まっていた。


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