真夏の夜の魔物

伊藤マサユキ

第1話 真夏の夜の魔物

 5月。エアコンが壊れた。


 東京都23区内の新宿から電車で10分ほどの安アパート。

 駅から徒歩5分という中々の立地でありながら家賃が安いのは、築20年ほどの建物であるからだ。


 1K7畳の手狭な部屋だが一人暮らしには十分であり、古い建物であるが2年ほど暮らして馴染んだ町並みも気に入っていた。

 唯一の文句は、安アパートの癖に恐らく内部にチップでも入っているのであろうカードのような鍵となっており、「セキュリティには問題ありません」という主張をしてくる所くらいだ。


 不動産屋の契約の更新が目前と迫ったそんな時に、愛しき我が家のエアコンが沈黙した。暖房にしても、冷房にしても、そよ風のような生暖かい風が出てくるだけで、どうやら仕事をする気がないことだけは分かる。


 しかし季節はまだ春から片足も出ていない時。エアコンなど必要ないのである。

 僕は生来の面倒臭がりということもあり、エアコンの修理を後回しにすることにした。どうせ更新の案内が来月にでも来るだろうから、その時のついでに不動産屋に言えばいい。

 そもそも、仕事の方は夏より先に繁忙期がピークを迎えており、日々体を蝕むストレスから、休みの日にそういった事務的なことをする気が起きないのだ。


 そうして、6月が来た。


 初夏とも言える、段々と気温が上がってくる気配を感じるが、まだ焦る時ではない。神奈川県の海沿いの町に生まれた僕にはそもそも夏にエアコンをつけるという文化を持たない。窓を開けて扇風機をつければ、うだる体を冷ましてくれる風が吹き込む。


 休日の日中帯。

 僕はこれまでの教訓を生かし、窓を開け放ち扇風機を付けた。涼しく──は、ならなかった。


 東京は恐ろしい。

 どこもかしこもコンクリートが張り巡らされており、日光がピンボールのように跳ね返っているのだろうか。そもそも窓が1つしかないワンルーム。風が吹き抜ける先など存在せず、自ずと風も吹き込んではこない。


 6月も中旬を越えると時たま真夏のような気温の日もあり、ひたすら暑さに耐える日が続いた。しかし平日は仕事で外に出るため、家で過ごすのは比較的涼しい夜だけだ。まだ焦らずともよい。


 ──7月。


 日進月歩とは言うものの、過ぎてみればあっという間というものだ。

 7月の日中帯を一人部屋で過ごした感想は、一言で言えばもう限界だった。


 このまま茹だって死ぬのではないかという恐怖が常につきまとい、夜は夜とて暑かった。暑いでは済まない。寝れないのだから。


 不動産屋からの連絡は未だ来ていない。

 7月の更新だと思っていたが、その焦りからか、もしかして10月だったかと思い直す。このまま不動産屋からの音信がなければ、恐らく僕は今月中には夏の暑さに殺されるだろう。


 しかし僕は自ら不動産屋に連絡しなかった。ただただ、面倒だったからだ。


 不動産屋にエアコンが壊れたと連絡をすれば、業者に確認するからコールバックするとなるだろう。そして業者の調整がつけば、日取りを決めるとなるだろう。日取りを決めるとなると、対応できるのは休日のみとなるため、休日に家で対応するのだろう。休日となれば、業者の人を家に入れるために部屋の掃除が必要となり、その前週の休日には大掃除が必要となるだろう。


 そんな過程を思い浮かべると、吐き気がするほど面倒臭かった。

 そもそも僕の部屋は荒れくりかえっている。人など呼べるはずもない。目算でも掃除に丸2日はかかる。


 そうして、あくまで外部からの介入なしでは行動はできず、待ちの構えで7月を過ごすことにした。そもそも、うだる暑さで頭の方はとうにやられている。


 日中帯はもはや、生死の危険性を鑑みると部屋にいることはできない。そこで僕は決断する。そうだ、漫画喫茶に行けばいいのだと。


 昼には家を出て、土日の両方を約9時間ずつ漫画喫茶で過ごす運びとなった。漫画喫茶は快適だった。パソコンは使い放題だし、カルピスソーダも飲み放題だ。


 問題は家に帰らなければならないこと。

 そろそろピークを迎える準備をする夏は、変わらず夜も酷い熱を孕む。何度かの週末を漫画喫茶への避難でしのごうとしたものの、最早眠ることもままならない。

 その猛威は圧倒的だ。体に溜まった熱は頭へと掛け上がっていき、牙を剥き出して襲いかかってくる。


 逃げることはできない。

 抗わなければならない。


 この状況を何とかしようと考えた末に出した結論は、水を入れたペットボトルを凍らせることだった。


 画期的だ。

 蒸し風呂のような部屋の中、タオルにくるんだ冷えたペットボトルを首筋にあてたり、脇の下に挟んだりと、体内に滞留する熱を逃がす。

 打開策を見付けたものの、僕は油断をしなかった。

 夏の暑さに氷もすぐ溶ける。凍ったペットボトルをローテーションできるよう、常に3本のペットボトルを凍らせた状態として運用していた。


 時期は7月の中旬。

 物理的に頭を冷やして冷静さを取り戻した僕は、不動産屋の連絡が随分前からポストに入っていたことに気が付いた。


 何のことはない。ただただ、ポストを覗かなかっただけだった。


 手紙を取り出したその足で、僕は不動産屋に向かった。

 部屋は依然として荒れている。しかし、この機を逃しては、恐らく夏の暑さを耐え続けるか、部屋の中で死ぬかのいずれかだろう。


 不動産屋に行ってみれば事は思いの外簡単に進んでいった。

 契約更新の手続きと共にエアコンの修理業者の調整が済み、翌日には点検のために家に来ることになった。


 僕が死ぬもの狂いになって部屋を掃除し、ゴミを束ねた袋は風呂場の浴槽の中に積もっていったことは言うまでもないが、翌日の点検の上、更に翌週にはエアコンの取り替えのために業者が来ることとなった。


 午前中に部屋を訪ねてきた二人の業者の人からの挨拶を受け、付け替えの作業は粛々と行われていった。


 僕は未だ汚い部屋の気まずさから玄関のドアの外で工事が終わるのを待っている。


「いやあ暑いですね」


 僕の部屋から作業途中のオジサンが出てくる。


「もう真夏ですからね。エアコンが急に壊れて大変でしたよ」

「そうでしょう。でもお客さんラッキーでしたよ。丁度保証が先月に切れてましたからね。大家さんも修理じゃなくて取り替えの判断をしたんでしょう。新品のエアコンですよ」


 流れ落ちる汗を吹きながらオジサンは楽しそうに喋り続ける。


「今回は室外機が壊れてましたからね。エアコンや業者にも当たり外れがあるから気を付けて下さいね」


 うちは大丈夫ですけどね、と笑うオジサンだったが、僕にはそれがまるで全能の神に見えた。思った以上に長かった取り付け作業を終えて、二人のオジサンは帰っていき、僕は深々とお辞儀をしてそれを見送った。


 一人部屋に戻り、エアコンのスイッチをつけてみると、すぐに涼しい風がそよいできた。ものの数秒という時間で涼しくなる部屋は、あの地獄の釜のような部屋を思うと、別世界のようだった。


 涼しくなった部屋で僕は休みをゆっくり過ごす。


 思えば、不思議だった。

 約3ヶ月という期間、生死の境を過ごした地獄の釜のような部屋だったが、少し行動をしてみればすぐに楽園となる。

 人は少しの躊躇や少しの億劫さで、それを一時しのぎで我慢してしまうのだと。


 涼しみながらゆっくりとコーラを飲む。


 そうして丸々2日を部屋で過ごし、翌日、僕は風邪を引いて会社を休んだ。

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真夏の夜の魔物 伊藤マサユキ @masayuki110

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