種無し人間の末路

@mebari

第1話

 種無し人間の末路

                         


 その島は、常に暗闇に覆われている。時計も存在し、過ぎ行く時間の中で生活している人間もいたが、太陽が昇るということは無く、周囲の海は枯れていて、あらわになっている海底には魚やサンゴの化石が、転がっているだけだ。

 ジャメルは、顔工場で働いている男だ。長身で痩せており、まるで鉛か何かが頭の中に流し込まれているかの様な、憂鬱な目をしている。自分がいつこの場所にやって来たのか覚えていない。この島に住んでいる人は皆、そう言う。ジャメルもその内の一人で、一風変わった頭痛を患っている。その頭痛は時折嫌な夢を伴う。悪夢の舞台は、紛れも無いこの島だ。ジャメルはいつもこの島のどこかで、監視官に追われている。ジャメルは彼等から逃れようとするが、やがて八方ふさがりになる。そして、様々な方法で命が奪われそうになる時、息絶える前に、目覚めるのだ。その夢と、頭痛にどのような関係があるのかは分からない。しかし、悪夢は頻繁に訪れ、頭痛も癒えることが無い。その日は、監視官に振り落とされるナタで頭を割られるところだった。

「おい、大丈夫か?」

 ジャメルは目を開けると、心配そうな顔をして覗き込んでいる同僚の顔を見た。その後ろで、監視官が目も鼻も口も無い、土で出来た顔をこちらに向けている。仕事中に頭痛が悪化し、耐えきれなくなってかがみこんでしまったのだ。

「すみません、もう大丈夫です…」

 ジャメルはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。体が多少ふらつくが、頭痛は何とか治まっている。同僚は、心配そうな表情をしながら自分の定位置に戻って行った。監視官も、ジャメルが落ちついて手を動かし始めるのを見届けると、ゆっくりと、監視台へ戻って行った。

 仕事中に、このようなことになったのは久しぶりの事だ。近くで作業をしている他の同僚達も、少し動揺しているらしく、横目でチラチラとジャメルの方を見てくるが、話しかけてくる事は無い。仕事中の私語は禁止されている。不真面目な態度をとろうものなら、すぐに監視官がやって来て、ひどい場合には暴行を加えられる。特にジャメルは、毎晩夢の中に現れるその恐ろしい姿のせいで、人一倍監視官に対して恐怖心を抱いていた。

 彼等は固い土で出来ている服も着ていない人形で、時折まるで猛獣のうなり声のような声を腹から出すが、言葉を話すということは無い。しかし、ひとたび彼等に刃向う人間が現れれば、体の中に秘められている恐ろしい力で、制裁を加えてくる。顔を潰すこともあれば、手足をもぎ取ることもある。もしくは、その場での制裁ということにならない場合でも、島のどこかにある収容所に人間を連行し、その人間の本質が変わるまでありとあらゆる拷問を行ってくる。噂によれば、こん棒で体中を殴ったり針をさし込んだりするのは勿論のこと、目が完全に乾燥してしまうまで強引に瞼を開きっ放しにしたり、鼓膜が破れる程の音量で録音された呪詛の言葉を聞かせたりということもするらしい。しかし、それが人間の死につながるということはほとんど無い。何故なら、そこで生産されている人間を生かすことが、監視官達の仕事だからだ。

その島で生産される人間は、頭の中に種を埋め込まれている。やがて種が発芽すると、監視官達はそれを島の外へと送り、その代わりに新しい人間の材料が送られてくる。

 監視官と呼ばれている人形の役目は、人間が作られるのを管理し、そして発芽した人間を島の外に送り出し、島に送られてくるものを引き受けることだ。島と、外の世界はどこかにある通路でつながっているらしいが、そこは監視官に厳重に隠されているらしく、島人達の目に触れたことは無い。

 ジャメルが働いている顔工場も、監視官に管理されていた。その顔工場は島の中でも随一の大きさを誇っていて、当然生産される顔の量も、働いている職人の数も多い。日々、沢山の職人によって黙々と、配給された無地の皮は切り刻まれ、これから生まれる人間の顔につけられるのを待つのだ。そういった環境なので、他の例えば洋服を作ったりしている工場に比べて監視は厳重で、職人達が緊張感から解かれるということは無かったが、それでもそれに見合うだけの対価は支給されていたので、彼等は耐えることが出来た。

 ジャメルは、夜ごとに訪れる、監視官に殺されそうになるという夢のせいで、自分が彼等に何か目を付けられているのではないかと考えたが、監視官達がそのような素振りを見せることはなかった。むしろ、ジャメルは頭痛によって時折非効率になることを除けば実に真面目で一生懸命仕事にも取り組む、監視官達にとっては理想的な人間だった。そして、ジャメルもそうあろうと努めていた。

 ジャメルは、気を取り直して自分の前に置かれている未完成の顔を見た。口も、鼻も出来ているが、目は片方だけしかない。もう片方の目を作ろうとしていたところで、倒れたのだ。ジャメルは、ナイフを手に取り、二重瞼の、大きな目をそこに彫り始めた。皮は、ピリピリという音を立てて裁断されていった。新しい皮は、ジェルが塗られているような光沢感が表面に有り、アルコールのにおいがする。

 いつも通り、作業は目がかすむ頃になってようやく終わりを迎えた。高い天井に取付けられた、大きな鐘が鳴るのを合図に職人達は手を止める。そして、監視官達が全ての作業台を訪れ、出来上がった顔の枚数を確認すると、その後ろからやって来る顔干し人が皮を回収して行く。彼等は、この日出来上がった全ての顔を、夜間の、冷たい空気の中にさらさなければならない。夜間の静けさと、冷たさの中で顔は乾燥し、特有の表情が与えられるのだ。

 監視官達のチェックを終えると、職人達は工場の入館証を入口に預け、一日の疲労が滲み込んだ重い足を引きずり、顔工場から出て行くのだった。職人達のいなくなった顔工場には、屋上で出来上がった顔の皮をネットに並べている、腰の曲がった顔干し人達だけが残された。

 工場から一歩外に出ると、ジャメルと同じ様に労働を終え、帰路につこうとしている人々で道は溢れていた。そこは工場地帯で、顔工場だけで無く、様々な工場が集まっている。頭髪の工場、頭蓋骨の工場、そして目玉や脳を生産している工場。そして当然ながら、全く体の部位には関係の無い、雑貨や食器の工場といったものもある。

どの工場も古びたレンガ造りの建物で、傍目にはあまり変わらないように見える。作っている物の種類に準じて、工場は集まっていた。街灯の灯りを受ける石畳の上には大きな時計台が立っていて、仕事が終わる時刻を示していた。街の所々、主に人が集まる場所に同じ様な時計塔が立っている。個人で時計を持っている人間も勿論いるが、この島で売られている小さな時計は壊れやすい上に高価だったので、どちらかと言えば時計塔の方が島人には重宝されていた。それらは、街中、いたるところで朝の決まった時間になるとけたたましい音をたてて島人達を叩き起こす役割も持っているのだ。

ジャメルにとってもそれは同じで、苦労して手に入れた時計はすぐに壊れてしまい、今修理に出しているところだった。しかし、問題は彼が住んでいる場所で、そこは住居区ではあるが、時計塔からだいぶ離れた場所にあった。そのせいで、朝のベルが聞こえない。仕方無く、ジャメルは朝の決まった時間に間違え無く起きることが出来るように、近所に住んでいる早起きのパン屋に、出勤する途中でドアをけたたましく叩いてもらうことにしていた。その報酬として、自分で作った果物のジャムを毎朝、ドアの前に置いておくのが日課になっていた。実際にそのようなことをしてもらわなくても、自分が目を覚ますことが出来るというのは分かっているのだが、それだけジャメルは心配性であった。

 ほとんどが操業を終え、静まり返った巨大な工場が立ち並ぶ間を、やがてバスが走ってくる。作業員達は、自分たちの家に帰る為のバスがやってくるのを待ち、それがやって来ると大体が沈鬱そうな表情を引きずりながらそれに乗り込んで行く。

 人間の種類は多種多様だ。男もいれば女もいるし、年齢も様々だ。そして誰もが、名前、製造年月日、製造された工場、そして住所といった情報を胸の上に刻印されている。

 生産された人間は、年をとる事が無い。今存在しているそのままの姿で生産され、そして生き続ける。子供は成長する事が無く、老人もそれ以上動けなくなるという事が無い。そして子供は子供らしく遊び回る事を好み、老人は静かに物思いにふける事を好む。その姿が維持される限り、永遠に。老人には、まるで子供時代を過ごして今まで生きて来たかの様な記憶が脳内に埋め込まれており、子供にはただ目前にある出来事を楽しむという才能が授けられていた。

 ジャメルは、まだ若い。今かかえている持病と、この世界に対する恐れを抱き、今後も生き続けて行くという事になる。その島に住む人々にとっての、大きな問題は、自分の寿命を計り知る事が出来ないという事にあった。人の寿命を決めるのは、生産される時に脳内に埋め込まれる種だ。種は、島で栽培されている特殊な植物から取り出される。堅い刺の生えている、植物だ。その種が脳の中央に埋め込まれなければ、脳は稼働せず、人間は動く事すら出来ない。種は、寿命が訪れた時に脳の中で発芽する。発芽した人間は、それを回収するのが仕事となっている人間によって島中で回収され、監視官に引き渡され、そして島の外へ送られてゆく。

 やがて、まるで鉄同士が強引にすり合わされるような耳障りな音を響かせながら、ジャメルの前にバスがやって来た。バスは、まるで鉄屑を強引に組み立てたかの様な、みすぼらしい見た目をしていて、扉も取れかかっていた。しかしそれでも、人を運ぶには充分らしい。ジャメルは乗り込むと、緑色をしたビニール張りの座席に腰掛けた。座席は破けており、中に入っている汚れたクッションが時折見えている。詰め込めるだけ人を詰め込むと、バスは車体をきしませながら、ゆっくりと走り出す。

 しばらくの間、窓の外には工場地帯が続く。路上には様々な工場から出された廃棄物が巨大なドラム缶の中に山積みになっている。破けた服や、ツバの折れた帽子、レンズの無い眼鏡、そして黒目の無い目玉…。不完全であるというだけで、どうやら同じ価値とみなされるらしい。ゴチャゴチャに寄せ集められたそれらは、夜の間にやって来る収集人によって回収されて、朝になれば何事も無かったかのようにすっからかんになっているのだ。

 その廃棄物等のゴミが集められているのが、工場地帯の隣りにあるゴミ山だ。正確に把握しているわけではないが、おそらく工場地帯と同じくらいの広さがあるだろう。文字通り山のように盛り上がっていて、欠陥を持ったものや、食べかす等が寄せ集められている。その為、一帯には悪臭が漂い、時々自然発火するらしく煙が立ちのぼっている。当然、そこに足を踏み入れたがる人間は少ないが、ゴミ山の中にはそこで生活をしている人間もいた。そのほとんどが体の小さな子供だ。他の島人達と同じように、彼等も生まれながらそこを住居として与えられた。ゴミ山を漁り、金目のものを探す。例えばちょっとだけ手直しをすれば使えそうな家具や、他のゴミにまみれることによって奇妙な形になった動物の遺体など。中には鉄屑を使って人形を作っている子供もいる。又、そのゴミ山の一番奥には独立した大きな煙を上げている火力発電所があり、島中に電力を供給しているが、そこも又監視官の管轄になっているので、一般の島人達が中に入ることは無かった。

 そして、工場で作られるものや、ゴミ山で拾われたものが、集まるのが繁華街と言われている一帯だ。 

広い繁華街は、一つの大きなドーム状の建物を中心にして出来上がっている。そしてドームの両脇には、色とりどりのテントや、老朽化した雑居ビルが密集しており、迷宮のようなものが出来上がっている。そこに日用品から、ゴミ山で拾われたようなものまで、ありとあらゆるものが集められていた。ドーム周辺の路地では常に、取り壊しと建設が繰り返されていて、まるで生物のように刻一刻と姿を変えていた。そのせいで、そこの中にある店で働いている人間や、住んでいる人間でさえ、全体像をとらえることが出来ないでいたし、とらえようとすることも無意味に思えるほどだった。しかしどうしてそのようなことになってしまうのか。それは実のところ、その路地に住んでいる数多くの人間にとって、その方が都合が良いからだった。事情はそれぞれであるようだが、彼等は定住を嫌う。飽きやすい場合もあれば、人目から逃れたいという場合も、そしてとにかく自分以外のものに認識されるのを拒否したいという人間もいるだろう。住む場所も、商売を営む場所も、常に流動的であることを好む人間であるというのが、そこに住む為の唯一の素質となっていた。

路地裏とは反対に、ドームは全くその姿を変えず、まるでその一帯の主であるかのように強固なその姿勢を保っている。そして細かく分かれているその内部で何かしらの商売を営んでいる店にもほとんど変わりは無い。銀行や、工場作業員達の制服を販売している服屋、野菜や肉を販売している食料品店等。それは単純に、彼等の商売が堅実であり、人々からそれなりに信用を勝ち得ているということの証明でもあるのだが、当然例外はあり、人々から罵倒され、そこから追い出される人間の姿も時折目についた。又、中には飲食店も多くあり、多くの人々の憩いの場となっていた。人々は時折思い出したようにそこへ行き、一時を過ごす。しかしその場所で得られる感情は長続きせず、すぐに消えて行くので、そこにいない時にその人々の気を和らげるという事は無かった。

 島の住人に家族はいない。誰もが一人で生産され、そして死んでゆくという非常に孤独な運命の持ち主である。それでも、それが普通になっている島の人々にとっては、それほど辛い運命でもないらしい。ほぼ一定に保たれている島人の住居はほとんどが繁華街の先にある住居区に集まっている。内側をくり抜かれた岩の場合もあれば、その間に建設された塔の一室である場合もある。木材と、棄てられた金属の破片で作られた塔は高さがまばらで、それぞれ一つの階に一人の人間が住んでいる。それが高い塔の場合は、当然地上に近い場所に体の弱い年寄りが住んでいて、高くなればなるほど体の強い男が住んでいる。岩に住んでいたジャメルは、それらの塔を見上げては、上に住んでいる人間達が見る光景がさぞ美しいものであろうと空想したが、同時に生まれた時からその場所をあてがわれていて、毎日その長い階段を登らなければならないということが辛いことなのではないか、とも思っていた。

繁華街にある停留所で、何人かの乗客を吐き出した後、バスは終着点である住居区へ辿り着いた。この先は、この島の大部分を占めている高く険しい岩山がそびえていて、進むことが出来ない。バスから降りた人々は、道の両側に広がっているそれぞれの住居へ帰って行くのだった。それぞれの家には住所もあてがわれていたが、地面が白い砂で覆われているその住居区は、どこも見た目が似ているので、自分の家が何処にあるのか、分からなくなることもあった。その為、いたる所にそれぞれ近くに住んでいる人が目印にと、使い古された家具や動物の骨といった、色々なものを置いていたが、その数は増える一方で、逆に目印に迷わされるようなこともあった。

 ジャメルは、外套の襟をたて、自分が住んでいる岩へ向かって行った。街灯によってつくられた住人たちの長い影が、岩や塔の間にのびていた。又、すでに帰宅している人間も多いらしく、塔の中にあるいくつかの窓からはオレンジ色の明りが洩れてきており、路上に出されているゴミ袋を照らしている。

 やがて、ジャメルは自分の岩に辿り着いた。岩の隣に置いてある、巨大な二枚貝の貝殻が目印になっている。ジャメルは、玄関の足元、砂の下に隠している鍵を掘り出すと、木製のドアの鍵を開け、中へ入って行った。岩の中を通っている暖房用パイプのせいで室内はとても暖かい。ジャメルはその暗い部屋の中に一歩入ると、ほっと一息ついて着ていたボロ布を脱いだ。そして、小さな丸窓から入って来る外の明りを頼りに、ベッドがある場所まで進むと、枕元にある電灯のスイッチを入れた。

突然明るくなったことに驚いたらしく、カゴの中で眠っていたヘビと鳥の配合種が目を開け広げ、甲高い威嚇の声を放った。それは、数日前繁華街のペット屋でジャメルがレンタルしたものだ。悪夢を食べる性質があるので、数日間枕元に置いておけばやがて悪夢をみなくなるという触れ込みだった。どこかの工場で、偶然生まれたらしいが、今のところ全く効果が無い。ペット屋に返金してもらおうかと思っており、正直その醜い顔を見ているだけで胸糞が悪くなるというのに、まるでこの家の主であるかのように傲慢な態度をとるのだからたまらない。そのヘビ鳥にとっても、ジャメルが見る悪夢は中々腹に溜まらないらしく、ここに来てから機嫌はあまり良くない。しかし空腹で死なせるわけにもいかないので、仕方無くジャメルは麦を練ってつくったボールなど、自分の食べ物の一部を分け与えていた。ヘビ鳥はそれをいかにも不味そうな顔をしながらボソボソと食べるのだった。

その、ヘビ鳥が入っているカゴの他に、部屋には小さなベッドが一つと、食料や水が入っている細長い壺がいくつかあり、狭くはあるが調理場も、水浴び場も、勿論トイレもあった。煙突もあるので火を起こすことも出来る。簡素ではあるが、一度住んでしまえば掃除をするのも楽な、心地よい空間だ。壺の中から、酢の臭いがただよってきて、玄関口に置いてあるゴミ箱からもれてくる腐臭と混ざるのが少々難点ではあったが。

 ジャメルは眠る前に何を食べようかと考えたが、壺の中に入っている野菜の漬け物や、麦等はそれほど食欲をそそるものでも無かった。これから料理をするのも面倒だ。作り置きをしているものもあいにく無い。ジャメルは、疲れた時に時折そうするように、外で食べ物を買うことにした。わざわざ繁華街まで行かなくても、近くにある塔の一室に、魚のサンドイッチを売っている女がいるのだ。ジャメルは、丸窓からその塔を見ると、女がいる部屋の窓からは、大きな魚の頭がロープで吊り下げられているのが見えた。サンドイッチが売り切れていないサインだ。ジャメルはそこへ行く事にした。

 ジャメルは再びボロ布を着込むと、ゴミ袋を持って外に出た。玄関の脇にそれを置き、歩き始めると一層冷え込んだ大気が身にしみた。ひび割れた頬の隙間を、冷たい風がなぞってゆく。帰宅している人も多くなっているらしく、灯りのついている窓が増えている。向かいにある岩の窓は暗いままだったが、中から経文を唱える声が聞こえるので、人はいるらしい。暗闇を好む人間もいる。

 女のいる塔へ行くまでに、人と会う事は無かった。ジャメルは辿り着くと、脇についている螺旋階段を上がって行った。するとそこには、一人だけ先客がいた。背筋の曲がった白髪の老婆で、万力で押しつぶされた様な顔をしている。繁華街にあるテントの中で、いつも萎びた野菜を売っている老婆だ。どうやら、注文をした品を待っているらしく、皺だらけの手でほつれた小さながまぐちを大切そうに持っている。やがて小窓から魚の腸がはみだしているサンドイッチが差し出されると、老婆は顔をほころばせながら金を払い、それを受け取るとゆっくりとした足取りで階段を下りて行った。

「こんばんは」ジャメルは、老婆の姿が見え無くなると、腰を少しかがめてサンドイッチ屋に声をかけた。「小魚のサンドイッチを二つ、腸抜きでお願いします」

 女はそれを復唱すると、すぐに調理にかかった。

小窓からは、部屋の中で忙しく動き回っている女の首から下しか見えなかった。白いTシャツに、短パンをはいた上に、丈の短いエプロンをしている。長くて美しい手足が、魚の骨や目玉等が転がっている床の上で優雅に動いている。そして壁に並べられたビンの中から、注文されたサンドイッチに使う材料を一つ一つ取り出すと、すでに切り込みの入れられているパンを棚から取り出し、まな板の上で丁寧に完成させた。

ジャメルは、サンドイッチを受け取ると、階段を覆っている柵の間から、遠くの暗闇に目をやった。音も、水も無い暗い海。種が発芽せずに死んでしまった人間の体は、全てその中に捨てられ、やがて消化されるように消えて行くのだ。

海には毒がある。一定間隔で、その内側に溜まった毒ガスが海辺まで漂って来るので、その周辺には住んでいる人間がいないし、当然工場や店の類も無い。そこに行くのは、遺体を捨てに行く収集人だけであり、その仕事のせいで収集人達の多くが皮膚に病を患っている。しかしそれでも、その職を放棄するということは出来ない。全ての職は、まるで体に結びついているように、人から離れることが出来ないのだ。毒ガスの元は、かつてそこに水があった時に生命を営んでいた生物の化石であるという話も、無尽蔵に捨てられていく人間の遺体のせいだと言う人間もいたが、正確な答えはまだ出ていない。調査を名乗り出る、科学者の類も今までいたが、彼等は決まってその枯渇した海に足を踏み入れたきり、帰って来なかった。命綱を付けていたとしても結果は同じで、まるで荒々しく引きちぎられているように見えることもあれば、ナイフを使って、まるで自分の意志であるかのように丁寧にロープが切断されていることもあった。残された人々は魚達の霊の仕業だとか、中に入ると気が狂うのだとか、色々なことを噂したが、真実は分からない。

島人達は、そこにかつて波があったということを知っている。それは太陽に関しても同じだ。それら全てを、この島は失ってしまった。かつてそれらが存在していたということを誰もが知っていたが、同時にそれが正確にいつごろのことであったのかということを覚えている島人はいなかった。そして、そういった、確実に存在していたが輪郭のぼやけたものを追いかけるように、島人達はその島が失ってしまったものを様々な書物に記し、維持しようと努めていた。

サンドイッチを食べながら、老婆を追い越し、ジャメルは家へ戻って行った。燻製にされた小魚は乾燥していたが、一緒に入れられている漬け物のお陰でパンにも良く馴染んでいて食べやすい。

 咀嚼されたサンドイッチのカスが、少しずつ胃の隙間を埋めてゆく。向かいの岩からは、相変わらず経文を唱えている声が聞こえる。その声は、さっきよりも大きく、まるで大気を揺さぶるかのような強い躍動感を得ている。その声に突き動かされるように、収集人の男が、巨大なリヤカーを引き、まるで大き過ぎる殻に入り込んだヤドカリのように、軒先に出されたゴミや、発芽した人間、又は発芽すること無く種が死んでしまった人間を集めながらのそのそと歩いている。勿論、ゴミと、人間の体はリヤカーの中できちんと分別されている。見たところ、今日も数名の体がのせられていた。リヤカーの上で、こちらを向いている発芽した人間の眉間からは、小さな柔らかそうな芽が出ている。ジャメルの玄関の前からも、ゴミがきれいに無くなっていた。

 家に入ると、ジャメルはサンドイッチを全て口の中に放り込み、水浴び場で体を洗った。まだ読んでいない、昨日の新聞紙が床の上に置かれている。

ジャメルはベッドに横たわりながら、何気なくそれに目を通し、やがてうとうととしてくると、又現れるであろう悪夢を恐れながら、電灯のスイッチを切った。天井の電球は少しずつ光を失い、やがて丸窓が暗い室内に浮かび上がった。そしてその窓を通り、音もはっきりとした形も無い、悪夢という存在が岩の中に入り込んできた。

 

激しく水が落ちる音がする。体内の凍った血液が少しずつ氷解してゆくようだ。体の下には、温もりを失った、湿った木の板がある。手足は縄で結ばれているらしく、体の上にも何かがのっている。首も、体も動かすことが出来ない。

目を開けると格子があり、その先に水汲み人の男達が並んでいるのが見えた。隣には自分と同じように人間が横たわっているらしく、手で触れることが出来るが、動きは無い。

水汲み人達は背中におさまりきらないくらい大きな水瓶を担いでおり、列の前には巨大な貯水槽がある。そして、その上、壁から突き出ているパイプから、美しい水が流れ出し、ザブザブという音を立てて貯水槽の中に注ぎ込まれている。

ここは、浄水場だ。彼等は水を汲み、それを必要としている人々に届ける。顔ぶれを眺めていると、ジャメルの家に定期的に水を届けにくる男の姿もあった。水汲み人はほとんどが、屈強そうな若い男で、例外無く頭、顔、手足の毛を剃り上げ、白いマスクをしていた。水の中に毛が入るのを避ける為だろう。

放水が終わると、列が少しずつ動き出した。貯水槽の脇に取付けられている階段には、何人かの人間がおり、瓶をリレー形式で運び、水で満たしては水汲み人に手渡して行く。梯子の脇には、腰に太い鞭をつけた監視官が立っている。水汲み人達は渡された瓶を背負うと、前かがみになって浄水場の外へと順番に出て行った。

やがて、ジャメルが知っている水汲み人の番がやって来た。男は、他の水汲み人と同じように出口へ向って行った。その姿を目で追っていると、男は途中で立ち止まった。出口の前には、カゴを背負った男が立っていて、長いトングを使いそのカゴから白い物体を取り出して、そのまま水の中へ入れた。動物の骨だ。骨はゆっくりと瓶の中へ消えていった。

動物の骨。扇型をした、大体二十センチくらいのものだ。それを水の中に入れておくことによって、不純物が取り除かれるだけでなく、カルシウムが水中に溶け出す。特にその部位で無ければならないということは無く、普段よりもおいしい水が欲しいと思った時は特別にその旨を伝えて、その時に余っている骨を入れてもらうことが出来るのだ。その瓶の中に沈んでいるのは、中でも特に高級な骨盤の部分だ。ジャメルも、時折体が疲れて来たと感じた時はふんぱつしてそれを頼むことにしている。

どんなに高貴な精神を持っている動物であっても、死んだ後で自分の骨を好き勝手に扱われていることに腹を立てることは出来ない。生きた状態でこの島に動物がやってくることは無いので、生きている時に自分達の行く末を見ることは無い。動物達は、自分達の肉がこの島で喰われ、そして骨が水の中に入れられているということを単純に知らないのだ。そしてそのことを知っている島人達も又、生きている動物がどんなものなのかを知らなかった。

骨は長い間水中に漬けておくうちに、不純物を吸い取り、黒っぽくなってゆき、又カルシウムが溶け出したことによって表面にまるで星のクレーターのような穴がボツボツとあく。そうなった時が替え時だ。放置しておくと骨は砕けて、それまで内側に溜めこんだ不純物を、まるで星が爆発するように、水中にばらまいてしまう可能性がある。その水を飲むことが、体に良く無いのは言うまでも無い。

ジャメルは、瓶の底に沈んでいったその真新しい純白の骨を見ながら、自分の家の水瓶に入っている骨のことを思った。しばらく入れたままだ。こうして留守にしている間に不純物を吐き出しているということももしかしたらあるかもしれない。早く帰りたいと思ったが、体を動かすことは出来なかった。

一体この場所で何をやっているのだろうか。ジャメルはぼんやりと考えながら、時折骨を受け取っては外へ出て行く水汲み人達の姿を見ていた。すると、瓶の中に入れられている骨の一つが目に止まった。それは、明らかに人間の頭蓋骨だった。カゴから取り出された頭蓋骨は、その他の骨と同じように、ためらわれること無く水の中へ入れられた。人間の骨が、この使い方をされるというのは聞いたことが無い。何とも、恐ろしい話だ。いかに不純物を取り除く効果が高く、カルシウムを多く含んでいたとしても、その水を飲む気にはならないだろう。監視官によって黙認されているというのも不思議でならない。

許せない。ジャメルは声を荒げて叫ぼうとしたが、声を出すことは出来なかった。それだけで無く、体の中に奇妙な空虚感がある。まるで体の中に詰まっていたセメントが、いっきょに流れ出てしまったかのような。意識を集中し、その原因を突き止めようとすると、それは体から骨が無くなっているからだということに気付いた。

幸い、全ての骨が抜き取られているわけではないらしい。どうやら、無いのは背骨の一部のようだ。背骨は、骨の中でも重要で、大きな存在感をほこっている。例え一部とは言え、それを失ったことは、大きな喪失感をジャメルにもたらした。それに、もしかしたら自分で気付いていないだけで他の骨も抜かれているかもしれない。

あのカゴの中に、自分の骨が入っているのだろうか。横を見ることは出来ないが、この柵の中には自分と同じように骨を抜くために集められた人間が積まれているに違いない。

ジャメルは、体の中に沸々と湧いてくる怒りを感じたが、それが誰に対してのものなのかは分からず、そして何よりも既に抜かれた骨を元に戻すことが出来ないという事実の方に打ちのめされた。

ジャメルが呆然と建物から出て行く水汲み人達の姿を見ていると、ふいに床が揺れた。錆びた車輪が擦れるような耳触りな音がする。自分が載せられているこの台車が動き始めたのだ。

台車は、浄水場内をぐるりと一周してから、出口とは別の暗い通路に入って行った。水汲み人達も、監視官も、それが見えないのか、全く関心を示さなかった。

台車は、何者かに動かされ、その狭い通路を進んで行った。そしてやがて別の屋内があらわれたと思うと、目の前を覆っていた柵が取り外された。同時に体が宙を舞い、視界がグルグルと回転した。その時、台車を運んでいたらしい太った男や、一緒に運ばれていた三、四人の人間の姿も視界に入り込んで来た。下には、ゴミらしいものが積まれているが、ジャメル達以外に人間はいないように見えた。

台車を運んで来た男は、ジャメル達が落下するのを見届けると、通路の中へ戻って行った。落下した際の衝撃が、体の芯を揺さぶっているが、それはやがておさまった。蒸し暑く、胸の底まで入り込んで来るかのような悪臭が、ジトジトと湧いてくる汗にまとわりつく。一緒に落ちてきたのか、まるでブドウのような丸い腹をした、太った男が同じように手足を縛られて倒れているが、意識がある様子は無い。長方形の、細長い室内をおおう壁は、煤のようなもので真っ黒くなっていて、天井には小さな電球が一つだけついている。自分達が放りだされた穴の他にも太いパイプが一つ出ている。おそらくそこからも、ゴミ等が吐き出されるということだろう。鉄屑、野菜の切れ端、ウジの湧いた肉、使い古された日用品。そして、おそらく秘密裏に骨を抜かれて棄てられた哀れな人間。反対側の壁は途中で途切れており、そこからベルトコンベアが一本伸びている。ガタゴトと、不規則な音をたてているその先には、窯が口を開けており、次々に運ばれて来るものを呑みこんでゆく。この暑さは、その窯のせいだ。

ベルトコンベアの起点には、人間が一人立っており、そこから先に進ませるものとそうでないものの分別をしている。顔にはマスクと分厚いゴーグルをしていて、ビニールのエプロンと手袋をはめている。人間であることには違い無い。この暑さと、ストレスのせいだと思われるが、体は痩せていて、頭は完全に禿げあがっている。そしてその体は鎖で背後の壁につながれている。自分の意志で、そうしている訳ではないらしい。確かに、正気を保ったまま出来る仕事ではないだろう。ジャメルはじっと目を凝らすと、確かに窯の脇に、監視官らしい存在が立っているのが見えた。

恐怖に身がすくむ。こうなってしまえば、意識を失って心地良さそうに寝ている隣人がうらやましく思える。しかし、どうあがいても自分で意識を失うことや、眠ることなどが出来ないことは分かっている。こうなってしまえば、出来ることは一つ。何とかしてこの境遇に逆らい、生き延びようとするしかない。

ゴミ山は、ベルトコンベアによって削りとられて少しずつ小さくなっていった。ゴミが仕分け人の手に届かなくなると、まるでゴミ山自体に意志があるかのように、ベルトコンベアへ向かってすり寄っていった。仕分け人によって操作されていることだろうか。ゴミの動きからすると、その部屋の底に何かレールのようなものがあり、それが動いているのだろうと思われる。

ジャメルの隣りにいた、ブドウのような腹をした男は、結局目を覚ますことも無く、ベルトコンベアにのせられ、その先へと送られていった。仕分け人は、同じ人間のそのような姿を見ることにやはり抵抗感を感じているらしく、マスクの脇から歪んだ口元がはみ出しているのが見えた。

やがて、ジャメルの番がやって来た。仕分け人は、ジャメルをベルトコンベアにのせたが、その時にはっきりと二人の目が合った。その次の瞬間、ベルトコンベアが突然止まった。仕分け人が、意図的に何かを機械に挟みこんだようだった。そして、すばやくナイフのようなものでジャメルの手足を縛っている縄を切った。仕分け人は、聞こえるか聞こえないかという程の小さな声で、今監視官が丁度離れているところだ、早く逃げろ、とジャメルに言った。

ジャメルがゆっくりとベルトコンベアから降りると、再びベルトコンベアが動き出した。何か異変を感じ取ったらしい監視官が、窯の脇にある岩穴から出てくるのが、見えた。ジャメルは気付かれぬようにそっと、ベルトコンベアの陰に身をひそめながら、出口らしいところを探した。体の皮膚という皮膚から、汗が噴き出して来る。やはり体の空虚感は本物で、体を支える感覚がやけにぎこちなく、一歩進む毎にフラフラと上半身が揺れた。しかし不思議と、痛みは感じない。恐怖のせいで、神経が張りつめているからかもしれない。

出口らしいものは、その監視官が現れた岩穴以外には無かった。じっと目を凝らすと、その先に明りが見える。他の監視官の姿は無い。

監視官は、窯の脇で、仕分け人の作業をじっと見守っているらしい。ベルトコンベアの下からのぞき見ると、その腰には棘の付いた木の棒をたずさえている。今のところ、監視官がこちらの様子に気付いているということも、岩穴から、他の監視官がやってくるということも無さそうだ。後ろから回り込み、窯の中へ投げ込むことが出来ないだろうか…。

ジャメルは、ベルトコンベアの下を通り、ゆっくりと窯の近くまで忍び寄った。窯のせいで気温が上がり、じっとしているだけで汗がジトジトと噴き出て来る。監視官の下半身は、もう目と鼻の先に見えている。窯とその体には隙間があるので、うまく入り込めば、思い通りにことを運ぶことも出来るだろう。監視官は、両手をだらりと体の脇に下げ、直立不動の姿勢のままで全く動く気配を見せない。その時、再びベルトコンベアが止まった。何が起こったのかは分からない。しかし、その瞬間、監視官のだらりと下がっていた手が棒の柄に触れた。臨戦態勢をとり、仕分け人の方を向いている。   

今だ。ジャメルは後方に滑り込み、監視官の両足を掴んで持ち上げると、そのまま背後にある窯の中に放り込んだ。窯の中から、まるで大木がメキメキと裂かれる音のような、喉というフィルターが破れるほどに大きな雑音に近い絶命の声が一瞬聞こえ、炎は勢いを増した。

 見ると、折れかけたホウキの柄が、ベルトコンベアの始点に挟まっている。そのせいで、止まったのだろう。青い顔をしてブルブルと震えている仕分け人を尻目に、ジャメルは空虚な体を揺らしながら岩穴の中へと入り込んで行った。体をたてて進むと、上半身のバランスの悪さが際立った。足を前に出す度に、前後に上半身が大きく揺れて、倒れそうになる。歩を早めるのに比例し、揺れ方も激しくなるのであまり急ぐことも出来ない。

 ジャメルは壁を伝い、一歩一歩ゆっくりと慎重に進んだ。出口に近づくにつれて、何か機械がぶつかるような音が聞こえて来た。その先には、白いタイルに覆われた部屋があった。部屋の中を太いパイプが通っており、長方形の巨大な黒い箱につながっている。音は、その箱から聞こえている。良く見ると、箱の底からは、魚の腸のようなケーブルが、床下へもぐりこんでいる。

 ジャメルはかがみ、じっとその部屋の様子を眺めた。じとじとと額に浮き上がってくる汗が、目の中に入りそうになるのを、手の平で払いのける。人影は見当たらない。黒い箱の横に、木の椅子が一つ置いてあるだけだ。その部屋からの出口も見当たらない。ジャメルは部屋の中に入りこんだ。すると、気温が急激に高くなった。パイプがかなり高温らしく、それがつながっている壁面も、触れることが出来ぬくらい熱い。あまり長い間いることは出来ないだろう。ジャメルは揺れる上半身がパイプに当たらないように注意しながら、部屋の中を歩き回った。すると出口らしい扉が、箱の裏側にあった。かがまなければ通れないような小さな白い扉で、大きな丸いハンドルが付いている。

早く熱から逃れようと、扉がある方へむかっていると、不意にそのハンドルが回り始めた。ジャメルは引き返し、パイプの下を抜け、箱の陰に隠れた。

ハンドルが何回転かすると、扉は重々しい音を立てて開いた。何層にもなっている、分厚い扉だ。そこから、監視官が一人出て来ると、そのまま扉を閉じ、軽くハンドルを回して閉め、こちらの方へ歩いて来た。ジャメルが、箱の裏側に隠れていると、監視官は箱の脇を通り過ぎて岩穴の奥へと消えて行った。

 ジャメルは出口の方へ行くと、扉を開けようとしてハンドルを持った。そして、回そうとしたが、それはかなり重く、思うように動かすことは出来なかった。奮闘している内に、岩穴の奥から悲鳴が聞こえた。おそらく、あの仕分け人のものだろう。すぐにあの監視官が戻ってくるかもしれない。

ジャメルは、渾身の力を籠め、再びハンドルに向かい始めた。ハンドルは、少しずつ回り始めた。悲鳴は、思ったよりも長い間続いた。仕分け人のことを考えると、あそこへ戻らない自分の臆病さに嫌気が差す。しかし、このバランスを失った体で監視官に正面から戦いを挑む気にはならない。

やがて、まだかすかに悲鳴が続いている中、重い音をたてて扉は開いた。扉の隙間から、冷たいそよ風が入りこんで来る。外だ。顔を出すと、その扉が付いているのが、荒い岩の斜面であるということが分かった。そこはまるで陥没した岩山の内側のようになっていた。岩肌が、ぐるりと一周していて、反対側も見渡せる。全体が、上からライトで照らされている。

谷底に目を凝らすと、網目状に張りめぐらされた金属の仕切りの下で、何やら人間がもぞもぞと動いているらしい。耳を澄ませば、風にのり人間の呻き声が聞こえてくる。風は下から吹き上げられ、岩肌には、半円形の穴が無数に掘られていて、その隙間、所々にハンドルのついた扉がある。斜面には階段が掘り込まれていて、全ての穴や扉がつながっているように見えるが、定かでは無い。そして山頂はひと一続きの高いフェンスで囲まれていて、その所々にライトや、人間の頭蓋骨が飾られていた。ここから出ようとする人間への戒めだろうか。中には、まだ肉も手足も残ったまま、頭を串刺しにされている人間の姿もある。

見渡したところ、監視官の姿は無いようだ。ジャメルは一瞬ためらい、室内に戻ろうとしたが、振り返った時、監視官がパイプの下をくぐり抜けて来る姿が目に入った。その体には、仕分け人のものと思われる血液が大量にかかっている。ジャメルは扉の外に這い出した。そしてそのまま、這いつくばって階段を降りて行った。何処かに隠れなければ、命は無い。すぐ近くにあった穴を覗き込むと、奥は暗くて見えなかった。しかし入って行くと、突然監視官の顔が中から現れた。ジャメルは飛び退き、階段に出た。扉を見上げると、仕分け人の返り血を浴びたあの監視官がもう出て来ていた。ジャメルは、上体を起こすと、そのいびつな階段を走り降りて行った。通り過ぎるいくつかの穴からは、異変に気付いた監視官達が、体を折り曲げながら外に出て来ているところだった。

焦りに支配されたジャメルは、バランスを完全に失いながら何処かに逃げようとしたが、それが何処なのか全く分かっていなかった。揺れる上半身は何度も岩肌にぶつかった。そして、ついに煮崩れたジャガイモのようになっている階段に足を滑らせ、転倒してしまった。ジャメルはまるでマリのようになって階段を転げ落ち、そしてやがて階段から外れると、底へ落ちて行った。そして、張りめぐらされた金属の仕切りに体を強く打ちつけた時には、もはや恐怖心も、その衝撃によってバラバラに砕け散ってしまったようだった。

仕切りの下にいたのは、やはり人間だった。助けを求める力も残っていないらしい、絶望に支配された人間の、まるで呪いのまじないのような呻き声がいくつも重なり、煮えたぎる地底の炎のようにジャメルの鼓膜を焼いていった。

ジャメルは、体を横たえたまま、かすかな明かりに照らされている仕切りの下に目線を落とした。自由を失った無数の人間。棍棒で、ムチで、ナイフでその囚人達をいたぶる監視官達。中央には、人間の体液で出来ていると思われる池があり、一人の監視官が気持ち良さそうに両腕を広げ、入浴している。骨組みだけになっているベッドは乱暴にいたるところに散らばっており、囚人達は体を丸め、硬い岩の上に体を横たえている。ゴミ山から拾われて来たかのような、乾燥した肉の切れ端がついている骨が、転がっている。囚人達は、みなお揃いの、青いつなぎを着ていた。何人かはそれもボロボロになっていて、骨の浮き出た裸体をさらしている。囚人の一人は、現実から逃れようとしているのか、目を閉じて座禅を組み、呪詛の言葉らしいものを唱えているが、監視官はそれも気にいらないらしく、自分の体くらいはありそうな巨大な棍棒で、繰り返しその頭を殴りつけていた。だれも、ここにいる自分の存在に気付いていないのか、目を合わせてくる囚人はいない。

何かが仕切りの上を歩いて来る。音からして、数は複数のようだ。しかし、もはや首を動かす力も、気力も無い。麻酔をかけられているみたいだ。浄水場で目覚めた時と同じように。

監視官に、ジャメルは仰向けにさせられた。周りには沢山の監視官がいて、ジャメルを取り囲み、見おろしていた。その内の一人が、腰から小さなナイフを抜いた。頭上から注がれている光が、鋭く刃先に反射した。刃先には自分の顔も映っていたが、まるで水銀の膜をかけられたかのように、ぼやけてしまっている。それが恐怖のせいか、何なのかは分からない。

監視官は、ナイフを何度か、顔の上で揺らして見せた。そして、それを使い、ジャメルの額に浮かんでいる汗の玉をすくいとった。そして突然、まるで張りつめられた矢が放たれるように、溜まった朝露がこぼれ落ちるように、監視官は俊敏な動きでナイフを振り上げると、それをジャメルの眉間へ振り下ろした…。


ジャメルは目を覚ました。額に手を当てると、冷たい汗が指にまとわりついた。生きている。ジャメルはいつものように、現実に感謝をささげ、ほっと息をついた。ベッドの脇では、ヘビ鳥がジャメルの方を見ながらカゴの中をうろついている。やはり、今しがた訪れた悪夢も、ほとんど口にすることが出来なかったのか、腹はへこんでいる。あれほどの悪夢でも、全く物足りないということか。その表情には自分に対する非難さえ含まれているように感じる。さすがに、そろそろ限界だ。ジャメルは、ペットショップに文句を言いに行く為、その日は仕事を早めに切り上げ、繁華街へ向うことにした。

仕事を終え、バスを降りると、一際明るい街灯の明りが目に入り込んで来た。ドームの前では、これから訪れる夜を越す為か、小さな焚き火をしている子供達がいた。ジャメルは、その前を通り過ぎ、ドームの中へ入っていった。

 一歩中に入ると、狭い通路沿いの店内には、どこもそれなりに客が入っていた。一つの酒場の中には、かつて顔工場で一緒に働いていた男もいたが、どうやら相手はジャメルの事に気付かなかったらしい。それぞれの店の中には、一人で、その場を楽しんでいる人間もいれば、楽しそうな表情を浮かべて会話をしているグループもいた。

 ペット屋も、その通路沿いにあった。曇ったガラスの上には、〝あなたの生活に、潤いを与えます〟というキャッチフレーズが書いてあり、その前には今日売りに出される、黒いサナギの案内板が出ている。ガラスの前では今日も店主の男が、客引きに精を出していた。

「おっと、お兄さん、ちょっと寄って行かないかい?今日は珍しい色の鳥が入っているよ。お買い得だぜ。勿論、見るだけでも構わない。更に、店内ではこれから今日初売りの黒いサナギを披露するのとあわせて、ダンスの催し物もある。寄って行って損は無いよ」

 店主は口髭をはやした小太りの男で、黒いチョッキの上に赤い蝶ネクタイをつけていた。昼間から酔っている男達を引き入れようとしているところらしかったが、ジャメルの顔を見ると呼び込みを中断し、愛想の良い笑みを浮かべた。しかし、ジャメルの顔がそれに応じないどころか、敵対心すら含んでいることを敏感に感じ取った店主は、すぐに怪訝そうな顔をした。

「これはこれはジャメルさん、一体どうしました? ヘビ鳥は元気ですか?」 

 ペット屋は、近づいて来ると、手を差し伸べた。形式的な握手を済ませると、ジャメルが口を開いた。

「実は、全く効果が無いんです。それどころか、あれときたらまるで自分が家主であるかのような、非常にふてぶてしい態度です。こちらとしても、正直言って不快でしてね…。それで、お返し出来ないかと思って来たんです…」

 ジャメルがそう言うと、ペット屋は一瞬顔をしかめたが、すぐにそれは打算的な考えによる穏やかな表向きの表情に覆われた。

「ええ、勿論返していただくのは構いませんがね…。効果が全く無いというのは、驚きです。今まで誰一人として、そんなことは無かったので。おそらく、時間の問題だと思いますよ。ジャメルさんの中にある、悪夢の素を探し出すのに時間がかかっているのでしょう。きっと、あなたの脳が普通の人間よりは複雑で入り組んだ構造になっているんですよ」

 ペット屋は、話をする中で相手が喜ぶような褒め言葉を混ぜ込むことに長けているらしい。複雑で、入り組んだ脳、と言われれば聞こえは良いが、ただ単に整理がついていないと言うことも出来る。

「どうぞ、中へお入り下さい。詳しい事は中でお話しましょう」

 ペット屋はそう言うと、中にジャメルを招き入れた。店内には大小様々な檻が積み重なっていて、中には、爬虫類や鳴かない鳥、とても濃い眉毛をしている猫等が、一様に魂を失い、自分が何処にいるのかという事にすら全く関心が無いというような無気力な様子で、寝そべっていた。全く胸糞の悪くなる臭いだ。奥にはステージにつながっている通路があるが、ペット屋は反対側にある地味な古ぼけた扉を開け、事務所らしい部屋にジャメルを連れて行った。小さな部屋の中には、部屋の大きさとほぼ同じくらいの灰色の机があり、書棚からはまるで手入れのされていない庭に生えている雑草のように、書類が乱雑に飛び出ている。どう見ても、入口よりも机の方が大きい。机が初めにそこにあり、入口が後からつくられたのではないかと思える程だ。

 ペット屋は、書類を探しながら、ジャメルに机の反対側にある椅子に座るように言った。そして、目当てのものを見つけると、机の上に置いた。ジャメルがヘビ鳥をレンタルする際に交わした、契約書だ。ペット屋は自分も窮屈そうに座り、じっとその書類に目を落とした。

「こちらに、書いてある通りですが、お返しいただくということになった場合、レンタル料金の返金は出来ません。効果は絶対ではありませんし、他にお待ちいただいているお客様も沢山いますのでね。それを考えれば、後四日ほどレンタル期間は残っていますので、ぎりぎりまで試されるのが良いかと思うのですが、いかがでしょうか?」

 てっきり、レンタル料金が戻って来ると思っていたジャメルは、提示された契約書を改めて見直した。確かに、そう書いてある。呆然としているジャメルをよそに、ペット屋は机の中から木の額縁に入った標本のようなものを取り出した。それには、大体親指の第一関節くらいの大きさの、虹色の光沢を放つ貝殻のようなものがいくつか並べられていた。それぞれには採取された日付らしいものが記されている。

「この、一番端のやつ、実は私から出て来たものなんです」ペット屋は、一番大きな、少し透明感のあるものを指しながら言った。「私もね。ひどい悪夢にうなされていたんですが、あれのお陰で救われた人間の一人です。今では、取り出された石は全て研究所に渡す事になっているのですがね。昔は自分で持っている事が許された。悪夢がひどければ、ひどいほどこれは美しい光りかたをする傾向があります。そして時には見つけにくいことも…。今まで、あのヘビ鳥が見つけられなかった石はありません」

 ジャメルは、それを見るのがはじめてだった。刻一刻と色が変化してゆくその石は美しいが、自分の中に似たようなものが入っているというのは信じがたい。それが事実だとすると、それを失ってしまうのは少し残念なようにも思えるが、毎晩訪れる悪夢から解放されるというのならその方が良いに決まっている。体の中にあっても、見ることは出来ないのだ。

 ジャメルは、少し悩みはしたが、ペット屋に従うことにした。どうせ、金も戻って来ないのだ。腹をすかせたそれに自分の食料を分け与えるのは面倒だし、癪にも触るが大した出費でも、労力がかかるわけでも無い。ジャメルが、渋々ながら、何度か頷くのを見てから、ペット屋が言った。

「ちょっとこれを見ていただきたかったので、来てもらいました。書類も一緒に再確認したかったので…」

「ええ、分かりました。当初の予定通り、後四日間お借りすることにしましょう。症状が悪化しているということはありませんからね。それに、いけすかないやつではありますが、色々聞いていると、鼻が高くなるのも当然の過去を持っているみたいですし…」

 ペット屋は、うつむきがちなジャメルの重たい目を見据えながら、顔の半分に笑みを浮かべた。

「良かったです。こちらとしても、あれだけの大金を払っていただいて、納得いただけなかったらいたたまれませんからね…」

 そう言うと、ペット屋は腕時計に視線を落として、そろそろダンスが始まる時間なので、せっかくだから観て行かないかと言った。まだ、時間は早い。ジャメルはその誘いにのることにした。

 事務所を出ると、二人は檻が並べられている通路を通り、店内の奥にある小さなステージへと向かった。ステージの前には小さな客席があり、並べられた丸椅子には、ダンスを観に来たらしい、老若男女様々な人間が腰を据えて、踊り子が現れるのを待っている。この昼間に、繁華街に来ているということは、夜仕事をしている人間なのだろうか。もしくは、たまたま休みをとったのかもしれないが、わざわざ貴重な時間を費やす値打ちがあるのかどうかは不明だ。

 赤い照明が当てられているステージからは、店内の臭いをごまかす為か、お香の煙が客席へ向けて流れている。その香りは、檻の中のペット達にも評判が良いらしく、太い眉毛をした猫は気持ち良さそうに眠りに落ちていた。ペット屋は、隅から新しい椅子を持って来ると、ジャメルをステージの前に座らせた。やがて、ステージのそでから踊り子が現れた。

 踊り子は若い女で、首にヘビを巻き、胸と腰に黄色い布を巻いていた。猛禽類を思わせる鋭い目つきに、金色の長い髪の毛。美しい手足をしている。どこかで見た事がある。やがて、ステージの裏から聞こえて来た小太鼓のリズムに合わせて、ヘビと一緒に優雅に踊り始めたその女を見ながら、ジャメルはその女を見たのがどこなのかと思いを巡らせた。すると、窓から吊り下げられている大きな魚の頭が脳裏をよぎった。あのサンドイッチ屋の女だ。顔を見たことは無いが、手足の形にしろ、動きにしろ、カウンターから普段見ている、あのサンドイッチが作られていく時の動きにそっくりじゃないか。きっと、踊り子を夢見るこの女は、日中このペット屋等で踊りをしながら、夜はサンドイッチを売って生計を立てているのだ。踊りのことを常に考え、生活しているのだろうと思うと、ジャメルは深い尊敬の念を覚えたが、同時に、その女の踊りはジャメルが頭の中で造り上げていた美しいサンドイッチ屋の女という幻想を打ち砕くものでもあった。

 確かに、踊り子の目は魅惑的で、鼻も立派であったが、その口はまるでペンチで何度も折り曲げられたかのように様々な方向に歪んでいたのだ。踊り子にとって、その口を隠さずにステージに立つというのは、勇気のいることかもしれないが、その勇気のせいですぐ目の前で傷付いている人間がいるということにはまるで気付いていないらしい。ジャメルは、思わず目をそらせながらも、踊り子に向けて自分の指を動かして見せて、自分が常連客であるということを示そうとした。しかし、それは自分の指に対する思い上がりに過ぎなかったようで、踊り子は全く関心を示さず、客席全体に対して、ヘビと一体化して緊張感のある踊りを披露し続けていた。

 小太鼓のリズムは、踊りが後半に近づくにつれて早くなり、やがて小石の大雨が岩の大地に降っているような連打となった。踊り子は、そのリズムに合わせて、暴れる蜘蛛のように激しいステップを踏み、汗を撒き散らしながらヘビが素早い動きで喰らいついてくるのをかわす。小太鼓のリズムと音に触発されたのか、観客席からは豆の殻が少量ステージに飛び、踊り子の太ももに当たる。後ろを振り返ると、酒と殻付きの豆を持ち、興奮している醜い髭を生やした老人がいた。

ジャメルの中では、ダンスが進行するのと同時に、あの好物のサンドイッチが作られ続けていた。もはや、ジャメルは踊り子のその手足の動きしか見ていなかった。切り分けられる魚の燻製、豪快に割られる野菜の漬け物、そしてあらかじめ準備されている、長く硬めのパン…。そしてそれらが、一つにまとまり、サンドイッチが完成されるのと同時に、鳴り響いていた小太鼓の音は止み、踊り子はまるで力尽きたかのようにステージ中心に片膝を立てて座り込み、顔をその中に埋めた。全身で呼吸をし、体の表面では汗が固まって沢山の粒になっている。光を反射させている透明なウロコのようにも見える。その隣りで、非常に従順な人工のヘビはおとなしくトグロを巻き、首を上げてじっと客席に目を向けている。

ステージのそでから、ペット屋の男が拍手をしながらおもむろに現れた。それに触発されたかのように、客席からもまばらな拍手が起こった。ジャメルも、愛想程度に手を打ち鳴らしながら、それが間違ってもアンコールにつながらないようにと祈った。

そのジャメルの祈りはステージに届いたらしく、踊り子はペット屋の男が現れると、目立たぬ動きでヘビを抱えながらステージの裏へ下がって行った。ペット屋は片手で麻袋を持っていて、拍手が治まるのを待ってから口を開く。まるで演説が始まったのかと勘違いしてしまうかのような大きな声だ。

「皆さま、ありがとうございます。類稀なる才能の持ち主、ミス・クニタのダンスはお楽しみいただけたでしょうか。それでは早速、皆さまお目当てのものをご覧いただきます」

 ペット屋はそう言うと、袋の中に手を突っ込んで片手でつかむのが精いっぱいという大きさの、真っ黒くて細長い卵のようなものを取り出した。良く見ると、その側面には、沢山溝が入っていて、てっぺんには丸い目と、口らしいものがついている。何とも気味の悪い代物だが、それ故に目を奪われずにはいられない。

「こちらが、本日売りに出される黒サナギでございます。サナギといっても、羽化することは無いのでご安心下さい。黒く塗り固められたこのサナギの中では、半永久的に鼓動が続きます。中にいる幼虫は眠り続けているのです。一見残酷に思えますが、そんなことはありません。実はこの虫、羽化したところでこの島で生き伸びる事は出来ないのです。それを見越した上、研究所による慈悲でこの処理が施されたところ、何と予想外の事に、これが置かれた場所の空気が浄化され、鼓動に耳を傾ければ、体の中に埋蔵されているエネルギーに体が満たされて行くという現象が起こったのです」

 そう言うと、ペット屋は黒サナギを床に一旦起き、袋の中から急いで聴診器と拡声器を取り出すと、鼓動を観客に聞かせた。鼓動は、トクットクッと一定間隔で鳴っていて、確かに耳を澄ましていると体の中にある、今まで存在することすら知らなかった扉がノックされているような感じがする。ペット屋は、あと少しでその扉の内側にいる何者かが音に気付くだろうという丁度良いタイミングで、聴診器を外す。

「いかがでしたでしょうか? 実は先ほど踊りを披露しましたミス・クニタもこの黒サナギの音を昨晩聞き続けました。そのお陰か、今日の踊りはいつにも増して切れがありました。効果・効能に人の差あれど、お試しになる価値は充分にあるでしょう。さあ、本当のあなたに出会う又と無いチャンスです。本日売り始めの黒サナギ、いかがでしょうか? 何と5個限定、お値段は一つ5000円。こちらはレンタル無しの買い取りのみです。さらに今日でしたら、漏れなくこちらの聴診器もプレゼント。さあ、皆さま早いもの勝ちですよ?」

 正直なところ、ジャメルも興味は多少そそられたが、ヘビ鳥の一件があるので買い手に名乗り上げるのは避けておいた。ステージの前には、それに興味があるらしい観客達が群がり、ペット屋に何かを聞いたり、実際に黒サナギを手に取ったりしている。ジャメルは、それを尻目に、とぼとぼと店の外へ出て行った。食料を買って、帰ることにしよう。

 ジャメルは、やがてドームを通り抜けた。外には骨組とビニールの屋根だけで出来たテントが並び、その中で食料や、既に欠けている食器等が売られている。暗い電球の下で、売り手達は静かに、客がやって来るのを待っている。そしてテントの後ろ側には、新旧様々な建物が広範囲に建てられていて、永久に形が定まらない迷宮を作り出している。ジャメルは、顔を作る報酬として与えられた小銭で、野菜や乾燥した肉等を買い込むと、麻の袋にごっちゃにつっこみ、肩にかついでバスに乗り、帰路へついた。

 いつもよりも、早く工場を出たジャメルは、その分だけ余計に翌日がんばらなければならないという憂鬱な事実を忘れて、出来るだけその日を楽しむために、仕入れた食材をつかって料理を作ることにした。幸い、頭痛もやって来ない。ヘビ鳥は、籠の中の棒にとまりながら動かずに、薄目を開けてその主人の様子を見ていた。視界を狭くすることで、自分が属している世界から隠れている気になっているようにも見える。

 ジャメルは、小枝に火を点けて鍋をのせると、その中でタマネギをいため、骨付きの乾燥肉を粗雑に突っ込むと、貴重な水をふんだんに入れてアーモンド型の香草と塩で味付けをした。骨から味が出るまではかなり時間がある。夕食の一時のためにそれ程の時間をかけることが出来るという贅沢を味わいながら、ジャメルは久しぶりに部屋の掃除をすることにした。火のお陰で、部屋の中は格段に暖かくなった。

 厨房の周りには、いつの間にか油がこびりついており、空になっている水瓶の底に触れると、ヌルヌルとした質感が指先に伝わってきた。ジャメルは、ホウキで床をはき、雑巾がけをしたが、その直後にヘビ鳥が唾液を床に吐き捨てた。ジャメルがそのことに気付いたのは、おおかた掃除が終わった頃だった。床が汚れていた時にはそうする気にならなかったのだろうかと、気に障ったが仕方無い。後四日間は面倒を見るということに決めたのだ。ジャメルは籠の下に古新聞を敷いた。そしてグツグツと鍋の中で揺れ動いている骨の音を聞き、良い香りを嗅いでいると、やがて心が落ち着いてきた。しかしその状態も長くは続かなかった。再び強い痛みがジャメルの頭に到来し、ジャメルは床の上にしゃがみ込んでしまった。

 玄関がノックされたのは、丁度訪れた頭痛から逃れる方法が無いかと、頭の中でもう一人の自分が出口を探して走り回っている頃だった。パチパチと火が燃え、料理が煮える音と、ヘビ鳥が嘲る声だけがする家の中に、硬質な音が二度響いた。ジャメルは、一瞬それを幻聴かと思ったが、それは再び聞こえてきた。ジャメルは立ち上がると丸窓から外を見た。すると玄関の前には、担架に大きな荷物をのせた二人の運送屋が立っていた。何かを頼んだ覚えは無いのだが…。何かの間違えだろうかと疑いながら、玄関のドアを開けると、冷たい空気が入り込んで来て、ジャメルのもうろうとした意識に平手打ちをかました。

 運送屋は、白いヘルメットにマスク、それにサングラスをかけ、上下はお揃いの、水色の長袖シャツとズボンをはいている。

「緊急の、お届けものです」一人が言った。高い声だ。あと少しで、裏返ってしまいそうだ。「ジャメルさんで、間違え無いでしょうか」

 ジャメルは、頷きながら胸を開け、刻まれている情報をその男に見せた。男は、じっとそれを見てから礼を言い、断りをいれてから中へ入り込んで来た。二人共、まるで鋼の針山でも越えられそうな、いかつい靴を履いている。幸い、それほど靴底が汚れているというわけでもなかった。

 ヘビ鳥が、まるでこの岩の主であると勘違いしているかのように、この侵入者を追い出せとやかましい鳴き声を上げている。運送屋もその声に一瞬たじろいだが、ジャメルに謝られてそのまま中に入ると、床に担架を置いた。担架には、黒いビニールに覆われた人型のものが入っている。運送屋は、外の様子を素早く確認してから玄関の扉を閉めた。

「これは、一体何でしょうか。何も頼んだ覚えはありませんが…」

「人の体と、書類が入っています。詳しいことは分かりませんが、発送人は、命からがら、これらを私達に託しました。私達に言えるのは、それまでです。後はご自分で、確認下さい」

 どうやら、彼等はただの運送屋では無いらしい。金さえ払えばどんなものでも運ぶ運送屋がいるという話を聞いたことがある。

 ジャメルは、ビニールの上に貼られている送り状を見た。ニキという人間から出されている。発送元の住所は書かれていないが、送り先は確かに自分だ。

 運送屋は、受け取りのサインをジャメルに要求すると、担架からそれを降ろし、何かあれば、と言って連絡先の書いてあるカードを渡した。そして、薄く開いた玄関から外の様子をさっと見回すと、その隙間から滑り出るように、岩の外へ出て行った。

 運送屋が去った部屋の中では、相変わらずヘビ鳥の声と、スープが煮える音がしていた。

 ジャメルは、ナイフを使い、ビニールを開いた。すると、内側からは冷気が流れ出て来た。中に入っていたのは、褐色の肌をした、長髪の若い女性だった。服は着ておらず、眉間の辺りに、亀裂が走っている。呼吸はしていないが、ビニールの内側に付けられている保冷剤のお陰か、腐臭はしない。死んでから、まだそれほど時間が経っていないのだろうか。ジャメルは、その顔をまじまじと眺めたが、やはり見覚えは無い。

 ジャメルは、鎖骨の下の刻印を見た。ニキと書いてある。差出人と同じ名前だ。遺体が、自分自身を送ってきたということか? 住所は、工場地帯の一角だ。袋の中を見ると、運送屋が言った通り書類が入っているらしいファイルと、テープレコーダー、そして長方形の黒い箱が入っていた。

 ジャメルは、丸窓にかけられているカーテンを閉じると、そのテープレコーダーを再生した。すると、かすれた女の声が聞こえてきた。

〝こんにちは、ジャメルさん。はじめまして。私はニキという女です。突然のことに驚いているでしょう。しかし、これはあなたにとってとても大切なメッセージなので、しっかりと聞いて下さい。それほど、時間はとらせません〟

〝私は、今までずっとこの島で脳の職人をしていました。あなたが、顔をつくっているのと同じように、私は脳をつくりつづけて来たのです。そしてあなたが今つけているその脳も、私がつくったものです。あなたが頭痛や悪夢に苦しんでいる理由も、私には分かっています。私は、あなたの脳を実験的につくりました。種が無くても、動く脳をつくる為に、何度も何度もつくった、試作品の一つです。当然ながら、種が無いということは発芽することも無いということですので、あの恐ろしい監視官達が私のこのような活動を認めるはずはありません。単刀直入にこう言うことがあなたを傷つけなければ良いなと思うのですが、あなたはこの島で一度種が発芽せずに、寿命で死んだ人間です。私は、死体収集人から引き取ったあなたの体に、試作品の脳を入れました。あなたと同じような境遇にいる人間は、他にも当然数人いましたが、どうもうまくいかなかったようで、みな死んでしまいました。あなたが、一番新しい試作品の脳をつけている人間です〟

〝そもそもどうして私が種の入っていない脳をつくろうとしているか、その理由を話しましょう。私はまだ生産されて間もない人間ですが、脳職人として働き始めてから間もなく、この隠れた目的の為の実験を始めました。私の脳の中には、この目的があらかじめ組み込まれていたようです。私の脳をつくった職人を訪ねてみましたが、それは全く平凡な、ただ作業的に同じ脳をつくり続けているらしい男で、何か特別な意図があったということは全くなさそうです。しかし、種の入っていない脳をつけた人間をつくり、この島の外に出すという目的は私の中で明確に存在していました。その脳をつけさえすれば、私達はただ植物の苗床になるのでは無く、自分の意思を持ったまま、発芽して苗床となった脳が送られているその先の世界に行くことが出来るはずです。まだ現実に起こっていないことを、このように強く言う私に、疑念をいだくのは当然かもしれませんが、その必要はありません。この島の外にいる何かが、私を通じて、この島にいる人間を呼んでいるのです…〟

〝つい先日、私は種が無くても稼働する脳をつくり出すことに成功しました。これはまだ図面上のことですが、ほぼ成功は間違え無いでしょう。しかし、あなたの目の前にいる私は死んでいる。私は、これから自殺をするのです。その理由は、その設計図に基づいて種無し脳をつくろうとした矢先に、私自身の種があろうことか発芽する兆候を示しはじめたからです。発芽してしまえば、これまでの私の苦労も、実験台になって死んでいった人々の不幸も全く意味が無くなってしまいます。当然、設計図を誰かに託してつくってもらうわけにもいきません。かなり高度な技術の持ち主で無ければ決して完成させることは出来ないでしょうし、監視官への密告でも入れば、この設計図も完全に抹消されるでしょう〟

〝私は、あなたに私を蘇らせてほしいのです。私は、これから運送屋を呼びます。すでに、私の脳に入れてもらう為の新しい種と、種無し脳の設計図、そしてジャメルさんの脳の設計図に、この依頼をこなしてもらうのに必要と思われる資金は用意してあります。蘇生させていただいたあかつきには、ジャメルさんの脳に手を加え、種無しの状態に完成させようと思っています。ジャメルさんの脳は、私が完成させた種無し脳の設計に極めて近いのです。何より、あなたのその頭痛は、私が種を取り除くことによって解消されます。この計画が成功すれば、ジャメルさんが、この島から意思を持ったまま出て行く最初の人間になることが出来るのです〟

〝どうか、この体を受け取ったら出来る限り早く、腕の良い医者に私の蘇生を依頼して下さい。それまでの間は、出来るだけ冷たい場所に、体を保存しておいて下さい。体が腐ってしまえば、いかに新しい種を入れてもらったとしても前と同じような状態に戻ることは出来ないでしょうから…〟

〝それでは、一刻も早くジャメルさんが私を蘇生してくれるのを待っています〟

 テープは終わり、沈黙が訪れた。料理は、全く起こっている出来事に関心が無いらしく、相変わらず煮え続けている。骨の中にはいっている旨味も、だいぶ溶け出したことだろう。

 ジャメルは、まるでニキの体に見えない紐で結ばれているかのように、その周りをグルグルと歩き回った。自分がこの島で、一度死んだ人間であり、この脳は公につくられたものでは無い。全く信憑性に欠ける話ではあるが、そう言われてみれば何となく感じていた周囲に対する違和感のようなものも理解できる気がする。現実、目の前には見知らぬ女の死体があり、放っておくわけにはいかない。このニキという女が、ただの狂人であるという可能性も勿論あるが、それでもこれほどまでに手のこんだことをしてくるのは普通の狂人ではない。

 ジャメルは、ファイルを開き、中に入っている設計図らしいものを取り出した。それは手書きで書かれていて、まるで出口が無い上に、非常に細かい迷路のように見える。二枚入っている内の一方には、中心に種らしい細長いものが描いてあり、もう一つには迷路の密度が若干低いかわりに、種らしいものは描かれていない。種が入っている方をよく見ると、紙の端にジャメルの名前と住所が書き込まれている。一緒に入っている黒い箱が、新しい種ということだろうか。それはずっしりとした重みがあり、表面がツルツルとしている長方形の箱で、開け口のようなものは全く見当たらない。まるで真っ黒い岩の中からくり抜き出されたかのような具合である。耳元で振ってみても、音はしない。種を保存する為には、これくらい頑丈な外箱が必要なのかもしれない。

 札束は、かなりの額だ。この女が、短い生涯に溜めたものなのだろうか。ジャメルは、ニキの額に空いている切れ目に指を入れると、中の種まで深く傷つけられているのが分かった。本当に自殺だとすると、相当に勇気のいる行為だろうと思われる。

 ジャメルは、やはり医者に依頼するのが一番正しいだろうと考えた。このニキの体はこのままここに保存しておいて、先に設計図を持ち相談をしにいくのだ。しかし、この設計図が本物だとすれば、この頭痛から解放されるということになるかもしれない。この島の外に出るということがどのようなことなのかは全く想像も出来ないが。

 脳裏に浮かんだのは、繁華街の奥で医者をやっているレオという男だった。ドームの裏にある、非常に不安定な路地の中で珍しく一定の場所を保ち、人々の治療を続けている男だ。元来、医者として生産されたのかどうかも定かではないが、その腕前は確かなもので、患者の多くはその一帯に住んでいる不安定な人間であるらしい。ジャメルは一度、その医者に診てもらったことがある。目玉の中に小さな人間の幻覚が入り込んだのを取り除いてもらったのだ。元々は、どの公的な医者に聞いても治療されることの無いこの頭痛を、何とか出来ないかとありとあらゆる人間に案を求めた結果、紹介してもらった。頭痛に関しては治療をすることが出来なかったが、目の手術は非常にうまかった。噂では、人体改造のようなこともしているということだ。ドームの中や、工場地帯の中には公な医者が勤めている病院もあるが、そういった場所へ頼めば監視官にばれる可能性も大きい。

 早速、ジャメルはレオ病院に電話を入れた。電話口から、若そうな女の声がした。ジャメルはいつもその病院の受付にいる、華奢な体付きの女の姿を思い出した。そして、翌日の予約を入れると電話を切った。電話でややこしい話をしたくはなかったので、送られてきた死体については一切口に出さなかった。

 ジャメルは、鍋を火からおろした。もうだいぶ水分は少なくなっていて、玉ねぎもその形が見えないくらいに透明で、小さくなっている。香草の良い香りをまとった煙が、煙突の中をのぼってゆく。食べごろに違い無い。ジャメルはスプーンで鍋底に溜まった汁をすくい、口に運ぶと、予想通りシンプルではあるが何とも滋味深い味わいが舌の上に広がった。

 死体の隣で食事をするというのは、何とも悪趣味なことのように思われるが、袋の中にあるニキの姿には割れている額の部分を除いて全く醜さが無く、というよりもむしろ非常に精巧に作られた黒檀の彫刻のようにすら見えたので、ジャメルの食欲を減退させるようなことは無かった。むしろ、それは無味乾燥な室内において活けられた花のような役割を果たした。ジャメルは固くなりはじめているパンを適当にちぎりながら、味の滲み込んだ肉と一緒に食べ始めた。その様子を、半分恨みでもこもったような陰険な眼つきでヘビ鳥が眺めている。これも又いつものことであり、ジャメルはその方を見ないようにしていたが、やがて気味の悪いうなり声をヘビ鳥が出し始めたことに耐えられなくなり、食べかすの、わずかに肉がついた骨をカゴの中に入れた。ヘビ鳥は舌打ちしながらそれを見つめた後で、不満げな表情をしながら食べ始めた。

 やがて、ジャメルとヘビ鳥は食事を終えた。今日の夜は、暖房を切らなければならない。完全にテープレコーダーのメッセージを信じている訳ではないが、それが本当だとするとニキの体を腐らせてしまったら取り返しがつかない。ジャメルは軽く顔と体を水で洗うと、外套を着込み、ヘビ鳥のカゴには布を被せた。そして暖房のパイプの栓を閉めると、硬いベッドの上に横になった。すると、いつもよりも冷たい夜が、やってきた。

 目覚めると、前日の出来事はやはり事実で、床の上にはあの女の体が入っているビニールが横たわっており、壁には運送屋の連絡先が貼ってあった。ベッドから下り、閉じられているビニールを開けると、その美しい女の顔は眠っているようにしか見えなかった。ビニールの中の保冷効果はまだ持続している。しかしあとどれくらい持つかが分からないので、早く何とかしなければならない。ジャメルは、送られてきたものと現金を持ち、鍋の底に残っている煮くずれたジャガイモを腹にかきこみ、岩の外へ出て行った。

 その日も又、ジャメルは誰よりも早く顔工場を出ることが出来た。いつも通り頭痛と戦いながら顔をつくっていると、その苦しみから解放される可能性があるのならどんなことでも、一刻も早く試したい気分になったのだ。その気持ちのお陰で、顔自体もいつもより早く、丁寧に作り終えることが出来た。まだ、バスにもほとんど人は乗っていなかった。乗客が少ないせいか、バスはいつもより早く走っているような感じがした。途中、ゴミ山の奥で、発電所や浄水場からモクモクと煙が吐き出されているのが見えた。山の上で、ゴミを漁っている子供達の顔は、見覚えのあるものばかりだ。

 ジャメルは、レオの病院を目指した。バス停の近くで、監視官が一人、小型のナイフを振りながら歩いているのを見るとぞっとしたが、ジャメルに近づいて来るということは無かった。

 人の少ないドームの中を、ジャメルは歩いていった。ペット屋はまだオープンしておらず、ガラスの窓越しに、暗い室内に並んでいる数々の檻が見えた。中では相変わらず生きる力に見放された哀れな生き物達が体を横たえている。店主の姿も見当たらないが、住居になっているらしい階上の部屋からは、何か大きなボールがゴロゴロと転がっているような音がした。ドームを抜ける間際、雑貨屋に通りかかった。壁には沢山の、狂った時計がかけられていて、手前にはビスケットや、アクセサリー、ブリキのおもちゃ等が並んでいたのだが、その中でジャメルの目を引くものがあった。それは、あのペット屋の事務所で見せられた、ヘビ鳥が取り出すことが出来るという美しい石にそっくりなものだった。古びた電球の明かりを受け、その表面は虹色に光っている。品物の真ん中には、頭に微生物の柄が描かれたスカーフを巻いている老婆が座り、静かに体を揺らしながら目を閉じている。その皺だらけの顔は、市場で売られている干し肉を連想させた。

 ジャメルがその石を手に取ろうとすると、老婆は薄目を開けて常に様子をうかがっていたのか、その目を開き、巨大な二つの目を向けた。そして、手元に置いてあったソロバンを素早くはじくと、紙に数字を書き込み、ジャメルの眼前につき出した。それは、驚くほどの金額だった。

「随分、お目が高い。これが入荷する時は滅多に無いからね。チャンスだよ。この石はね、人間の頭の中から取り出されたものなんだ」

 ジャメルは、ペット屋の言葉を思いだしていた。あの男は、取り出した石は全て研究所に渡すと言っていた。しかし、部分的には横流しをして、更に金をもうけているのかもしれない。むしろ、研究所に渡している分が一つでもあるのかさえ、疑わしい。ジャメルは、少し考えさせて下さい、とだけ言うと、店先を離れて行った。

 ドームを抜け、ジャメルは路地裏へ入って行った。ドーム側には物売りのテントが並んでいるが、その先には無数の建物が並んでいる。路地裏への入口は、数えきれないほど沢山ある。路地裏に建っている建物は、どれも非常に不格好で不安定であり、建てられては崩壊するということを繰り返していた。形は様々だが、まるで子供がただ積み上げるというだけの目的で作った、積み木の家のようなものがほとんどだ。それらの建物をつくる人間も、その中に住む人間も、その一帯に住んでいる。彼等も、住居区に住んで工場地帯で働いている人間と同じように、生産された時からその路地裏に住むことを決められていた。しかし中には例外もあり、元々別の場所に住んでいた人間でも、生産された後で肉体や、精神のバランスを崩してそこに移住するという場合もあった。そういった人間に対して、非常に流動的で、バランスの悪い路地裏の空間は非常に優しく、居心地の良いものであるらしいのだ。

 路地裏からは、当然頻繁に建物の崩壊する音や、新しく建設される音がしていた。その中で生活し、夜を過ごすというのはとても神経に障ることだろうとは思うが、時間が経てば慣れるのかもしれない。その中を行く時は、突然頭上から建物の瓦礫が降って来ることもあるので、常に頭上に注意する必要がある。

 ジャメルがそこに足を踏み入れるのは、久しぶりのことだ。その路地裏において、珍しく一定の場所と建物を保っているレオの病院は、それも又場所が固定されている青銅色の鐘の近くにある。その鐘も古くからそこにあるらしく、ある道の上に突然ポツリと現れる。ただそこにたどり着くまでが大変で、久しぶりに見たその一帯には見慣れぬ建物ばかりで、道も全く目新しいものになっていた。

 路地に入るとすぐ、建設途中の建物の上に人影があった。丁度屋根を取り付けている最中だ。逆三角形の屋根は見事なバランスで四角い建物の上にのっている。その人間も又、やけに腕が長いように見えた。

「病院と、鐘はどっちの方でしょう」

 ジャメルが聞くと、建設作業員はその長い腕をまっすぐに突き出し、一つの方向を指し示した。それは確固たる道筋を示すものにはなりえなかったが、一つの道しるべにはなった。ジャメルは、その方向をどうにか頭の中にとどめながら、建物の間の非常に込み入った路地を進んで行った。道は長いこともあり、短いこともあった。建物の建てられ方も乱雑なので、当然道の伸び方もまっすぐだったり歪曲したりしている。一帯の地下には熱湯でも通っているのか、所々あるマンホールの隙間からは白い湯気がモクモクと上がっている。

 建物や路地にはちょっとした隙間が多数あり、意識すればそこに何かが潜んでいるように感じる。この路地裏そのものが生命を宿しているかのように流動的である為、余計にそう感じるのだろう。

 丸や、四角、三角といった、幾何学的な形状が積み重なって出来ている建物に住んでいる路地裏の人々。当然それらの建物には欠陥もある。それが顕著な建物からは、人々の声や動いている音も明確に聞こえてくる。その耳に入る情報からだけでも、人々が何か不安定であるということが分かる。穏やかな話し声がしていたかと思うと、突然張り裂けんばかりの怒鳴り声に代わったり、急に何かが激しく割れるような音がしたりという具合に。

 路地をすすむにつれて、建物が建設される音も、崩壊する音も大きくなった。間違えた方向に進んでいないという確証は無いが、自分を信じる他に方法は無い。

 ゆるやかなカーブを描く、狭い路地を歩いている。両脇には、今にも崩壊しそうな、ところどころ壁の崩れた建物が連なっており、全く灯りをともしていないその暗い建物の中からは、時折すすり泣きの声や、ガラスをこすり合わせるような音が聞こえる。その路地を歩いている時に、前から一人の男が歩いて来た。

男はやせ細っていて、まるで真っ黒いブロックのような四角い髪型をしている。着ているタンクトップは汚れ、ほつれておりそこからのぞかせている枯木のような手足は、男が厳しい生活をしていることを物語っている。男は、まるでいたぶられ続けた犬のような、激しく敵意をむき出しにした眼つきをしている。ジャメルはその男に全く心当たりが無かったが、そのような眼で見られる筋合いは無いと、声を大にして言うことが出来るというわけでも無かった。ジャメルは、麻袋を体の前で抱えたまま、その男とすれ違う瞬間を待った。そして、近づいた時に病院がある方向がこちらで良いのかと訪ねようとしたが、口に出す前に、相手のその口が作り物であることに気付いた。まるで、プラスチックのような口が、皺だらけの顔についているのだ。これでは、話をすることも出来ないだろう。ジャメルは、目をそむけながら男とすれ違う。その男の鋭い目つきも、その不幸に端を発しているのに違い無い。やがて、そのまま進んでゆく内に、何度か聞いたことのある鐘の音が聞こえた。

 ジャメルは、鐘の音を頼りに、入り組んだ路地を進んで行った。そしてやがて、鐘のある古びた路地が現れた。ジャメルが現れた時には、鐘を鳴らしていた何者かは姿を消していた。恐らく、その路地から伸びている他の路地の中へ入っていったのだろう。鐘は、建物から漏れる灯りを受けて、ブルブルと、捨てられた孤独なペットのように震えていた。その脇で、レオ病院はかつてジャメルが目にした時と変わらない様子で建っていた。赤いレンガで出来た三階建の建物だ。他の建物と違い、そこだけは非常に安定しているように見える。

階段を上がって行くと、レオ病院は営業しているようで、正面玄関からは受付台の上で気だるそうに肩肘をついている受付嬢の姿が見えた。ジャメルが中へ入って行くと、受付嬢は特にその姿勢を変えることなく、現れた患者らしい男に目を向けた。細身で、猫のような目をしている。

「こんにちは」ジャメルはそう言いながら、服のボタンを外し、刻印を受付嬢に見せた。受付嬢は姿勢を正すと、そこに押されているジャメルの情報を素早く書き留め、受付机の下に潜りこんだ。やがて、受付嬢はファイルを一冊取り出すと立ち上がり、受付机の上に置いた。

「ジャメルさん。久しぶりですね」少し、かすれた声だった。「今日はどうしました?」

「今日は、特に自分の体調が悪いという訳ではないのですが、レオさんに相談したことがあり、やって来ました。実は、昨日家に死体が届けられたんです」

 受付嬢は、その目を更に細め、ジャメルの言うことを聞いた。そして、自分は面倒な話に関わりたくないと思ったのか、そっけなく分かりました、と言うとジャメルを部屋にあるソファーに座らせ、順番を待つように告げた。そして再び肘をついた姿勢になると、壁に掛けられている、コツコツと音を鳴らす時計の方に視線を向けた。やがて、診察室の扉が開いた。

 診察室の中からは、顔に包帯を巻いた少女が一人、髪がほつれた人形を手にし、泣きながら出て来た。金色の髪は長く、ジーンズのつなぎを着ている。少女は顔をくしゃくしゃにして、涙を流しながらも、必死に声を出さないように堪えているのか、口を空豆のすじのようにしっかりと結び、肩だけをヒクヒクと揺らしていた。その後ろから、受付嬢と対象的に大きな体をしているレオが、悲しそうな顔をして少女を見守っていた。平らな顔の上に、フチの無い眼鏡が置かれていて、髪はタワシのように逆立っている。

 少女は、受付机の前まで来ると、ポケットから紙幣を何枚か取り出し、手を伸ばしている受付嬢の手の平にのせた。受付嬢に金を渡すと、少女は背を向け、体を震わせながらも、確固たる足取りで外へ出て行った。少女の姿が見え無くなると、レオは悲しそうな顔を一転させて真顔になり、見覚えがあるがどこで見たのかを今一思い出せない男の顔を見た。そして、受付嬢からファイルを受け取ると、再び診察室の中へ戻って行った。やがて、ジャメルは診察室の中に通された。

 細長い診察室には診察机と椅子、そしてベッドが置いてあり、汚い壁に取り付けられている木棚には、小さなガラス瓶に入っている色とりどりの粉末や液体が、並んでいた。そしてガラス瓶の間に、鳥の頭蓋骨らしいものが何個か、飾り付けのように置かれていた。部屋に入ると、その空洞の目で常に監視されているような気分になった。部屋の奥には窓もついていたが、それは汚れた擦りガラスで、外を見越すことは出来なかった。天井の電灯のいくつかは点灯していなかったが、レオは机に付いている電灯のスイッチを入れることにより、それを補った。

「ジャメルさん、久しぶりですね。今日は、どういったことでお越しになったのでしょうか?」レオは、眼鏡を軽く指で持ち上げ、そして陰湿な淡々とした口調で言った。

「実は、相談したいことがありまして…。私の体に関することではないのですが、昨日私の家に、突然人間の体が届けられました。それだけでなく、こちらのファイルと、箱、それとテープレコーダーも…」

ジャメルはファイルから設計図を取り出すと、レオに見せた。

「テープレコーダーには、ニキという女性からのメッセージが入っていました。その声の主は、私が頭痛で悩んでいることを知っていて、それを治すことが出来ると言いました。私の脳を、作ったのがその女で、その設計図が今お渡しした内の一枚だそうです」

 レオは、その設計図を無言で眺めた。ジャメルは、テープレコーダーに吹き込まれていたニキからのメッセージの内容をレオに説明した。レオは、時折顔を上げ、ジャメルの言うことを聞いていた。

「テープレコーダーは、後でお渡しします。しかし、その内容を信じて良いものか…。先生なら何かその設計図を見て判断することが出来るかもしれないと思い、相談に来たんです」

「この、設計図は確かに良く出来ている。脳の仕組みは大体把握していますが、この脳を作り上げるにはかなりの技術がいるでしょう。本当に、種を必要としない脳があれば、ジャメルさんが聞いた通り、私達には見る事の出来ない地上の世界へ行くことが出来るという可能性も確かにある…。一度、この設計図は預からせて下さい。それと、そのテープレコーダーと、種が入っているというその箱も。調べてから、連絡します」

 ジャメルは、現金以外の一式をレオに渡した。

「出来るだけ、早めに連絡を頂けると助かります。あの、体はまだ私の岩の中に置いてあるんです。いつ、腐り始めるかも、分かりません…。暖房は切ってありますが、それだと岩の中が寒くて正直かなり辛いので…。それと、念の為聞いておきますが、こちらの建物が取り壊されたり、この辺りの変容に巻き込まれてしまうということは、まだありませんよね? 今度来た時に無くなっていたとかいうことがあったらたまりません…」

「勿論、この建物は地中深くに根付いているんです」

ジャメルが不安そうな表情を浮かべると、レオは無表情のまま言った。ジャメルは、どこか信じきれない部分を感じながらも、立ち上がり、診察室の外へ出て行った。出ると、待合い室にはジャメルと同じくらいの若い男が待っていた。ジャメルが待っていた時とはうって変わって受付嬢は肘もつかずに、魅惑的な表情をその男に向けていたが、男の方は体の痛みに意識を全て支配されているらしく、苦しそうに腰骨の辺りを手で押さえているだけだった。

 ジャメルは、受付嬢に路地裏からドームへ出る為の案内人を依頼した。この病院から帰る時は、常にそうしていた。それが無くても帰ることは出来るだろうが、とにかく時間がかかってしまう。受付嬢は、露骨に顔の半分を歪めて不快そうな表情をしながら受付机の下から電話の受話器を取り、案内人を呼んだ。そして待つ事数十分後、そこに現れたのは先ほど路上ですれ違った、まるで四角いブロックのような髪型をしている痩せた男だった。明るい場所で見ると、そのとがった眼つきはより明確で、プラスチック製の口は薄ピンク色をしている。ジャメルは、案内人に小額の金を渡すと、男は意外に素早い動作でその金をむしり取り、タンクトップの内側に入れた。タンクトップの内側に財布がついているのか、自分の体に直接ポケットがついているのかは分からない。まるでカンガルーのように。

 案内人は、プラスチックの口をカチカチと震わせてから、ジャメルを連れて外へ出て行った。鐘はすっかり鳴り止んでいて、いつの間にか気温もぐっと低くなっている。それでも、タンクトップを着た案内人に寒がる様子は無い。寒さになれてしまっているのか、それとも寒さを感じないのか。どちらにせよ、そのボロボロのタンクトップは、その内側にある何かを隠す為の飾りでしかないのだろう。

 案内人は、細い道を迷うこと無く、進んでいった。全く、ジャメルを振り返って見ようとはしない。寒くなってきましたね、とジャメルは言ってみたが、それでも反応は無かった。ジャメルは、この道が正しいはずだと信じながら、男についていった。時折、男の四角い髪の後頭部に建物の灯りが反射してキラリと光るのが、不快だった。

 やがて、路地の終わりに辿り着くと、案内人は決してそこから先に足を出そうとはせず、くるりと回れ右の動作をし、ジャメルを置いて路地裏の中へ戻って行った。ジャメルは、その男が暗い路地の中へ消えて行くのを見届けると、路地の外へ出て行った。どこかで建物の崩壊する音が聞こえた。

 

 レオから連絡が入ったのは、それから数日経ってからのことだった。届いた手紙を見て、ジャメルはその遅さに苛立った。ビニールにいれられた女の体からは、もうすでに異臭が漂って来ていたが、あえて中を見るということはしなかった。

〝出来るだけすぐに、その女性の体を、送って下さい。あの設計図は見事なものですが、確かに特殊な技術が無ければ現実につくることは出来ないでしょう〟

 ジャメルは、壁に貼ってあった運送屋の番号をダイヤルした。やがて、どこからともなく、再び担架を持ったあの二人組がやって来た。ジャメルは、ビニールの上から女をテープでぐるぐる巻きにして、それを運送屋に預けた。運送屋は、高額な金を受け取ると。そそくさと出て行った。

 ジャメルも後を追わなければならない。暖房を入れると、ヘビ鳥は疲れ果てたかのように眠りに落ちた。

 迷った末、何とかレオ病院に着くと、すでにニキの体は届けられていた。玄関には診察終了の札がかかっていて、中に入るとニキの体を囲んで手術用の服を着たレオと、受付嬢が立っていた。

 手術室へ運びこまれ、ビニールから出されたニキの体は、一見すると無傷なようではあったが、良く見れば背中側の皮膚はところどころ変色していて、額の、頭蓋骨が割れている部分からは鼻をつくような臭いがしていた。

「いたみ始めているが、回復出来ないということは無いだろう」

 レオはそういうと、種が入っているという黒い箱から、種を取り出しにかかった。レオは、その箱を手術台の上、ニキの体の脇に置くと、下からその箱よりも一回り大きい、透明な四角い水槽を取り出した。中には沢山の気泡を含んだ透明なゼリーのようなものが入っている。レオはそのゼリーの中に、箱をまるで風呂に入れるように落としこんだ。箱は水槽の中に入り、溢れ出たゼリーがこぼれる。こぼれたそれを受付嬢は定規のようなものを使って台の上からとりのぞき、ビニール袋の中へと入れた。

 レオは、水槽の中の箱を外からじっと見つめた。まるで何かに夢中になっている子供のようだった。それを尻目に、受付嬢はゼリーが入った袋を捨ててニキの全身を丁寧に濡れた布のようなもので拭きはじめた。ジャメルはレオの隣りへと歩み寄り、水槽の中で行われていることを一緒に覗き見た。すると、ゼリーの中で、箱の一辺が、まるで豆のスジのようにスルスルと剥け始めていることが分かった。目を凝らせば、ゼリーの中には小さなエビのようなものがおり、剥かれてゆく一辺の先端をくわえて水面へ向かっている。辺は、透明なゼリーの中でねじれた黒い線となっている。

「こいつがいないと、種を取り出すことは出来ないのです。この黒い箱は、まるで作り物のようですが、実は自然のものでね。とても硬くて人間が開けることは到底出来ない。この小さい生物はこのゼリーの中でしか生きることが出来ないのですが、考えられないほど力が強い。この島で作られた生物です。こいつにかかれば、人間だってジワジワと喰われてしまいます。本当は、脳を作る権利を持っている人間にしか保有することが許されないのですがね…」 

 辺があらかた取れてしまうと、その小さな生物はくわえていたその端から、ゆっくりとそれを食べ始めた。取れてしまった辺の下には、クリーム色をした内部が僅かに見えた。小さな生物は、その一辺を食べ終わると、続いて他の辺も食べ始めた。そうして、ほとんどの辺を食べ終わるのを待ってからレオはゆっくりとそれを引き上げ始めた。小さな生物は、久々に得た獲物を逃すまいとして箱と一緒に外に出かけたが、ゼリーの外に出た途端に命の危険を感じたのかくわえていた辺から離れて水槽の底へ潜っていってしまった。水槽の中には箱から外れたまだ食べ残されている辺が一つと、その生物だけが残された。

 レオが箱を台の上に出すと、受付嬢は水槽を部屋の奥へ持って行った。レオは、箱に残ったゼリーを布でふき取ると、縁取りのされた箱を丁寧に開け始めた。箱の面はそれほど苦も無く剥がれているようだった。そしてごくわずかな面を残して中身が露わになると、今度はメスを使い、そのクリーム色の塊を少しずつ削り取っていった。やがてその中から、種らしいものが取り出された。緑色をした、親指の先ほどの種だ。そんな色の種を見たのも始めてのことだった。ジャメルはその美しい色合いに目を奪われた。

 取り出した種を、レオは手術台の上に置いてあった小さな綿のベッドの上に置いた。受付嬢が、レオが種を取り出している間に用意したものだ。緑色の種は、それまでに蓄積された疲れを癒そうとしているのか、綿のベッドの上で微動だにせず横たわっている。少しすると、種は酢のような鼻をつく臭いを出し始めた。それは、鼻で呼吸するのをためらわせる程のものだった。その見た目からは想像出来ないような臭いなので、ジャメルは一瞬自分の鼻を疑ったが受付嬢も同じように顔をしかめていた。

それと同じものが自分の頭の中にも入っているのかと思うと、自分の体内の臭いを嗅ぐことが出来ないことを幸いに感じる。あるいは、脳と融合することにより、この臭いも消えるのかもしれないが。

 受付嬢はその臭いに耐えることが出来なかったのか、手術台の下から金属の皿のようなものを取り出すと、種の上に被せた。種は隠れたが、その代わりにピカピカに磨かれたその皿には歪んだ室内の光景が浮かんだ。

 レオは、ニキの額にメスを入れると、砕けている皮膚の下の頭蓋骨を取り除く作業にとりかかった。ニキが、一体どのようにその傷を作ったのかは分からないが、骨はまるで殴りつけられた鏡のように割れている。ジャメルは、レオの背後からその様子を眺め続けた。

 レオは、割れた頭蓋骨の欠片を一枚一枚、はがしていった。それを受け取った受付嬢は、破片を又元に戻すことが出来るように、はがされた順番通りに手術台の脇に並べていった。やがて、頭蓋骨の下にある潰れた種がレオの目にさらされると、レオはそのあまりの無惨な姿に衝撃を受けたらしく、マスクの上から、口を押さえて天井を見上げた。そして、何回か深呼吸をして、再び手術に取りかかった。

 ニキは、自分の頭がそのようにいじられているというのに、当然のことながら何の反応も示さない。開かれた頭蓋骨の下に、レオは鋭利なハサミを入れた。その内に、あの酢のような鼻をつく臭いが、頭の中からもただよって来た。

 取り出された種は、想像した通り見るも無惨なものだった。発芽する直前に潰されたというのが、その醜さを尋常ならざるものにしているのだろう。取り出されたばかりの、あの新しい種がいずれそのような姿になるとは信じがたい。

 まるで潰れたオリーブのような種のまわりからは、うす肌色をした細い根のようなものが無数に伸びていて、種の内部には丁度これから永年培われた外へ出たいという願いが現実となる喜びに膨らんだ、より濃い緑色をしている核のような部分が見える。その種の夢は、それが自分の夢であるということが認識される前についえてしまったかのように見える。無数の根は、まだニキが生きていた時に脳のいたるところにつながっていたのだ。今、レオによって断ち切られたそれらの根の先端には、死後脳内にあった血液が固まったのか、黒い血が詰まっていた。

 受付嬢は、レオから種の残骸を受け取ると、予め用意されていた液体が入っている瓶の中に落とした。標本にでもするつもりなのだろう。確かに、発芽する前に潰された種というのを目にする機会等そうそう無いに違いない。液体に入れられて、臭いはだいぶ治まったが、それでもまだ完全に消えてはいない。この部屋の隅々にまで滲み込んでしまったのではないかと思える。

 三人は、どういうわけか潰された種を前にして厳粛な気持ちになり、誰からとも無く、わずかな黙祷の時間が始まった。そしてそれが入った瓶は、まるで火葬場に運ばれるように、受付嬢によって部屋の奥にあるスチール棚へと運ばれて行った。ジャメルは、無意識に、自分達の生をつかさどっているその種という存在に畏敬の念をいだいていたことに気付いた。そして、自分がこれからこの種を頭から取り出そうとしているということが、本当に許される行為なのか、確信を持つことが出来なかった。

 死んだ種を運んで行った受付嬢は、その代わりに今しがた取り出された新しい種がのっている綿をレオの手元へ運んだ。レオは、清潔そうなガーゼを使って、ニキの脳内に入っている埃を取り除くと、皿を取り外した。鋭い臭いとともに、取り出されたばかりの時と比べて表面の光沢感を増している種が再び蛍光灯の明かりに照らされた。レオはゴム手袋を新しいものに替えると、丁寧にそれを摘み上げてニキの頭の空洞にそれを入れた。

 レオは、種が納められたニキの額を暫くの間じっと覗き込んでいた。すると、受付嬢が虫眼鏡とストップウォッチをレオに渡した。レオは、虫眼鏡で額の内側を覗きながら、もう片方の手でストップウォッチを押した。そして時間を止めては、受付嬢に見せた。受付嬢はその数字を紙に書きとめた。やがて、そのストップウォッチが止められる間隔が短くなった。

「よし、うまく適合を始めている…」

 レオは、虫眼鏡を手術台の上におくと、今度は外されていた頭蓋骨の破片を元に戻し始めた。接着につかわれるらしい、不透明な水飴のような白い液体を一枚一枚ヘラで塗りつけ、それをピンセットではめ込んで行く。気が遠くなりそうな作業だが、レオは迷うことなくそれを行い、気付いた時には皮の開かれたニキの額はほとんどがなめらかな曲線を描いた頭蓋骨で覆われていた。そして最後に残った割れ目の中心の穴には、その接着剤らしい液体が丸められて、押し込まれた。レオは、ニキの頭部を金属製の台に載せると、包帯でぐるぐる巻きにした。これからは、頭蓋骨が結合するのを待つしかないようだ。

 続けて、レオは黒い筒状の望遠鏡のようなものを受付嬢から受け取った。そして、ニキの体を覗きこむように体の至るところに当てた。先端から光が出ているらしく、それが当っている場所が赤く光っている。レオは、まるで海の底に隠れている魚を探すように、ゆっくりとその筒を垂直にニキの体に当てたまま移動させている。どうやらそれは案外神経を使う仕事らしく、レオの額に滲んでいる汗の粒は次第に大きくなり、やがてレオの薄汚れた肌の上を転がり落ちていった。

 筒は、ニキの首からつま先までくまなく動かされて行った。途中所々でレオはその手を止め、その度に受付嬢は紙に何かを書きこんでいる。やがて、ニキの体全体を見終わると、レオはその筒から顔を上げた。どういう仕組みになっているのか分からないが、その瞬間にニキの体内を照らしていたライトは消えた。レオは、受付嬢からタオルを受け取ると、それで顔や首を拭いた。

「どうやら、心臓に少し問題があるようです。元々あまり丈夫では無かったのか、この使われていなかった間に完全にやる気を失くしてしまったらしい。ここだけは、新しいものに替える必要がありますね…」

 レオは、ジャメルの方を振り返りそう言った。眉間には深い皺の痕が残っている。

「それ以外の部分も、それほど健全という訳ではありませんが、動かないというほどではない…。ですから、心臓さえ良いものが手に入れば、ニキさんは完全に蘇生することが出来るでしょう。幸い、種の植え込みもとてもうまくいったし、脳の他の部分にも全く傷がありませんでした。種が脳と融合するまではまだ数日かかるでしょうが、今の状態では動くことは出来ません。しかし、タイミングの悪いことに丁度今、替え用の心臓を切らしてしまっているんです…。海辺に住んでいるある人間のところに、取りに行く必要があるんですが…」

 レオはそう言うと、沈黙した。そして話し続けた。

「…普段は、定期的に発注をし、送ってもらっているのですがね。そのタイミングでは少し遅いかもしれません。なので、自分で取りに行かなければならないのですが、あいにくこの後予定が入っていましてね。すぐに出ることが出来ません。ジャメルさんが、行くことは出来ませんでしょうか?」

「別に、構いませんが…。一体それはどこにあるんです?」

「あの、ゴミ集積場の丁度向かいにある、海際のあたりです。あそこにある石橋の、近くです。実は、私も数えるくらいしか直接行ったことは無いのですがね。そこの一角に臓器を集めている人間がいるのです。マルシという男で、何でもこの島で生産された時点で体に不具合があったらしく、時折海の底から湧いてくる有毒なガスが、彼にとっては生きるのに不可欠ならしい。彼は、死体回収人等によって集められ、海に捨てられるまだ死んで間もない体からまだ使えそうな臓器を集めて、私のようなモグリの医者や、それを欲しがっているどこか異常な人間に売っています。今回のように治療に使われることもあれば、剥製にされることもあるということです」

「それは、何とも恐ろしい…。あまりすすんで行く気にもなりませんね…」

「いや、恐ろしがる必要はありませんよ。彼だって、勿論私達と同じ生産された人間です。確かに、死体から臓器を抜きとっている等と聞けば恐ろしいような気もしますが、性格は非常に温厚です。私も当然直接訪問したことがあるので、それは確かです…。彼がそうしているのは、ただ単に生活の為というわけですよ。彼だって、私達と同じようにものを食べなければ生きていくことが出来ない。そうする為には食べ物を買う為の金が必要ですが、可哀そうなことに彼には仕事が与えられていません。何というか、事故で生産されてしまったということでね。それに前述した通り彼が生きるには海から出て来る毒素が必要なので、私達と同じ場所で生きることが出来ないんです。毒素のことも、気になるでしょうが、心配する必要はありません。時間的に毒が出るまではかなり時間もありますし、その時に備えてマスクもお渡ししましょう」

 ジャメルは、黙ってレオの言うことを聞いた。そのマルシという男のところへ行くのは恐ろしいが、現実的に自分以外にそこへ行くことが出来ないというのも事実だ。それに、レオの言うことを信じれば心臓が無ければニキは蘇ることが出来ない。そうなれば、これから先もあの恐ろしい頭痛に苦しめられるということになる。

「分かりました。私が行きましょう。そもそも、これは私が抱えている問題を解決する為ですからね…」

 ジャメルがそう言うと、レオは少しだけ表情を緩ませたが、すぐに元の険しい顔に戻った。受付嬢は、ジャメルにマスクを渡した。試してみると、鼻も口もピッタリと覆うことが出来た。それを付けたらうつむきがちになってしまうのではないかという程に重い。

「仮に毒が出始める時は、海の中に生えている蛍光性の植物がその色を濃くします。もしそんな光景を目にしたら、一応このマスクをつけた方が良いかもしれないです」

「ええ、分かりました。ちなみに、そのマルシというのはどんな見た目です? それ以外にも、その付近に住んでいる人間はいるんですか?」

「いえいえいませんとも。マルシは細身で背が高い、坊主頭の男です。私が行く時はいつも、鏡のような眼鏡をはめているので、どのような目をしているのかは分かりません。彼以外に、そこに住んでいる人間はいませんから、安心して下さい」

レオがそう言うと、受付嬢は手術室を出て行った。そのすぐ後で、路地裏の外へジャメルが出る為の案内人を手配している声が聞こえた。レオは、冷蔵庫の中から保冷材のようなものを持ってくると、ニキの体をビニールで包み、その中に入れた。包帯を巻かれた、頭だけが外に出ている。レオは、その額に聴診器を当てて、満足げに頷いた。適合が順調にすすんでいるということなのだろう。

 やがて、玄関の方から乱暴に扉を叩く音が聞こえた。案内人が来たらしい。ジャメルはレオに一旦別れを告げると、手術室の外へ出て行った。玄関では丁度受付嬢がドアガラス越しに、案内人のことをじっと見ているところだった。案内人は、あらわれたジャメルの方に、その鋭い目線を向けた。前に案内をしてもらったのと同じ、やせ細った四角いブロックのような髪型をしている男だ。相変わらずプラスチック製の、ピンク色をした唇をカチカチと鳴らしている。タンクトップは前のものよりも汚れていて大きく、まるで非常にたけの短いワンピースのようにも見えた。ズボンはそのタンクトップに隠れているのか、タンクトップから直接痩せこけて皺の寄った二本の足が伸びているように見える。足には、平べったいサンダルを履いている。ドアを開けた受付嬢から、奪い取るように金を受け取ると、案内人はゆっくりと階段を下りて行った。

「奇遇ですね。又あなたですか」

 案内人は返事をしなかったが、暗い階段の中で一瞬足を止め、ジャメルを振り返った。そして、何度か唇を鳴らすと、今度は早足に階段を降りて行った。街灯の灯りがある外に出ると、案内人の耳は体の他の部分と比べて非常に艶があり、性能も良いのではないかと思えた。もしかしたら、この路地裏を迷わずに進むには、そのような耳が必要なのかもしれない。音を頼りに、路地裏から外へ出る道を選んでいるということだ。しかし本当にそうだとすると、あれほど鋭い目つきをする必要も無いような気がする。

 路地に出ると、鐘の中から、誰かが走り出て行くのが見えた。鐘の中で遊んでいた子供だろう。

案内人は、前と同じように路地を進んで行った。ジャメルは、心臓を手に入れた後に一人で戻って来ることを考えて何とかその道筋を覚えようとしたが、案内人が通って行ったのは前回とは全く違う道だったので、記憶の中に薄らと残っている地図の線をより濃くするということはおろか、全体像が余計にぼやけるということになっただけだった。

もしかしたらどの道を通っても外に出ることが出来るのかもしれない。それとも、外に出た途端にこの路地裏に関する道の記憶は組み替えられて全く新しい、現実には存在しなかったものに変わってしまうのだろうか。ジャメルはそのように一人思いながら、丸や三角形をした大小様々な建物の素材が転がっている、前よりもかなり狭い、塀に挟まれた道を歩いて行った。大丈夫、仮に迷うことがあったとしても、辿り着くことが出来ないということは無いだろう。どうしても迷ったら、手当たりしだいに建物に入り、レオ病院の場所を聞けばいいというだけのことだ。

途中ジャメルは、丁度壊されている最中の建物の脇を通りかかった。カンカンという硬い音が何回か続いた後で、支柱が砕かれる様な重い音が鳴り、塀の向こう側で建物は崩れ落ちていった。その脇には、大きな建物の素材を積み上げている建設作業員の姿も見えた。次に来る時には、この道も無くなっているかもしれない。やがてその道の向こうに、明るいドームの姿が見えた。このまま先へ進んで行けば、ドームの脇に出ることが出来るようだ。

案内人は、突然立ち止まるとジャメルの方を向き、出口を指さした。その顔はドームの光の逆光になっていて見えなかったが、人差し指の第一関節から先が銀色に光っているのが際立っていた。どうやら、指の先は自分のものでは無いようだ。この路地裏で案内人をやって生活するようになったのと、指の先を失った経緯には何か関係があるのかもしれない。

案内人は、ドームに向けていた偽物の指を下ろすと、ジャメルを脇へ退けるようにして来た道を戻って行った。案内人をよけて塀に肩を押しつけたジャメルの服に、何かドロっとした古い油のようなものがついた。そのことに腹をたて、ジャメルは案内人の後ろ姿に〝この指なしめ〟等と罵詈雑言を浴びせてやりたい衝動にかられたが、さすがに話をすることが出来無い相手にそのようなことを言うほど残酷な気持ちにはなれなかった。悪態を溜めこむだけ体内に溜めこみ、それを吐き出すことが出来なければあのような眼つきになるのも仕方無いだろう。

 ジャメルは、ドームを出ると野菜売りのテントを抜けてドームの中へ入って行った。ドームの中は明るく、酒の匂いが漂っていた。ジャメルは人々の脇を通り抜け、客引きの声にも全く振り返らなかった。ペット屋は、まだ開いていなかった。しかし開店の準備はしているらしく、二階にある部屋からは何かが転がるような、地響きのような低い音が聞こえた。それに苛立っているらしく、ガラス越しに見える檻の中の猫は非常に神経質そうに檻の中を歩きまわり、憎しみを籠めた瞳で階上を覗き上げていた。ジャメルはガラスの前で立ち止まり、店の奥にいる可能性があるミス・クニタの姿を探したが彼女はいなかった。今日は休みなのか、それとも舞台裏で見世物の準備をしているのか、あるいはひたすらサンドイッチの仕込みをしているのか…。分からないが、ジャメルの頭の中では彼女がその優雅な四肢を華麗に揺らし始めていた。

 ジャメルは、ペット屋を過ぎるとそのままドームの外へ出て行った。そして、工場方面へ向かうバスを待った。それに乗り、途中にあるゴミ山の近くで降りるつもりだ。バスがやって来るまでは暫く時間がかかったが、やがてやって来た一台の古いバスにジャメルは乗り込んだ。

 これから工場の方面に行く人間は少ない。例えば顔干し人のように、夜の間だけ働かなければならない人間だけだ。顔干し人の他には、あらゆる工場の、清掃人や整備士達だ。工場が稼働していない時間帯に、彼等は働かなければならない。彼等も又、生まれた時にそれを当然のものとして受け入れている。

閑散としたバスの中では、それらの出勤途中の人間がまばらに座っていた。多くは、座席に腰掛けてまだ眠り足りないというように目をつむっている。中には男の子が一人おり、眠っている男や若い女の近くへ行っては服を引っ張ったり腹をくすぐったりしていた。そしてその度に、忌々しげに睨まれては一人クスクスと笑いながら次の獲物のもとへと動いて行った。

少年は、当然ジャメルのところにも来たが、その顔があまりにも青黒く、まるで取り憑かれているかのように見えるからか、脇を素通りして行った。

やがて、バスはゴミ山の付近にある停留所に着いた。そこで降りるのは、例の少年とジャメルだけのようだった。遠くで、あの顔の無い監視官が立ち、ウロウロとしているのが見えた。見つかったら何か面倒な気がしたので、ジャメルは停留所を降りるとすぐに身をかがめて一番近くにあった岩陰に隠れた。少年はその姿を最初興味深そうにじっと見ていたが、ジャメルに睨めつけられるとゴミ山の上へとのぼって行った。

これから、マルシという男を探さなければならない。レオが言っていたことを信じれば住み家を探すのは簡単なようだが…。ジャメルは、道路沿いに転がっている大きな岩の陰をぬうようにして海辺へ向かい、降りて行った。ゴミ山に立っている明るい電灯のお陰で、完全に岩の影に呑まれてしまうということは無かった。

ジャメルは、そうしてしばらく進んで行ったが、岩の大きさは進めど進めど大きく、自分が一体どの辺りを進んでいるのかということすら、良く把握出来ていないという状態だった。しかしそれでも、足元の勾配の感覚から、少しずつ下って行っているというのは確かだ。そう思いながら、そのまま手探りで進んで行く内に、突然視界が開けた。岩の大きさも、徐々に小さくなっているらしい。

少し先に、桟橋があった。所々に電燈が建てられている石橋が、暗い枯れた海の上をまっすぐに伸びている。オレンジ色の灯りに照らされているその橋の上を、集められた死体は運ばれて行き、そしてその終着点にある窪みへと投げ捨てられるのだ。死体をリヤカーに載せた、収集人だけがその上を通る。捨てられた死体は、この無尽蔵に食欲を有している海に呑み込まれ、次第に消化されて行く。その行き着く先がどんな所なのかは誰にも分からないのだが。

丁度、一人の収集人が、ゴロゴロと音を立ててリヤカーを引いているところだった。リヤカーの上には、その日集められたらしい、発芽することの無かった人間の遺体が何体か積まれているのが見える。ジャメルは、周囲を見回したが、まだマルシの住み家と思われるような場所は見えない。しかし、この近くであることは間違え無いはずだ。彼は橋の近くに住み、新しい死体が運ばれて来るのを見定めては捨てられたばかりのそれを取りに行くのだろう。

ジャメルは、近くにある比較的小さな岩の上にのぼり、周囲に目を凝らした。ゴミ山からの灯りはもうほとんど届かなくなっているので、誰かの注意を引く心配も無いだろう。

海は、案外近くにあるらしく、聞いていた緑色の蛍光植物がごく僅かに光っているのが見えた。これが一度に光る時は、毒素が出てる時だという、レオの言葉を思い出し、腰に付けているマスクに触れた。しかし、こんな大きな岩に囲まれていると、その現象が起こっているのかどうかすら、分からない。ジャメルは、やはりレオが自分で来たく無かっただけなのだろうと思い、一人舌打ちをした。

やがて、先ほどリヤカーを押していた収集人が戻って来た。リヤカーが空になっているからか、橋を通って行くその音は前よりも軽く、進む速度も速かった。収集人がやがて桟橋から出て行くと、橋は全く人気の無い、孤独で不気味な存在となった。 

収集人が消えた後も、ジャメルは暫くの間じっとマルシらしい人間の気配が無いかと、神経をとがらせていた。すると不意に、橋の麓に近い辺りで、たいまつの火らしいものがチラチラと動いているのが目に入った。

火は、岩の隙間を見え隠れしながら、こちらの方へ向かって来ている。収集人によって捨てられた遺体を物色した後だと考えれば、それがマルシである可能性は大きい。案外、マルシの住み家の近くへやって来ていたのだろうか。それらしいものは全く見えないが、単純に室内の灯りが消えていて、闇に紛れてしまっているということなのかもしれない。

 しかし、火はどこに入る素振りも見せなかった。というよりも、ただひたすらジャメルの方に向かって来ている。そしてやがて、たいまつの持ち主はジャメルの前に姿をあらわした。

 たいまつを顔の前に掲げたその男は、確かにレオが言っていた通り鏡のような丸い目をしていて、じっと岩の上ですくんでいるジャメルのことを見ていた。先細りになっている顎には小さな口が付いており、頭は禿げあがっている。顔の肉が極端に少なく、薄そうな皮膚の至るところにはまるで乾燥して出来たひび割れのようなものがはしっている。

 ジャメルは、その何処を見ているのか分からぬ目線に怯えながら、何とか声を震わせずに言葉を発することが出来た。

「あなたが、マルシさんでしょうか」

 ジャメルがそう言うと、その男は小さな押しつけられたような鼻をヒクヒクと動かした。そして、ただ一度浅く頷いた。

「私は、ジャメルという者ですが、実はあなたに会いに、やって来たのです。私にとっては非常に重要なことなのですが、良い心臓がすぐに必要でして…。レオという医者のことはご存じでしょう? 彼に頼まれて、ここへ来ました」

「レオさんですか。勿論分かりますとも。いつもお世話になっていますから。誰か知らない人間の匂いがすると思って来たら、そういうことでしたか…。全く久しぶりの客人です。どうぞ、こちらへついて来て下さい」

 マルシは、非常にか細く、甲高い声でそう言った。少し聞き取り辛い声だったが、悪意のようなものは全く感じなかった。むしろ、その久々の来客を、喜んでいるように思えた。

 ジャメルは、岩を降りた。マルシの背は自分よりも高かったが、体は痩せていた。襟のついたシャツと、長ズボンをはいていて、たいまつを持っている手の爪がとても長い。もう一つの手には大きなずた袋のようなものを引っ提げていて、中からは今しがた拾ってきたと思われる遺体の、安らかな顔が覗いていた。マルシはそれを引きずるようにして歩いて行き、ジャメルもその後についていった。

二人は細い岩の間を進んだ。マルシは、橋の麓へ向っていた。歩を進める毎に、視界が開けて海の様子が見えるようになり、ジャメルは安心した。やがてマルシが足を止めた。そこに岩は無かったが、地面には扉がついており、マルシがそこを開くと、足元から薄くではあるが、明かりが漏れて来た。それと同時に、何かカビ臭いような臭いと、生暖かい、湿気を多く含んだ空気が出て来た。

「ここが、私の家だよ。どうぞ、中へお入り下さい。心配することは無い。帰る時だって簡単なもんだ。上へ向って適当に岩の間を進んでゆけばその内道路の何処かに出ます」

「ええ、親切にありがとう。又、来ようと思っても中々来れそうにはありませんが…」

「それだって、心配ありません。私だって、ここに常に住んでいるというわけじゃないのでね。ここの周辺に誰かがやって来たら、私の方から出向くことにしているんです。丁度先ほどのようにね」

 マルシは、横にあった岩の隙間にたいまつを突っ込んで火を消すと、それを持ち地下への階段を降りて行った。ジャメルもその後ろをついて行った。

 そこは、岩の中をくりぬいてつくられたような空間だった。大きな魚の骨が、床に敷かれた布の端に置かれていた。部屋の奥には暖炉があり、その中で火種が燃えている。マルシはその中へ、脇におかれていた薪をくべると、急速に部屋の中が明るくなった。暖炉は地上のどこかへ通じているらしく、煙が充満するということはなかった。部屋の隅に、黒い布に覆われた何かがあった。又、その脇には別の部屋へ通じているらしい、狭い通路があった。暗くて内側は見えなかったが。

「さて、心臓が必要ということですか。定期便を待たないというのを見ると、よほど急ぎのようですね」マルシが、手にしていた袋の口を開きながら言った。「心臓のいくつかはストックしてあるので、心配はいりませんが、せっかく来ていただいたので、出来るだけ良いものを出しましょう。ちなみに、その患者は若いですか?」

 マルシは、立っているジャメルをちらちらと横目で見ながら言った。袋から今しがた取ってきたらしい遺体を取り出している。どうやら全部で三体あり、それぞれ若い男と女、そして中年の男だった。マルシの目に、その光景をじっと見ている自分の姿が映っているのが見えた。

「ええ、まだ若いです。女性で、実際生産されてからまだそれほど時間も経っていないようでした」

「そうですか。分かりました。今、いくつかお見せしますので、少しそこに腰掛けて待っていて下さい」

 マルシはそう言うと、今しがた取り出した遺体を部屋の端へ丁寧に置き、例の黒い布を取り外した。その下から現れたのは大きな水槽だった。水槽の内側には縦にいくつか仕切りがあり、中にはそれぞれ別の臓器が入れられていた。区切られているスペースは大小様々だったが、広い部分だと、大体横幅50センチ程度はあった。心臓と、腎臓、肝臓、腸といった、ありとあらゆる体のパーツが透明なゼリー状の液体の中で、静止している。ジャメルは、自分の体にも入っているらしいそれらの臓器を、非常に不気味なものに感じた。

 水槽の、それぞれの区切りの下には赤いスイッチがあった。マルシは、横幅30センチ程の、心臓の区切りの下にあったスイッチを押した。すると、それまでゼリー状に固まっていた液体が流動的になり、水槽の中で心臓だけがまるで固有の意思を持っているように動き始めた。上下、左右に。水流があるようにも見えないので、心臓自体が動いているということなのだろう。

 マルシは、水槽の脇に置いてあった、中に細かい砂のようなものが詰まっている袋を、爪の伸びた手で持ち上げた。そしてその爪をまるでスプーンのように使って中身をすくい上げると、パラパラと心臓が泳ぎ回っている水槽の中へ入れた。茶色をしていたその砂は、水槽の中に入ると赤く変色した。合計で十個以上はあるであろう心臓が、一斉に水面に近づき、降って来る赤い粒々を奪い合うようにして吸い込んでいった。

 マルシは、袋を脇に戻すと、代わりに小さな網と、非常に長いストローのようなものを手にした。ストローの先にはマイクのようなものが付いている。

「どうです? 驚いたでしょう。これらの臓器の元々の持ち主はもうすでに亡くなっているんですがね。この通り、それぞれの臓器は今ではそれぞれが独立して生きているんですよ。私が、蘇生させたんです」

 マルシは、呆然とその様子を見ているジャメルを振り返り、言った。目の中には、まだ心臓が泳いでいる光景が映し出されていた。どうやら、多少の時間差があるらしい。やがてその目にジャメルの姿が映し出されると、再びマルシは水面に顔を出そうとしている心臓達の方を振り返った。

 マルシは、長いストローのようなものを耳に当てると、マイクのようになっている反対側を液体の中に入れ、心臓に近づけた。そして、目を閉じると一つ一つの心臓の声に聞き入るように耳を傾けた。そして一つの心臓の声を聞き終わると、耳につけていたストローの先を口先にもって行き、その小さな口の先端に付けて何かを呟きはじめた。確かに、マイクのようなものが当てられているその心臓は、真剣に話を聞こうとしているのか、泳ぎ回ることなくじっとしている。その動作を、マルシは心臓の数だけ繰り返した。どの心臓も全く同じに見えるが、どうやらマルシには見分けることが出来るらしい。

「さあ、決まりました」

 マルシはそう言うと、もう片方の手に持っていた網を水槽の中へ入れた。すると、一つの発色の良い心臓が、まるで広げられた恋人の腕の中へ飛び込もうとするかのように、網の中へ自分から入り込んで来た。周囲では他の心臓が、まるで意気消沈したかのように、それまでよりもゆっくりと泳ぎ回っている。マルシは、そのまま網を引き上げると、トレイのようなものを下から取り出してその上に置いた。そして、心臓が入っている水槽の下についている赤いスイッチを押すと、再び液体がゼリー状になりはじめたのか、残された心臓達の動きはよりゆっくりとしたものになり、やがて静止した。

「一体どんなことを、話していたんです?」

 ジャメルが聞くと、マルシはトレイの上に置いた心臓をなでながら言った。

「話していたという訳ではありません。ただ、ここにやって来たのがいつだったかを確認していたんです。ここから出て行く意志があるか無いかという点とあわせましてね。基本的には、古い順に外へ出しているんですが、今回はそれだけにとらわれず出来るだけ元気のよいものを選びました…。そのせいで、本当はこれの代わりに出る順番だった心臓が、少しふてくされてしまいましたが、大した問題ではありません」

 トレイの上で心臓は、まるで深呼吸を繰り返すように伸縮を繰り返している。表面は薄らとしたピンク色をしていて、切断された管からは、内側に溜まっていた水槽内の液体が時折こぼれ出していた。心臓は、まるでトレイの上から逃げ出そうとするかのように、一度ピョンと飛び上がった。ジャメルは、水槽の外に出ることの出来なかった心臓のことを不憫に感じた。

「しかし、ここへ来るまで、臓器にこれほど活発なエネルギーがあるとは知りませんでしたよ…。おそらく、心臓は特に活発なんでしょうね」

「ええ、勿論その通りです」

 マルシはそう言うと、ジャメルに一言断りを入れ、心臓を持ち運ぶ為の容器を取りに、隣りの部屋へ行った。ジャメルは少しの間、パチパチと音をたてて燃えている炎の光を見ながら、その男が戻って来るのを待った。トレイの上の心臓は、まだ時折ビクビクと動いていたが、内側に入っていた液体をあらかた吐き出してしまうと、その動きはおさまっていった。やっと冷静になり、自分が今どこにいるのかをじっと見極めようとしているかのようだ。

 ジャメルはその様子を見ながら、自分の体に手を当てた。やはり、内側に入っている臓器は全て、他の臓器とつながることによって、そして自分という人間の皮の下におさまることによって初めて稼働することが出来るのでは無いかと思える。それに、人間の臓器の目的は、他の臓器とつながり合い人間を動かすことなので、それぞれの臓器が固有の意志を持っていても、本来の目的を考えたらあまり意味の無いことだ。しかし、臓器の目的が人間の体を動かす為だというのも、もしかしたら自分達の思いこみなのかもしれない。現実に、目の前では水槽に閉じ込められた臓器達が、行き場の無いエネルギーをその内側に蓄えているのだ。そして、それら全ての臓器は、元来この島で生産されたものでもある。

 そのようなことをぼんやりと考えていると、トンネルの壁に体をこすらせながらマルシが戻って来た。蓋の付いた青い小さなバケツと、清潔そうな白い布切れを持っている。マルシはバケツをトレイの脇に置くと、布切れで心臓を丁寧に拭い始めた。そしてそれが終わると、バケツの蓋を開け、その中に心臓を入れた。見ると、心臓はバケツの内部にあった白い窪みの中にすっぽりと納まっていた。

「どうぞ、これをこのまま持って行けば、心臓に傷が付くということも無いでしょう」マルシは、バケツを差し出しながら言った。「どうです、せっかく来たんだ。お茶でも飲んでから帰りませんか?」

 ジャメルはそう言われ、少しだけならと誘いにのることにした。ニキのことは当然気がかりだが、思っていたよりもすぐに心臓を手に入れることが出来たし、目の前にいる奇形の人間が、その見た目とはかけ離れた穏やかな性格をしていることに惹きつけられたのだった。

「ええ、少しの間でしたら。時間はあまり無いのですが。それと、出来れば海の見えるところで話がしたいですね。そうすれば、毒素が出ているのを目で確認することも出来ますから…」

 ジャメルは、トンネルを通った先にある客間に通された。マルシはロウソクに火をつけると岩のテーブルに置いた。するとその脇の岩がくり抜かれていて、外が見渡せるようになっているのが分かった。すぐ先に岩があるのをのぞけば、何も見えなかった。

「真っ暗ですがね。この先には海があります。毒素が出始めたらすぐに分かりますよ。ご存じかとは思いますが、それに適応して緑色に光り始めるキノコがありますのでね」

 ジャメルはじっと海を見た。やがて目が慣れて来ると、確かにキノコと呼ばれたものがごく僅かに光っているのが見えた。多少なりとも、毒素が出ているのは事実らしい。しかし、意外なことに全く空気が悪いとは思えない。ジャメルは、腰にぶら下がっているマスクに手を触れた。やがて、マルシは湯気の立っている白いコップを二つ持って来て、テーブルの上に置いた。特殊な香草が入っているのか、鼻の奥が冷たくなるような感じがした。

「安心して下さい。決して体に悪いものじゃありません。私にとっても、当然他の人達にとっても。これも、実は海のものです。あそこに転がっている魚の骨には苔がはえていましてね。それを乾燥させて湯につけたものです。海のものと言うと、毒素を含んでいるんじゃないかと疑うかもしれませんが、そんな事はありません。これを繁華街にある茶屋に売っているのも、私の収入源の一つですからね。ドームで売られているものよりも新鮮ですよ」

 ジャメルはそう言われ、それを口に入れると、体の中が冷たくなる、変わった飲み物だった。しかし、その冷たさもそう長続きはしなかった。マルシは、ジャメルの向かい側でその茶を飲みながら、目の中にロウソクの炎とジャメルの姿を映しながらゆっくりと話始めた。

「ここは、私にとっては非常に大切な場所でしてね。知っているとは思いますが、私はこの海の毒気を含んだ空気の中でしか生きることが出来ません。毒素が出るピークの頃には、丁度この場所に座って、たっぷりとそれを体内に取り込みます」

 ジャメルは、何も言わずにマルシの言う事を聞いた。

「あなたのように、ここを訪ねて来る人間というのは非常に稀でね。私が普段接する人間は、食糧を運んで来たり、私が出荷する臓器やこの茶を運んで行く運送人と、死体の運び屋くらいのものです。寂しく無いかと言われると、そんなことは無くてね。誰かがやって来るとこういう場をもうけているのです。無理強いになっていないと良いのですが…」

「いえいえ、とんでも無い。私も、実はあなたのことに興味がありましたのでね。話を聞いた時は、何とも悲劇的な方だと思いましたが、実際に会ってみれば何とも、私が知っている誰よりも、穏やかな方なのではないかと思える程で、驚いています」

 マルシは、微動だにせずジャメルの言う事を聞いていた。表情も全く変わらない。

「悲劇的ですか。確かに、私は何かの間違えで生産されたみたいですね。しかし、この生活も悪くはありませんよ。それに、体はこの通りですが、私にだって皆と同じように種が入っています。やがて、寿命がやって来るでしょう…。発芽出来るか、出来ないかは分かりませんが」

「あなたがいなくなれば、困る人は多いでしょうね…。あなたが集めて来る良質な臓器のお陰で、不幸から救われている人間も多いんですから」

「そんな事を言ってもらえると、確かにありがたい気はしますがね。安心して下さい。私がここで住んでいられるのは、この肺のお陰ですが、事実そのマスクを使えば私と同じような生活をすることが出来ますよ。しかし、こんな生活が生産される時に約束されるはずは無いですから、道を踏み外すという事が必要ですね。それに、常にそのマスクをつけて生活するというのも大変かもしれませんが。しかし、本当に自分の寿命が近づいたら、私は自分の体をあの液体の中に閉じ込めるつもりですよ。仮に発芽をしたとしても、こんなところまで普段収集人は来ませんからね。街の人々が私からの連絡が途絶えたということに気付くまでは少なくとも待たなければなりません。そして、私が死んだ後はこの肺を取り出して、私と同じ様な人間を作れば良いでしょう。もし、この私が行っていることが必要不可欠なことなら、自然にそうなるのでしょうが」

「ええ。確かにそうするべきかもしれません…。マルシさんが、そのように考えているということは、私もしっかり把握しておきますよ。街へ戻ったら、レオさんにも伝えておきます。あの人なら、あなたの体から肺を取り出すことも出来るでしょう」

 ジャメルがそう言うと、マルシは安心したのか、目を閉じて椅子の背に体をもたれかけさせた。そして再び目を開くと、はめこまれた鏡は布で磨かれたようにピカピカになっていた。テーブルの上のロウソクと、ジャメルの姿がより鮮明に映った。ジャメルは、久々に自分の姿を見ると、やけにやつれているように感じた。

「自分の寿命があとどれくらいか、予想はついているんでしょうか?」

「いや、私にだって確実なことは分かりませんが、最近特に、丁度種が入っている辺りが痛くなったり、熱くなったりしているように感じるんです。発芽することが恐ろしいことはありませんが、その先にあるものをこの目で見ることが出来ないというのは少し残念なことのように思えます。結局のところ、発芽してもしなくても、私自身には全く関係の無いことなんでしょうね」

「ええ、それはその通りです。しかし、もしかしたら私は発芽した私達の頭が運ばれて行く場所へ行くことが出来るかもしれません。先ほどいただいた心臓は、それを可能にしてくれるかもしれない女の中に入れられるんです」

 そう言うと、マルシは少しだけ笑っているような表情をした。

「それは、おかしな話ですね。そんなことが本当に可能なら、是非私もそんな場所へ行ってみたいもんです」

 はじめ、その話し方にはジャメルに対する疑いが多く含まれているようだったが、ジャメルの顔が真剣そのものだったので、それに呼応するかのようにマルシは態度を改めて話続けた。

「もし、その場所で発芽した私の頭を見つけたら、どうぞ丁寧に扱って下さい」

「ええ、まあ正直言って私だってそれを完全に信じている訳では無いですが、全く根拠が無い訳でもありませんので…。ところで、これは単純に興味があって聞きたいのですが、あなたの目には、世界がどのように映っているんでしょうか? あなたはご存知かどうか知りませんが、私から見ると、あなたの目は完全に鏡のようだ。ただ、外の世界が見えていないということも無いらしい。いわゆる、マジックミラーのようになっているということでしょうか?私には鏡のように見えても、あなた側から見たら透明ガラスのようになっているとか?」

「いえ、実はそういう訳でも無いのです。私から見ても、この目は鏡のようなもので、常に自分の内側が見えるようになっています。常に真っ暗で、何かが見える訳では無いのですがね。どうして、こんなものが付けられているのか分からないんですが。きっと、この体をつくった誰かの、悪ふざけでしょう」

 そういうと、マルシは少し悲しそうに顔をうつむけた。

「しかし、この鏡には小さな穴が開いてましてね。そこから、体の外を覗くことが出来るようになっているんです。ですから、外を見るためにはただ真っ暗なだけの自分の内側も見なければならないということでして…。もう、慣れましたけどね」

「なるほど、分かりましたよ。もしあなたがそのことに苦しんでいるんでしたら、レオさんにでも連絡してみると良いでしょう。目の交換くらいでしたら、それほど大金もかけずにやってくれると思います」

「そうですか…。しかし、話をした通り、私はこの場所から出ることが出来ませんのでね。かと言って、あの人や他の医者がこの場所へやって来てくれるとも思えない。私がそれなりの資金を用意すればそれも可能かもしれませんが、残念ながらそれほど余裕がある訳でも無い。いつかその余裕が出来た時には、考えてみますよ…」 

「さあ、そろそろ行った方が良いかもしれません。少し、毒気が強くなって来た気がします。その、マスクも付けたらいかがですか?」

 ジャメルは、そう言われて海の方を見た。確かに、言われてみたら緑色の光の数が僅かに増えているような気がする。茶を飲み干すと、ジャメルは忠告通りにマスクを口に付けた。やはりそれは重く、ジャメルは少しうつむきがちにならざるをえなかった。

 そしてジャメルは立ち上がると、言われた心臓の料金をテーブルの上に置いた。それは、あらかじめレオから聞いていた金額よりも少しだけ高かったので、その中には茶の料金も含まれていたのかもしれないが、それを問いただそうとする気にはならなかった。ニキの言うことが確かなら、自分がこの島にいる残された時間だって、そう長くは無いのだ。

 マルシは、テーブルに置かれた紙幣をその長い爪を使って取ると、その枚数を確認した。それが終わると、大きなポケットの中へ入れた。

「どうも、ありがとう。これで、又おいしいものを食べることが出来ます。一緒に外まで行きましょう」

 二人は、再び水槽のある部屋へ戻った。水槽の中では、相変わらず持ち主を失って独立した臓器の群れが、静止している。心臓の入ったバケツは、その前に置かれたままだった。ジャメルは蓋を取って中を確かめると、心臓はまるで生まれたばかりであるかのように窪みの中でスヤスヤと眠っていた。

「大丈夫ですよ。この中に入れていれば鮮度が急に落ちてしまうということもありません。逆に、その女の体に入れる時は少しだけ抵抗するかもしれませんが、それはその心臓が健康である証です。少しだけ時間が経てば、自分の意志を捨てて心臓として稼働し始めることでしょう」

 マルシはそう言うと、まるで早く出ていけと言わんばかりに、入り口のドアを開いた。

「先ほど話をした通り、道路へ出るのは簡単です。岩の間は入り組んでいますが、ただひたすら登って行けばやがて道路の何処かに出るでしょう。どうやら、毒素が強くなっているので、マスクが外れないように注意して下さい。おっとすみません。今、たいまつを持って来ましょう」

 マルシはそう言うといったん穴の中へ戻り、小さな火の付いたタイマツを持って来て、ジャメルに手渡した。ジャメルはマルシに礼を言うと、その火と、勾配の感覚を頼りに、上にある幹線道路を目指して行った。

手にしたバケツが、左右の岩に当たり、硬い音を立てた。中の心臓を気遣い、出来るだけ音が鳴らないようにしようとはしたが、窮屈な道のせいでどうしても避けることが出来ない。道の途中からは海が見えないので、一体どれくらい毒素が出ているのかは分からなかった。口と鼻を覆っているマスクの先には、円筒形のフィルターが付いていて、大気を濾過している。そのお陰で、目の前で焚かれているタイマツの匂いも気にならない。しかし、露出されている目だけは何やらヒリヒリとする。それも、もしかしたら海から出ているという毒素の影響かもしれなかった。

マルシの言った通り、上へ行くのはそれ程労力のかかる事でも無かった。並んでいる岩は、まるでそれぞれが微妙な磁力で反発し合っているかのように微妙な距離を保っていたので、道が塞がっているということは無かった。そして、ある一定以上の高度になると、そこから先に毒素が上がって来れないということか、目の痛みも軽減された。ただそれが毒素のせいであるというのが確実な訳では無いので、まだマスクは付けたままにしておいた。

やがて、登りの勾配が少しずつ緩やかになってきた。薄らとではあるが、ゴミ山からの明りが岩のてっぺんを照らし始めた。ジャメルは、火が小さくなっているタイマツを後方に投げると、岩の迷路からの出口へと向かって、自然と早くなる足並みに体を任せた。そして、出口は前触れも無く現れ、ジャメルは道路へ出た。

そこは、ゴミ山の端で、道路の先には工場の群れが見えた。少し歩けば、海へ伸びている橋の入り口があるはずだが、その場所からは見えない。少しの間道路の脇に座り込んで休んでいると、住居区の方へ向かうバスが通った。丁度工場が終わり、人々が帰路についている時刻らしく、バスの中は非常に混み合っていた。ジャメルは、その日常的な光景に安堵感を覚え、ようやくマスクを外すと、その重みから解放されたせいで急激に頭が軽くなったように感じた。

 ジャメルは座ったまま、バケツの蓋を開いて中を確認すると、ここに来る間にぶつけ過ぎたせいか、心臓は窪みから外れてしまっていた。窪みから外れた心臓はまるで独り言を呟いているかのように、わずかに震えていた。それを見てジャメルは一瞬心臓の具合が悪いのかと不安に思ったが、心臓はすぐに震えるのを止め、まるで深呼吸するかのようにゆっくりと膨らんだり、縮んだりするのを繰り返した。ジャメルは、心臓が毒素の影響を受けていないことを確認し、ほっと胸をなでおろした。そして、元通りの窪みに心臓を入れると、マスクを腰に付け、繁華街へ向かって歩き始めた。

 バスが通り過ぎる毎に、ジャメルはその方を見たが、やはりどのバスも満員だった。まるで、汚れた窓ガラスに顔をこすりつけるようにして、疲弊した工員達はそれに乗っている。ジャメルを乗せる余裕は無いらしい。

 いつの間にか体が衰弱していたらしく、繁華街へ向かう道はいつもよりも険しく感じられた。道は平坦だが、先にある長い道のりが、心に影を落とすのだろう。今までこの道を行く時はバスに乗ったことしか無かった。マルシのところで飲んだ茶のせいかもしれないが、軽く吐き気がした。それを何とかこらえながら、ジャメルはトボトボと次第に大きくなって行くゴミ山を脇目に、舗装された道路を歩いて行った。 

 何かゴミ山から物音がしたのを聞き取り、ジャメルはその方を見た。すると、背の高い少年が一人、山の上からこちらを見下ろしているのが見えた。口に布を巻きつけていて、半ズボンに半袖といういでたちだ。持っているフックの先にはどこかで掘り出されたらしい割れたステンドグラスが引っかけられている。確かに、再び加工することも出来そうだ。

「こんばんは」ジャメルは立ち止まり、少年に向かって言った。「繁華街に向かっているんです。本当はバスに乗りたいんですが、この時間だと途中で人を乗せる余裕があるバスがありませんね」

 少年は、返事をせずにまるでカカシのようにジャメルの方を見ている。その視線の先に心臓の入っているバケツがあるような気がして、ジャメルは一瞬警戒をしたが、それは思い過ごしらしかった。少年はやがて工場地帯の方を真っすぐに指さした。見ると、バスがやって来ていた。すると、突然バスの進行方向にガラスの玉のようなものが投げ込まれた。遠目から見ても、直径50センチくらいはありそうな巨大な代物だ。おそらく、観賞用に作られたオブジェの残骸だろう。それは、道路に落ちるとガシャリという鈍い音を立てて大小様々な欠片に砕け散った。

 突然のことにジャメルは驚いて尻もちをついたが、幸い欠片は足元に届かなかった。悪ふざけにもほどがある。少年は、それを見届けると、ゴミ山の中に姿をくらました。

 バスは、流石に通り過ぎることが出来ずにジャメルの目の前で停車した。丈夫そうなホウキを持って降りて来た運転手は、又かというような呆れた表情をしながらゴミ山の方を見て、砕けたガラスをゴミ山の方へ掃き寄せにかかった。

「全く、危ない奴等がいるもんですね」

ジャメルは言いながら、運転手がガラスを道路から掃き出すのを手伝った。中背の、立派な白いあごひげを生やした運転手は、舌打ちをしながら、険しい眼つきでジャメルを見た。そして、全く安心してこの付近を通ることが出来ません、とうつむきがちに言った。

しかしそこでバスが停車したのは、ジャメルにとっては好都合だった。ジャメルは車掌に事情を話し、繁華街までの短距離を乗せてもらうことにした。バスの中からは、苛立った乗客が窓から顔を出して文句を言ったりしていた。バスは外からだと混雑しているように見えたが、実際に中に入ってみるとまだ何人かを乗せる余裕はあった。車掌は、手慣れた動作で路上を片付けると運転席に乗り込み、軽くクラクションを鳴らしてからゆっくりとバスを出発させた。窓からゴミ山を見ると、ゴミの中に混じってさっきガラス玉を投げ入れた少年の顔が見えたような気がして、ジャメルは心の中で礼を言った。 

バスに乗っていた人々は、動き始めてから少しの間、ジャメルの事を陰険な眼つきで眺めていたが、すぐに興味を失ってしまったのか、それぞれが窓に体を押し付けたり、まるで祈りごとをするかのようにうつむきながらブツブツと呟いたりし始めた。ジャメルは、バスの丁度真ん中辺りに立ち、ポールにつかまりながらバスが進むのに身を任せた。片手で、バケツの柄を持ち少しだけ床から浮かせておくのは忘れなかった。振動が、直接心臓に伝わるのを避ける為だ。確かに、その効果はあったようで心臓はまるで寝静まったように、動かない。乗客のうちの何人かは、それでもそのバケツが気になるらしく、直視しないまでも、チラチラとその方を見ていた。やがて、ゴミ山を過ぎると繁華街の明りが見え始めた。

バスが繁華街の入り口で停車した。ジャメルを含む多くの乗客が、バスを降りた。バスから降りると、ジャメルは誰よりも先にドームの中へ入って行った。ドームの内部は混み合っており、酒の臭いも強く漂っていた。ペット屋の前も通ったが、丁度店内で催し物が行われている最中らしく、店主の姿は無く、代わりに〝黒サナギ大量入荷 売り尽くし感謝祭〟という看板が立ててあった。

ジャメルは揺れる人々の群れを押しのけながら、裏にある路地を目指した。そこにいる人々と、マルシの家で見た水槽の中の臓器がイメージとして重なった。

 ドームを抜けると、ジャメルはさっき通った、高い塀に挟まれた狭い路地に入って行った。塀についている油が体につかないようにと注意をしつつも、出来るだけ早くジャメルは歩いた。すると、その狭い道の終り、他の路地と交差している場所にある窪みの中に誰かが倒れ込んでいるのをジャメルは見つけた。

 それは、あの案内人だった。案内人は、窪みの中で、まるで風呂に浸かっているかのように仰向けに倒れていた。目は完全に閉じられていて、痩せた体はだらしなく折れ曲がっている。ピンク色の、プラスチックの唇は薄らと開いていて、その隙間からは唾液が垂れている。ジャメルは、案内をしてもらうチャンスだと思って案内人を起こそうと体を揺すったが、それは酷く冷たかった。

 案内人は、どうやら死んでいるらしかった。ジャメルは、その分厚い前髪をめくり上げて見た。すると、額からは小さな芽が出ていた。どうやら、種が発芽したらしい。この場所に放っておいても、やがて夜更けになれば収集人がやって来て、この体を運んで行くだろうが、こんな場所で見つけたのも何かの縁だ。ジャメルは、すぐそばにある路地裏の出口に体を運び出してやることにした。夜が来るまでの間にこの体が瓦礫に埋もれてしまうという可能性だってある。現実には、この一帯には埋もれてしまった体も多くあるのだろうが、発芽した種が放置されて、やがて枯れてしまうというのはやはり残念なことに思える。

 ジャメルは、まるで自分で掘った墓の中で寝ているかのような案内人を引きずり出すと、その非常に軽い、冷たい体を背負って今しがたやって来た道を戻って行った。心臓の入ったバケツが自分の足に当たり、案内人の、冷たいプラスチックの唇が首筋に触れる。そして、路地裏から出ると、その体を丁寧に寝かせ、芽が外からでも見えるように前髪を分けておいた。通りを行く人々が、興味本位でその様子をチラチラ眺めては、立ち去って行った。ジャメルも、去ろうとしたが、その時案内人の耳の中に何かが詰まっていることに気付いた。

 ジャメルはそっとそれを摘み出した。それは、銀色の玉で、細い棒状の取手が一つ付いていた。それが入っていたのは片耳だけだった。もう片方の耳に入っていたものは何処かに落ちてしまったのかもしれない。周囲を見回してみたが、それらしい物は見当たらなかった。もしくは、片耳にだけ、入っていたのかもしれない。取手のような細い棒を良く見ると、中心が空洞になっていた。そして球体の反対側には微細な穴が沢山開いていた。

 どうやら、それは集音機のようなものらしかった。ジャメルは、試しにそれを案内人と同じように耳の穴に入れ込んでみると、それを入れた耳に入って来る音が、格段に大きくなった。しかも、その音がやって来る方向や、おおまかな距離も聞きわけることが出来た。どうやら案内人は、この玉を耳に入れることによって、ドームの音やレオ病院の音を探り当て、迷わずにこの路地を歩くことが出来ていたようだ。

 四方八方から押し寄せて来る音は、その種類も、音の質もそれぞれ固有のものではあったが、普段物事を見ているのと同じように、自然と聞きたい音を聞き取ることが出来た。この玉が、どこで作られているのかは分からないが、間違え無く繁華街で売り出せば高値で売れることだろう。

 人々の声は、まるで壁のように押し寄せて来るが、その中でジャメルはレオや、受付嬢の声を探した。するとすぐにそれは見つかった。ジャメルは、糸を辿るようにしてその方へ進んで行った。

 声は、早歩き程度のスピードで移動している最中だった。その声の主が、レオと受付嬢であることは間違え無かった。一瞬聞こえたその声は、そろそろジャメルが戻って来る頃だろうと、話しあっていた。ジャメルは、その声が移動している先を探った。すると、あの何度か聞いたことのある鐘の音が途切れ途切れに聞こえて来る場所があった。そこが、レオの病院のある場所だろう。立ち止まっていると、二人の声は間違え無くその方向へ向かっていた。

 二人が話をしている内容を聞き、ジャメルはやはり自分が、ただそこへ行きたくなかったレオの代わりに、マルシの所へ行かされたのだということを知った。ジャメルがマルシのところへ行っていた時、レオと受付嬢は路地裏の菓子屋で、たっぷりと休んでいたらしい。言葉の端々に、ジャメルという人間に対する嘲笑も多分に入っていたように感じる。

 ジャメルは、耳を澄ませば澄ますほど、まるでこの一帯にいる全ての人間の心臓の音すら聞こえてしまうのではないかと思えるほどに聴覚が敏感になったように感じた。それらが、崩壊してゆく建物の音に混じると、まるで鋭利さにかける凶器で、全身を袋叩きにされているかのような幻覚に襲われた。あまり長い間この器具を耳につけているのは、精神衛生上あまり良く無さそうだ。きっと、あの案内人のまるで外の世界全てに憎しみを抱いているかのような攻撃的な眼つきもこの器具のせいだったのだろう。

 鐘は、継続的に鳴らされていた。その音と、非常にぼんやりと記憶に残っている道筋を辿って歩いて行ったが、さっきここを出る時に通ったと思われた箇所が真新しい壁でふさがれていたりもした為、それ程簡単に辿りつけたという訳では無かった。しかしそれでも方向を見失うということは無かった。

 人の声は無数に聞こえたが、誰にも出会う事は無かった。路地裏に住む人々は、時間の問題なのか、建物の中にいるようだった。

 やがて、ジャメルは鐘のある道に辿り着いた。その先にあるレオ病院を見ると、ジャメルは耳から玉を抜いた。玉は、耳に入れた時と全く同じように銀色に光っていた。その中を、どんな悪意ある言葉が通ろうが、破壊的な音が通ろうが、それ自体には全く影響を及ぼしていないらしい。ジャメルも又、これを使うことによって自分の聞きたい音を聞いていたが、自分が選択しなかった音が、自分の中の何処かに鬱積しているような気がしないでも無かった。ジャメルは、その玉をポケットの中へ入れた。

 ジャメルは、病院の階段を上がって行った。自分が聞いていた音はやはり正しかったようで、扉には鍵がかかっていて窓から見える室内では受付机のスタンドライトが無人の室内を照らしているだけだった。奥の部屋では、この心臓を待っているあの女の体が横たわっているはずだ。

 あとどれくらいで彼等は戻って来るのだろうか。ここへ来るまでに人に会わなかったが、階段に座り込んで帰りを待っていると、何度か鐘が叩かれる音が聞こえた。階段は暗く、上の階は完全に暗闇に呑まれていた。ジャメルはポケットから玉を取り出して、レオと受付嬢がどれくらいの距離にいるのかを確かめようとした。しかし、いつの間にか、玉についている棒が半分に折れてしまっていた。耳に入れると、筒が無くなってしまったからか、音は確かに拡張されたが、どの音も輪郭までぼやけてしまい、まるで雑音の渦に投げ込まれてしまったかのように、ジャメルの鼓膜は震えあがった。急いでジャメルはそれを取り出そうとしたが、筒が短くなっていたせいでうまく掴むことは出来なかった。更に悲惨なことに、玉を取ろうとして指先でいじっていると、筒は根元から折れてしまい、完全な球体になったそれは耳の中で回転してしまった。これでは、自分一人の力で取り出すのはかなり大変そうだ。仕方無い、レオが戻って来るのを待っていよう。仮に耳を取り外さなければならないということになったとしても、ただ新しい耳をつければ良いだけの話だ。

 ジャメルは、バケツを階段の踊り場に置き、そしてその脇に座り込んだ。その雑音があまりに不快だったので玉が入っている方の耳を塞ぎ、彼等が戻って来るのを待っていたが、耳を塞いだ時には既に拡張され歪められた路地裏の音が大量に頭の中に入り込んでいたらしい。おそらくその影響だと思われるが、ジャメルは少しずつ頭痛が起こり始めているのを感じていた。

 それが本格的な頭痛になるまで、それほど時間はかからなかった。ジャメルは耳を押さえている手が離れないように、バケツを抱え込むように体を曲げて踊り場に倒れ込み、手を当てている耳を踊り場に押し付けた。汗が滲み、目の前がかすむ。バケツの中で心臓が震えているのか、振動が伝わって来る。そのまま目を閉じると、意識が何処か別の場所へ移動して行きそうになったが、急に階段が明るくなったお陰で何とかジャメルは意識をその場所に留めておくことが出来た。

 ジャメルはぼんやりと目を開け、体を起こすと下からレオと受付嬢が階段を上がって来る姿が見えた。前を歩いているレオは、ジャメルの姿を見ると驚いた表情をして階段を駆け上がって来た。まるでどこかへ診察に行っていたかのように白衣を着て、手には仕事道具らしい金属製のケースを持っている。

「おっと、ジャメルさん。戻られていたんですね…。具合でも悪いんですか? 酷い顔色だ」

「頭痛が、酷いんです。間違えて耳に奇妙な玉を入れてしまって、周囲の音がとても刺々しく聞こえる…。取るのを手伝って下さい。あの、案内人の耳から取り出したものです」

 レオが、手で塞がれている耳の内側を見ようとしたので、ジャメルは絶対に近くで声を出さないで欲しいと言ったうえで、ゆっくりと手の平を外した。すると、さっきとはうって変わって周囲の音は全く聞こえなくなっていた。完全にその機能が故障してしまったということか。まるで、その耳が付いている顔の片側だけ水の中に浸かっているかのような具合だ。レオがじっと耳の穴を覗いているその背後から、受付嬢が興味深そうな顔をして同じようにジャメルの耳を見ていた。レオは、それを見終わると、手を元に戻して下さいとジャスチャーでジャメルに伝えた。ジャメルは言われた通りに手の平を元の場所に戻した。 

「本当ですね。完全に耳の穴が塞がれています。ただ、それほど取り出すのは大変じゃないでしょう。取りあえず、中へ」

 受付嬢はドアの鍵を開け、室内に入って行った。その後でまるで生気を失っているかのような顔色をしているジャメルを肩に担いだレオが、ドアの脇についているスイッチを押して階段の電気を消し、院内へ入って行った。バケツは、ジャメルの手に握られたままだった。

 ジャメルがレオによってソファーに寝かされると、受付嬢はドアにかかっているカーテンを閉めて、灯りを点けた。受付机のスタンドライトのオレンジ色の明りは、すぐにそのより強い明りに呑まれていった。

 レオは、ジャメルが手にしているバケツの蓋を開け、中を覗きこんだ。

「これは、良い心臓ですね。まだ動いているとは。流石はマルシさんだ。丁度良く良い心臓があって良かった…。それはそれとして、その耳の玉を先ずは取ってしまいましょう」

 レオはそう言うと、丁度持ち運びをしていた金属の小さなケースを開けて、中から鋭利なピンセットを取り出した。

 ジャメルは、手の平を外すとレオに自分の耳をゆだねた。どういう訳か、頭痛の波はもう引いており、朦朧としていた意識も、流し込まれたコンクリートが固まったかのようにはっきりとし始めていた。

 レオは、ピンセットの先に接着剤のようなものをつけると、それをジャメルの耳の中に入れた。すぐに玉を引き抜くことが出来たが、耳から出るその瞬間に、玉の内側で何かが破裂したかのような爆音がして、ジャメルは決定的な一打を鼓膜に受けることとなった。

 ジャメルは苦痛に顔を歪めながら、取り出されたその玉を見た。玉は確かに筒が折れていたが、それ以外に目立った破損は見受けられなかった。爆音を聞いたのも、ジャメルだけだったので、自分の幻聴だったと言えば、それで済んでしまうようなことでもある。鼓膜の痛みも、すぐにひいて行った。

「良かったですね。鼓膜に傷はついていないみたいだ。それはそうと、早く手術にかかりましょう。この心臓が元気なうちに、早く…」

 そう言うと、レオは取り出した玉を受付嬢に手渡した。受付嬢はそれを小さな巾着袋の中に入れて、受付机の中へしまった。

 それをどうするんです、とジャメルが聞くと、女はドームの中の雑貨屋に売るのよ、と言った。修理をすれば、又使えるということなのかもしれない。そして再び使えるようになったそれは、又新しくこの路地裏で案内人をすることになる人間の耳の中に入れられるのだろう。そして、その案内人は確実に険しい顔つきとなり、やがてこの路地裏で死ぬことだろう。 

「それじゃあ、私は失礼しますね」

 どうやら、受付嬢は帰る時間になったらしく、机の裏にしまってあったコートを着て一人外へ出て行った。その顔の至る部分には陰鬱な疲労の影が沁みついていた。レオはジャメルからバケツを受け取ると、何かブツブツと呟きながら、手術室の中へ入って行った。ジャメルも又フラフラとした足取りでその後ろを追って行き、部屋の壁に身をもたれかけた。何か香草のような匂いがすると思って見回すと、部屋の隅に古びた鍋が一つ置いてあるのが見えた。コンロには小さな火がついている。恐らく受付嬢が作った病院食だろう。ジャメルは吐き気を覚えた。

その匂いも、レオには気にならないらしい。レオは、ニキの体を覆っていたカバーを取り除いた。そして例の望遠鏡のようなものを取り出すと、ニキの頭に当てた。ニキの裸体は、相変わらず生きている人間のそれと変わらないように艶があるように見える。生きているからといって、艶があると言いきれる訳でも無いが。レオは、頭を見終わると、その筒を心臓や、その他の内臓の上へ移動させた。それが終わると、しゃがみ込んでニキが寝ている台の下に入り込み、何かゴソゴソと動き始めた。覗きこむと、台の下には大きなガラス瓶が置いてあり、その中に赤黒い血が、針のように細い線となって落下しているところだった。ジャメルは、それを見るとまるで自分の体から血が抜かれているかのような気がしてしゃがみ込みそうになったが、何とか耐えることは出来た。

ニキの体は、血が抜けるに従って少しずつ皺を帯びていった。レオはやがて頃合いを見計らうと台の下に入り込み、バルブを閉めているのか耳触りな音がした。やがて、血の落下は止まった。

バケツから取り出された心臓は、レオの両手の中で美しいスポンジの中に埋まっていた。当の心臓自体も、自分を尊い存在だと思っているかのように思えてジャメルは一瞬嫌悪感を抱いた。

レオはゴム手袋をはめて鋭利なメスを持つと、まるで鉛筆でカンパスに下描きをするかのように少したるんだニキの体の上を滑らせた。メスが通った跡には、うっすらとした切れ目がついていた。切れ目は、メスが行きかう内にどんどん深くなっていった。そして、レオはメスを置くと胸を開いた。

肋骨はレオの手が入って来るのを阻害しようとした。しかしレオはそれを取り外す方法を心得ているらしく、肋骨の一本一本をクルクルと回して取り外した。骨は、まるで棒状の餅のように見えた。そして骨を失った体内に、レオの額から噴き出た汗が数滴こぼれ落ちてゆくのが見えた。それでも、当然のことではあるが、ニキの表情に変化は無い。

 レオは肋骨を外し終わると心臓を取り外しにかかった。ジャメルはその様子を仔細に見るために、手術台に近づいて行ったが、一定以上入ることは出来ないらしく、それまで全くジャメルのことには無関心であるように見えたレオが俊敏に顔を上げて動きを制した。ジャメルに向けられたメスはニキの体の白い脂を纏っていた為、まるでそれ自体が鋭利な刃を体の中に隠した生き物であるかのように見えた。どこにあるのか分からないその目は、確実にジャメルの心を見透かしていた。それを持っているレオの目は、確かに正気では無く片方の目等はその光景から何とか逃れようとしているのか、瞼の裏側に逃げ込もうと必死になっていた。レオはジャメルがそこで動きを止めると、再び顔をニキの体に向けた。

 その場所からでも、体の内部をのぞくことは出来た。ジャメルは人間の体の内側にある世界を初めて見たが、それがこの島で作られているということを信じることが出来なかった。自分達人間に、これほど緻密なものを作る力があるとは。しかし、確かに自分もニキがつけているのと同じような顔を日々作っている。そして何より、この体を横たえている女の手によって、この自分の脳は作られたのだ。そして、今この女を蘇生させれば、この女によって植え付けられた頭の痛みが取り除かれる。この脳をつけられてからの悩みが解決するのだ。それだけで無く、どのような人間にも定められている発芽か、発芽せずに死ぬかという選択肢からも自由になる。

 レオはジャメルが顔をつくる時のように手先を器用に動かして心臓の周りについているパイプを一つ一つ取り除いていった。何度か頭から抜け落ちた髪の毛が体中に入り、動きは中断されたが帽子の類いをかぶるということはしなかった。パイプの内側からは、時折抜けきれていなかった血液がドロリと垂れたのでレオはそれをスポイトで吸い出しながら、パイプの断面を丁寧に折り曲げて何本かまとめてからクリップで留めた。やがて心臓は取り出された。

 体から抜かれて台に載せられた心臓の内側には、固まった血が詰まっていた。それだけでなく、表面に傷んでいる部分があるらしく、全体的に輪郭がぼやけて見えた。心臓を取り出すと、レオは一度手を止めて大きな溜め息をつき、背筋を伸ばした。

「全く、神経を使う。心臓を抜いたのは本当に久しぶりだ」

 一つの山場を越え、一瞬緊張の糸が緩んだらしい。ジャメルを見る目も正常な状態に戻っている。

「こんなことを、以前にも?」

「ああ、だいぶ昔だがね。一度だけ。健康な若い男と女の心臓を入れ替えたんだ。公な病院じゃあやってもらえないからと言って、私を訪ねて来た。彼等は、お互いを愛し合っていると言っていたな。その感情にどのような意味があるのか、自分達でも分かりかねているようだったが。その気持ちが心臓の中にあるとどこかで聞いたらしい。自分達の気持を分かち合うというのが目的だったようだ…」

「なるほど。それで、手術は無事成功したんですか?」

「ああ。したとも。しかしここから去る時は二人共無言で、不満げな表情をしていたよ」

「何が、不満だったのでしょうか?」

「さあ、それは良く分からないが、お互いの体に入っていた心臓が、元々体内にある他の臓器と組み合わさった瞬間に気持ちが変わってしまったんじゃないか? 気持ちなんてそんなものなのかもしれないですよ。まあ、無駄話はこれくらいにしよう。あまりゆっくりしていると、せっかく取りに行ってもらった新しい心臓が悪くなる。ところで、この心臓はどんな人間に入っていたんですか?」

「ニキさんと同じくらいのまだ若い女性でした。ショートカットで顔の四角い…。良く覚えてはいませんが。しかし種が発芽せずに生を終え、海の毒素に分解されてゆくというのは、本当に残念なことです。あそこにあった死体はどれも、どこかこの島に未練を残している表情をしているように感じました」

「そうですね。しかし残念ながら、それは私達にはどうしようもないことだ。いや、こんなことを聞いたのもこの心臓の主の感情がまだ中に残っているかもしれないと思ったからでね」

 レオは目を閉じて集中する為かぶつぶつと何かをつぶやき始めた。そして次に瞼を開いた時には、その目に再び狂気が宿っていた。さきほどとは別の目が、今度は現実から逃れようと瞼の裏に隠れようとしていた。古い心臓は体内から取り出されると更に崩壊するスピードを増した。あれだけの状態でも、朽ちた体に入っていることによって何かしらのバランスを維持しようとしていたのだろうか。

 レオは古い心臓の息の根を留めるように、握られた拳でそれを叩いた。心臓は外からの衝撃にはそれなりに強いらしく、ゴムのようにレオの拳を吸収したが、やがてぐちゃぐちゃに破壊されていった。それには、断末魔の悲鳴を上げるほどの生命力も残っていなかった。細かく粉砕されたその細胞も又、やがて枯れた海へ還ってゆくのだ。

 古い心臓が絶命すると、新しい心臓はより光沢感を増したように見えた。まるで自分に与えられた水が増えた植物のように。レオは新しい心臓をぽっかりと空いたニキの体内に納め、先ほど留めたクリップを一つ一つ外しては、細い糸と蜜を使い丁寧にくっつけていった。パイプが全てつながるまでにはかなりの時間がかかった。太巻きになっていた細い糸も、瓶に大量に入っていた蜜も、その作業が終わるころにはほとんど無くなりかけていた。

 パイプが全てつながってしまうと、次は肋骨を元に戻す作業が始まった。固定する為には、蜜の接着力では不十分なのか透明な接着剤が使われた。それも蜜と同じような瓶に入っている代物で、それを塗り付けるためにはヘラが用いられた。肋骨は一本、又一本とニキの体内に戻っていったが、どういう訳か一本だけ見当たらないようだった。レオは、台の上を手で探ったがどうしても見当たらない。ニキの体の下にも、手術台の下にも無い。ジャメルも、それを探して体を横にしたり、つま先立ちをしたりした。すると、その一本が、他ならぬニキの体の中にあるのを発見した。骨は、まるで鎖骨のようなフリをしてその隣りに横たわっていたのだ。ジャメルは、まるで落とした目玉を探そうとするかのようにせわしなく動いているレオにそのことを伝えたが、聞こえていないのか、反応しない。仕方無く、ジャメルが制止された一線の内側に足を踏み入れると、そのことに気付いたレオは凄いスピードでまだニキの脂がついた状態のメスを手に取り、ジャメルの足元に投げつけた。メスは固い床に刺さった。

「そこです。その、鎖骨の脇です」

 その声は、まるで遠く離れた山に跳ね返ってやっとたどり着いたというくらいの時間差で、レオに届いたようだ。レオは息を切らしながら探していた最後の肋骨を手に取ると、それを本来あるべき位置に戻した。そのままの勢いで、レオは開いている胸の皮を元に戻し始めた。体の表面に入れられた切れ込みも、残りの蜜を使ってふさがれた。

 これで心臓も骨も皮も元通りだ。後は抜かれた血液を体内に戻すだけだ。台の下に置かれたままのボトルにはペダルのようなものがついている。それを踏むことによって、溜まっている血液がニキの体内に戻されてゆくということのようだ。

 レオはポケットから取り出した聴診器をニキの胸に当てながら、ペダルを踏んでゆっくりと血液を心臓の中に送り出して行った。

 血液がボトルから減ってゆくのに比例して、ニキの体は色つやを取り戻していった。青白い肌が黒檀のような力強い色になり、皮の下に隠されていた脂がじわじわと表皮に浮かび上がる。心臓が動きはじめているのだろうか。おそらくそういうことだろうが、意識は戻らず、レオも手を休めることは無い。しかし、少しずつレオの表情は穏やかなものに変化しているように見受けられた。そしてやがてボトルが空になると、レオはニキをうつ伏せにし、背中からチューブをゆっくり引き抜いた。そして、傷口に透明な四角いテープを貼り付けた。傷口から血液が漏れて来るのを防ぐ為だろう。

 レオは聴診器を背中に当てたまま、動かなかった。もはやニキの体は、全く死人のものには見えないが、まだ完全に内蔵が稼働しているというわけではないらしい。ジャメルはレオに声をかけようか迷ったが、その緊張感を破壊することはためらわれた。やがてレオはニキの背中に貼られた透明なテープを取り外すと、拳で数回傷口の周りを叩いた。何度か繰り返す内に、その傷痕から、小さなシャボン玉のようなものが出てきはじめた。どうやら、血液を入れる時に空気が入り過ぎていたらしい。

 シャボン玉が出なくなると、透明なテープは再び丁寧に貼られた。レオはニキの体を仰向けの状態に戻した。どうやら、手術は無事に終わったらしい。レオは血しぶきのついた袖で額をぬぐうと、後方から椅子を取り出し、放心したように座り込んだ。時計を見ると、手術が始まってから、いつの間にか数時間が経っていた。緊張感がゆるみ、逆立っていたレオの髪の毛はぐったりと倒れた。そして目を何度かしばつかせると、そのまま目を閉じ、いびきをかき始めた。まるで、自分の眠りを出来るだけ邪魔しないようにと自分の体が気遣っているかのような、小さないびきだ。それほどエネルギーが凝縮された時間だったのだろう。首からは聴診器がだらしなく垂れ、ニキの体の脇には血と脂にまみれたメスが置かれている。レオの手には、手袋がはめられたままだ。

 ジャメルは、まるで地雷原を慎重に進む、命がけの兵士のように、ゆっくりと境界線の先に片足をつっこんでみた。いつの間にかそこにあった地雷は除去されていたようで、レオの反応は無かった。そしてジャメルはもう片方の足も入れると、そのまま結界の解けたレオの領域へ入って行った。ニキの体に触れると、それはわずかに熱を帯びていて、手先に神経を集中させると内蔵が動き出しているのが分かった。再び生を受けるということを全く予期していなかったのか、その動きはまばらで一体感に欠けている。臓器の全てがお互いを理解し合い、ニキという人間がきちんと機能するようになるまでは、まだ時間がかかるということなのだろうか。それまでの間に、元気の良い心臓が他の臓器に過剰な圧力をかけなければ良いのだが…。ジャメルは、台の脇に置いてあった薄いビニールカバーを手に取ると、あらわになっているニキの胸の上にかけた。

 力尽きたように椅子に腰掛け、いびきをかいていたレオが、突然まるでばったりと倒れ込むように椅子から転げ落ちて床に寝そべった。それでもいびきはかき続けている。ジャメルは、その疲労をねぎらうつもりで、少しでも気持ち良く眠ってもらおうと靴を脱がせ、手袋を外した。その指は体型から想像されるよりも繊細で、まるで他の人間からとってつけたかのようだ。

 そろそろ、帰った方が良い時間ではあるが、この二人を放っておくわけにもいかない。腹が減ったので、ジャメルは火にかけられている病院食をいただくことにした。

 炊事場で手を丁寧に洗うと、食器を探す為に引き戸を順番に開けた。毛むくじゃらの手がはみ出ている食材用の棚以外は、調味料も皿も実に気持ちよく並べられていた。並べたのがレオか受付嬢かは分からないが、受付嬢のその印象からはほど遠い整合感だ。鍋の中からはもうほとんど水分が無くなっていた。毛が抜け落ち、柔らかくなった肉はスプーンで崩すことが出来るほどに柔らかくなっている。ジャメルは、香草の葉を鍋の外に取り出すと、フチが欠けている陶器の皿の中に肉と崩れた芋をよそった。

 ジャメルは床で寝ているレオと、ニキが見える場所に行き、一人で夕食を食べ始めた。パンが無いのは物足りないが、仕方無い。自分で用意した訳では無いし、それどころか本来自分の為に調理されたものでも無いだろう。贅沢は言えない。肉は柔らかく、噛めば噛むほど旨味を感じることが出来た。骨にしゃぶりついたが、その瞬間にジャメルはその手を失った動物の不遇な運命を感じた。

 一皿まるまる食べ終わり、おかわりをしようかどうか迷っていた時、突然床で寝ていたレオがゴホゴホと咳き込み始めた、その音を聞くとジャメルはそれを食べていたことがばれてはまずいと焦り、残った骨をゴミ箱の中につっこんだ。すると、潰された古い心臓が目についた。ジャメルは急いで皿を流水で洗い流して、元あった棚の中に戻した。髪が倒れて、手術をしていた時よりも薄毛に見えるレオは、うなりながら立ち上がり、人差し指で眼鏡の位置を矯正した。一瞬自分を見失っているようだったが、すぐに我にかえりジャメルとニキを交互に眺めた。ニキの体を見た瞬間に、緊張感が多少よみがえったようで、髪を少しだけ逆立て、シートをのけると聴診器で体内の様子をさぐった。

「手術は無事に終わりました。体の中も、落ち着きはじめているようです」

 病院食を食べたことがばれないかと、顔を多少こわばらせているジャメルに、レオは安堵感のこもった優しい口調で言った。

 二人は、ニキの体を階上にある病室へ運んで行った。灰色の部屋にはいくつかのベッドが並べられていたが、他に患者はいない。

「意識が戻ってくるのは、おそらく今晩です。幸い、ご覧の通り他に患者はいません。今日はここに泊まってもらっても構いませんが、どうしますか?」

 ジャメルは部屋で一人待っているヘビ鳥のことを思いだしたが、暖房もつけているので問題は無いだろうと思い、言われる通り泊まることにした。又迷いながら帰り、そしてやって来るのも面倒だ。

「私はこの下の階に泊まっているので、何かあったら呼んで下さい」

 レオはそう言うと、部屋の外へ出て行った。取り残されたジャメルは、ニキの隣りのベッドに座りその姿を眺めていたが、やがて訪れた頭痛に耐えきれず、簡素なベッドの上に体を横たえた。

 初めてニキの声を聞いたのは、夜の最中、ようやくその頭痛がピークを越え、夢から解放された、安らかな眠りに落ちようとしていた時だった。室内は冷え込んでいて、毛布から出ているつま先が冷たい。ニキは、上半身を起こし、腹の底からしぼり出すように、言葉にならない声を出していた。

 ジャメルは、そのそばに近づいて行き、優しく話しかけた。

「目を、覚ましたようですね。安心して下さい、ここは安全です。私の言っていることが理解出来ますか?」

 ニキは、感情を顔に現すことがまだ出来ないらしく、ぎこちないタイミングで頷いた。目もまだ機能していないのか、視点が定まっていない。ジャメルは肩に手をのせた。その手の感覚は分かるらしく、ニキはそっとその手に触れた。暖かい手だった。

「ええ、分かります」

「私は、ジャメルです。あなたが作った脳を付けています。そしてそのお陰で、酷い頭痛に苦しめられている人間です。あなたは、自分の体を私が住んでいる岩に送り届けました。覚えていますか?」

「ええ、はっきりと覚えています…。ただ、目の具合がまだ良くないので、あなたの姿が見えません。もう少し、待っていて下さい」

 ジャメルは、レオを病室に呼んだ。レオは寝間着の上にだらしなく白衣を着て病室に現れた。まだ日中の興奮が体内に残っているのか、眠っていたというのが信じられないくらい呼吸が荒い。レオは、ニキのベッドの脇に腰掛けると、ペンライトを取り出して女の目に当てた。

「うーむ、確かに反応が鈍い。特に黒目の部分がまだ眠っているように見受けられる。仕方が無い、少し手荒くはなるが、目を起こそう。ニキさん、痛みは一瞬です。少しだけ我慢して下さいね」

 レオはそういうと、足早に階下へ行き小さな四角い箱のようなものを持ってきた。頭に取付ける為のバンドがついている。箱の内側には小さなスクリーンがついているらしい。それを見せることにより、黒目を覚ますつもりらしいのだ。

「ちょっと失礼します。頭に、バンドをはめます。少しきついかもしれませんが、ちょっとの間辛抱して下さい。瞼は開けておいて下さい」

 レオにそれを巻き付けられると、ニキは小さなうめき声を上げた。その取付けを終えると、ニキの耳に大きな耳栓を付け、箱の脇についているスイッチを入れた。モーターが動く音がする。

「今、内側のスクリーンには彼女の脳内に入っている彼女自身の姿が映っています。実際に黒目は正面を見ているのですが、頭の内側を見ているように錯覚させるという訳です」

 レオは、ジャメルに耳打ちした。そしてそのすぐあとに、ニキの口から鋭い悲鳴が走り出た。

「そして見るべきものが何か、黒目にある程度分からせた時に、刺激を与えるわけです。もう良いでしょう」

 レオは、ニキの顔からスクリーンを取り外した。スクリーンからは細い針が伸びていた。ニキの眼球には涙が満ちあふれている。まるで透明な薄いガラスの膜が張られているように見える。生命力を取り戻したその目が、ジャメルと、レオの姿を交互にとらえた。レオが持って来た設計図をニキの眼前に広げると、ニキの目からは急激に涙が蒸発していった。やがてニキは設計図から目を離すと、突然ベッドから立ち上がりジャメルの頭をつかんだ。そして、そのままジャメルを引き倒し、どこかへ連れて行こうとした。凄い力だ。ジャメルは抵抗したが、その手を離すことは出来なかった。

「一刻も早く、この頭を割らなければなりません。施術をする場所を下さい」

 体にしがみつき、その乱暴な行いを止めようとしているレオの首元をもう片方の手で締め上げながら、ニキは言った。レオの口からは言葉が漏れる隙間も無いらしく、途切れ途切れに声が漏れている。その声が完全に止まる直前に、ニキは力を緩めた。体全体で呼吸をしているレオは、当然のことだが、怯えた表情でニキを見ていた。ジャメルはすでに抵抗する力すら失いかけている。ニキの指はその頭にくい込んでいるように見える。

「その、手を離すんだ。見てごらんなさい。あなたが作ったその脳の持ち主を。頭が歪みそうになっているじゃないか…。死んでしまったら元も子も無いだろう」

 ニキは、言われてはじめてその状態に気付いたらしく、驚いた顔をしてジャメルを見、そして力を緩めた。おそろしく力の強い女だ。ジャメルはぐったりとしながら女の足元を這いつくばった。

「手術室は下にありますが、今は閉まっています。今すぐに、施術をしなくても良いでしょう?」

 ニキは首を横にふった。一度死んだからか、又いつ殺されるのか分からないという恐怖心を抱えているらしい。

「助手も、看護士もいりません。私一人でこの人の脳を変えることが出来ます。早くしないと、いつこの人の脳が発芽するか分かりません」

 レオが説得するのも聞かず、ニキはジャメルの体を抱えて強引に手術室へやって来た。夜中の、暗い手術室に電気が灯された。ニキの手術をした後片付けは終わっておらず、手術台には血が飛び散ったままだった。

「今日、数時間前にあなたの手術を終えたばかりなんですよ。こんな状態で良ければ…」

「大丈夫です。道具さえあれば、この人の脳から種を取り出すことが出来ます」

 ジャメルは、先ほど自分が見ていた手術台に自分の体が載せられたことに気付いて、薄目を開けてニキという女のことを見ていた。ニキは、設計図をジャメルの頭の脇に広げると、頭を開き始めた。レオは自分に無い技術を持っているその女のことを尊敬し、何かを学ぼうと眠気を忘れてその作業に見入った。動きは繊細だが、見かけによらず指は力強い。バキバキと、まるで煎餅が割られるようにジャメルの頭蓋骨は割られてゆき、やがて脳が裸になった。

 その後、レオとニキ、そしてジャメルは手術室にこもりきりになった。夜が終わり、大気が暖かくなっても、その状態が続いた。苛々しながらやって来た受付嬢は様子が変だと思い、手術室の中を覗き込んだが、そこに入るべきじゃないということを敏感に察しとり、そっとその病院から出て行くことにした。昨日煮込んだ病院食がどうなっているかは見たかったが、仕方無い。

 ニキの技術は、全く驚異的なものだった。レオにとってそれは完全に新しい技術だった。先ほどの指の力の強さは生まれつきなのだろうが、確かにそれが無ければこのようなことは出来ないだろう。ジャメルの脳は、まるで揉みくちゃにされた糸のかたまりのように、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。種はそれに覆いかぶされていて、既に発芽の兆候は現れていた。ニキは種の盛上がっている場所に、針を差し込み、発芽しそうになっている芽の、息の根を止めた。脳の中で種は小刻みに震えた。根はわずかに脳の表面に伸びていた。それらを丁寧に取り除いてから、ニキは種を外すと、脳には空洞が出来た。ジャメルの体は血の気を失って行った。ニキはレオに血抜きの場所を聞くと、それを取り出し、ジャメルの心臓にその先端を入れた。ポンプを使い、ニキはジャメルの血を抜き取って行った。血を抜き取られたジャメルの体は薄くなり、体全体にシワが広がった。

 ニキはその後、ジャメルの脳を組み替えるために、まるで鍛冶屋のように脳の皺を一つ一つ伸ばしては位置を微妙に変えて、種が無くなって出来た空洞を埋める為にジャメルの脳を造り変えた。設計図が広げられてはいたが、その構造はニキの頭の中に完全に入っているらしく、作業は非常にスムーズにすすめられた。ただ一カ所、その手が滞ったのは種が抜けて出来た空洞を完全に埋めるために、脳の両端から圧力をかける時だった。どうやら、まだニキの体は本調子に戻っていないらしい。

「少し、力を貸して下さい」

 ニキは、何度か一人でチャレンジした後で、悔しそうに口を歪めながらレオに助けを求めた。その様子を見守っていたレオは、まるで主人に命じられた下僕のようにかけつけ、ニキの反対側に立ってジャメルの脳に手を当てた。とっさの事ではあったが、手袋をすることは忘れていなかった。

 ニキとレオは、何とか力を合わせてジャメルの脳を完全に塞ぐことに成功した。ニキは、それが再び開かないように、脳にたっぷりと蜜を垂らし、さらに脳全体を、テープでぐるぐる巻きにした。それもやがては体に融合するものだ。そして、外されている頭蓋骨をしっかりとはめ込み接合すると、顔の皮も丁寧に貼り合わせた。あとは抜いた血を元に戻すだけだ。

 しかしその時に一つ問題が起こった。ボトルに入っていた血の大半が、いつの間にか漏れ出て、手術台の裏側に入り込んでいたのだ。ボトルの底に亀裂が入っている。ニキはそれを急いで押さえたが、間に合わなかった。残念ながらジャメルの体内を満たすことが出来るほどの血は残っていない。ニキは、レオに自分の血を代わりに入れてほしいと頼み込んだ。やがて、ジャメルの体に血が満たされるのと同時に、ニキは大量の血液を失い、再び動くことが出来ない状態になった。レオは、ジャメルとニキの体を階上の病室に移動させると、しっかりと鍵をかけ、ニキの血液を手に入れる為に病院の外へ出て行った。

 

 ジャメルはニキの姿を探したが、岩の中には普段と変わらず、自分の姿しか無かった。部屋は暖かく、明りも点いたままだ。これほど気持ち良く目を覚ましたのは久しぶりのことだ。どれだけ寝ていたのか分からない。頭痛が無いのだ。頭を触ると、額には接合された痕がある。見ると、カゴの中でヘビ鳥が倒れていた。様子がおかしい。いつもは寝ている時でもカゴの中の棒をしっかりと足でつかんでいるのに、羽を閉じて籠の底に横たわっている。ジャメルは、ヘビ鳥をあえて挑発するように、顔に息を吹きかけたり小刻みに籠を底から叩いたりしたが、全く動く気配は無い。本当に寝ているのだろうか? ジャメルは、それが演技かもしれないという警戒心を抱きながらも、静かに籠の扉を開けてその体に触れた。死んでいる。まるでぼろ雑巾のように、羽はささくれ立っていて、内蔵の動きも全く感じられず、体は冷たい。ヘビ鳥は天日干しにされたように堅くなっていて、おもりが抜き取られたかのように軽くなっていた。

 ヘビ鳥の死体は、最期の瞬間まで死を受け入れることが出来なかったのか、鋭い足の爪を底の網に絡ませていた。死というものと同化した、ヘビ鳥の体に畏敬の念を抱きながら、ジャメルはその爪を一本一本網からはがしていった。そして、その体を籠の外に取り出した。死んだヘビ鳥に、生から解放されたことを喜ぶことは出来ないのだ。長い胴体も巻かれた状態で硬化している。

 一体どうして、こんなことになってしまったのだろうか。ニキの体を保存する為に暖房を切った事があったからか…。それとも、自分の悪夢では栄養が充分でなかったのか。確かに、ずっと不機嫌そうではあったが、きちんと必要最低限の食べ物は与え続けていたし、ペット屋にも相談はしていた。可能性として考えられるのは、自分があまりにも長い間寝ていて、その間に餓死してしまったという事だ。根拠は無いが、いつここへ帰ってきたのかを思いだすことが出来ない。

 ジャメルは、ヘビ鳥の体をさすっていると、丁度腹の辺りに奇妙な出っ張りがあることに気付いた。腸でも無いし、骨でも無い。位置的には、胃袋がある辺りだ。ジャメルの脳裏に、ペット屋で見せてもらったあの美しい玉のことが蘇った。ジャメルは、チューブに入った調味料の中身を絞り出そうとするかのように一生懸命それを取り出そうとした。それは、少しずつ、まるで広大な土地をほふく前進で進む兵士のように、ヘビ鳥の喉元まで上がってきた。そしてとどめの一押しという感じで、更なる力をこめると、鋭い牙の間から、口よりも大きいのではないかというほどの、いびつな物体が閉じ込められていた悪臭と共に飛び出して来た。

 ジャメルは、ヘビ鳥をベッドの上に置くと、床に転がり出たそれを拾い上げた。それは、とてもいびつな球形をしていて、まるで炭のように黒かった。まとわりついている透明な胃液が糸をひいている。殻だけになった木の実のように、軽い。ジャメルは、それを電灯にかざして仔細に眺めた。すると、ペット屋で見せてもらったものと同じように、虹色の光を表面に帯びているということが分かった。

ようやく、悪夢の原因が取り除かれたのだろうか。何にせよ、ペット屋に連絡をしない訳にはいかない。ヘビ鳥の死を告げるというのは気が重いが…。何かしらの賠償を要求されないかも気になる。金銭欲に関しては、誰にもひけをとらない人間だ。

 しかし、その悪臭には閉口する。その臭いは消えることなく、強まってゆくばかりだった。ジャメルは取り出したそのいびつな塊を、舌がだらしなく出ているヘビ鳥の口の中に押し込むと、強引に口を閉じて紐でぐるぐる巻きにし、体全体を麻袋の中にしまった。手についた液体も水洗いしたが、落ちる気配は無い。しばらくの間その臭いから逃れることが出来ないということらしい。一応、手袋だけははめることにした。当然、外す時には捨てるつもりだ。

 カーテンを開けてサンドイッチ屋のある塔を見たが、魚の頭は窓から降ろされていなかった。まだ時間が早すぎるのか、それとも遅すぎるのか…。ただ、間違え無いことは、自分が全く時間を把握出来ていないということだ。

 ニキの体はどうなったのだろうか。ジャメルはそれを確認するのと同時に、この違和感の原因を探りたいと思い、レオ病院に電話をかけることにした。受話機を上げ、番号を入力すると呼び鈴が鳴らされた。しかし何度鳴らしても出る気配は無かった。

 玄関のドアを開けてみると、まるで真夜中のように気温が低い。周辺の塔も、岩も暗く沈んでいて、人の気配は無い。時間が気になる。ジャメルは近くにある時計塔へ行くために玄関脇にかけられているボロボロのコートを着込み、外へ出た。自分の岩以外に、明りがついている部屋は無く、時計塔に辿り着くまでに人とすれ違うことも無かった。すぐにそこに到着し、正面に回り込むと、針は5時を示しており、盤の真ん中には〝PM〟の表記がある。

午後5時、繁華街に人が溢れ、人々が帰宅し始める時間だ。普段ならば、ようやく解放された人々が灯す明りが、この住居区の至るところで輝き、美しい光景を作りだしている頃だ。ジャメルは、逃げるように岩へ帰った。そして、ヘビ鳥の死体を入れた袋を抱えて繁華街へ向かった。ペット屋にも、レオにも会わなければならない。ニキの体にだって責任がある。

 ジャメルは、まるで自分をのぞいた全ての人間がどこかへ疎開してしまったのではないかと疑うほど、静かな島の中を歩いて行った。人々が自分の部屋の目印にと置いている骨や貝殻、彫刻がされた岩だけが、自分と同じように置き去りにされた存在であるように思えた。

 ジャメルは道路に出てバスを待ったが、いくら待ってもそれはやって来なかった。これまで感じたことの無いくらい気温は低く、その冷たさは体の芯に直接触れてくるような感じだった。袋の中を覗きこむと、ヘビ鳥が寒さでがちがちに凍っているように見えた。ジャメルはその袋をかかえるようにしてコートの内側に入れ、繁華街へ向かって歩きだした。口をしばってあるにも関わらず、その悪臭は湧き上がってくる。

 繁華街に向かう一本道を、ジャメルはただ一人進んだ。時折岩が途切れて暗い海の中で微かに緑の植物が揺れているのが見えた。それだけが、自分以外に有機的なものであるように思える。

 やがてドームが見えてきた。そこに来るまでに一台もバスは通らなかった。しかし、ドームは明るい。やはり完全に取り残されたわけではないらしい。相変わらず人気は全く無いが、自分が知らないだけで、どこかで大々的な催し物でも行われているのだろう。ジャメルは安堵のため息をつきながら、無人であるが故にいつも以上に明るく見えるドームの中へ足を踏み入れて行った。

 店のシャッターは、どこも閉じられていた。暖房も切られているらしく、外と同じように冷え込んでいる。ジャメルは何店舗かのシャッターに耳を当てて内側に誰かがいるのかを調べたが、声は全く聞こえなかった。ペット屋もそれは同じで、一階のガラス窓はシャッターで覆われていた。

 ジャメルは、シャッターを叩きヘビ鳥が死んだということを叫んだ。しかし返事が無いので、足元に転がっていた小さなブロックの破片を拾い上げておそらく住居になっている、二階の窓ガラスに投げた。ガラスは、パリンと無気力な音をたてて割れ、小さな穴が出来た。それでも、反応は無い。仕方が無いので、そこは通り越してレオの元へ行くことにした。

 路地からは、全く建物が動く音が聞こえなかった。破壊される音も、建設される音も。ジャメルの記憶には、最後にここを通った時の道がそのまま残っており、実際に路地の姿もそのまま変わりないようだった。やはりそこにも人の姿は無かったが、いくつかの建物は明るかったので、それを頼りにジャメルは病院を目指すことが出来た。

 レオ病院に明かりは点いていなかった。ジャメルは、慎重に階段をのぼっていった。他の場所と同じように、玄関にはシャッターが降ろされていたが、力を入れるとそれは持ち上げることが出来た。ドアに鍵はかかっていなかった。ジャメルは、中に入り電気をつけた。

 受付の部屋はきれいに整理されていて、そこにはレオも受付嬢も、ニキの姿も無かった。受付机の内側を見ると、書類はそのまま中に入っている。ジャメルは診察室にも手術室にも入ったが、誰もいない。ニキの手術をしたあとは、きれいに掃除されている。コンロを見ると、鍋の中には料理だけが残っていた。ジャメルがレオに黙って食べた、あの動物の手の煮込みだ。結局ジャメルの後でそれを食べた人間がいなかったのか、骨からはがれた肉はとろとろになって鍋の中に溜まっており、骨があらわになっている動物の手も入ったままだった。脂分が丁寧に取り除かれているのか、鍋は冷えきっているのにそれほど脂肪は固まっていない。ジャメルはそれを食べようかと思ったが、その瞬間に食欲は無くなり、その料理がまるで毒の塊であるかのように思えてきた。そして隣りに置いてあった鍋の蓋をのせて、階上にある病室へ向った。立ち並ぶベッドの上には、折りたたまれた寝具が置かれている。ニキが寝ていたのは、一番隅のベッドだ…。

 そこへ行くと、ベッドの上にはあのジャメルの脳の設計図が広げられていて、その真ん中には水がはられているコップが一つ置かれていた。コップの中には何かが入っている。見ると、それは今しがたジャメルがヘビ鳥の中から取り出したのとそっくりな、いびつな形をした塊だった。ジャメルは抱えていた袋の中の、ヘビ鳥を見た。すると口はしっかりと結ばれていて、塊を含んだ口は大きく膨れたままだ。このコップの中身は、やはり別物ということになる。

 ジャメルはそのコップをどかすと、設計図を見た。その裏には、この島のものと思われる簡素な地図が描かれていた。そしてその中の一点に赤い印が付けられていて、こう書かれている。

〝あなたの脳は完成しました。これは、あなたの頭に入っていた種です。これを持ち、この印がつけられている場所から外に出てください〟

 印が付いているのは、ゴミ山の一角だ。地図上だと、焼却炉の隣りに小さな四角い建物があるということになっている。まるで、その焼却炉から生まれた子供であるかのように。丁寧な文字だ。書いた人間の、ゆったりとした心持ちが伝わってくる。それがニキなのか、それともレオなのかは分からない。いずれにしろ、そこに書かれていた内容は、自分から頭痛が取り除かれた理由を明確にしてくれた。そしてジャメルはそれ以上自分が苦しまないで済むということを知り、心から喜んだ。

 ジャメルは、水の中からその種を取り出すと、ヘビ鳥の入っている袋の中に入れた。それほど強い臭いはしなかった。そして地図を持ち、建物を出た。

 建物から出て少しすると、病院の灯りが消えるのを見た。電球が、寿命を迎えたのだろう。

 繁華街を出て、ゴミ山が見えて来た頃、何かが頬に触れた。水だ。それはやがて冷えきった小雨となった。

 いつか話で聞いたことはある。天からふりそそぐ、雨。雨が、ゴミ山の中に染み込んでゆく。そこに住んでいた子供達の姿は見えない。その雨は、ゴミ山のところどころで自然発火した炎を消した。ジャメルは、ゴミ山にのぼり、焼却炉を目指した。まだ稼働しているのか、焼却炉がある辺りの煙突からは相変わらず太い煙が立ちのぼっているのが見えた。足元の鉄屑や、動物の皮に溜まった水が、靴の隙間から入り込んで来る。

 ジャメルは焼却炉が見える位置まで来ると、地図に書かれていたその建物を探した。煙突にはライトが一つ付いていて、その周辺を照らしている。地図を取り出すと、焼却炉の裏側に建物はついているということのようだった。

 ジャメルはゴミ山をかけ降り、焼却炉の後ろに回り込むと、確かにそこには小さな四角い建物があった。大きな鉄の扉は閉まっているが、力を入れると開けることが出来た。

小さな明るい部屋の中には、収集人が持ち歩いている台車があり、その上には発芽した人間の頭が積まれていた。部屋の奥には、柵のついている、何も乗っていないリフトがあった。上には大きな四角い穴がある。これに乗り、島に流通している食料や、材料が運ばれてきているのかもしれない。しかし、上に通じているというのは何とも理解しがたい。この小さな建物の上には何もついていなかったはずだ。ジャメルはそこを見上げたが、どこに終わりがあるのかは分からなかった。リフトにくくりつけられている4本の鎖を、その暗闇は呑みこんでいる。すぐそこに終わりがあるようにも、どこまでも続いているようにも思える。その高さは、見上げる人間によって変化しえるということなのかもしれない。

 ジャメルはしばらくそこを見上げていた。すると、一瞬ではあるがはるか闇の彼方に、まるで巨大な紙に針を刺して開けた穴のような小さな光がちらついた。しかしそれは何回か点滅したあとで消えてしまった。そこに何かがあるのは間違え無い。鎖をよじ登ろうかとも考えたが、とてもではないがそんなところまでのぼることが出来るとは思えなかった。どうしようかと悩み、下を向いた時にジャメルはリフトの脇の床に四角い蓋がはめ込まれていることに気付いた。蓋は、金属で縁どられている。ジャメルは隙間に指を入れ、蓋を持ち上げた。すると下から階段が現れた。古びた階段だ。見ると、蓋の裏側には〝非常口〟と書いてあった。どうやら、そこからしか出ることは出来ないらしい。ジャメルは、蓋を開けたままにして階段を下りていった。

 階段を何段か降りると、そこはすぐに行き止まりになっていた。古びた階段とは対照的な、まるで今仕上がったばかりというような手触りの、傷一つ無いコンクリートの壁だった。しかし、触っている内に、それはどんどん柔らかくなり、やがてポロポロと崩れだした。そこから現れたのは螺旋状の階段で、上には先ほど見えたのと同じような、小さな青空が見えている。ジャメルは、階段をのぼっていった。それは、とても長い階段だった。のぼるにつれて明るくなり、それに比例してこの島での記憶がより鮮明になっていった。まるで、思い出が鋳型の中に流し込まれ、固まってゆくように。その鋳型というのが、それまで生活していたこの世界からの出口である、この螺旋階段なのだ。外の明りは、ジャメルの目を通じて体の中に入り込んできた。まるで生まれてはじめて目をつかうような気がする。 

 ジャメルは、そして外の世界へ出た。空には眩い青空が広がっていた。砂と土の入り混じった大地の上にはまばらに雑草が生えている。少し先には海が広がり、打ち寄せられる波の脇では小さな白い鳥がその音に耳をすませて目をつむっている。それはやがて陸の方向へ飛び去って行った。その方向には、沢山の木が生えていた。そしてその奥に、一筋の細い煙がたちのぼっているのが見えた。そう遠く無い、木々の向こうからだ。

 太陽の下で、ジャメルは自分の体を見た。まるで閉ざされた倉庫の中から発掘された人形のように埃を被っていて、ズボンや服はところどころ破けている。手先は黒ずんでいて、皺も目立つ。初めてこの体を見るような気もするし、今まで見てきた自分の体と何も変わっていないような気もする。しかし、かつて自分が認識していた自分の姿がどのようなものであったか、思い出すことが出来ないでいた。

 ジャメルは、鳥が飛んで行った、丘の森を目指して一歩を踏み出そうとした。しかし、それは中々大変なことだった。足元には、たった今自分が出て来た島からの出口があり、微風に舞いあげられた足元の砂がパラパラとその底へ落ちて行くのが見える。顔を動かすことは出来ても、足を動かすことが出来ない。

 その一歩を踏み出すことが出来るようになるまでは、確かに時間がかかった。それは、この新しい場所に自分の体が適合するまでに必要な時間でもあるようだった。やがて、波の音によって解凍されたかのように、重い一歩をジャメルは踏み出した。

 種というものに支配されない脳を得た結果、この場所に辿り着いた。しかしここへ来て何をするべきなのか、ということが分かっている訳では無い。これから、ジャメルは自分が何をするのか、探さなければならないのだ。

 ジャメルは、なだらかな勾配を登って行った。体の重さは、緩和されたとは言え、今まで生きて来た中で経験をしたことが無い程だった。長い階段をのぼり、この場所へやって来ることが出来たというのが、信じられないくらいだ。まるで、この太陽の光に照らされて初めて、感覚というものが剥きだしになったかのような。

 進むにつれて、大地が湿っぽくなっていった。まるで病気を患った動物の体毛のように、疎らに生えている雑草の中に足を入れると、小指の先程の小さなバッタが、驚いたように飛び出て、小石の陰に隠れた。

 やがて、けもの道が一本現れた。それは林の奥へと通じている。人工的なもののようにも、自然に出来上がったもののようにも見える。林の中は暗く、その道を呑み込んでいるように見えたが、一歩中へ入り込んでみると案外先まで見通すことが出来た。密生している木々は細長く、針のような葉はほとんど空が見えないほど、びっしりと頭上を覆っている。地面には、枯れた針のような落ち葉を養分にしているのか、来る途中には無かった、海藻のようにうねっている葉の大きな植物が沢山生えている。

 林はなだらかな斜面になっていて、曲がりながらも、その道は続いていた。何処かから、鳥の鳴く声がする。誰かに、この来訪者の存在を告げようとしているようにも聞こえるが、不思議とジャメルは恐怖心や、警戒心というものを抱かなかった。それはその鳥の声が、まるで輪郭を失った、無意味な一人ごとのように気の抜けたものに聞こえたからだ。そしてその感覚はあながち間違えでも無く、何者かが現れるということは無かった。しかしやがて勾配がほとんど無くなると、ジャメルは林の先に何やら見慣れぬ光景があることに気付いた。

 林が途切れているその先で、灰色をしたブロックが積み重なっている。太陽を遮る木の葉が無いということか、その場所は一際明るい。不規則に積み重なっている石の隙間から、煙が立ち昇っているのが見えた。その煙は、木々の間から見える大気の中を、穏やかな風になびかれて揺れていた。誰かが、このブロックの先にいるに違い無い、とジャメルは思い、それまでよりも慎重な足取りで歩いて行った。

 近づくと、ブロックはかなり古いらしく、角はボロボロに欠けていた。どうやら、そこには元々壁か、建物があったらしく、土台だけが林との境界線を線引きするかのように、きちんと残っているのだ。周りに人の姿は無い。どこかから、監視されているという可能性はあるが…。

 崩れたブロックの間から、ジャメルはその先の様子を覗いてみた。その先にあったのは、どうやら遺跡のようだった。大小様々なブロックが転がっている。人の姿は無く、声もしない。吹き抜ける風は涼しく、遮るものの無くなった陽の光は暖かかった。石の間を、ムカデが這い、その脇を足の速い小動物が駆け抜けて行った。林のどこかから、多少狂気じみた甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。これまで聞こえていた鳴き声とは、全く別の種類のものだ。

建物はそのほとんどが崩壊しているようだったが、少し先に、建物の形を維持しているものが一つ見えた。どうやら、煙はその奥から立ちのぼっているようだ。ジャメルは、周囲を見回しながら慎重に石の土台を上り、遺跡の中へ入って行った。

ジャメルは、その建物の内側を覗き込んでみた。壁には所々に採光窓のようなものがあった。地面の土があらわになっていて、中には誰もいないが、突き当たりにある壁には木を象ったモチーフのようなものが掘り込まれていて、その前には供え物をするのに適していそうな、石のブロックが置かれていた。

中へ入り、その窓から外を見ると、丁度煙が出ている場所を見渡すことが出来た。そこには円形の広場があり、真ん中で火が焚かれていた。ジャメルは暫くその建物の中に隠れ、誰かが現れるのを待った。

 やがて、そこに現れたのは監視官と全く同じ見た目の、表情の無い泥人形だった。担いできた薪を焚き火のそばに置き、そこへ腰かけた。どうやら一人らしい。その後しばらくの間、泥人形は時折薪をくべては、火に見入っていた。その後、火の中から何かを取り出したかと思うと、それを薪で何度か叩き、口の辺りへ運んでいった。芋か何かのようだ。そしてそれを食べ終わると、薪をその場に置いたまま立ち上がり、歩いていった。ジャメルは建物から出ると、石をよじ上ってその広場へ出、泥人形の行方を追った。石の陰にかくれながらその後を追って行くと、やがて途端に視界が開けて、広大な平地が現れた。遠くにある、その平地の終わりから、再び林が始まっている。

 泥人形が向かったその平地の上に、その体と同じくらい大きな台車と、ハンマーが置かれていた。ジャメルが隠れながら見ていると、泥人形はのろのろとした動きでそのハンマーを持ち上げて、少しの間右往左往した後に、それを大きく振りかぶり、石の上に振り下ろした。甲高い、カーンという音が周辺に響いた。泥人形はそれを何度か繰り返した。やがて、甲高い音が、鈍い音に変わった瞬間に、その石は砕けた。

 そうして、砕けた石を、泥人形は脇に止めてある台車にのせた。その動作は、長い間続いた。砕けた石の中には、泥人形の、腰くらいの高さがあるのではないかという大きなものも多く、泥人形は足を折り曲げ、そして体を震わせてそれらを持ち上げ、台車に積み上げた。その泥人形以外にその作業を行っている人形はいないらしく、周囲から同じ音が聞こえるということは無かった。泥人形は休むこと無く、遺跡を破壊しては台車にのせるという活動を繰り返していた。その様子をじっと見つめているジャメルのことには全く気付いていないのだろう。隠れているジャメルのことが気になるのは、どうやらこの辺り全域に生息しているらしい大きなムカデや、トカゲくらいのものらしく、泥人形のことを見ているジャメルをそのそばでじっと眺めていた。ジャメルがその存在に気付いたのは、一度リスがそのムカデを喰おうとして、二匹がもつれあいながらガサゴソと音を立てた時だった。結局それはムカデの勝利に終わり、リスが断末魔の声を上げると、その音に気付いたらしい泥人形がジャメルの方に目を向けた。ジャメルはすぐに窓の外に隠れた。見つかったかと思ったが、泥人形は特に気にするようすもなく、すぐに作業は再開された。

 やがて、手押し車に石が積み上がると、泥人形はそれを向かい側にある林の方へ向って押しはじめた。大きな四つの車輪がついている手押し車は、車体を大きく揺らしながら平地を進んで行った。途中で石が転がり落ちると、泥人形は手を止めてそれを積み直した。やがて、その先にある林の中へと、泥人形は姿を消した。遺跡の中に残されたジャメルは、泥人形が消えて行った林の方に注意しながら、作業が行われていた場所に足を運んでみた。大きなハンマーは使い古されていて、柄の部分は手の形に合わせてへこんでいる。何とか両手で持ち上げることは出来たが、非常に重量がある。

 平地を見ると、そこから林までの間を台車が何度も通ったのか、車輪の跡に沿った轍が出来上がっていた。ジャメルはその場所に長居をせず、元の場所に戻って泥人形が現れるのを待った。 

 泥人形は、空の台車を押して林の中から現れた。そして作業場に戻ると、再び遺跡の破壊活動が始められた。全くそのペースには衰えが無い。疲れるということがないのだろうか。さっき口にしていたあの芋のようなものだけがエネルギー源だというのは、中々信じがたいが、非常に燃費の良い体質なのかもしれない。

 遺跡を破壊し、林の奥へ残骸を運んで行くという一連の作業は、途絶えること無く続けられた。石が既に取り除かれている場所はかなり広い。その作業が一人で行われたというのは中々信じがたいが、現に今その活動を行っているのはその一体だけだ。

 やがて、それまで美しい青色をしていた空の中に朱色がさしこみ始めた。その色が広がりをみせてゆくと、泥人形はふと我にかえったかのように空を見上げ、かがめていた背を真っすぐ伸ばし、手にしていたハンマーを手放した。

 泥人形はハンマーと台車を放置し、遺跡の中へ戻って来た。ジャメルはとっさに隠れ、泥人形が過ぎ去って行くのを待った。

 周囲の林から飛んできたのか、それとも石の中に隠れていたのか、沢山の蝶が日が暮れ始めて薄紅色に染まっている遺跡の上を飛んでいる。美しい場所だ。泥人形は、石の間をかいくぐり、どこかへ向かった。

 たどり着いたのは、しっかりとした形が残っているドーム型の建物だった。周辺の建物と比較した時の、完成度の高さを考えるとおそらく、自然に残ったのでは無く、人工的に再建されたのだろう。泥人形は、その建物の中に入って行くと、それきり出て来ることは無かった。

 ジャメルは、海辺へ戻る為に来た道を戻って行った。林の中を歩いている途中で、日は完全に暮れてしまった。しかし、それでも夜空が非常に澄んでいることに加えて月明りがとても明るかったので、道を見失うということは無かった。月明りは、まばらに木々の下に落ちていた。風は昼間よりも更に穏やかになっていて、木の葉のこすれる音もほとんど聞こえない。ただその代わりに、おそらく鳥のものと思われる、低音のきいた寝息が時々聞こえた。ジャメルは、それらを起こさないようにと、やって来た時と同じように歩いたが、時折枯れた木の枝を踏んでしまうと、乾いた硬い音がその一帯に響いた。その度にジャメルは立ち止まり、様子を伺ったが幸い何かが起きて来て脅かして来るということも無く、無事海辺へと辿り着くことが出来た。

ジャメルは、自分がこの場所へ出て来た時の階段を探してみたが、見つけることは出来なかった。砂に埋もれてしまったのだろうか。それとも、自分が場所を勘違いしているだけなのか。どちらにしても、何か目印のようなものをつけておかなかったのが悪かったのだろうし、又日が昇れば何とかして探し当てることが出来るだろう。

 ジャメルは、しばらくの間、その海辺をさまよった。多少肌寒いが、体を動かしているお陰で体の芯まで冷えてしまうということは無さそうだ。風と同様、波も昼間より穏やかになっているような気がする。砂浜をやさしく撫でては海のかなたへと戻ってゆく。その上には、大きな月が浮かんでいて、砕けた月明りが揺れる波や海面を漂っている。ジャメルは水面下にいるであろう、生きた魚達がどんなものか、想像を膨らませると同時に、階段を降りた場所にある枯れた海と、その中に埋もれている無数の化石化した生物のことを想った。生きた魚達の行く末が化石であるようにも、化石達の行く末が生きた魚達であるようにも思える。確実なことは、その二つの世界が共存することの出来ないものであるという事だ。

何とかしてこの夜を過ごす場所を確保する必要がある。砂に埋もれれば寝ている間に風邪をひくということもないだろう。ジャメルは歩き回った結果、林の近くにある大きな岩の陰で眠ることにした。海からも離れているので波が上がってくることも無いだろうし、林の中でもないのでムカデが這ってくる心配も無い。それに、林の側からは死角になっているので、泥人形が夜の散歩に出かけて来るようなことがあったとしても見つかる可能性は低いはずだ。

 ジャメルは、ヘビ鳥の死体が入っている袋を置き、体を横たえた。袋を覗きこむと臭いはもうしなくなっていた。自分の頭から取り出された種も、袋に入ったままだ。砂は湿っている。潮風がジャメルの頬に当たるが、渇きが癒されるということは無い。明日は何とかしてまず水と食料を探さなければ。神経が張っているせいか空腹はあまり感じないが、それも時間の問題だろう。ジャメルに当たった風がそのまま後ろの林へ流れ、木の葉を揺らすと、それに反応するかのように鳥や夜行性の動物のものらしい鳴き声が聞こえた。

 翌日、空が明るくなりはじめると、ジャメルは袋を岩の下に埋め、早速遺跡へ向かった。疲労のお陰か、昨晩は良く眠ることが出来た。砂の中に体を埋めた瞬間安堵感に包まれ、その後も特に何かによって眠りが妨げられるということも無かった。

 明け方の林の中には、夜中とは違う動物の声が響いていた。鳴き声は様々だったが、それらがまだ湿り気を含んだ静謐な大気の中で混じり合うと、とても明るく、喜びを内包した響きであるように感じられた。ジャメルの靴は雑草が夜の間に蓄えた露をはじき、時折気付かぬうちに隠れていた虫を踏みつぶした。ジャメルは、遺跡へ行くまでの間に何度か、木の葉についた水滴をなめた。決して充分ではないが、それでも体内に滲み込んでくるそれは優しく、この体を支えてくれるように感じられる。ジャメルがどこかに水源が無いかと霧のはっている木々の中を見ていると、遺跡の方からあの音が聞こえてきた。泥人形が遺跡を壊す音だ。どうやら、作業を始めたらしい。昨日、あれは火を起こして何かを食べていた。今日一日様子を見ていれば、水や食料の場所も分かるかもしれない。そう思ったジャメルは、そのまま昨日と同じ泥人形の姿が見える場所へ行き、その観察をはじめた。

 日が昇り、空が明るくなるにつれて、まるで野原が焼き払われるように大気中の霧は消えて大気は乾燥し、いたるところで反射する太陽光がジャメルの目を刺激した。前日と比べて気温は高く、加えて風も少ない。泥人形は遺跡を破壊しては、それを林の奥へ運んでゆくという作業を繰り返している。全く休憩をしたり、水分を補給する素振りを見せない。その様子に変化が現れたのは、太陽が真上から泥人形を照りつけるような位置にきた頃だ。遠くからでも、その体にはヒビが入り、乾燥したミルクティーのような色になっているのが分かった。泥人形はハンマーを地面に置くと、フラフラと体を揺らしながら遺跡に入って来た。

 泥人形はドーム型の建物に戻ったが、すぐに出て来た。火のついた小さなタイマツを持っている。そして、そのまま何処か別の場所へ向かい歩いて行った。ついたのは、前日に焚き火をしていた場所だった。泥人形は薪に火をつけると、広場の脇にある石の下から芋のようなものを取り出し、燃え上がる火の中に投げ込んだ。そして立ち上がり、台車のある方へ歩いて行った。

泥人形は林の中へ消えて行った。やがて薪を背負って現れた泥人形の体からはヒビ割れが無くなり、色も濃い土色になっていた。林の先に、水源があるに違い無い。平原を通って行くのは危険だが、林は全体を囲むようにして生えているので、長い距離を迂回すれば行くことが出来そうだ。ジャメルは、焚き火の中から食料を掘り出している泥人形を尻目に、林の中に入り込んで行った。

 高い針葉樹が立ち並ぶ中で鳥は相変わらず鳴いているが、姿は見えない。尾の長いリスが、落ち葉に覆われた地面を目に見えぬ程の早さで走り抜けていったり、大きなムカデに捕らえられて、がんじがらめにされている光景に出くわしたりした。ジャメルも一度ムカデを踏んだが、それはどういう訳か無気力で、反撃して来ることは無かった。起伏を繰り返し、奥まで続いて行く林の終わりは見えない。奥に入り込みすぎないように注意しなければ。ジャメルは、遺跡が見える位置を維持しながら、泥人形が消えていった方向を目指した。

 やがてその場所は現れた。林の中に泥人形が通っていたものであろう道があり、その脇に、蝶が群がっている場所があった。行くと、地中からボコボコと水が湧き出しており、水溜まりが出来上がっていた。そしてそこからは小さな川が流れ出し、緩やかな丘の斜面を下りていた。遺跡の方を見ても、泥人形が向かって来る様子は無い。

 やっと探していたその場所に辿り着いたジャメルを、色とりどりの蝶達は優雅に迎え入れた。近づけば、蝶だけで無くムカデも、小動物も、これまで姿を隠していた鳥達も喉を潤していた。この湧き水の前では、誰もが平等であるらしい。ジャメルは、空いている場所を探し、口を水面に付けた。様々な生物の唾液が混じり合っているせいか、柔らかい水の中には多少の苦みや臭みが混ざっている。しかしそれでも、ジャメルの渇きを癒すには充分で、ジャメルは水が湧き出るその勢いに負けないほどの勢いで、水を体内に吸い込んだ。顔の側面や、服の隙間についている砂が同時に洗い流され、下流にいたその他の生物はいやな思いをしたが、自己中心的なジャメルは何も感じ取ることが出来なかった。

 飲めるだけ水を飲むと、ジャメルはすぐ近くに生えていた木の幹に寄りかかった。見ていると、虫も動物も、水を飲み終わるとまるで試合を再開するスポーツ選手のように林の中へ帰って行く。

やがて、ガタゴトという、不安定な音が、久々に口にする水の味を堪能しているジャメルの耳に入って来た。目を開けてその方向を見ると、泥人形が台車を押してこちらへやって来ているのが見えた。ジャメルは相手から自分の姿が見えていないことを祈りながら、木陰に身を潜めた。幸い、泥人形は立ち止まること無く通り過ぎて行った。

車輪が錆びているのか、キイキイという耳触りな音が不定期に鳴っていた。舗装のされていないその道を、山もりの石を積んで泥人形が進んでゆく姿は、けなげと言うには力強過ぎるが美しいものではある。きっと、水を飲んでいる動物達も、その姿には敬意を払っていることだろう。ジャメルは、泥人形がそれらの動物と会話をすることが出来ないことを祈った。密告されれば、逃れることは出来ないだろう。

 泥人形は、何度か落とした石を積みなおしながら、林の更に奥へと消えて行った。やがてその方向から、ゴロゴロという大きな音が聞こえてきた。ジャメルは、草をかきわけその音がする方へ進んでいった。すると、林は突然途切れ、まるで巨大なシャベルカーで陸地が削り取られたかのような崖が現れた。土色をしたその岩肌はまるで鍋の内側のように曲線を描きながら海にぶつかっている。そして、その岩肌の上を、泥人形が捨てた石が転がり落ちていた。

 やがて、台車が空になったのか、泥人形は台車を押しながら引き帰して行った。ジャメルは底を覗きこむと、積み重なった石が波を受けているのが見えた。破壊された文明の残骸。その先に海は延々と広がっていて、島らしいものは見当たらない。積まれている石の数は、石がとりのぞかれている平原の範囲を考えると少ないようにも感じる。少しずつ海に呑み込まれているかのようだ。どうやら、あの泥人形はただひたすら遺跡を破壊しては、この海の中へ捨てるということを繰り返しているらしい。それが一体何を意味するのかは分からないが。

 ジャメルは、泥人形が帰って行くのを見届けると、食糧を探しにかかった。再び戻ってくるまでは時間があるはずだ。ジャメルは、池まで戻ると、その周辺を歩き回り、食糧のありかを探った。雑草は多く、時折倒木の上にキノコが生えているということはあったが、酷い臭いがして、残念ながら食べる気になるような代物では無かった。川沿いに何か無いかと思い、池から流れ出ている小川を辿っていった。すると小川は分岐し、片方は崖から流れ落ちて行き、もう片方は林の奥へのびていた。ジャメルは、それに沿って歩いて行った。

木々はどこまでも続いた。川はその間を通り、ジャメルを林の奥へ招き入れていった。しかし相変わらず食料になりえるようなものは見当たらなかった。必ずどこかに何かがあるはずなのだが。少なくともあの泥人形が口にしていた芋のようなものはこの付近の何処かにあるはずだ。ジャメルはそう思っていたが、川はやがて終わってしまった。進むにつれて細くなっていった川は、やがて土の中に吸収されるかのように無くなった。

その場所からは、もう既に平原が見えなくなっていた。ジャメルは、迷うことを恐れ、一度池のある場所まで戻ることにした。そして、ようやく食料になりそうなものに遭遇したのは、池にたどり着く少し前の事だった。

来た時は気付かなかったが、とある苔の生えた木の裏側にはツタがはっていて、そこにびっしりとナスに似た植物が実っていた。その植物を目にしたのは初めてだったが、見ると地面近くにはリスが一匹いて、その実にかじりついているところだった。覗き見ると、紫色の表皮の下には白い実とうす黄色い種が入っていた。リスはどうやらその種の方を食べているようだった。

 ジャメルはリスを追いやって、その植物を手に取った。そして、鼻を近づけてみると、それはほのかに甘い香りがした。ジャメルはその実を手にとってへし折り、その断面に舌の先をつけてみた。すると、その香りのとおりの甘みが舌を伝わってきた。そして皮を服でごしごしとこすると、思い切ってそれにかじりついた。シャリシャリという歯ごたえがあり、ほのかな甘みがある。水気も多く含んでいるので、水分補給にもなりそうだ。ジャメルはツタごと引き抜き、それをグルグル巻きにして肩にかけた。下で種を食べていたリスが、実を奪われたことに憤慨したが、ジャメルがその食べかけの一つをむしり取り、与えると注意は逸らされたようだった。

 ジャメルは、その収穫を持ち、遺跡へと向かって来た道を戻っていった。途中、泥人形が遺跡から石を運び出しているのが見えた。ジャメルは、泥人形を観察する為の場所へ戻った。そこまでの間、日が当たらず苔が生えている木の面を注意して見ていたが、実は時々生えていた。それを知ることが出来たのは良かったが、これだけで生きることが出来るはずは無い。そして残念なことに、その実以外に食料らしいものを見つけることは出来なかった。その日も日が暮れると、ジャメルは実のついたツタを持ち岩陰に帰った。

 ジャメルの体は日ごとに衰えていった。紫の実は定期的に収穫し、それ以外には小枝に足をからませて転んでいるリスを仕留めて海水に浸けて干した後に食べたりした。しかし自分の命が消費されてゆくその速度には間に合わないようで、体はやせ細っていった。それでも無意味に髪やヒゲは伸びることを止めなかった。どうか、伸びるためにつかわれるエネルギーを体の中にとどめてくれないかと声を大にして言いたかったが、髪にも、髭にも耳が無いので止めておいた。耳の無いものに、言葉で話しかけるというのは馬鹿げた行為だ。勿論、言葉以外で話しかける方法をジャメルは知らない。

 ある日、雨がふった。恐ろしいその雨から身を守るために、ジャメルは岩陰の中に体を潜めていた。雨は強まるばかりで、止む気配が無い。それは明け方のことで、いつもなら遺跡に出かけて泥人形の観察を始めるところだが、ジャメルは雨のせいでそれをためらっていた。紫の実はもうわずかで、今日一日分は何とかなるかもしれないが、それ以上は無い。前の日に波打際で見つけた死んだ魚は一瞬ちょっとした収穫のように思えたが、喰おうとして腹の中を見ると、細長い白い虫が活発に内蔵の中を跳ね回っていた。全く喰える代物では無い。何度かあの階段を探してもみたが、全くの無駄だった。この雨の影響で再びあらわれてくれると良いのだが…。

 このような体になっても、生きたいと思っている。ジャメルは、自分自身の体への執念に尊敬の念を抱いた。体が痩せれば前よりも少ないエネルギーで生きることが出来るのはありがたい。そして、案外体の大きさと命の大きさにはあまり関係性が無いのかもしれないと、むしろ体が細くなればなるほど、自分の中に眠る命が大きなものになっているように思えた。砂の中に埋めたヘビ鳥の体を取り出すと、それはもうすでにバクテリアに体の半分以上を喰われていた。喉元の、あのかたまりはまだ残っているようだったが。そしてジャメルの頭に入っていた種も変わらずそこにあった。

 雨はその日降り続けた。この雨の中を、出て行かなければならない。そして、何か食べ物を見つけなければ、明日には死んでしまうかもしれない。ジャメルは、意を決して岩陰から出て、林へ向かって行った。雨は強くジャメルの体を打ったが、それによって体が傷つくということも無かった。

 林の中に入ると、雨は葉に遮られてその勢いは弱まった。葉の隙間からこぼれる雨を、大地は吸収していった。ジャメルはその養分が少しでも多く紫の実に回されることを祈った。遺跡に近くなっても、ハンマーが打ち降ろされる音は聞こえなかった。雨の日は作業を行わないのか、それとも今は台車を運んでいる最中なのか。ふと、ジャメルは泥人形を訪ねようかと思った。この雨によって体への執着というものが多少なりとも洗い流されたのかもしれない。それまで抱いていた泥人形に対する恐怖心や、警戒心が何故存在していたのか、その理由が分からなくなったのだ。それはもしかしたらただ単に他の古い感情と同じように時間がたてば薄れて、記憶の中から消えてゆくような類いのものだったのかもしれない。

 遺跡へ足を踏み入れると、再び雨は何にも遮られること無く、ジャメルの体に当たった。ジャメルは隠れようという意志とは逆に、まるで恐れるものが何も無いかのように、やせ細った薄い木の板のような胸を張り、泥人形が普段行動している場所を目指して行った。

 最初に訪れたのは、いつも火が焚かれている円形の広場だった。燃え尽きたカスが、黒い塊となって積まれていて、端にある石の下には雨が止むのを今か今かと伺っているかのような、薪があった。そしてその隣りには、黄色く、丸い植物がいくつか転がっていた。ジャメルは這いつくばり、石の下に手を伸ばすとその植物を取り出した。予想通り、それは芋だった。手の平にのるくらいの丁度良いサイズをしていて、虫食いも見当たらない。奥を覗き込むと、芋は山盛りになっていた。やはり、どこかにこの芋を栽培している農場か何かがあるのだろう。しかし、一体どこに? ジャメルはここへ来てからというもの、毎日林の中や海辺を歩き回ったが、それらしい場所は全く見当たらなかった。ここから、遠く離れたどこか別の場所だろうか。それか、遺跡が破壊されたあとの平原の中にそういう場所があるのか。

 ジャメルは、芋の一つにかじりついてみたが、固くて全く歯がたたなかった。しかし火さえあれば、食べることが出来るだろう。雨が上がった時の為に、いくつか取って行こう。石の下に芋と一緒に転がっていた袋に入るだけ芋を詰めた。たかだか芋だと思っていたが、数を入れると重い。それだけ自分の体が衰えているということなのだろう。間接が外れるということはないが、筋肉の負担になっているということは間違え無い。

 ジャメルがここに来た日と比べて、破壊活動はだいぶすすんでいたが、平原と比べて遺跡はまだまだ大きい。雨に打たれているハンマーは、まるでようやく自分が行っている活動の無謀さと、自分自身の無力さを知り、それに費やされた取り返しのつかない時間を眼前にして打ちひしがれているように見えた。泥人形の気配は無い。そしてジャメルは恐れることなく、泥人形の住居へ向った。

 建物の中で、泥人形は入口に背を向けて座り込んでいた。あぐらをかき、片方の肘をももにのせ、顔をささえている。考えごとをしているのだろうか? それとも眠っているのだろうか? 部屋の奥には小さな火鉢が置いてあり、小さくはあるがまるで星の中心でくすぶっているマグマのような濃い色の火を抱えている。そのせいか、部屋の中からは若干ではあるが自分が立っている場所と比べて暖かい風が流れ出ている。

 ジャメルが中へ入り込んでも、泥人形は座り込んだままだった。気付いていないのだろうか。ジャメルはそれならばと、うばって来た芋を一つ袋から取り出して泥人形の背中に投げた。はねかえった芋はころころと床を転がり、ジャメルのつま先に当たった。すると、ゆっくり泥人形は首を回し、その顔だけをジャメルの方へ向けた。その姿勢からいって、顔をこちらに向けたらしいということは分かるが、表情があるわけではない。次の瞬間、泥人形から、奇妙な音が聞こえた。まるで、何本もの枯れ枝が一度にへし折られたかのような、乾いた音だった。

 泥人形は、部屋の奥へ飛び退くと、壁を背にしてガタガタと震え始めた。

 思わぬその反応に、ジャメルは逆に罪悪感をおぼえて気をゆるめた。よく見ると、泥人形のアゴには小さな長方形の穴が空いていて、息がシューシューとそこから漏れている。ジャメルは、弁解しようとしたが、しばらくの間話していなかったからか、言葉の根源が体の中にあるのは確実なのに、まるで石化して、出口を強固な壁で塞がれてしまったかのように、口に出すことは出来なかった。仕方が無いので、その代わりにジャメルは泥人形と同じように座り込み、両手を上げて敵意が無いことを示してから、片手で腹をさすり腹が減ってどうしようも無いのだ、ということを伝えようとした。それを繰り返すうちに、敵意が無いということは泥人形に伝わったらしく、泥人形はゆっくりと震えながら立ち上がった。

 泥人形が座っていた場所の前には、石の台が置かれていた。その上には、黄色いクリーム状のものと、それが先にべっとりとついている棒が置かれている。それも食料なのか、泥人形の首もとにはそのクリームとおぼしきものがべっとりとついている。泥人形は、うろたえているようで、震えながら部屋の中を、ジャメルから顔はそらさずにうろうろと動き回っている。

 ジャメルが、そのクリーム状のものを指差して食べても良いかと身振りでたずねると、泥人形は頷き、まるで給士であるかのようにその前にジャメルを案内した。やはり、全く敵意は無いようだ。というよりも、まるでジャメルのことを恐れているように見える。それも未知のものに対する恐れではなく、何かあきらかな経験、記憶に基づいた恐れだ。しかしその理由がジャメルには全く分からない。

 ジャメルは、泥人形に差し出された通りに、それまで泥人形が座っていた場所に座り、そのクリーム状のものを目の前にした。近くで見ると、それがのっている皿のように見えていたのは、甲殻類の殻のようだった。裏返すと、見覚えのある斑模様が目に入った。色こそ変わっているが、あのムカデのものに相違無い。無数の足は無いが、それが付いていたのだろう、小さな穴が規則的に並んでいる。焼かれたということか、殻の表面はところどころ焦げている。恐る恐る石台の脇を覗きこむと、そこにはむしられた足の残骸や、まだ節々が連なっているムカデの焼かれた本体が横たわっているのだった。ジャメルは、それを見ると途端に吐き気に襲われ、口を押さえたが、体の中には吐き出されるものも無かった。

 床に倒れ込み、気分が良くなるのを待とうとすると、泥人形が顔を覗きこんできて、どうぞ食べて下さい、というようなジャスチャーをして来る。気分が良くなることは無かったが、やがて元から気分が悪かったということを思い出すと、何とか体を起こすことが出来た。殻がムカデであることに間違えは無いが、そのクリーム状のものがムカデであるという証拠はどこにも無い。

泥人形はジャメルが食べるのが当然だと思っているかのような態度をしている。ジャメルは、気を改めて枝の先についているそれに鼻をつけると、それは非常に食欲をそそる香りを出していた。そして、思い切って舌の先をかすかにつけると、強い酸味と苦みが伝わってきた。ジャメルはそれをすぐに舌から離し、壁に投げつけると、立ち上がり泥人形を凝視した。泥人形はまるで巨大なナイフを向けられた丸腰の人間のように、どっとしゃがみ込むと再びジャメルの方を見ながら震え始めた。その姿を見て、逆にジャメルも動揺してしまったが、その内にその刺激的な味はすぐに消えていった。意外なことに、後味は良い。何か、ジワジワと体の中に養分が広がっているように感じる。

 ジャメルは、投げつけた棒を拾い上げると、今度は前歯で少量だけ、それをかじり取った。少し粘り気があるが、口にいれると柔らかくなり、そして溶けていった。やはり舌がピリピリとしたが、少したてばそれは治まり、旨みが広がる。もっと食べたいという欲求に駆られたが、腹を壊す可能性はある。ジャメルはしばらく腹の様子をみることにした。

 ジャメルは、部屋の隅で隠れるようにして座っている泥人形を尻目に、部屋の中を歩いた。中には、泥人形が寝ているものと思われる、枯れ草が敷き詰められている石のベッドが一つ。他に目についたのは、床が変形して成長したようにも見える円筒形の風呂釜のようなもので、何かが山盛りに入っている。発芽した人間の頭だ。一体どういうことだろうか。それらの頭からは一つ残らず芽が出ていて、目は閉じられている。すべての頭はまるでただ眠っているだけであるかのようだが、首から下は無く、その断面は灰色をしたセメントのようなもので塗り固められている。命が堰き止められているかのように。

いくつか外側を向いている顔があり、その中の一つがあのペット屋の主人であることにジャメルは気付いた。久々に見たその顔は自分が知っているものと変わらず、頬もふっくらとしている。決して、死んでいるようには見えないが、額からは細い芽が生えている。その近くに、サンドイッチ屋であり、踊り子でもある女の顔も紛れているのかもしれないが、それを探す気にはならなかった。ジャメルは、ペット屋の頭を手にした。するとそれはまるで雪の下に隠されていた大きな岩のようにずっしりと重く、冷たい。触れてみると、全ての頭は同じような冷たかった。

 ジャメルが振り返ると、泥人形は直立不動の状態で壁際に立ったまま、ジャメルの方を見ていた。体の震えは治まっているようだ。しかしただ立っているだけで、何かをしようとしているようにも見えない。ジャメルがその頭が入っている場所を指差すと、泥人形は静かに歩み寄り、まるで王に贈呈品を贈られた忠実な国民のように、ジャメルがさきほど手にとったペット屋の頭を取った。どうするのかと思っていると、泥人形はいつの間にか小雨になっていた外へそれを持って出て行った。せっかく火種の熱のお陰で乾いた自分の体を、再び濡らさなければならないのは面倒だったが、泥人形の意図を知る為にジャメルはその後を追って行った。

 泥人形は、遺跡の中を普段とは違い、平坦な場所を選んで進んだ。途中、遺跡の中には水が溜まってしまっている場所もあったが、泥人形とジャメルは無事に平地に出ることが出来た。泥人形によって切り拓かれたその一帯は、植物から見放された、茶色い大地を露出させている。

 二人は、その大地をトボトボと、歩いて行った。大地は雨を吸い込んでいくが、やはりその土地は死んでしまっているのか、近くで見てもほとんど植物は生えていない。まるで空からばら撒かれたように散らばっている灰色の小石の間で、所々非常に小さな、色の薄い雑草が生えているだけだった。そして、そのほとんどは枯れて茶色く変色していた。生きながらえる事が出来ないとは知らずに、この大地に生えることを選んだのだろうか…。前を歩く泥人形の体は、雨を受けているせいか僅かにたくましくなっているように見えた。ジャメルは、雨に打たれながら腹の調子が悪くならないことに安堵感を抱いていた。

林の近くまで来ると、二人は足を止めた。泥人形は唐突にしゃがみ込むと、手を大地の中へ差し込み、そのまま掘り起こした。そして、小脇に抱えていた、発芽したペット屋の頭をその中に入れて、上から土をかけた。頭はすっぽりと埋もれ、そこから出ている芽が土の上に顔を出した。

 泥人形は、土にまみれた手をだらりと下げながら、何かの指示を待つかのようにじっとジャメルの方を向いている。どうやら、発芽した頭はここに植えられる為にあるという事らしい。そして、この泥人形はどこまでも自分に従順な態度を示して来る。ジャメルが一人振り返り、泥人形の家へ戻って行くと、泥人形はその後をついてきた。

 泥人形がこの遺跡を破壊しているのは、発芽した頭を植える為の平地を確保する為なのだろうか。しかしそれが目的だとすると、他にも膨大な数の頭があるということになる。

「他にも、頭があるんですか?」

 ジャメルは遺跡へと上がる前に振り返り、泥人形にたずねた。すると泥人形は何度か頷いた。そして、ジャメルがそこに自分を連れて行くように言うと、泥人形はジャメルの先を越して遺跡の奥へ歩いて行った。泥人形がジャメルを連れて行ったのはその周辺と比べても特に崩壊の進んでいる区域だった。まるで、元々その場所には大きな建物があり、それが壁や柱すら残さずに崩れてしまったかのように、大小様々なブロックが積み重なっていた。そのブロックの隙間をくぐり抜けるようにして、やがて二人が辿り着いたのは、アーチ状になっている細長い建物で、そこだけ保存状態が良かった。というよりも、その建物を隠す為に、周りの積み重なっているブロックが存在しているようにすら思える。

 背丈よりも少し低い入り口から内側を見ると、天井の中央に、細長い天窓のようなものが一定間隔で空けられており、そこから雨と、外光が入り込んでいる。石で出来た通路の中心には、丁度天井の天窓に呼応するかのように水路のようなものが掘り込まれており、建物の入り口から暗い奥の方へと続いていた。二人は、背をかがめて建物の中へ入って行った。

中に入ると、壁沿いにポケットのような一続きの窪みがあり、内側には発芽した頭が山のように入れられていた。頭はどれも発芽したばかりのように表情や皮膚には張りがある。泥人形の家で目にしたものと同じように、目は全て閉じられている。壁には苔がはえていて、その上をムカデが体をよじらせながら這っていた。苔で、腹についた汚れを拭き取っているのかもしれない。ジャメルはそのまま部屋の奥へと歩いて行った。すると、一番奥には、錆ついた大きな柵付きのリフトがあり、そこにも沢山の発芽した頭が積みかさなっていた。

「これらが、何処から来たのかを、私は知っています。あなたは、これを全て遺跡の跡地に植えようとしているんですか?」

 ジャメルが、まだ話すのに慣れていないせいでぎこちなくそう言ったが、泥人形は返事をしなかった。聞こえているのか、いないのか、何か変わった素振りをみせるということも無い。

しかし、突然泥人形が動き出したかと思うと、壁に向かい、するどく腕を伸ばして這っていたムカデを鷲掴みにした。ムカデは暴れまわり、泥人形の腕に絡まりついたが、泥人形には全くひるむ様子が無く、そのままムカデの頭を地面に叩きつけて失神させた。そしてそれを持ち、出口へ向かって行った。

 ジャメルは、まるで自分が長い間放浪の旅に出ていた、その家の家主であるかのような錯覚にとらわれた。家に着くと、泥人形はジャメルをベッドに横たわるように案内して、自分は石台の前に座り込むと、今しがた失神させたムカデの足を一本一本外し始めた。その姿は、枯れ草の上に横たわりウトウトとし始めたジャメルの目にはまるで裁縫に励む老婆のように映った。さっき食べたのがムカデであることに間違えはないらしい。ムカデも、食べてみれば中々旨いものだ。もう少し、別のものも腹に入れたいが、外が雨なので仕方無い。何にせよ、泥人形に敵意が無いというのがはっきりと分かったのが何よりの収穫だ。これまで、何を恐れていたのかとバカバカしくなる。ジャメルは自嘲的な笑みを浮かべながら、暖かいその建物の中で、眠りに落ちて行った。一瞬霧雨になった雨は再び勢いを増しているらしく、ザーザーと雨が建物に当たっている音が聞こえた。

 泥人形とジャメルは一緒に暮らし始めた。あの雨の日以降、気温は下がり気味になり、雨の回数も増えたが、晴れの日は外に出て焚き火をし、芋を焼いて食べた。火を起こすのには、特別な石が使われていた。平たい二つの石を打ちつける事によって火花が出て、それを燃えやすい、油分を多く含んだ枯葉に浴びせることによって火種がつくられていた。火は、一度起こされると注意深く薪をつぎ足されて維持されていた。

 泥人形は紫の果実は口に合わないらしく、食べなかった。雨が降る日でも、遺跡の破壊活動は行われた。破壊された遺跡は、台車に載せられて林の奥にある絶壁へ捨てられる。海の中には石を喰う生物でもいるのか、それとも気付かぬ内に大きな波がやって来てそれをさらって行くのか、捨てられた石は少しずつ無くなっていった。ただ、泥人形は、頭を植えるという作業だけは始めなかった。

 芋畑は林の一画にあった。泉から出ている小川の支流からそう遠く無い。近くには、元々そこに生えていたらしい、腐った大木が倒れている。以前やって来た時にこの場所に気付かなかったのは、そこが少し窪んでいて、目が届かなかったからだろう。

その開墾された土地へ行き、時折泥人形は畑仕事をした。雑草を取り除き、土の中から芋を掘り起こしたり、新しく植えたりした。そして、収穫された芋は石運び用の手押し車に入れられて、焚き火をしていた広場へ運ばれ、周辺の石の下へとしまわれた。

食事をする時、常に泥人形はジャメルに先をゆずった。ムカデに関してはジャメルが最初に一番栄養のある表皮近くを食べ、芋に関しては甘みが詰まっている中心近くを食べた。そしてジャメルが食べ終わるのを、じっと後ろで泥人形は待っていて、その後でジャメルの食べ残しを長方形の口に運び始めるのだった。

 ジャメルは、泥人形との生活を始め、少しずつではあるが体力や健康を取り戻していった。髪や髭は伸びたまま放置されたが、時折泉で洗ったり、雨の日には裸になり外に立ったりした。

 それは良く晴れた日のことだった。ジャメルが日中時間をもてあまして、発芽した頭が貯蔵されている建物にいた時のこと。何気なく、そこにあった頭を眺めているうちに、又新たに見覚えのある顔を見つけた。それが誰だったか、思い出すのに少し時間がかかったが、かつて地下の島に住んでいた時に、自分の家へ届けられた死体の顔だということに気付くと、ジャメルは小さく驚きの声を漏らした。

 目を閉じているニキの表情は、彼女が家に届けられた時とそっくりそのままだった。褐色の肌に、長く大きな目。芽が出ているということ以外には全く変わりが無い。ジャメルは、実際にその女のことを知らないのだが、まるで懐かしの友人に出会ったかのように驚きと喜びの入り混じった感情を抱いた。そして思い出した。今、自分の頭についている脳は、この女が自分を犠牲にして作ってくれたものなのだ。あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。結局、ニキも発芽するという運命から逃れることが出来なかったということか。その額から生えているのは、黒っぽい線の入っている、発色の良い緑の芽で、尖った葉には白くて細かい産毛が沢山生えていた。

 ジャメルは、リフトの柵越しに見えていたニキの頭を取り出す為に、積んであった頭を順に取り出していった。掘り起こされる頭の数々を見ても、知っている顔には出会わなかった。こんな中で、ニキの頭に出会うことが出来たのは、奇跡的なことのように思える。頭のどこかで、ニキのことを常に探していたのかもしれない。

 ジャメルは、ようやくニキの頭に辿り着くと、ゆっくりとそれを持ち上げた。柵に接していたせいで、顔についていた赤錆を払い落とす。芽はまるで何かでコーティングされているかのように硬いので、とれてしまう心配も無さそうだ。ジャメルは、ニキの頭を持ったまま、そこに座り込むと、ニキの顔に天井から注ぎ込まれる陽光が当たった。指で瞼を開けると、大きなその瞳の中心は灰色をしていて、その内側にある何かを守っている分厚い壁のように見えた。瞼の内側に、もう一つの瞼があるような感じがする。表にある瞼を閉じると、ジャメルはニキの唇に手を当てた。唇は健康的で、わずかに湿り気を含んでいる。そしてゆっくりそれを開いた時、ジャメルはしっかりと噛み合わされた歯の隙間に、何かが差しこまれていることに気付いた。

 ビニール袋で包まれた紙の切れ端のようなものが、歯の間からわずかに見えている。ジャメルは、それを取り出そうと、口を開けようとしたが、まるでアゴの関節が溶接されているかのように固くてとてもではないが開けることが出来ない。他の頭も同じようにそれを咥えているのかと思い、積まれている頭の口を適当に開いてみたが、同じようなものは全く見当たらなかった。ジャメルは、何とか口を開く方法は無いかと、ニキの頭を探った。しかし、口を開くボタンや、留め金のようなものも無かった。だがそうこうしている内に、首の裏側に何かしこりのようなものがあることに気付いた。その部分だけ柔らかく、何か球形のものが内側にある。ジャメルはそれを撫で、指を押しあてた。すると、それはゆっくりと、さらに首の内側に入り込んでいった。それと同時に、突然支柱が折れてしまったかのように、口が開き、それまできちんと閉じていた瞼はまるで死んだ貝のように薄く開いた。口元から垂れて来る冷たい唾液がジャメルの指にかかったが、そのようなことを気にすることも無く、ジャメルは赤黒い口内に入っているそれを摘み上げた。

 ニキの口に入っていたのは、ビニールに包まれた紙だった。紙は小さく、円筒状に巻かれている。ジャメルは、ビニールを破って紙を取り出したが、それは唾液で湿ってしまっていた。覗きこむと、どうやら文字が書いてあるようだが、これでは開くことが出来ない。それを読むのには、乾燥させるしか方法が無い。しばらく、日に当てるか、もしくは焚き火にかざせば開けて読むことが出来るようになるかもしれない。

 丁度風にのり煙の臭いが漂ってきた時だった。芋でも食べながら、ジャメルは紙を乾かそうと立ち上がった。一緒に、口が開いたニキの頭も持って行くことにした。この場所で出会ったのも何かの縁に違い無い。いかんせん、泥人形はいても孤独な生活だ。一度夜になれば泥人形は室内の最も暗い場所に黙って座り込み、ジャメルの孤独を紛らせてくれるということも無い。

 泥人形は、女の頭を抱えてやって来た主人を見ても、特別な反応はしなかった。一瞬薪をくべる手を止めてジャメルの方を見ただけで、すぐにその動きは再開された。そして薪をくべると石の下から芋を何個か取り出し、燃え上がる火の中にいれ、脇にある石に腰かけた。うなだれているような姿勢で座っているその姿は、休憩中のボクサーのようだ。

「実は、知っている顔なんだ」

 ジャメルが話しかけても、泥人形は動く気配を見せ無かった。肩を膨らませながらゆっくりと呼吸をしている。寝ているのかもしれない。しかし、芋を入れた直後に突然眠くなるとは信じがたい。ジャメルは、石の上にニキの顔を置いてから泥人形の顔を下から覗きこんだ。おそらく、寝たフリでは無い。そんなことをすることに何か意味があるとも到底思えない。そう思っていると、泥人形はゆっくりとその顔をジャメルへ向けた。

 泥人形はニキに関心を示さなかった。それは泥人形にとっては、ありふれた顔の一つに過ぎないのかもしれない。ジャメルは、湿った紙を、日光の当たる遺跡の上に置き、ただ乾くのを待った。その間に芋は出来上がり、泥人形によって焚き火の中から掘り出された。表面が黒くなっている芋の内側は恐ろしく熱いので、冷めるまでは時間がかかったが、それにかけた忍耐力が無駄にならないほどの甘みがある。それを食べ終わると、泥人形は遺跡の破壊活動に戻り、ジャメルはまだ半乾きの紙を持って、家へ帰り、紙が乾燥するのを待った。

 火種の近くに紙を置き、ジャメルは寝そべった。入口から入る暖かい風を感じながら、泥人形が遺跡を破壊している音を聞き、時間が過ぎるのを待つ。連れ去られた同胞を救出する為か、ムカデがやって来ることもあったが、それらは常に無惨な姿になった仲間の姿を見ると恐れをなして外へと足早に逃げ去って行った。

 やがて日が落ちかけた頃に、ようやく紙は乾き、開くことが出来るようになった。まだ、泥人形は作業を続けている。ジャメルはベッドから体を起こすと外に出て、夕日に照らされる遺跡に腰かけ、それを読み始めた。開くと細長い紙となったその上には、蟻のように小さい文字が、時折気が触れたように変な方を向いていることはあったが、書かれていた。

〝ジャメルさん、あなたがその場所でこれに目を通している事を嬉しく思います。私はこれから自分が発芽するという事を知っています。それを教えてくれたのは、私にあなたの脳を作らせた存在でもあります。ジャメルさんが島から出て行ってから、私は自分の中に誰か別の人間が住んでいるという事にはっきりと気付くようになりました。その人間と、心の中で会話をする事が出来るようになったのです。その人間は、あなたが今立っているその場所で、かつて生活していました。私達や、監視官のいるこの地下の島を創りだした創造主です。その創造主によって、私は今これを書かされています〟

〝この島は、彼等が滅んだ後でも、いつか再びその場所に生まれる事が出来るようにと設けられた、いわば命の隠し場所のようなものであったようです。そして私がその意図を遂行する為の媒体として選ばれ、その私がジャメルさんの脳をつくりました〟

〝私は彼等の媒体として、あなたがその場所でしなければならない事を伝えなければなりません。先ずその場所にある創造主達の古い住居を完全に除去し、文明の痕跡を無くす必要があります。それがあると、新しい命の芽生えを阻害する為です。その作業が終わったら、出来上がった平地に私達の頭を植えて下さい。ジャメルさんがこの島から持って行った種と石は、平地の中央付近に埋めて下さい。それさえすれば、ほど無くその土地の再生が始まるはずです…〟

 ニキの頭は、口をぽっかりと開け、薄く開いた瞼の隙間からは白目をのぞかせている。無事に、メッセージを送り届けることは出来たが、それを知ることは出来ない。ジャメルは紙を口の中に戻し、元々そうであったように口をしっかりと閉じて、瞼を下げた。カチっという音が鳴ると、口は動かなくなったが、瞼は完全には閉じなかった。

 ジャメルは、ニキの頭を持ち外へ出て、それを土の中に埋めた。遠くで、作業を続けている泥人形の姿が見えた。日が暮れ始めている。あの建物の中に溜まっていた頭の数を、ジャメルは思い浮かべた。さすがに、一つ一つ手運びをするということは出来無いだろう。

頭が貯蔵されている建物へ行くと、大きな袋を何枚か見つかった。背中を覆うくらいの、大きなものだ。出来れば台車があれば良いのだが、見当たらなかった。

 発芽した頭で満たされた袋は、ずっしりと背中にのしかかってくる。やはりどの頭も健康的な芽を出していて、はじかなければいけないものは一つも無かった。それに芽は弾力性にとんでいて折れる心配も無かった。

 平原の端から、ジャメルはそれを埋める作業を始めた。一度に運ぶことが出来る頭の数は、十個程度だった。ジャメルは、出来るだけ横一列に並ぶようにそれらを埋めた。

 その活動は、暫くの間働いていなかったジャメルの身にはこたえたが、その分日々の食事はおいしく感じられた。ムカデの身はより味わい深く、紫色の果実はより甘く感じた。泥人形は、数日経ってからジャメルが行っているその活動に気付いたらしく、時折石を棄てに行く途中で立ち止まってはやって来て、じっとその様子を眺めていることがあった。

 そうして、月日は過ぎて行った。ニキに言われた通りに、遺跡も大部分が破壊された頃、ジャメルは島から持って来た種と、ヘビ鳥が取り出した石をその乾燥した大地の丁度中心辺りに埋めた。埋めた場所が何処なのか忘れない為に、海岸から拾って来た流木をそこに立てておいた。

 発芽した頭の中には、ニキ以外にも見覚えのある顔があった。それは、あのマルシという名前の、鏡のような目をした男だった。閉じられた瞼を開けると、目はもう透き通ったプラスチックのようになっていた。しかし、やはりその奥はあまりにも暗く、奥に何があるのかは分からなかった。

 ジャメルはもう一度かつての恋心にすがろうとするかのように、踊り子でありサンドイッチ屋でもあるミス・クニタの顔が現れないかと、頭を手にする毎にその顔を探したが、結局見つけることは出来なかった。発芽することが出来なかったのかもしれないし、ジャメルがここへやって来るよりも前に泥人形によって埋められたのかもしれない。

顔の中にはかつてジャメルが顔を生産していた時に自分で作ったものもあった。数こそ多くは無かったが、自分がその誕生に関わった人間と、この土地で再会するというのは、とても不思議な感じがした。それは、もはやジャメルの中で、あの島で生活をしていた自分が遠い過去のものとなっていたからであろう。

 ジャメルは、マルシの頭を、自分の種の近くに埋める事にした。ジャメルは流木の周囲を掘り起こしてみた。すると一帯には黒い根が張りめぐらされていた。それは非常にこまかい、髭のような繊維が織り込まれるようにして出来上がっているものだった。ジャメルは自分の種を掘り起こしてみると、種と石はいつの間にか接合されていて、地中に向かって細かい根を出していた。それが、マルシの頭を埋めた場所にも続いているのだろう。

 ジャメルがマルシの頭を埋めると、根は頭に覆い被さった。幸い、根の間から、芽を地上に出す事が出来た。ジャメルは、自分が埋めた種の成長力に驚きながら、一体どこまで生え伸びているのだろうかと、土を掘り起こしながら歩いてみた。すると、種を中心とした大体半径十メートルくらいの大地には、黒い網目状の根が広がっていた。その根はまるで虫か何かのようにゆっくりと、まるでミミズが這うようなスピードで地中を伸びていっているのだった。

 ジャメルは、頭を平原に植え続けた。根はその後も伸び続け、埋められている芽は色が鮮やかになり、少しずつではあるが成長し始めていた。それでも、地上から見ればその大地の表面は前と変わらず死んでしまっているように乾燥し、ひび割れていた。

 芽の形は様々だったが、成長するにつれてその違いは顕著になっていった。平たい大皿のようなものもあれば、まるで槍のように尖っているものもあった。それらが成長するにつれて、次第に生気を失っている大地はその姿を隠されていった。植えられた頭によって、その大地は再生し始めているということらしい。

やがて、その大地の果てまで、根は行き届いた。そして、林が始まっているその境目まで辿り着くと、まるでそこに見えない壁があるかのように、根は成長を止め、林の地中まで入って行くことは出来なかった。

 その時になり、まだ破壊されずに残っていたのは、ジャメルと、泥人形が生活しているその建物だけだった。頭が貯蔵されていた建物は頭が残りわずかになった段階で破壊されて、残った頭は住居へと移動させられた。貯蔵庫の、リフトがあった場所の下は、他の場所と同じように乾燥した土で埋め尽くされていた。そこにかつて地下の島へと通じる通路があったとは、到底信じられない。その場所を目にしたジャメルは、そのリフトが、まるで本当は存在しない地下の世界を、あるように見せかける為の模型であるかのように感じた。

 残された住居の中で、ジャメルと泥人形は一緒に生活をした。もはやその平原は、ジャメルがやって来た時とは全く別の場所であるかのようだ。晴れた日に住居の壁をよじ登り、平原を見渡すと、色も形もさまざまな植物の中には、もうジャメルの膝小僧辺りまで成長しているものもあるようだった。その中で、比較的最近破壊された、貯蔵庫の跡地等は、まるでそこだけ見捨てられたかのように植物の芽から見放されている。ジャメルは、今住居に残されている頭をその場所に植えようと思った。しかし、残っている頭の数はそれほど多く無い。いつの日かこの住居を破壊した時、その跡地に埋めることが出来る頭は無いかもしれない。もしそうなったら、そこを自分の死に場所にしよう、自分が作り上げたこの奇妙な森の中で唯一、死んだような見た目のままの場所で最後を遂げるというのは寂しい気もするが、落ち着いた死後を迎えられるような気もする。勿論、自分で死場所を選ぶことが出来ればの話だが。

 ジャメルが死というものを意識し始めたのは、泥人形の体調が日毎に衰えているように感じられたからだ。まるで遺跡と、その命が同一であるかのように。住居だけが残されている今となっては、泥人形の体はいくら泉から汲んで来た水をかけてもひび割れが消えることは無かった。それだけで無く、その動きも次第に俊敏性を失っていたので、ムカデを採るのも、今ではほとんどジャメルの役割になっている程だった。そうしてムカデを採って来ても、ジャメルと出会った頃には一匹丸ごと食べていたのが、ようやく節一つ分を食べるのがやっとという有様だった。

 ジャメルは、住居に戻り、昼過ぎだというのにベッドに横たわったままの泥人形に近づいた。まだ眠っているのか、それとも動く気が無いだけなのかは分からない。しかし、ひび割れた堅い肩にジャメルが手を当てると、ゆっくりと体を起こした。そしてベッドから立ち上がると、住居の中に残されているわずかな頭の内の一つを手に取り、ゆっくりと外へ出て行った。ジャメルは、その泥人形に対して、無理をしなくても良いと言ったが、それでも泥人形は休まなかった。

 泥人形とジャメルは、その数日後に全ての頭を埋め終わった。残されているのは、ハンマーと手押し車、そして住居だけだ。住居を破壊するという最後の仕事だけを残した泥人形は、もうほとんど寝たきりで、動かなかった。ジャメルは、ムカデの肉をすり潰してはゆっくりと泥人形の口に運んだが、やがてほとんど口を動かさなくなった。それでも、やはりこの住居が残っている限り、泥人形のかぼそい命は続いた。しかし自分でこの住居を破壊する力はおろか、ハンマーを手にする気力すら残っていないようだった。それを泥人形の代わりに行うのが、最後に残されたジャメルの仕事であった。この住居を破壊した後は、ここに来た時と同じように海辺の岩陰に戻るつもりだ。この遺跡を跡形も無く破壊してしまえば、そこで自分の役目も終わる。岩陰で、命が続く限り生きれば良い。そして、泥人形がつくった畑を耕しながら、自分達が埋めたこの芽が成長するのを外から眺めるのだ。

 そして、とある晴れた日、ジャメルはそれを実行に移すことに決めた。住居の隅に置かれたハンマーは埃をかぶっていた。それを手にして外に出て行くジャメルのことに気付いているのかいないのか、泥人形は全く反応しなかった。外に置いてあった手押し車の脇にハンマーを置くと、ジャメルは泥人形の体を背負い、外に寝かせた。泥人形は、何回転かしてから、仰向けになって寝そべった。

 泥人形の手の形に合わせて、柄がわずかに窪んでいる巨大なハンマー。わずかに先細りになっている。20キロはあるだろうか。ジャメルは両手でそれを持ち上げ、横から振りかぶると住居の壁に打ち付けた。これまで泥人形がたてていた、重さと鋭さが混じっている遺跡の悲鳴がジャメルの耳の穴に逃げ込んで来た。しかし、当然ながら鼓膜というものに遮られたそれら遺跡達の悲鳴は、風に潰されてすぐに息絶えていった。何度か繰り返すと、壁にはヒビが入った。流石に、泥人形のように一振りで致命的な亀裂を入れるということは出来なかったが、この調子でいけば何とかこの日一日で建物を取り壊すことが出来る気がする。石を海へ運んで行くのも一仕事だが、それは数日間かけてゆっくり行うしかないだろう。

 やがて、入口の中間にある一つの石が割れると、入口全体がボロボロと崩れ落ちた。続けて、建物の脇から、裏側へと順番に、ジャメルはハンマーを打ち当てて、特にその面の支点になっていそうな石を壊していった。ジャメルは、一つの面を壊すたびに仰向けに倒れている泥人形の事を見たが、泥人形は動くことが無く、見た目にも変化が無かった。空には細切れな雲がいくつか浮かんでいるだけで、太陽の光は優しく、そして明るい。微風が、息を切らしているジャメルの背中や、成長しつつある芽の中で寝そべっている泥人形をかすめる。まるで、死というイメージとは相容れないような穏やかな気候だが、現実的に泥人形の命も、この遺跡も、終わりを迎えようとしている。

 ジャメルは、全ての壁と屋根を崩し終わると、ハンマーを地面に置き、泥人形のもとへ近づいて行った。気づくと、手のひらの皮が剝けていて、血が滲んでいる。ジャメルは泥人形の脇に座り込み、その手で泥人形の体に触れた。

 いつの間にか、泥人形の体は冷たくなっていた。乾燥しきっている体の表面には細かいヒビが更に増えている。口元に耳を当てたが、呼吸をする音は聞こえなくなっていた。ジャメルは、冷たい泥人形の体に耳を当てた。すると、風が動いているような、ヒューヒューという音が一瞬聞こえたが、すぐに何も聞こえなくなり、完全な無音となった。

 泥人形はその後も動く事が無かった。ジャメルは一人石を崖に運ぶ作業を始めた。石は非常に重く、手押し車に入れても一度に五個運ぶので精一杯だった。ジャメルは服の切れ端を手に巻き、作業を続けた。汚れた布に、血が滲む。手押し車が通る時、いくつかの芽は潰されたが、帰って来る時には地面に轍が残っているだけで芽は元の状態に戻っていた。地面を掘り起こしてみると、種から出ている黒い根は更に細かく、びっしりと地中に広がっていて、それぞれの頭の周りに絡み付いていた。どの頭も、表情は変わらず穏やかだったが、中には成長に伴い芽が太くなり、頭というよりも球根に目、鼻、口がついているように見えるようになっているものもあった。そしていくら芽が成長しているものでも、地上に伸びるだけで、それ自体の根が伸びるということは無かった。黒い根が、全ての頭の根になっているということのようだった。地中だけに目を向ければ、平地で成長している植物は全て根を共有しているということのようだった。

 ジャメルは、住居を破壊してしまってから、再び海辺にある岩陰での生活を始めた。芋や、調理前のムカデといった住居に保存されていた食料は、全て岩陰に移した。大体十日分の食料だ。火起こし用の石も、ある程度の薪や枯葉も当然忘れていない。

 日々、少しずつ石を運び、夕方になって岩陰に帰ると、ジャメルはここへやって来た時と同じように砂浜の上に横たわり、泥のように眠った。以前と同じように一人の生活だったが、泥人形との共同生活を送った後となっては、多少なりとも孤独を感じさせるものだった。泥人形が完全に動かなくなってから三日後、その亡骸をジャメルは海辺に埋葬しようと思い移動させようとしたが、それはボロボロに崩れてしまい手に取ることが出来なかった。砕けたその体は、やがて砂になり、雨や風をうけて平地の隙間に入り、その一部となっていった。

 やがて、全ての石が取り除かれた。最後に残されたのは、手押し車とハンマーだけだった。勿論、それらも海へ投げ捨てることは出来るが、使う機会が今後出て来る可能性はあるので、ジャメルはそれらを岩陰近くの林の中へ置いておいた。

 石が無くなってから、植物は成長するスピードを更に早めた。あの小さな住居でも、成長を阻害する要因の一つとなっていたようだ。成長するにつれて、それぞれの芽はまるで土地を奪い合うように新しい芽を出したり、ツタを這わせたりした。生命から見放されたような、枯れた土地の範囲は日毎に小さくなっていった。ジャメルが、自分の死に場所にしようかと考えていた、住居跡の長方形をした土地も、やがて植物に隠れてしまった。特に、泥人形の亡骸が散らばった辺りではまるで特別な養分を得たかのように芽はめざましく成長して、ジャメルの背程はあろうかという小さな木が育っていた。やはり、成長するにつれて地中にある頭もどんどん変形していったが、目、鼻、口、そして耳は決して無くならなかった。黒い根は、どの頭にもつながっていた。地中だけで見ると成長するにつれて一体化を強めているようだったが、地上に出ている部分の違いはどんどん大きくなっていった。

 ジャメルは、まるで自分の子供の成長を見守るように、日々平地を訪れた。そして泥人形から受け継いだ畑を耕し、ムカデを採取した。まるで生きながらえるということだけが生きる目的のようだったが、不思議と孤独や虚無感を感じることは無かった。それは、日々成長する平地がまるで意思のある一個の生物であるように、足を踏み込めばそれまでとは違う考えや、気持ちが自分の中に芽生える為でもあった。その平地は自分の脳に直接イメージを投げかけ、話しかけてきているかのようだった。しかし、長い間その中にいると、言いようの無い苦痛や恐怖心がこみ上げて来て、自然と平地の外に出たいという欲求が芽生えた。その恐怖心は、生えている植物のどれかが自分の心や肉体を奪い去ろうとしているのでは無いかという妄想に基づいていた。

 そのような妄想は、単純にそれぞれの形状を確立させてゆく植物の姿のせいだとも思えた。植物の中には、まるで人や動物を傷付け、威嚇することが存在する目的なのではないかという形状をしているものもあったのだ。例えば、小さな棘を持っていた芽は成長するとその棘をより堅く長くしたし、ノコギリのような小枝があるものもあった。ツタの先についている実が人間の頭のように見えるものもあれば、まるでこの世に存在する全ての存在を憎んでいるかのような冷たい目のような花を咲かせている、芽生えた時から枯れ木のような雰囲気の植物もあった。中でもジャメルに恐怖心を喚起させたのは、近くにある全てを巻き込んでしまいそうな、ジャメルの胴体ほどの大きさはあろうかというゼンマイと、常に血のように赤い液体を葉や幹に滴らせている、細長くて白い木だった。

 勿論、平地に芽生えたのはそういった恐ろしい見た目のものだけでは無い。見ているだけで心が清らかになりそうな色とりどりの花や、 実際に見るのは初めてでもこの世のどこにでも存在していて、見飽きているような感じのする平凡な植物もあった。

 そういった様々な植物が、全くいがみ合うこと無く、共存しているということは不思議であった。しかし、周辺の林とその平地の関係はそうでは無かった。平地の植物が育つのと比例して、林が生気を失くし、衰退していったのだ。林の中にある木々は葉を落とす速さを増し、足元に生えていた大きな葉の植物はどんどん枯れていった。ジャメルは、黒い根が林の下にも入り込んで来たのかと掘り起こしてみたが、それは見当たらなかった。突然気候が変わったということも無い。

 その衰退してゆく林を不思議に思いながら歩いている時、ジャメルはムカデの死骸を見つけた。これまでもムカデの死骸を林の中で発見したことはあったが、それらは決まって寿命で死んだらしく殻が灰色になっているか、他の生物との争いに負けて傷付いているかのどちらかだった。しかしその時見つけたのは、全く外傷が無く、殻の色も鮮やかで正に青春の真只中という見た目の一匹だった。最初にそれを見つけた時、ジャメルは捕獲しようとして身構えた程だった。だがそれは全く動かなかった。ジャメルはずっしりと重いそのムカデを持ち上げてじっくりと眺めた。眠っているのか、気を失っているのか。節々も非常にがっしりとしていて、身も詰まっていそうだ。

 ジャメルは一瞬その収穫を喜んだが、すぐにそれは恐怖心へと変わった。少し歩いて行くと、ジャメルはもう一匹、先ほどと同じような、非常に元気の良さそうなムカデが木肌に張りついたまま動かなくなっているのに出くわしたのだ。まるで、時が止まっているかのように。ムカデだけでなく、小動物や鳥もまるで眠っているかのように、林の中に転がっていた。まるでその空間全体が、治療することの出来ない病に冒されたかのようだった。ジャメルは、晴天の下で枯れゆく林を通り、食糧の貴重な供給源である畑へ向かった。幸い、その畑の周辺はそれほど衰退が進んでおらず、畑も林もほとんど普段と変わらない姿を維持していた。しかしそこが死に支配されるのが時間の問題であるということは、確実なように思えた。その一帯には、弾圧から逃れて来た移民のように、疲れ切った眼つきをしている沢山の小動物や、ムカデ等の姿が沢山あった。林に生息していた生物が、新しく出来た平地に移住するということはどうやら出来ないらしい。平地が拒んでいるのか、その生物達が拒んでいるのかは分からない。平地との境界線へ行ってみると、戦火を逃れようとしたが平地に入ることが出来なかった生物達の死骸が並んでいた。

 一体何が原因なのだろうか。土を掘り起こしてもやはり地質に変化があるようには見えなかったが、地中を移動している最中に死んでしまったらしい、ずんぐりとしたモグラを見ると、地中の生物も死につつあるということなのだろう。崖まで行き、海を覗き込むと、波は荒くジャメルが捨てた石はもうほとんど跡形も無く海の中へ呑み込まれていた。

 ジャメルは、畑から農作物を採取し、林の中からまだ枯れずに残っている紫の実を集めた。いつ枯れてしまうか分からないという不安から、まだ未成熟なものももぎとってしまった。ムカデも、捕まえることが出来るだけ、捕まえておいた。そして、海辺から手押し車を持って来ると、まとめて持ち帰った。採って来た食糧を岩場に蓄えると、今度は空の手押し車を持って泉へ向かい、入るだけの水を汲み入れた。この調子だと、いつ枯れてしまってもおかしく無い。そこに入った水で、生き延びられる期間等たかが知れているが…。

枯れ木や落ち葉は格段に増えたので探すのに困るということはしばらく無さそうだが、仮に今あるものを全て使ってしまえば、新しい芽生えが無い限り燃料が底をついてしまうということになる。そうなった時は、平地から探し出す他に方法は無い。

 植物の衰退は、やがて平地を除いた、この島全体に広がった。ジャメルは枯れて行く木々の後を追うように、島の中を探索した。するとやがて島の隅々までたどり着いた。平地に生えている奇形の植物を除き、この島に生えている木や草花は枯れ果て、ムカデや小動物の白骨化した死骸が目立つようになった。そうして、葉や太い幹といった視界を妨げるものも無くなると、その島が半日もあれば歩いて一周することが出来る広さであるということが分かった。ジャメルが住んでいる海辺を除き、全体を切り立った崖に囲まれた小さな島だ。

やはり湧き水も又、想像した通り間もなく枯れてしまった。

 その後、雨が降ることもあったが、もはや生命力を失ってしまった土地はそれを吸収することすら出来なかった。ただ、平地の植物と、ジャメルだけがその恩恵を授かることが出来た。死んだ大地は、ポツポツと降り注ぐ雨に何も応えることが出来ずに、まるでかつての平地のような、ひび割れた生命から見放された土地へと変わって行った。残された木々も、かすかな地震や強風によって倒された。そしてそれらも、白骨化した生物も、その内部に最後の瞬間まで養っていた自分自身を喰わせる為の微生物を解放することによって、その姿をまるで砂漠の蜃気楼のように消滅させていった。生き残った微生物達も、与えられた役目を終えると群をなしてやがていつか再び役目を与えられる時の為に力を蓄えようと、大地のヒビ割れの奥へと潜りこんで行った。 

 林の衰退が始まってから、ジャメルは頻繁に平地を訪れるようになった。林を失えば、平地に頼るしか生き延びるすべは無い。平地は、林に住んでいた小動物や植物を受け入れることが無かったが、ジャメルを拒むことは無かった。それはもしかしたら、根を共にするこの平地の植物には一つの意志があり、ジャメルをまるで産みの親であるかのように思っているからなのかもしれない。

 平地の植物はどれも大きく成長し、様々な植物が密生する小さなジャングルのようになっていた。成長するにつれて、植物達は、美しさや恐ろしさといったそれぞれの特徴を更に強めていた。その為、一歩平地へ足を踏み込めば、美しさに心を奪われたり、恐怖心で体の芯が凍りつくような思いをしたり、奇妙に嬉しい気分になり、大声で笑い出したくなったりもした。そして当然そういった心理的な作用だけでなく、時には鋭い棘で皮膚を突かれたり、治癒能力のある柔らかい葉に撫でられて回復したりという、身体的な影響もある。その中に足を踏み込むと、まるで自分もそれらの一部になっているように思えるのだった。進む方向すら、自分で選ぶことが出来無い。まるでピンボールの玉のように、様々な感覚の壁にぶつかりながら、気付いたら別の出口から出ている。

 平地に入ることが出来た生物は、ジャメルを除けば僅かな鳥だけだった。それとは別に、青い蝶もいたが、それは地面から生えている、一メートル程はあろうかという肉厚の黄色い花から吐き出されては、数秒後に落下して動かなくなるという短命なものだった。それでも、この平地で、虫が生まれたというのはジャメルにとって嬉しい驚きだった。その内、ムカデに代わる動物性の食糧をこの場所で手に入れられるようになるかもしれない。 

 ジャメルは、平地を出入りする内に、いくつか食用になる植物に遭遇することが出来た。甘い味のする果物や、火を通すことで食べることが出来る、小枝から出ている新芽等だ。それらは、まるで自分の体をジャメルに捧げようと、自ら名乗り出て来たかのようで、ジャメルは自然とそれらを手に取って口にしたり、あるいは岩場へ持ち帰ったりした。水も同じようにして見つかった。ある木の中には、これまで飲んでいた湧き水と同程度に甘く、滋味深い水が流れていて、その枝をかじれば飲みたいだけ水を飲むことが出来た。

 それら、平地の植物のお陰で、ジャメルは確保しておいた食糧が底をついた後も生き延びることが出来た。むしろ、平地はジャメルを生かそうとしているようだった。

 周りの林が完全に枯れても、平地の範囲は広がらなかった。黒い根が、かつて遺跡が建っていた場所から外に出ることはなかった。確かに、遺跡の跡地の土質は、周囲とは違うのかもしれない。泥人形によって石を取り除いてもらうまでの長い間、常に抑制させられ続けていた大地は、未だに乾燥しており、固いままだった。それでも、その地盤をつらぬくようにして生え出してくる植物は後を絶たなかった。


 ある夜中、人間のうめき声のようなものが聞こえた。ジャメルは目を覚まし、外に出ると、それは平地の方から聞こえてきていた。何者かが、海を渡りこの島へやって来たのだろうかとも思ったが、物音や足音、そして話し声等は全く聞こえなかった。

 月が明るい夜だった。目が慣れるのを待ち、丘を登ると、平地の植物だけが、シルエットになって浮かんでいた。体を低くし、なだらかな稜線を描いている大地に目を凝らしてみたが、人の気配は無い。その、呻き声とも、泣き声ともつかぬ音は、やはり平地の方から聞こえている。植物の中に、何者かが潜んでいるという可能性もゼロでは無い。しかし、正直ジャメルにとって、もはや自分以外の人間というのは空想の産物なのではないかと思える程、この島の孤独な環境に慣れ親しんでしまっている。

 ジャメルは、迷った挙げ句、平地へ近づいて行った。このまま帰っても、声が気になって眠ることが出来ないだろう。それに、月が明るいので、たいまつを持って来る必要も無さそうだ。もし誰かが植物の間にいれば、歩いて来る自分のことに気付くかもしれない。しかし、考えてみれば他人を恐れる理由等ありはしないのだ。

 音は、当然のことながら平地に近づくにつれて大きくなっていった。それは、オーン、オーンと、まるで喉仏だけが異常な速度で成長してしまった赤ん坊の泣き声のようでもあったが、そこに感情の波があるようには聞こえない。人間の声では無いことも、歩を進めるにつれて分かるようになった。かと言って、鳥の鳴き声でも無い。ジャメルは、平地の中に入りはしなかったが、まるで皮膚をジリジリと震わせるような、低振動の音がどこからしているのかと、外から耳をそばだてていた。

 音が重ならないことを考えると、その出所は一カ所なのだろう。耳をそばだてながら歩いていると、大体のめぼしをつけることが出来た。針のような葉が密集してはえている奥から、それは聞こえている。確か、その奥には棘が生えている木があるはずだ。ジャメルは、思い切って自分がそこにいるということを伝えようと、両手を叩いてみた。パチンという、若干湿り気を帯びてはいるものの、刺激的な音が響いたが、その声には変化が無かった。中に入ってみたい気もするが、流石にこの夜中に、そこに入る気にはならない。いくら月が明るいからとはいえ、一度植物の中に入ってしまえば全て遮られてしまうはずだ。死を受け入れる心構えはあるつもりだが、それでも進んで死の危険がある場所へ行く気にもならない。遠くの崖に、押し寄せる波が当たり、砕け散る音が風に乗って聞こえる。ジャメルは、暫くその声がする前に佇んでいたが、何も状態が変わることは無かったので、やがてそこを離れていった。

 結局、その声はジャメルが平地を離れ、岩場につく頃には聞こえなくなっていた。まるで、ジャメルがその場を訪れたということで満足したかのように。その理由が何なのか、全く思いつかないジャメルは、一抹の不安をいだきながらも、いつものように砂の上に寝そべると眠りを再開した。

 翌日、ジャメルは声がしていた場所を訪れた。平地の中に足を踏み入れると、やはり予期していなかった感情や、訪れては消えて行く思考により、目的を見失いそうにはなったが、腕や顔が傷つきながらも、何とかその声がしていた場所で立ち止まることが出来た。

 ジャメルはそこで、少し変わった光景を目にした。まるでその瞬間に、それまで行き場を見失いうろついていた全ての意識がまとまったかのようだった。地中に埋められているはずの、芽を出している頭の一つが、ツタに巻きつかれて、苦悶の表情を浮かべている。それだけでなく、その頭から生えている花は枯れていた。黒い根は、それでもその頭についたままで、その部分だけ土から掘り起こされ、引っ張られている。その顔は、髪の毛こそ失っていたがまだ比較的人間の顔らしさを残しているもので、その口はだらしなく開いていた。それを見た瞬間に、ジャメルは昨晩自分が聞いたあの声がこの頭から発せられていたものなのではないかと思った。周りを見回しても、その頭以外に普段と違う光景のものは見当たらない。

 頭はそのツタに窒息させられ、絶命したのではないかと思える。ジャメルはその頭に触れた。すると、その拍子に、頭の至るところについていた根がバチンという音をたてて同時に外れ、穴の中へと戻って行った。

 大地と、頭をつなぎ止めていたその根を失うと、力の均衡を失ったツタは勢い良く、空中へと跳ね上がった。ツタは頭をその先に抱えたまま、何度か揺れ動き、やがて静止した。頭から生えている枯れた花はまるで見えない刃物で切断されたかのようにばっさりと落ちた。ツタは、頭をまるで戦利品のようにかかげていた。何が起こったのかとジャメルはそのまま目を凝らし、耳を澄ましてそのツタを見ていると、やがてツタの先からチューチューという音が聞こえはじめた。どうやら、頭に入っている成分を吸っているらしい。やがて、それが事実であることを裏付けるように、頭は表情を変えることなく、少しずつ縮んでいった。

 ツタは、頭の中身を吸い尽くすと、まるで中身を失ったブドウの皮のような、皺だらけの頭を地面に落とした。表情もクシャクシャになった頭の残骸は、地中の根からも見放され、ただ無残に乾いた大地の上に横たわった。ツタは、その後何事も無かったかのように、木の枝からぶら下がり、動かなかった。それは、この平地の様々なところに生えている、ただのありふれたツタだった。ジャメルは、その後も同じような光景に出合うのだろうかと、ツタがあるたびに注目したが、それきりだった。ジャメルはいつも通りその平地で水を飲み、食糧を調達した。頭上には、この場所で少し前に起った植物同士の争いという悲劇が嘘であったかのように、小鳥が心地良さそうに鳴いていた。

 その日、陽が暮れて岩陰に戻った後も、ジャメルはその日見た恐ろしい光景を忘れることが出来なかった。これまでも確かに恐ろしい見た目の植物はあったし、時には体が傷付けられることもあったが、明らかに攻撃的な意志を持っている植物を目にしたことは無かった。あのツタは、地中に埋まっている頭をわざわざ掘り起こし、まるで眠っている人間の体に熱湯を浴びせるかのような残酷さで、花を枯れさせて頭の中身を吸い尽くしたのだ。あのツタも、地中に埋まっている頭から生えている。地中は黒い根に網羅されているので、それぞれの頭には養分が行き届いているはずだ。何よりの証拠として、平地の植物はどれも見事に成長し、未だ自然と枯れたり、死んでいる植物を目にしたことが無い。何故、あのツタがあのような行動をとったのか。それは明らかに、平地の平和と、秩序を乱す行為であった。

 その日の夜も、ジャメルは同じ様な声によって目を覚ました。ジャメルは、一瞬それを悪い夢なのだと自分に言い聞かせて無視しようと試みたが、やがてその声が単音で無く、コーラスのように重なり始めると、そうすることが出来ないということをはっきりと覚った。そして、前の晩と同じように、平地へと向かい、おおそよの、声の出所を把握してから、岩場へ戻った。やはり、岩場に戻った頃には声が聞こえ無くなっていた。

 翌日、ジャメルはやはり同じように地中から頭を掘り起こし、その中身を吸っている植物の姿を目の当たりにした。それぞれ、声が聞こえた場所の付近だ。驚いたことに、そのどちらも、全く攻撃的な感じのしない見た目の植物だった。一つは、腰くらいの丈の、薄ピンクをした花で、もう一つは楕円形の葉をつけている低木だった。それらが一体どのようにして、頭を掘り出したのかは分からないが、やはり前日見たツタと同じ様に、それぞれの方法で苦悶の表情をしている頭を抱え込んでいた。花は吸盤のように頭に吸い付き、低木は二本の枝で頭を挟みこんでいる。そしてすでに黒い根は外れていた。

 平地に、何か異変が起こっているのは間違えの無いことだった。あまりにも過密になり過ぎたその一帯で、更に成長をしようとしている植物が、自分の領域を広げようとしているのだろうか。ジャメルは、昨日頭を吸っていたツタが生えている場所へ行ってみた。すると、ただの太く、ざらついた質感のツタだったのに、その先端には花がついていた。このツタが昨日吸い取ったあの頭から生えていた花と、非常に似ている。頭同士が、融合したということなのかもしれない。

 そう考えると、確かに少しは合点がいく気がする。元々は、ジャメルと同じように、この島の地下で一緒に生活をしていた同朋なのだ。そして、頭の姿形は全て固有のものであったとしても、この地中では同じ黒い根を共有している、見方によれば同じ一つの植物なのだ。ただ単純に、お互いを喰い、傷付け合っている訳ではない。それでも、取り込まれる側の頭に苦痛が伴っているということは、残された表情を見れば明らかなのだが。

 その後も、一度夜になると、地中から掘り起こされた頭達の悲痛な声が聞こえた。その声の数は次第に増えてゆき、ジャメルは明け方になってその声が止むまで、眠ることの出来ない夜を過ごした。ジャメルの不安は、やはり平地で確保している食糧や水を、今後手に入れることが出来無くなってしまうのではないかという点にあった。他の植物に取り込まれた後も、同じように実をつけたり、水を内部に蓄えることが出来るとは限らない。その不安の為、毎日平地を訪れると、最初に水の流れている木や、実をつけている植物のところを訪れた。

 それらの内で、初めに犠牲になったのはまるで囚人の足かせのように、地面に転がっている瓜のような植物だった。赤と黒がストライプ状に入り混じっているそれは、隣りに生えている、非常に固くて大きい球形の殻のようなものに、頭ごと掘り起こされ呑みこまれていた。耳を当てると、閉じられた殻の中では何かが溶けてゆくような、シューシューという音が聞こえた。

平地では、融合が進むにつれて、中身を吸い取られた頭の残骸が増えた。どれもが、苦しそうな表情を浮かべている。それらの他の植物の犠牲となった顔の皮を見ていると、ジャメルはかつて自分が従事していた仕事のことを思い出した。顔を作っていた時、それらの行く末がこのようなものであるとは、全く予想していなかった。 

 融合が進むにつれて、ジャメルを安心させたこともあった。それは、ほとんどの場合において、植物は融合された後も、それ以前の特色を維持するということだった。呑みこまれた瓜のような植物も、数日後には新しく母体となった殻の脇に転がっているという状態だった。試しに、それを持ちかえって食べてみたが、味にも全く変わりが無かった。

 水の流れている木は、逆に他の植物を搾取した。それまで、ほとんど葉の生えていなかったその木には、融合された植物のものと思われる様々な種類の葉が、枝では無く幹等から無秩序に生えた。それだけでなく、その巨体を活かして周りに埋まっているあらゆる頭を掘り起こし、搾取したらしく、枝からはそれまで生えていなかった棘が生え始めた。そのせいで、水を飲む為には一度棘を取り除く必要が出てきたので、それまでよりも水を飲むのが大変になった。

 平地は、如何にその姿を変えようとも、ジャメルを生かそうとするその姿勢には変わりがないようだった。沢山の頭が掘り起こされ、植物の数が減ってからも、ジャメルは中へ入ると意識を支配されているような不思議な感覚にとらわれ、食糧にありつくことも出来た。

 融合が進むにつれて、明らかに奇形の植物が増えた。その結果、明らかに獰猛になっている木もあり、まるで八つ当たりをするように、飛んで来る鳥を素早くとらえては、葉の中に閉じ込め、絞め殺したりもしていた。羽をむしられた小鳥が、しわがれた顔の皮の上を歩いていることもあり、ジャメルの心も痛んだが、どうすることも出来なかった。しかしそのような木でさえ、ジャメルに対してはまるで王に逆らうことの出来ない兵士のように、ただ頭をうなだれさせては、黙りこんでしまう。

 ある時、平地が鮮血の色に染まった。それは、血のように赤い樹液を有している、あの細くて白い木が、他の木に搾取された時だった。隣りの木のまるで刃物のように鋭い葉が、その表皮を切りつけるのと同時に、赤い樹液が大地に飛び散ったのだ。その木は、融合を繰り返すうちに、考えられない程に鋭いその葉と、鞭のような枝のしなやかさを手に入れたのだろう。その根元には、それを証明するように、それまでに搾取してきた頭の、皺だらけになった皮が何枚も落ちていて、地面には掘り起こされたあとが沢山あった。その顔の内の一つはマルシであった。

 やがて、融合は昼夜を問わず行われるようになった。まるで植物達の欲望が、堰を切って溢れ出したかのように、島は常に呻き声に満たされることとなった。植物は、地表に出ている部分をお互いに引っ張り合い、力の弱い方がやがて負けて埋もれている頭が引き抜かれた。相手が大きな木だった場合は、土を掘り起こして、地中の頭に直接吸いつくという植物もあった。しかし結局、小さな草が、大きな木の体を手に入れるということになったので、遠くから見れば体の大きい方が、周りにある小さな他の植物を取りこんでいるという風にしか見えなかった。又、どのような植物であっても、地中の頭を見れば、同じような大きさで、黒い根から養分を与えられて成長してきたという点では同じだった。埋められている頭には、自分の頭から生えた芽がどのような姿に成長しているのか、見ることが出来なかった。

 そうして、平地には大きな木を中心とした、その周辺に生えていた植物の集合体が数ヶ所出来上がることとなった。それぞれが離れているので、お互いに手を伸ばし合い、争い合うという心配も無い。ジャメルは、日毎に別々の集合体へ、手押し車を押しながら赴き、食糧や水を確保して、それまでと変わらないように生きのびていた。手押し車の車輪によって掘り起こされる地中には、相変わらず黒い根が張りめぐらされていた。しかしある時、それら集合体にも変化があらわれた。全く、何の前触れも無く、集合体の内の一つが急速に枯れ、集合体の中にある植物達がお互いに絡まり、喰らい合うようにして、倒れてしまったのだ。その時、ジャメルは他の集合体から蜜のように甘い樹液を搾取している最中だった。突然、地響きと共に倒れたその集合体にかけより、覗きこむと、三角形の葉と、楕円形の葉がお互いを包み込もうとして争っている最中だった。大木の根と同化した頭は既に地表に出ていたが、それでもそれぞれの植物は、自分の命を維持しようとして、必死になっているらしい。間もなく、自分達にも死期が訪れるということを知らないのだ。

 その倒れた集合体の頭からは、既に黒い根が完全に外れていた。全ての根は倒れる時の重みで外れたというのでは無く、むしろ丁寧にまるでネジを一本一本外されたかのように外れていた。そしてこれまで見てきた顔達とは違い、まるで生を全うし、申し残すことが無いというような穏やかな表情を、その顔はしていた。倒れた後も、暫くの間はうごめいていたそれぞれの植物の端も、やがて動きを止めると同時に、その集合体全体が急速に乾燥し、枯れた葉はひび割れた平地の上へと舞い落ちていった。そして、落ち着いた表情の顔も根と同様に枯れ、しぼんで行き、その表情もやがて根の皺と同化し、区別がつかなくなった。倒れた時に出来た、土の盛り上がりだけを残し、集合体の残骸はやがてもろくもバラバラになり、風に運ばれて行った。その穴を覗きこむと、地中では何事も無かったかのように、根が張りめぐらされたままだった。

 そして、集合体はその一つを皮切りに、次々に倒れていった。やはり、どの集合体についている顔も、まるで全ての感情から解放されたかのような穏やかな表情をしていて、倒れてしばらくすると、崩れ去っていった。何が原因なのかは分からなかった。疫病の一種なのかとも思ったが、どの集合体も倒れるその時までは間違え無く生命力に富んだ発色をしていて、果実も多く実らせていた。そしてそれと同時に、鋭い棘や、不気味な瞳の形をしたツボミもついたままだった。正に、生を謳歌している最中という姿だ。それが、突然異空間からやって来た流れ弾に当たり、倒れてしまったかのように、あっけなく崩壊してしまったのだ。

 ジャメルは、次々に倒れてゆく集合体の間を彷徨い歩いた。そして、残された食糧を得る為に必死に、手押し車を運んだ。そうしている内に、ジャメルは自分が種を埋めたその場所に偶然通りかかったのだった。場所を忘れないようにと立てておいた流木は、時が過ぎるなかで、まるで何者かに少しずつかじられたかのように短く、細くなっていた。遠くからでは目につくはずも無い。この棒の下に、根の大元があるはずなのだ。ジャメルは、種を掘り出そうと考えた。するとその時、ジャメルの動きを押しとどめるものがあった。

 棒に沿うようにして、非常に小さい、小指程度の大きさではあったが、新しい植物の芽らしいものが生えていたのだ。

 その小さな芽は、どういう訳か、この島にかつて存在したどのようなものよりも無力であると同時に、推し量ることの出来ない強い力を有しており、ジャメルを含めた、自分以外の全ての存在を威嚇しているように見えた。その脇に差し込まれていた棒は、非常に無力な護衛のようでもある。

 ジャメルは、ゆっくり棒を抜いた。芽は、微動だにしなかった。その芽の存在は、ジャメルにまだ見ぬ現実を見せているようだった。もしくは、普段は視界から隠れている、非現実的な何かだ。自分の頭から取り出されたその種が、地上に芽を出すという事は無いとジャメルは思いこんでいたのだ。根だけが、その全てであると。ジャメルは、まるで頭の裏側に降積もった、決して溶けない雪の層を一枚一枚めくろうとするように、丁寧に芽の周りの土を掘り起こしていった。地面は、あまり抵抗することなく、掘り起こされていった。そうしている最中にも、遠くからは植物の集合体が倒れる音が聞こえた。雲一つ無い空だが、それでも何か薄い膜で覆われているかのように太陽の光はぼやけて、島全体に降り注がれていた。

 芽の下に、ジャメルが埋めた種は無かった。芽は、黒い板のようなものから生えていた。ジャメルは、それが一体何なのかと、周囲を掘り起こしていった。板のように見えたものは、少しずつ曲がっていて、地中へ入り込んでいた。それは、どうやら肥大化した、あの黒い種のようだった。確実な証拠があった訳ではないが、少なくともそこはかつてジャメルが種を植えた場所であり、その種から根が生えていた。

 ジャメルは、そこから根が出ているのかを確かめようとした。しかし、それは想像以上に大きいらしく、数十センチ下へ掘っても底には辿り着かなかった。その時分かった唯一の事実というのは、その芽がこの平地で唯一、頭以外のものから育っているということだ。

 ジャメルがその芽を発見した日から、集合体が倒れるスピードは一段と速まった。そして、植物が倒れる度、芽は成長した。ジャメルは、自分の死が近づいているという事を分かってはいても、その芽が成長する姿を見守りたいという一心から、食糧の採取を続けた。まるで、自分自身の体も、倒れてゆく植物達と同じ様に、衰弱していっているような感じがした。いつの間にか、自分の体を見ると、肌は張りを失くし、肋骨が浮かび上がる程に痩せている。 

 芽は、ジャメルのすね程の高さまで成長すると、それ以上育つことは無かった。その芽が成長を止めた後も、平地では植物が倒れ続けていた。どうやら、それほど長く生きながらえることも出来ないらしい。

 やがて、その時はやって来た。平地に生えていた集合体は全て倒れ、枯れた。残ったのは、やはり巨大な地中の物体から直接生えている、その芽だけだった。岩場に貯蔵されている食料も、もう少ない。ジャメルは、ほとんど何も無い、丘を歩いた。平地と、かつて林があった場所は土地の色がまだ僅かに違っていたため、見分けることは出来た。集合体が倒れた時に掘り起こされた土は、まだそのままの状態で残っている。ジャメルは、自分が埋めて、そして枯れていった頭達のことをぼんやりと思いだした。その時、この島でただ一人歩いている自分自身のことを思うと、一体自分が過去にしたことにどのような意味があったのだろうかと、惨めな気持ちになったりもした。しかし、そういった気持ちの中に完全に沈み込んでしまうということも無かった。成長することを止めた、この島で唯一生き残っているその芽を見ていると、不思議とこれから自分が訪れようとしている未知の世界に対する恐怖や警戒心は消えていった。

 掘り起こされて、露呈している地中を見ると、どの場所でも根は張り巡らされたままだった。

芽が何のために存在しているのか、ということが分かったのは、ジャメルがついに腰を降ろし、ジッとその芽と、周辺の根を眺めている時だった。突然、それまで地中に埋まっていたその物体が、メキメキと、激しい音をたてて地上へとせり上がって来たのだ。

 ジャメルは、驚きのあまりのけぞり、それが姿を現すのを待った。やがて黒く、細長い楕円形をしたものが、地上に現れた。ジャメルの背丈よりも、大きいが、それでもまだ埋もれている部分がある。その物体の表面は、堅く、ゴツゴツとしている。やはりあの種と、同じ質感だ。ジャメルはその周りをぐるりと一周すると、裏側には丁度ジャメルが入ることの出来そうな空洞が空いていた。中は真っ暗で、何も見えない。その時、ジャメルの体中の皮膚が急激に堅くなり、乾燥し始めた。まるで、その空洞に体中の水分を吸い取られているかのような感じだ。

 急激に訪れた乾き。その空間の奥、ジャメルの目に、一筋の水の流れが映った。ジャメルは、空間に近づき、頭を中に入れた。そして、そのまま自分で自分をこの世界から押し出したのか、それとも後方に何者かが存在していたのかは分からないが、その空間へ落ちて行った。

 そこは、それほど深い場所では無かった。気付くと、上方に自分が落ちて来た穴が見えた。この世への入口だ。しかしそこに入った途端、ジャメルはその暗闇に完全に同化してしまったらしい。自分の体を識別することも出来ないようになっていた。そしてそれと同時に、自分の手足が、地中に広がっている黒い根になった。

 ここが、種の中であることに間違えは無いらしい。いつの間にか、肥大化したこの種の中に、ジャメルは落ちたのだった。種は、完全にジャメルを呑み込むと、ズルズルと音をたてて、まるで獲物を得たヘビのように、再び地中へと潜り込んで行った。

 こうして、ジャメルはようやく発芽することが出来た。


                            了


 

 

 

 



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種無し人間の末路 @mebari

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