第16話 おれたちはともだち 後編

 さて、約束の日まであと少し、一夜漬けしたって意味なんてないから基礎の部分をきちんと固めようと参考書とにらめっこしていると、背後から突然声がした。

「顔色が優れないようですね。何か悩み事でも?」

「どわっ!」

 気が抜けていたところだったので、驚きの余り飛び上がる。呼び出した時以外でも、庄司さんは何の前触れもなく会いに来ることがあった。大体、何かと一人で考えたいときに現れることが多い。手元の本を隠そうとして、隠したら余計怪しまれるかと腕をどける。

「いえ……そんなことはないですけど。そう見えますか」

 探るように尋ねると、庄司さんは自分の目の下を人差し指ですいとなぞった。

「隈ができていますよ」

 鏡を見ようにも周りにはないし、手鏡なんて持ってるはずもない。短い睡眠時間が仇になったか、内心しまったと思いながらもなるべく不自然に見えないよう微笑む。

「いえ、ちょっと最近寝つけないだけです」

 俺は自他ともに認める誤魔化し下手だが、庄司さんはそれを大抵は飲み込んでくれる。今日も淡々と「そうですか」とだけ言って、何事もなかったかのように本題を切り出すだろうと思っていたのだが、彼女はその場に立ったまま、じっと見返してきた。なんだろう、と首を傾げると、庄司さんは囁くように言った。

「議員は、あなたにできるだけのことはしたいと思っていらっしゃいます」

 いつもより少し低い、気のせいでなければ憂うような声。それを聞いて俺はきょとんとして、その意味を飲み込んでから口を開いた。

「議員には、十分お世話になってます。それと……俺ができることなんてたかが知れてますけど、今回お世話になった分も、いつかきちんと返したいと思ってます。……そう、伝えてもらえますか」

 最大限言葉を選んだが、遠回しな過干渉の拒否だった。散々甘えてるくせに何を、と自分でも思うけど、このまま甘え癖をつけてしまうのはまずい。正直不本意ながら目立つくせに世間知らずの俺は、議員の隙にしかなりえないだろう。だから、お互い知らないふりをして、必要な時にだけ会うくらいがちょうどいいのだ。……殊勝なことを言ってみせたが、いつ失脚するかも分からん人に寄りかかるのは怖い、という保身もある。ややこしい身の上である分、立ち回り方については誰かの言いなりになるのは駄目だ。

 庄司さんはいつもの、感情の揺らめきを感じさせない目でじっと俺を見つめた。

「分かりました。そう伝えておきます」

 そう頷いてくれた庄司さんがどこまで俺の考えを見透かしているのかは分からないが、ひとまずこれでよしとしよう。

「それで、木村優さんとの面会についてなのですが」

「あ、はい!」

 教本をどけて、メモを取るスペースを作る。

「前回許可が下りなかったのには、実は理由がありまして。死んだことになっていた……除籍されていた人の逮捕というのは前例がないことでして、その手続きができていなかったというのが第一の理由です。それから、事件の時の負傷で体力が戻っていなかったというのもあるそうです。……志山隊長が強く反対した、という理由も、一応はありますが」

 そう言われて、さっと血の気が引いた。そう、今の今まですっかり忘れていた。腹から血を流して倒れる、友人の無残な姿。

「今は大丈夫なんですよね……?」

「はい。ただ、あまり長時間は拘束できないとのことです。あとは興奮させるようなことを言わないように、と」

 つらつらと並べられる注意事項に一つ一つ重たい頷きを返す。セキが取り乱す姿は想像できないけど、言うことはちゃんと整理しておくべきかもしれない。圭太郎と蓮さんに推敲してもらおう。もちろん、知られても問題のない範囲のことだけ。

「面会は通常、記録が残りますが……」

「え? あ、そっか……いやでも、それだとちょっと困るというか」

 あたふたする俺を不思議そうに見る庄司さんに、こっそり耳打ちする。

「セキには俺の生まれについて話したいと思っていたんです……でも、困りますよね、その、残ると」

 庄司さんは大きな目をぱちぱちと瞬き、一瞬手元に視線を落とした。

「それでしたら、ダミーの記録を作ることも可能です。本当は駄目ですが」

「いいんですか?」

「よくなかったら言いません。手配しておきます」

「すみません、何から何まで……」

 庄司さんの仕事を増やしてしまうのは本意ではない。肩を縮めて謝ると、庄司さんは首を横に振った。

「あなたの生まれは、あなたが選んだものではありません。責任を感じたり、申し訳ないと思ったりする必要はないんです」

 まっすぐに目を見て言われ、言葉に詰まってうつむく。己の成り立ち、その歪さを常に気にしていた。人に明かせる秘密でもなく、堂々巡りの自問自答に不意に答えを示されたような。思いがけず赦された、そんな気がした。いいのかな。俺は、悪くないのかな。何も言えない俺をなだめるように、庄司さんは柔らかい表情でこう続けた。

「自分のことを分かってほしい、知ってほしいと思うのは当然のことです。むしろ、よく今まで誰にも話さずにいられたものだと思っているくらいです。……そうやって、こちらに申告していただけるのは非常に助かります。一番困るのは、私たちの知らないところであることないこと言いふらされていることですので」

 だからこれからも余計なことは言ってくれるなよ、という念押しを含ませた涼しげな声に、どうにか頷く。もちろん、今回限りにしようと思っている。セキには何も隠さないでほしいから、俺も隠すのをやめる。例外中の例外みたいなものだ。

「こちらについてはご心配なく。ただ、自分がどうしたいのかだけを考えておいてください」

 何でもないことのように言われ、頷くだけで精いっぱいだ。今更だけど、本当に俺、セキに会うんだ。俺は、どうするべきなんだろう。言いたいこと、聞きたいことは、まだぼんやりとしか形をとっていない。長いこと考えこんでしまっていたらしく、「城戸さん?」と訝しげに声をかけられてハッとする。

「庄司さんも、いつもすみません。お忙しいでしょうに気にしてもらっちゃって……」

「お気遣いなく。仕事のうちです」

 その言い方が蓮さんの物言いと少し似ていて、不思議な感じがした。二人の雰囲気は似ているようで違う。普段あまり意識しない繋がりが、ふとした瞬間に垣間見える。まぶしいような気分だった。音もなく立ち、庄司さんは普段通りの調子で言った。

「あまり根を詰めすぎないように。頑丈さを売りにしているのは知っていますが、限度というものがありますから」

「それも、議員からの言伝ですか?」

 他意なくそう訊ねると、庄司さんは一瞬目を丸くして、それからすぐにむっと唇を真一文字に引き結んだ。

「あくまで個人の意見です」

 そんな注意書きみたいなことを少し不機嫌そうに言うのがおかしくて、つい噴き出してしまう。

「笑うところではありませんよ」

「す、すみません……でも、ありがとうございます」

 情などないものと、思い違いをしていたのかもしれない。そう思う機会が、この頃とても多かった。庄司さんはもちろん、圭太郎は俺が頼んだことの二倍も三倍も走り回ってくれていたし、蓮さんも何かと気にかけてくれた。細やかな気遣いとか、気づくのは少し苦手なんだけど……ちょっとずつでいいから、分かっていければいいなと思う。いつもみたいにするりと帰っていった細い背中を見送り、また教本に視線を戻した。

 約束の日は、もうすぐそばまで来ている。


 昨夜は緊張のあまり何も手に着かず、ひたすら服にアイロンをかけた。本当は今日着ていく服だけのはずが、地味な私服が全部皺ひとつなくたたまれていて、自分に呆れながら服をしまった。

 会って、何を言うかは事前に決めてある。でも、何を言われるかは分からなくて、何を言われてもいいように心構えだけはしておく必要があった。嗤われるかもしれないな、とうまく回らない頭で思う。正体も知らず目を輝かせて、テロリストに笑いかける武装官。滑稽な、愚かな、光景だ。何度も言われたことだけど、本人にそう突き付けられてしまったら、きっと傷つくだろうなと他人事みたいに思った。

 圭太郎が半休を取ってくれるというので、お言葉に甘えてついてきてもらった。最初は遠慮したけど「いつも以上に何するか分かんねえから監督が必要」とまで言われてしまっては断れない。

「緊張してるのか」

「そう見える?」

「ああ。珍しいものを見た」

 そう言ってにやりと笑うので、変に緊張してるのがおかしく思えてきてしまった。何を恐れることがある。やるべきことは全部やった。筋もきちんと通した。後ろ暗いことは全くしていないわけじゃないけど、でも俺にはどうしようもない事情もあるし。

 手続きをしようと受付に向かう。必要事項を書いて提出し、呼び出されるまで待つ。それだけのことなのに、そわそわしてしまって落ち着かない。落ち着けよ、と肘で小突かれ、ごめんと肩をすくめる。

「悪い、ちょっとトイレ行ってくる」

「うん、わかった」

 圭太郎が席を離れてしまうと、しんとあたりが静まり返ったように感じる。手持無沙汰にきょろきょろ辺りを見回し、ラックに並べられているリーフレットに手を伸ばす。異能による事故の保険について書いてある。この手のトラブルは、異能について学び始める前の未就学児によく起きる。俺自身はそういった問題とは無縁だったらしいけれど、あんまり記憶に残っていない。

 無言でそれを読んでいると、怒ったような足音が聞こえてさっと首をすくめた。なんだか聞き覚えのある声まで聞こえて、必死で気のせいだと思い込もうとするが、顔を隠していたリーフレットをもぎ取られた。険しい目、見慣れた顔だ。立ち上がって素早く礼をして、取り繕うように笑みを浮かべる。

「志山隊長、おはようございます」

「御託はいい。聞かなくても分かっているだろう」

 威圧的な声に蔑む目つき。苦々しさを胸の奥に押し込めて、ただその目を見返す。

「一応聞いてやろう。ここ最近、熱心に何を調べている」

「……友人が、罪を犯すに至った動機に繋がりそうなこと全てです」

 友人、に少し力を込めてそう答えた。剥き出しの敵意に緊張が走る。俺は私服で、隊長は制服。普段の仕事を放り出してまでここに来ているのか。そう思うと無性に歯がゆかった。そこまで警戒しなくちゃいけないのか、自分の正義が法と噛み合わなかっただけの人を!

「分かっているのか? お前が会おうとしているのは凶悪犯だ」

「凶悪犯に面会してはいけないという決まりはありません」

 受付の向こうから人の気配がする。いいからそこをどいてくれと、口をついて出そうな言葉を喉元でどうにか抑え込む。時間は限られているのに、と焦るが、相手も引く気はないようだ。戻ってきた圭太郎がぎょっと目を剥き、早足にやってきて礼をした。

「まあまあ隊長、こんなところにわざわざ何しにおいでになったんで? ああそうだ、試験について実は聞きたいことがありまして……」

「後にしろ」

 圭太郎を睨んで下がらせ、隊長は声を潜めるでもなく堂々と言い放った。

「木村優の身柄は今後、武装隊が管理する。面会も一切禁止だ」

 突然すぎる宣言に、一瞬思考が止まる。圭太郎が息を呑むのが驚くほど鮮明に聞こえて、ようやく何を言われているのか分かった。そんな馬鹿なことが!

 蓮さんが慌てて駆け込んでくる。険悪な雰囲気を察知して、素早く間に入ってくれた。

「本日はどういったご用件で? 志山隊長であればわざわざ受付までお越しいただかなくても、担当者を向かわせますが」

「決まっている。用があるのはこいつだけだからだ」

 腕をつかまれ、咄嗟に反応できずに引きずられかける。みし、と骨が軋む音まで聞こえてくるようだ。足を踏ん張って抵抗していると、蓮さんが目の色を変えて制止に入る。

「志山隊長、彼には正式な面会の許可が下りています! それをどうして……」

「うるさい! テロリストを友人だなどとのたまう輩に会わせると思うか!?」

 びりびりと空気が震える。警邏隊と武装隊は役割が違う。必要に応じた協力体制はあるが、こんな強引な干渉は本来ならば有り得ない。嫌な汗がどっと噴出して、どうにかしなくてはいけないのに言葉が出てこない。

「ここは警邏隊の管轄です。いくら隊長でも、こんな強引なことをされては困ります。まずは……!」

 気圧されながらもそう言ってくれた蓮さんが、突き飛ばされて大きくよろけた。偶然居合わせたらしき警邏隊員がぎょっと目を剥いたのを引き寄せて何かささやき、背中を押す。そこでようやく硬直が解けて、「やめてください!」と叫んでいた。鋭い視線を向けられ、怯むことなく見つめ返す。

「庄司さんに責められるいわれはありません!」

「ならば貴様にはあるんだな!?」

「そんなわけがないでしょう! 俺は正式な手続きを……」

 そう言いかけた瞬間、風を切る音がして、横っ面を思い切り殴られた。

「お前に正義はないのか! 恥を知れ!」

 怒鳴りつけられ、視界がぐらりと揺れる。ふらついた背中を支えてくれたのは多分圭太郎で、本当は礼を言いたかったんだけど、投げつけられた言葉で頭の奥に火がついた。

 正義。正義か。その言葉について考えたことが全くないわけではない。子供の頃は憧れた。武装官になってからは照れくさいけれど確かに胸にあったもの。胸の中にごちゃごちゃと荷物が増えた今、それでも無くしていないことだけは分かる、形すらもあやふやなそれ。俺はそれをあまり口に出したくはないといつも思っていた。それは多分、定義してしまえば極端に脆くなってしまう類のものだ。

 圭太郎の腕を振り払って体を起こし、足音荒く隊長の前に立つ。吐息までめらめらと燃えそうに、腹の底が熱かった。

「正義を、その口で、語るなら」

 長身を生かし、見下ろすように、最大限威圧的に見えるように。怒りに燃える頭の内側で、余裕がないことを悟られるな、隙を見せるなと冷静な部分が叫ぶ。

「凶悪犯一人にそれほど取り乱すべきではないでしょう……!」

 たかだか一人の犯罪者に翻弄される正義が何の役に立つ。あの人は、手段こそ正しくなかったけれど、それでも一つ、あの人だけの芯があったのだ。きっと誰にも言わなかっただろう、こんな世の中で、何ができるのか悩んで、苦しんだんだろう。それを一方的に悪と決めつけて、断罪することを正義というのか。俺のいる組織はそんな正義を許すのか。

「ましてや、この組織は、正義や悪なんて、定義されてないものではなく……定まった法に、基づいて、動いているのではないのですか。隊長のしていることは、その規定を、本当に守っているのですか」

 出自を知って、思い悩んだことがある。親ですらない人の知らないところで生まれた子供に近い何か。愛どころか、感情の交感さえなかった末の生き物。正義か悪か、その二元論で振り分けたら、疑いようもなく悪だった。……生きる価値などないと、枕を濡らす夜もあった。それでも俺が生きているのは、人のために戦おうと思うのは、罪人となってしまったあの人が、真摯に言葉をかけてくれたからだ。

 誰かが勝手に決めた正義が、その人をただ悪と断定するのは不愉快だ。正義が横暴の旗印にされるのも。あの人は正しき法によってのみ裁かれるべき人だ。

「俺は自分のしていることが間違ったことだとは思ってない。自分たちの優位が、崩されそうだからって……そんな横暴が、通ると思っていることが……!」

 抵抗らしい抵抗をしてこなかった、その結果がこれだった。俺が常に毅然と対応していれば、必要以上にセキに注目を集めることもしなくて済んだかもしれないのに。自分の無力が、未熟が、短慮が、何もかもが悔やまれる。……いっそ友達になんかならなかった方が、あの人にとって良かったに違いなかった。その事実が何より悔しい。燃え盛るような苛立ちをどうにか飲み込んで、必要最低限の礼儀をかき集める。

「そこを、退いてください」

 血が沸騰してるんじゃないかってくらい頭が熱いのに、口から出る声は重たく冷たい。胸の内側で、不定形の正義が鋭く刺さる。荒く息を吐いて、まるで本来しゃべらないものが口をきいたみたいな顔でこちらを見る隊長を、いっそう強く睨みつける。

 早く、会いに行きたかった。時間は刻一刻と過ぎていき、もう突き飛ばしてあの扉を開けてしまおうかとまで思い始めたその時。

「……全くもって乱暴ですな、我らが隊長殿は。隊員に手を上げるなんて!」

 軽薄な口調で割り込んできたのは、薄く笑みを張り付けた圭太郎だった。驚いて見やると唇を尖らせて「そんな睨むなよ」と苦笑される。任せとけ、とでも言うみたいに肩を叩いて、俺を庇うように前に立つ。その背中は、鍛えられていて大きかった。

「らっ……私は、ただそいつの態度を、注意しようと!」

「態度を改めさせる程度のことで手が出るんなら、向いてないんで他の人間に任せた方がいいですよ」

 不遜な物言いに隊長は顔を真っ赤にしたが、圭太郎は怯みもしないで、大げさなまでに抑揚をつけて話し始めた。

「彼の態度は問題ないとは言えませんが、言ってること自体は正しいんじゃないですか? 警邏隊と武装隊の役割は違うんです。無理を通そうとすれば、内外から反発が来るでしょうよ」

 身振り手振りを交えて語る、圭太郎の声がよく響く。誰もがその声に耳を傾けている……と思ったら、蓮さんがいつの間にかいなくなっている。

「この馬鹿みたいに善良な城戸龍一隊員は、根が素直なので隊長殿の説教で自省を促すことはできますが……彼もまだ若い。その性根が、暴力によって歪められてしまう可能性は、全くないとは言い切れないのでは?」

 俺を殴った手を指して、圭太郎は大げさにかぶりを振った。

「俺はね、三つ子の魂百までなんて言葉は信じてないんですよ。どんな凡愚でも教育と努力次第で大成するかもしれないし、その逆だって……ねえ? どう思います?」

 その表情は見えないが、声だけはわずかに笑っていた。嘲るような、試すような、聞いたことのない声音だった。呆気にとられる周囲を置き去りに、圭太郎は続ける。

「彼の成績をご存じで? 十九歳という若さながらトップに食い込む成績、伸びしろも他と比べりゃまだまだ未知数! 本来なら警邏隊で働くはずがわざわざ引き抜かれた、その意味は一体なんでしょう?」

 自分の功績なんてロクに気にしたこともなかったけど、そう言われた隊長たちの表情が少し強張ったのを見て、おや? と首を傾げる。もしかして、俺の立場と実力って、実はお偉方にとってだいぶ厄介なのではないか? 自分で言うのも妙な話だけど。

「そんな彼がへそを曲げて、こんな組織くそくらえと出て行ったらどうなるでしょうねえ? いやいや、それで済めばまだいい方ですよ、問題一つ起こさずただ辞めていくだけならね! ねえ、どう思います?」

 張り上げていた声をそっと潜めて、しかしその場にいる誰にも聞こえるように言いながら、圭太郎は親指で俺のことを指した。

「……なりふり構わず歯向かわれたとして、無傷で済む自信がおありなんで? それなら余計な忠告でしたかね」

 そう言って肩をすくめ、これでしまいとばかりに腕を組んだ。さあ何か反論は? と待ち構える姿勢である。俺はぽかんとしてその姿を見ていたが、いつの間にかすぐ近くにいた圭太郎に耳打ちされて慌てて姿勢を正す。

「間抜け面すんな、もっと険しい顔してろ」

 少しむっとしたが、唇を引き結び、眉を吊り上げる。いなくなった時と同じようにいつの間にかいた蓮さんが圭太郎に向かって頷きかけると、頷き返して再び声を張り上げる。

「ま、少なくともルールの上で正しいのがどちらかはお分かりですよね? さあ、そこを通してくださいよ」

 ひらひらと手を振ると、蓮さんは無表情に「御用がお済みでしたらお引き取りください」と隊長たちを促した。舌打ちと、「このことは委員会に報告するからな」という捨て台詞を残して、足音荒く去っていく。道が開けた、と思うとほっとして、圭太郎に力なく笑いかける。

「ありがと……お世話になりっぱなしだ、本当に」

「礼なんか言うな。……遅すぎたくらいだ」

 浮かべていた笑みを引っ込めて苦虫をかみつぶしたような顔をする圭太郎は、壁に背中を預けて「流石に疲れた」とぼやく。急がないと、と駆け足になるその前に、二人がかりで首根っこをつかまれた。

「面会の前に、手当てをしないと」

「このくらいなら平気ですよ」

「いやいや、大げさなくらいにやっとけよ。この際思いっきり被害者面してやりゃあいい。実際手ぇ出されたんだからな。……そんな顔で行ったら、あっちもびっくりするだろ」

 二人に背中を押されて、空いた部屋に引っ張り込まれる。そわそわしていると、蓮さんは貧乏ゆすりをしていた膝にそっと手を置いて、如才なく囁いた。

「面会時間の変更の手続きをしておきました。焦らなくても大丈夫です」

 それでようやく肩の力が抜けて、されるがままに手当てを受ける。赤くなっていた頬もだけど、手のひらに爪が食い込むまで握りこんでしまい血が出ていた。全然、気づいてなかった……。二人が渋い顔をするので、にっこり笑ってはぐらかす。お前ってやつは、とため息一つで勘弁してくれた。

「俺は別に、暴力沙汰にするつもりはなかったんだけど」

 無理に通ることは考えていたが、それは今は黙っておく。

「脅すんだったら徹底的にやらんとダメだろ。実際、クビになっても構わんくらいに思ったらぶん殴ってやった方がすっきりするぞ」

 冗談か本気か分からないようなことを言う圭太郎に、蓮さんは聞こえないふりをしてくれている。目線を明後日の方向に向けているのがわざとらしくて、つい笑ってしまった。

「俺は当分辞める気はないよ。あんまり境遇はよくないけど……この仕事を、やり続けたい。それだけは多分変わらない」

 そうきっぱり言ってみせると、二人とも意外そうに目を瞬いている。

「辞めるとまでは言わんでも、嫌気くらいはさしてるんじゃないかと思ったが。なあ?」

「ええ……ここ最近は特に、嫌がらせも露骨だったようですし」

「全然そんなこと思ってない……とはいえないかな。でも、同じ場所で働いてるからって考え方まで同じとは限らないし」

 口の中を切ってないか見られ、手を診られる。促すような視線が二つ、少し口ごもってからゆっくり話し出す。

「俺は人を助ける仕事がしたい。それでもって、どうせなら異能を活かしたい。こんな仕事でもないと、どうしても制限ってかかるじゃないか」

 言ったことなかったかな、と首を傾げると、二人はなんだか微妙な顔をしている。

「まあ、そういう言い方すれば合理的ではあるが……」

「なんだかリスクとリターンが釣り合ってないように思います」

「そうですか? でも給料はいいけどなあ」

 そう言い添えると、圭太郎は困った顔のまま吐息だけで笑い、「お前がそれでいいならいい」とだけ言った。蓮さんはノーコメントだ。

「しかし……お前のやり方にケチつけるわけじゃねえけどさ、本当によかったのか?」

 何のことだろう、と目を瞬くと、圭太郎は眉をひそめて俺の手の傷に視線を落とした。心なしか、その声には後ろめたいものが混じっているように聞こえた。

「セキの罪が軽くなりそうな証拠を探さなくてよかったのかって話さ。いろいろ事情があったんだろ? それをちゃんと説明すれば、多少は考慮してもらえそうなもんだが」

「……俺の見方は、公正じゃないから」

 いろいろ動いてみて、よく分かった。親しい人が問題の中心にいて、それを冷静に見るのは難しいことだ。時間は限られているし、できることも多くはない。

「これから先のことは、専門家に任せた方がいいと思うんだ。これは俺が自分のために調べたことだし、裁判に必要なことは俺じゃなくて、セキがちゃんと話すよ」

 アスタリスクの目的と行為に、抒情酌量の余地があるかどうか。法には詳しくないので分からないが、捜査に直接関係するわけではない俺が何か言って効果があるとも思えない。それにまた隊長から変な疑いをかけられても困るし。

「そうですね。捜査をするのは人間ですから、関係者が口を出すとかえって心象は悪いかもしれません」

「それもそうだけど……えっと、俺が武装官じゃなかったら、そもそも口出しすることもできないじゃないですか。そう考えたら……言い方が悪いですけど、自分の立場を利用するのは、やめておこうかなって」

 言葉こそなかったが、圭太郎は露骨に呆れているようだった。律儀なことで、と唇が動くのを苦笑いで気づかないふりをする。

「友達が犯罪者なことと、俺自身が武装官なのには何も関係がない。俺はあの人の罪が、不正なく裁かれることについては何の異論もない」

「そうは言っても、刑は重いだろ……もし死刑だったとしてもか?」

「当然だ」

 それが、法の裁きならば。俺に口をはさむ権利などありはしないし、その気もない。裁かれて当然の人だ、あの人は。きっと本人も覚悟の上だろう。

「……そうか。そういうもんか」

 小さな声でそう呟いた圭太郎の表情をうかがい知ることはできなかったが、それに疑問を感じるより早く、圭太郎は蓮さんに問いかけた。

「ところで庄司くんよ、さっきの騒動の証拠、映像か何かで残ってないか? 一応こっちでも握っておきたいんだが」

「構いませんが……別に便利に使えるようなものでもないと思いますよ」

「いいんだよ、こっちも一枚岩じゃねえ。目を光らせてることを知ってもらうだけさ。俺よりもっとうまく使える人に回す。君もきちんと報告しといてくれよ」

「はい、もうしかるべき人の耳には入っているはずです」

 穏やかならざる雰囲気に置いていかれて目を丸くしていると、二人は視線に気づいてわざとらしく目をそらした。蓮さんなんてわざとらしく口笛なんて吹いている。いつもの笑顔はどうしたんですか、白々しい。

「こっちの話だ。ほら、逆の手も出せ」

 消毒され、他に痛む場所はないかと問われて首を横に振る。

「城戸さんは、セキさんが有利になるようなことはしないということですね」

 そう問われ、一つ頷く。そのあたり、隊長は誤解をしているみたいだったけど……説明する機会はあるだろうか。聞く耳を持ってもらえるとは、今は思えないけど。

「お前はそのスタンスでいいんだろうが、周りがどう思うかだよな」

「なら、行動で示すだけだよ。それでも信頼してもらえなくて、ここを辞めざるを得なくなったら……」

 そこまで言って少し考え込む。ここはあんまり自由な職場ではないが、ここでなくちゃできないことも多い。武装は個人で管理なんかできないし。

「民間の警護組織でも作ろうかな。個人じゃなくて、企業相手にとか」

「難しいだろうな。それにお前、ちゃんとそれで儲ける気はあるか?」

「どうだろうね」

 曖昧に笑ってみせたが、急な思い付きの割にはいい考えなんじゃないかと思う。組織のつくり方とか、そのあたりを学んでからじゃないと難しいだろうけど。何をするにも学ぶべきことは多い。へらへら笑っていると、蓮さんがいいことを思いついたと言わんばかりの笑顔で言った。

「警邏隊に入りなおしてもいいと思いますよ。必要な手続きについては調べておきますね」

「おい、さりげなく誘導するなよ! 辞めないって言ってるんだからな、こいつ」

 完璧な笑顔で受け流す蓮さんに圭太郎は呆れたようにため息をついて、ふと真面目な顔になって言った。

「お前はよくやってるよ。こんなクソ忙しいしクソ疲れる仕事の合間に、楽しいこと全部放り出してさ。しかもそれが友情のためと来た。そう簡単に真似できることじゃない」

「そうかな。圭太郎も俺のためにすごく頑張ってくれてたように思うけど」

 そう言うと圭太郎は意外そうに目を丸くして、すぐについとそっぽを向いた。

「そう見せたかっただけで、大半は見栄だ。かっこつけなんだよ、俺」

「謙遜しなくていいのに。いつだってかっこいい兄貴分じゃないか」

「……お前な、そういうこと言うから俺がかっこつかないんだろうが!」

 圭太郎は照れ隠しに肩を強く小突いて、蓮さんはそれを見ておかしそうに笑っている。少し前では考えられなかったことだ。姿勢を正し、頭を下げる。

「蓮さんも、いろいろ協力してくれてありがとうございました」

「仕事ですから……と言い張るのも野暮ですね。どういたしまして」

 そう返して、蓮さんは表情を引き締めた。

「志山隊長が動いたのは予想外でしたが……警邏隊も、流石にもう見て見ぬふりはできません。この件はいろいろな立場の人が介入してくると思います」

 しっかりと目を見据えられ、自然と背筋が伸びる。

「ですから、友達であるあなたがセキさんを支えてあげてください」

「……はい!」

 頷くと、蓮さんはまるで自分のことみたいに嬉しそうにしている。立ち上がると、圭太郎が笑って背中を押してくれた。

「行ってこい。ここに来るまでにどれだけ苦労したか文句言ってやれ」

「そうですよ。人はどうしても見返りを求めてしまうものですから、抑圧しすぎるのもよくないです」

 冗談交じりの意地悪い言葉と、優しい眼差しがただ心強かった。胸を張って、大きく頷いてみせる。

「ありがとう。行ってきます」

 いろいろ問題をあったけれど、それもどうにか片付いた。これから俺は、友人として、殺人犯に会いに行く。


「……久しぶり。少し、痩せたかな」

 一瞬目を丸くして、それでもふわりと笑ってくれた。ざんばらになっていた髪を整えられて、短く刈りあげられている。会うのは事件の日以来のことだ、顔の腫れは流石に引いているが、刺された傷はどうなんだろう。そう思うとどうにも胸が痛んだ。

「そんなに、久しぶりでもないです。一ヶ月もしないくらい」

「そうだったかな。こういう場所だと時間の進みが遅くてね……その怪我はどうしたの?」

「ちょっと、いろいろあって」

 当然の疑問を苦笑いではぐらかす。首を傾げる、セキの方こそなんだか痩せたように思う。何を言ったものかわかりかねて黙っていると、椅子を引いて座ったセキが「まあ座りなよ」と促した。

「面会なんて珍しいと思ったら、どうしてまた君なんだい。忙しいんじゃないの?」

「忙しいですけど、休みはちゃんと出てますから」

 聞きたいのはそういうことじゃないんだろうけど、あえて気づいていないふりをした。会話が続かないなんてことは俺たちの間には何度もあったけど、ここまで嫌な雰囲気になったことはなかった。

「お互い、腹の探り合いは得意じゃない。何をしに来た?」

 心底怪訝そうな、少しの棘を含んだ問いだった。

「捕まった人殺しに時間を割く余裕があるような生活してたか? 君」

「俺のことはいいんです。言いたいことがあるだけだから」

 訝しむような眼は変わらなかった。静かに深く息を吸い、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「あなたは、俺のこと結構知ってたみたいだったから……だから、俺もあなたのこと調べたよ。いろんな話を聞いた。そのうえで、言いたいことがあってきたんです」

 表情の険が少し取れて、目線で先を促される。

「実は、今回の面会の内容は記録されません。俺がそう頼んだから」

 まっすぐに目を見つめてそう言うと、一瞬目が大きく見開かれて、すぐにそっと伏せられた。

「俺の、何もかもを話します。……聞いてもらえますか」

 慎重に問いかけると、躊躇うような間を置いて小さな頷きが一つ。背筋を伸ばし、その目をまっすぐに見つめた。

「俺の名前は城戸龍一。武装隊六十二小隊に所属する武装官です」

 その名乗りに、セキは重々しく頷いた。知ってましたよね、と確認すると、「雑誌で見たからね」と予想通りの返事。まあそれは分かっていたことで、大事なのはこれからだ。

「親は不明ってことになってますけど、本当は龍島光明議員の、異能が扱えるように改造されたクローンです」

 こうやって、自分の口で打ち明ける日が来るなんて思っていなかった。セキは表情を硬くして息を詰めた。薄々分かってたんじゃないですか、と確認すると、少し気まずそうな顔をする。

「君の身元を調べたとき、何故かいろいろ妨害を受けてね……議員からの圧力だって知った時は驚いたけど」

「隠し子じゃないことも知ってたんですか?」

「まさか……議員の関係者だって分かった時点で探りを入れるのはやめたよ。余計な火種を増やしたくはない。パーツだけ見れば親子みたいに似ているとは思ったけど、そこまでだ」

「その割には、驚いてないっぽいですけど」

「顔に出ないタイプなんだ。君がこんな話を始めた時点で出し切ったよ」

 本人の言う通りなのだろう、声にはどこか戸惑うような響きがある。いくら科学技術が進んだとはいえ、こんな突拍子もない話がきたら困るだろう。そんな表情を見るのは初めてで、そんな場合じゃないのに笑みがこぼれた。大丈夫、思っていた以上に緊張はとれてるみたいだ。

「高校を卒業する直前に、突然そのことを教えられて……自分の生まれを知った時、どうすればいいのか分からなかった。高校を卒業したら、異能を生かした仕事に就きたいと……そう思ったことが、もしかしたら、自分の意志じゃなくて、誰かにそうなるように仕組まれたものなんじゃないかと思って、怖かった」

 それでも、誰にも相談できず、ただ時間が過ぎるのを待つばかりだったところに、SNSを通じてセキと知り合った。実際会ってみることになって、話してみて……そんなつもりはなかったかもしれないけど、救われた。そんなに昔の話でもないのに、思い出がひどく遠い。

「結局、その時は自分の仕事とかも言えなかったし、細かいことは何も話せなかったけど……そんな状態で話を聞いてくれて、本当にうれしかった」

 本当に、ただ楽しかったのだ。頼れる年上の友達。優しくて、大人で、自分にないものを持っているように見えた。立派な人間でありたいと漠然と思っていたけれど、言葉に救われてようやく、優しくありたいと初めて思った。

「人間関係について相談したことも、ありましたよね。職場でね、友達ができたんです。五つ上の、同僚で。頼れる兄貴って感じ。あと、警邏隊の人ともちょっと仲良くなって……」

 少し照れくさいような気分でそう言うと、セキの表情は柔らかくほころんだ。

「それはよかった。私のアドバイス、ちょっとは役に立ったかな」

「ちょっとどころじゃなかったんです。何度も助けてくれて……」

 一瞬言葉に詰まる。あなたがいなければ、あなたがいたからと、気持ちばかりが先行して言葉が追いつかない。そんな自分がひどくもどかしい。泣きたいような気分でセキを見ると、視線が絡んで目が柔らかく細められた。

「ゆっくりでいいよ、落ち着いて」

 穏やかな笑みと、優しい言葉は、初めて会って悩みを打ち明けたときの態度と何ら変わるところがなかった。ありがとうございます、と小さく言って、一度深呼吸。よし、大丈夫だ。

「俺はあなたに相談に乗ってもらうばかりで、何も返せていなかった。年上だし、悩んでいるような素振りも見せてくれないし……あなたのことを少しだけ知った今なら言える。あなたの友達である俺に、今度はあなたを支えさせてほしい」

 言葉にしてしまえばその理屈はひどく単純だった。セキの逮捕を経て、こんな簡単な結論に辿り着くために随分な遠回りをしてしまったように思う。それでも、だからこそ何の後ろめたさもなく、素直にそう言うことができる。

「今はできることは少ないけど……でも、俺にできることなら、何だって」

「……そんなことする必要はないよ。私は君の話を聞いていただけじゃないか」

「それが、俺には必要だったんです。だから俺が、あなたに必要なことをしたい」

 そう言い切ってから少し不安になって、「法に触れない範囲で、ですけど」と付け足すと、セキはくすくす笑った。

「分かったよ、何かあったら頼らせてもらう。……でも、忙しいんだから無理しなくていいからね」

「無理のうちに入りませんよ、こんなの」

 そう言ってから、いやこうやって会う時点でいろいろ無茶を押し通しているな……と我に返る。議員と庄司さんにはあとで謝っておかねばなるまい。ひっそり冷や汗をかいていると、セキはそれを見透かしたみたいに苦笑した。

 不思議と穏やかな空気だった。にこやかに微笑んでいたセキが、そっと目を伏せる。

「そう思ってくれていたなんて知らなかった。私はただ……友人として、当たり前のことをしようとしていただけで……武装官だったことを知った時は、どうしたものかと思ったけど」

 言葉を切って、おずおずと再び口を開く。そんなことの繰り返しの、訥々とした語りが弱々しいのが気になった。以前は綺麗で手触りのいい布を何枚も重ねたその下に、しなやかな芯が通ったような、そんな雰囲気があったのに。

「この出会いは偶然だったし、私たちの目的に君は関係がなかった。だから……君と仕事は分けて考えることにした。そうすべきだと思ったからだ」

体の調子が悪いとか、それだけではないところに原因があると思えて仕方がない。触れてみて、折り重なった布だけを持たされたような、そんな空虚な気配がするのだ。気のせいであってほしいと思ってしまうくらいには切実に。

「生まれも育ちも平々凡々、あるのは死にそうなくらいの焦りと危機感だけだった。それだけのために何もかも捨てて、がむしゃらにやってきた。……うん。自分の行いに、後悔はない。反省はあるけどね」

 しみじみとした語りに、不意に違和感を覚えた。何を急にと問う前に、まるで独り言みたいにセキは言う。

「罪を犯し、裁かれる。それって普通の人は、すごく軽蔑することだ。私の場合は特に罪が重いから、恐ろしいと思う人もいるだろうよ。私のことを知っている人も、知らない人も」

 そこまで言ってようやく、視線が俺の方を向いた。

「でも君はまだ、私を友だという。失望して、縁を切る方がずっと楽なことなのに」

「そんな……自分だけが、楽な道は選べなかった、だけで……」

 歯切れの悪い反論が、まっすぐな視線に貫かれて途中で消えてしまった。その目が、何故だか怖かった。何を考えているか分からない、向けられたことのない異質な感情が、そこにあるような気さえした。

「自分だけ楽はできない、か。そうか、君はそういう子だったんだな」

 初めて知ったとでも言うような、かみしめるような言葉だった。言葉がいつものような滑らかさを取り戻し、それなのに俺はなぜかそれを喜ぶことができない。

「君と友達として会えてよかった。きっとすごく得難いことだ、大人になってから、こんなに親切な子と仲良くできるなんて思ってもいなかった。アール、私の友達、勘違いしないで聞いてほしい」

 唐突に、ぞく、と背筋に冷たい予感が這いまわる。少し前の、何も知らなかった時みたいに呼ばれた喜びなんて少しも感じられなかった。何も言わないでほしい、聞きたくないと、理由も分からず強く願う。それなのに糊付けされたみたいに唇は開いてくれなくて、悪い予感は過たず、とうとう刃は振り下ろされたのだ。

「君みたいなヒーローが、私の味方でなくて本当に良かった。悪い意味じゃないよ。でも、心の底からそう思うんだ」

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文芸部その2 司田由楽 @shidaraku

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