ハイフンな彼女

久保ちはろ

第1話 ハイフンな彼女


                Episode 113

               Revenge of the Dioxins

  

              ダイオキシン類

            対策特別措置法によって

           一時は勢力を弱めたと思われた 

          ダイオキシン類はまだ息をひそめて

            環境中に広く存在しており、我々人類

          の生命と健康を脅かす力を密かに土壌で、

          水中で着々と蓄積させているのであった……。

 


「おい宇河うがわ、なんだよこれ。スターウォーズのオープニングのパクリじゃねーか。こんなんで遊んでねーで、早く新卒セミナーの案内状作れ」

 降って来た声に首をひねると、いつの間に来たのか上司である松田が後ろから宇河のラップトップを覗き、呆れ声を出した。

「うわ、課長もう飯行って来たんですか。早いですね……あ、スターウォーズってわかりますか。ていうかこれ、立派な企画書の序章ですけど。うちのダイオキシン対策薬品の売り込み企画の。こんなん出されたら誰でも『おおっ』って思うじゃないですか。どんだけ地球の危機なんだって。それで、新規も取引先も

、うちの商品買わなきゃ、って気になるはずですよ」

「な、わけねえだろ。否決」

「きゃー!」

 脇から伸びた茶色いスーツの腕がコマンドキーを巧みに操り、あっというまに打ち込んだ物を消してしまった。

「大体人事のお前がなんで営業の仕事してるんだ?」

「えー、羽柴はしばに頼まれたんで。おれ、文学部卒じゃないですか、『経済畑のおれよりおまえのほうが文才がある』なんて言われちゃったら」

「アホか。そうやっておまえはすぐに乗せられる。ウチで一、二を争うイケメンズなら普通仲悪いだろう。それを同期だからってイチャイチャ、人の仕事まで請け負いやがって。それより早く案内状。去年のコピペして日にちだけ変えておきゃいいんだから」

「それ、おれみたいな入社五年目古株じゃなくて、相田にやらせてくださいよ」

「相田は昨日からバックアップ研修で名古屋だよ」

「あ、そうだった」

「人事が自分の課のスケジュール管理できなくてどうする、あ、昼休み終わったら社会保険センターに行ってこいよ」

「あ、はい」

 湯のみ片手に喫煙コーナーへ向かう四十代の、やや疲れたスーツの背中を見送って宇河豊うがわ ゆたかはデスクの引き出しから何冊かの年金手帳を取り出した。昼休みなら空いているはずだ。帰りにコンビニで弁当でも買ってくればいい。

 豊は椅子に掛けていたスーツのジャケットを羽織り、ぱたんとラップトップを閉じる。

「行ってきます」

 喫煙所から微かに漏れるタバコの匂いの向こうに声をかけると「おう」と短い答えが返って来た。


 穏やかな秋晴れだ。つい先週までの茹だるような空気は何だったのかと思う。オフィスに一日中座っていれば、冷房が暖房に変わったことで季節の移ろいを感じる月日だ。

 日差しは勢いを和らげ、オフィス街の隙間にセピア色に差し込んでいた。

 ついこの間、新人研修が終わったと思ったらもう来年の新卒採用準備か。それが年々早くなっているようで、一体今は何年度の準備をしているのか混乱さえする。自分も研修を受ける側にいたのが、いつのまにか新人の前に立つようになった。早いものだ。

「おう、ウガ」

 正面から歩いてくる男が声をかける。当然、声をかけられる前から男の長身は嫌でも目に入っている。脇を通るオフィスレディが露骨に見えないよう気遣いながらヤツの顔を煽っていた。

 同期の羽柴喬はしば きょう。メガネの奥の目を人懐っこそうに細めているが、不適な笑いにしか見えない。二足の革靴の光るつま先が向き合う。

「企画書、出来た?」

「おまえ、ハメたな」

 喬の流し目を受ける、同じ高さの目。

「おれは男にハメる趣味は無いが」

「めっちゃ心掴む冒頭だったが、課長に消された」

「自己満足だったか……」

「何か言ったか」

「おまえ、最近振られたんだってな」

 空腹の胃に、いきなりジャブを打ち込まれた不快さを感じた。

 相田だな……。ファンデを塗っていても薄くそばかすが見える後輩特有の、その場をごまかすような笑い顔が浮かんだ。コンビニで奢らされた、期間限定生チョコは口止め料じゃなかったのか。

「結婚を打診、というか直談判された」

「まあ、年上なら妥当な時期だろ」

「でもさ……」

「宇河さん」

 宇河が言いかけると、重なるようにソフトな声が二人の間に割り込んだ。

 道に連なる等間隔の花壇の脇に、自社うちの制服を着た若い女が立っていた。彼女は隣にいた同僚に「先に行ってて」と言うように軽く頷くと、数歩近寄って豊の前に立った。

「あ……」

 短く口の中で声を出したのは、喬の方だった。豊は同僚に訝しげな視線を走らせたが、同僚は気を遣ったのか「後でな」と豊を見もしないで行ってしまった。仕方なく豊は女子社員を見下ろす。どこの課の子だったか。そんなことを松田に言えば「人事が千人の社員の顔ぐらい覚えなくてどうする」と一喝するだろう。

 たっぷりとした前髪が大きな瞳の上で切りそろえられている。ショートボブに丸顔。だが顎はきゅっと尖っていて野暮ったい風ではない。つい「どこの子、お嬢さん」と思ってしまうくらい全体的にあどけない雰囲気だ。

「えーと?」

「宇河さん、つなぎでいいんで、付き合ってください」

 は? つなぎ? 付き合う?

「どこに?」

 自社の人間で、さらに年下だと思うと警戒も緩み、名も知らない相手に軽く返していた。

 女子社員は困ったように眉尻を下げた。ぽってりとした下唇が何かを言おうと開きかけたが、言葉は出てこない。代わりに忙しい様子でベストの胸からボールペンを出し、続いてサーモンピンクのスカートのポケットから出したメモへ、数字を連ねた。

「これ、私の携帯の番号です。ほんと、つなぎでいいんで、気が向いたら電話でもメールでもください」

 差し出されたメモの切れ端を自然に指で挟んでいた。メモから顔を上げると、一瞬女と目が合う。ほっとしたように相手の口元が綻んでいた。

「じゃあ」

 ぺこりとお辞儀をして身を翻すと、宇河が止める間もなく小走りで社に向かってしまった。

「なんだ、あれ……」

 腑に落ちないものを感じながら、いつまでもそこに立ち止まっているわけにも行かず、メモを上着のポケットに突っ込み、目的の場所へ向かって歩き出した。

 ナンパか。

 その響きは胸の奥をくすぐる。思わず頬が緩む。それを撫でる風を心地よく感じる。

 自分はモテない方ではない。いや、むしろモテる方だ。

 それは気分が乗らないままに引っ張りだされたコンパの結果でも毎回、自他ともに認められている。バレンタインデーでも、社内で配られる義理チョコに、自分のだけ包装が違うということは多々ある。

 ワックスで額を斜めに流した前髪をラフに梳いた。信号を渡ってくる二人連れの女子学生の視線が自分を舐めるのがわかる。

 それにしても、つなぎって。

 脳裏に残る女子社員の数少ないコマを再生する。

 なんか、リスみたいな、ウサギみたいなそんな感じだったな。でも、どこの課だ……。歩きながら自然と首が傾くがやはり名前は出てこなかった。

 とにかく、噂は社内全体に広まっているらしい。相田のヤツ、帰って来たらどんな制裁を加えてやろうか。

 デスクの引き出しにたまっている数々の雑用を思い出しながら、豊は先を急いだ。


 ***


「おまえ、人事辞めろよ」

 喬はそう言って二杯目のビールをコップに注いだ。

「そういう喬は知ってるのかよ、あの子」

 終業後、喬と本屋に寄ったあと居酒屋のカウンターに並んで座っていた。平日で、酒を飲むには早い時間だ。

 他に学生らしい二、三組の客がテーブルにいるだけだった。 

「半年前にISO監査室が出来ただろう。そのとき書類の整理やらで大騒ぎしたじゃないか。なにしろ本社含め全国の支店分だ。社員も普段の仕事にそんなことまでやっている暇はない。だから人事が派遣、頼んだんだろ。おまえ、ホントに大丈夫かよ。おれが上司なら速攻クビにしてるけどな」

「半年前……って、あ、おれ盲腸で入院したじゃんか。一週間。そんときだな……確かに退院してから林オールドミスにいくつか採用者の履歴書コピーをもらった気がする。でも支店かと思った」

 監査室は四階だ。三階の人事課とはあまり縁がないから同じ会社に勤めていても顔を合わせないことは十分あり得る。

「オールドミスとか、このジェンダーフリーの時代にどうかと思うけど、まあ、お前はその書類を確認もせずにファイルしたと。まあいい。それで監査室は落ち着いたが、児玉こだまれんは可愛いし、よく気も利くし、仕事もできるし、O短大卒でMISIAが好きで、いい匂いがするからそのまま契約継続している」

「はあ!? なんでおまえがそこまで知ってるんだよ」

「間からすみません、お刺身三種盛り合わせと、ちくわチーズ磯辺揚げ、お待たせしました」

 居酒屋の黒いTシャツを着た学生バイトが空のビンを下げて行く。

 喬はそれには答えずに、箸を割りながら言った。

「今度はお前の番。児玉になんて言われたの」

「……つなぎでいいから付き合えって。携帯の番号渡された」

 喬の箸の先がわさびの黄緑色の山に沈んだまま一瞬止まった。

「相変わらず、モテますねー」

「いやいやいや、おまえこそ、この間の合コンで女子二人と消えたって聞いたぞ。二人ってなんだよ、二人って。どこに行ったんだよ」

「カラオケ。それで? オッケーしたの」

「名前も知らない女だぞ。気味悪いだろ。ていうかおれ、傷心だし」

 豊は喉を鳴らして一気にビールを飲んだ。飲んでから喉が渇いていたのに気がついた。喬は空になった同僚のグラスを満たした。

「おまえ、目つけてたの? もしかして。その児玉れんに。じゃあ、お前が付き合えばいいじゃん。番号やろうか」

 上着のポケットに手を入れるとすぐに固い紙の感触が指先に触れたが、それを押し込むようにし

「あれ、どこにいったっけ」

 と答え、取り繕うようにつまみに箸を付けた。

「つなぎか……。ハイフンだな」

「はいふん? はにそれ」

 まだ熱いちくわを豊は口の中で転がした。

「いや、まずお前が仲良くなっとけ。おれの出番はそれからだ。ああいうタイプはいきなり迫ったらアウトだ」 

「お前の黒さ、ダースベーダー並みだな」

「悪いけど、おれ、スターウォーズ見てないから」

 喬が小さく頭を振ると緩やかな額を覆う長めの前髪が軽く揺れた。

「そうなん? 見ておけよ」

 あの企画書渡さなくてよかったな。豊は胸の中でそうひとりごちた。そして、たぶん、ハイフンちゃんも渡すことはないだろう、とも。



      

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