何億光年かけても君に届くなら

星野よる

星を見つけた日

 赤、橙、黄、緑。いくつもの風船が空に、高く澄み渡る青に吸い込まれていく。けたたましくなる汽笛、楽しそうにはしゃぐ人々の声、石畳みの坂道を駆け下っていく子供たち。


 世界で二番目の大きさを誇るポール海に浮かぶ、西ユーサカレア大陸の端に、サイライト自治王国の小さな港町であるノクターンは位置していた。波の打ち寄せる港の近くには町随一の市場があり、続く広場や街並みも多くの人々であふれている。三年に一度この町を訪れる、大商人隊を歓迎する市祭りが開かれているのだ。彼らは世界中を旅し、そこで得たすべてを商品としているといわれている。


 いつも通り人気のない、中心街から離れた牧場や学校、町の隅の丘のふもとまでを、一気に涼やかな風が吹き抜ける。カラリと気持ちの良い秋晴れも相俟あいまって、まるで町全体がうきうきと心を弾ませているようだった。


 こぢんまりとした店々が並ぶ、色とりどりに飾り付けられた商店街も、町をいろどる賑わいに一役買っていた。カランとさわやかな音を立てては、店の扉が開いたり閉じたりする。出入りしている客の中には、この町に訪れている商人らの姿も多かった。誰もが心躍らせた表情で、石畳を叩く足取りも軽やかに。


 コロ、と。少しだけ重たそうにゆっくりとひらいた扉――店並みのなかのひとつ、看板には〝VATLLAヴァトーラ〟と記されていて、小窓から見える店内には、鮮やかな花々や草木が陳列してある――から、おそるおそる、といったふうに、少し緊張した面持ちの、齢は十歳程度で、肩に付かない長さの髪を耳の下で二つにった少女が顔を出した。町の賑わいが少女の瞳に映ってきらめく。頬を桃色に染めた少女は、石畳に足をおろすかを迷っているようだった。ここを一歩、踏み出すだけで、夢の世界の住人になれる、そんな気がしていた。


「ステラ?」


 店の奥から若い女性の声がする。呼ばれた少女――ステラ・リンは扉を開いたそのまま、振り返る。


「お母さん」

「どうしたの、いかないの?」

「ううん。でも……」

「行きたがってたじゃない」

「……うん」


 だけど、とステラは続けようとして、やめた。お母さんは? 続けてそう返すことは、店の奥にいる店主を困らせてしまうことになる。


「セイヤやレナとは約束してないの?」

「してない」


 少し素っ気無いようになってしまったかもしれない。そう思ったけれどそれ以上のことは何も言わないで、ステラはまたけたドアの外を見る。ちょうど太陽が雲に隠されて、ついさっきまでのきらめきはないように思えた。見つめた石畳に映った陰りがゆらゆらと揺れている。


 そのまま揺れる影を眺めていたら、急にぬっとあらわれた別の陰にゆらめきが隠された。はじかれたように顔を上げるとそこには、ステラと同じか少し上くらいの年に見える少年と、その父親と思しき男性が立っていた。


「ねえ、なにしてんの?」


 少年は白い歯を見せて笑う。この町の者ではないことは一目でわかった。おそらく、商人隊の父子おやこなのだろう。くすんだ金色の髪の毛や、淡い藍色の瞳を中心に形作られている端正な顔立ちがよく似ている。


「え、えっと」


 答えに詰まっていると、奥からステラの母が顔を覗かせた。


「まあ! いらっしゃいませ」

「この町にしかない花、なんかはおいておられますかな」


 身なりのいい商人がそう言うと、彼女は「どうぞ、中へ」と客人を案内する。


「ステラ、お祭りへ行っておいで」


 ステラがうなずくと、商人も息子に、「お前もお嬢さんと一緒に行くか」と問うた。お嬢さん、その呼称はなんだか少しむず痒い。ステラが面映ゆさに肩をすくめたのを知りもせず、少年もまた元気良くうなずいて、「行こ!」と彼女の手を取った。


「おれ、コウっていうの、おまえは?」

「わ、わたし、ステラ」

「そっか、ステラ」


 さきほどと同じ笑顔を浮かべて、コウと名乗った少年はステラの名前を呼んだ。


「おれ、この町に来たの初めてなんだ。だから案内してよ!」


 



 ふたりは市祭りの中心である町の広場に訪れた。至るところから香ばしい匂いや甘い匂いが漂ってくる。一番開ひらけている場所は、ダンスや歌なんかのステージになっているようだ。


「わぁ……」


 物心が付いてから、ステラがこの市祭りに足を運んだのは初めてだった。生まれてはじめてにも近い賑わいを見て、思わず感嘆の声を漏らす。目に飛び込んでくるすべての色が眩しくて、だけどもっと見ていたくて、目を細めそうになるのをグッとこらえた。


「ステラ、あっち!」


 街のきらめきに負けないくらいに目を輝かせたコウと視線が合う。彼が指さすのは、ひときわ賑わう出店のあつまり。ノクターンの郷土料理が並ぶ屋台は商人の息子であるコウにとっても物珍しいものであるようだ。


「すっげー……。美味そう……」

「坊ちゃん、嬢ちゃん。寄っていかないかい」


 きょろきょろとあたりを見回す二人に声をかけたのは、丸焼きにした鶏肉を売り物にしている屋台の店主だった。熱気に蒸された屋台の周りは独特の香りと煙で満ちていた。煙を扇ぐためのうちわで、パタパタと自らを扇いでいるがっしりとした体格の店主を、ステラは見たことがあった。母の店〝VATLLA《ヴァトーラ》〟の三つ隣の酒屋のマスターであるのだと気づいたとき、彼もステラを思い出したようだ。


「おお、あんた、ヴァトーラの娘さんじゃねえか」

「こ、こんにちは」

「そっちの坊ちゃんは……商人隊のお人かい? 嬢ちゃん、やるなあ」


 ハハハと笑う店主をステラはむっとしてにらみつける。幼いながらも、店主のからかうような視線が分からないほど子供ではなかった。ステラの中で嫌な感情が渦巻いていく。やるなあって、なに。コウとわたしは今日はじめて会ったばかりなのに。店主の軽口を冗談と受け取り切れなかったステラは俯いてしまう。しかし一方コウは、そんなステラの様子に気づかないほどに、店先に並べてある鶏肉と、屋台の奥から漂うスパイスの匂いとに興味津々なようだった。


「おじさんそれ、なに?」


 はしゃいでいるコウから目を逸らして、苦笑いを浮かべた店主はステラを一瞥した。嬢ちゃん、悪かったよ。心の中で詫びる。素直すぎる思春期手前の少女に軽率にかけるべき言葉ではなかった。


「……グラツィさ。細かく切った野菜を詰めた鶏を蒸したあと、十種類のスパイスで味を付けて焼くんだ。この町の郷土料理だよ」


 嗅ごうとせずとも漂う、焼けたスパイスの香ばしさに、コウの鼻が小刻みに動く。焦げかけた鶏肉の皮から少しずつ滴る油が、火の中に落ちては刹那その赤を燃え上がらせていた。


「美味そう……」

「坊ちゃん、食べるかい?」


 にやりと笑った店主に、コウは目を輝かせる。嬢ちゃんは? そう問われたステラはむすっとしたまま視線を声の主に投げた。つぎに〝わたしを食べて!〟と言わんばかりのこんがりとしたきつね色のかたまりに目をやる。美味しそう、だけど。わたしは怒っているのだ――それはもはや、半分は意地だったけれど。


「要らな――」


 意を決して零されたステラの声が、最後まで言葉になることはなかった。彼女を遮ったのは、ぐるるるる、と控えめな、だけどはっきりとした音。


「あはは。ステラ、お腹鳴った!」

「ち、ちがっ」


 かっと顔が熱くなる。もう、なんで今なの、わたしのお腹のばか。心の中で責めるも、どうしようもない。恥ずかしさにステラはまたつま先を見つめる。


「嬢ちゃん、腹減ってんじゃねえか、まあもういい時間だもんなあ」


 店主もまた笑い、ほら、と二人分の鶏肉を差し出した。「やった! ありがと、おじさん」嬉しそうなコウは受け取るなり思い切り頬張った。


「美味い!」

「おっ、嬉しいねえ」


 かぶりついて引き裂かれた肉の間から、透き通った玉ねぎと人参が零れ落ちる。「坊ちゃん、そんなにがっつくときれいな服が汚れちまうよ」たしなめる店主は、にこにこと嬉しそうに彼を見ていた。


「さ、嬢ちゃんも」


 言われてステラは、しぶしぶ、といった表情を造っているつもりで、唇を真一文字に結びそれを受け取った。


「お詫びってことで、お代はいらねえからさ」


 トーンを落として耳元でささやかれた言葉にステラは思わず店主の顔をまじまじと見る。店主はにやりと笑って思い切り両目を閉じて、開いた。なに今の、もしかして。


「ぷっ」


思い当たった行為に、ステラはつい吹き出してしまった。くくく、声を抑えるつもりがこらえきれない。あはは、と高い声が出た。


「なんだよ嬢ちゃん、おじさんの顔見て笑うなんて」

「だって、おじさんウインク、下手」


 なんだと! 言い返す店主に、なになに、と二人のやりとりを見ていたコウが半身で乗り出してきた。


「あ、やっと笑った」


 コウがステラの目を覗き込む。真正面からピシャリと合った視線に戸惑う。言葉の意味を図りかねていると彼はかわいらしい八重歯を光らせた。


「そっちのほうがいいよ! 全然笑わねーから楽しくないのかと思ってた」

「そ、そんなこと」


 緊張してただけで、しどろもどろに言いかけたステラの言葉を彼はもう聞いていなかった。


「それ、食べないの? おれ貰ってあげようか?」


 どうやら彼はすでに自分の分を食べ終えたらしかった。味を占めたのだろう、ステラが手に持っているグラツィをじっと見つめている。


「だ、だめだよ! これはステラのだよ」

「えー」


 まあまあ、となだめたのは屋台の店主。


「気に入ってくれてうれしいよ、坊ちゃん」

「うん、おじさん。おれ、また来るからね!」


 二人はしっかりと握手を交わした。それを横目にステラはその小さな口を精一杯開いて肉にかじりつく。コウは向き直って、じゃあ行こ、とステラの手を引く。ステラは店主を仰いだ。


「おじさん、ありがとう」


 これ、おいしい! ステラの声に、額に汗を浮かべた店主はにっこりと笑った。





「あれ、ステラ?」


 ステラの耳に聞きなれた声に呼び止められたのは、彼女が自分の分のグラツィをもうすっかり食べ終わってしばらく経ってからだった。コウはあの後三品ほどぺろりとたいらげている。時間にして午後四時ごろ。


 振り返ると、そこには二人の少年少女の姿があった。歳恰好はステラやコウと同じくらいだ。


「セイヤ、レナ」


 ステラが彼らの名前を口にすると、セイヤと呼ばれた、ほぼ白に近いような金髪の少年が微笑んだ。優しそうなたれ目の端にしわが寄る。


「来てたんだ、祭り」

「あ、うん」

「なんだ、ステラのこと誘えばよかったね。お母さんと行く、って言ってたから今日は二人で来たんだよ」


 そう言ったのは、綺麗な黒髪を左耳の下で一つの三つ編みにしている色白の少女――レナだ。


「お母さんはお店、忙しそうだったから」

「やっぱりそうだよね、お店にも商人さまが来るんでしょ」


 黒目がちの大きな瞳をぱちぱちと二回ほどまばたかせ、レナの言葉に頷くステラの肩を、コウがちょんちょんとつついた。


「ねえ、だれ?」

「わたしの友達なの。こっちがセイヤで、こっちがレナだよ」


 紹介された二人はコウに笑いかけた。コウはふうん、と鼻を鳴らす。


「おれはコウ、商人の息子!」

「商人隊の……!」


 二人はすごい、と息巻いて、物珍しい〝商人の息子〟に食いついた。


「ね、ね、これまでどんなところに行ったの?」

「この町は初めてなの? どう? 楽しいでしょ?」

「まってまって、急には答えらんないよ。ひとつずつにしてよ」


 身を乗り出すようにした二人の勢いに戸惑って、コウは苦笑する。けれど、すぐに「商人隊の旅についていくことにしたのは、おれが八歳の時なんだ。この町ははじめてだけどね……」と、好奇心にあふれた目に向き合って、彼のこれまで見てきた景色を、してきた経験を語り始めた。


 ちっぽけな港町で暮らしていたら、決して出会わないような、小さな世界で生きてきた彼ら彼女らには想像もつかないような、まるで夢みたいな世界の話。港に打ち寄せる波に乗った船はどこからやってくるのか、どこへ出てゆくのか。海の向こうにまだ世界が広がっていることを知らない少年少女たちには、聞くことすべてが新鮮だった。驚きの、期待の、羨望の声をあげながら、彼の見てきた世界を頭の中に思い浮かべているようだった。


 盛り上がっている三人を横目に、ステラはなんだかおもしろくないような気持ちがしていた。セイヤもレナも、内気なステラと仲良くしてくれる貴重な友人たちで、もっと幼い頃から兄妹のように三人で育ってきた気心の知れた存在である。今日はじめて会ったばかりのコウも、気さくにステラに接してくれた。そんな明るい三人が仲良くなるのに数秒もかからないのはある意味当然であるし、それぞれの友人という立場からしてみれば、喜ぶべきことなのだろう。けれどステラはなんとなく、置いて行かれたような気がしていた。


「ステラ?」


 視界にぴょこんとくすんだ金色が映り込んで、驚いて肩を震わせた。淡い藍色の瞳がステラを見つめている。


「どうかした? どこか痛い?」


 その目に心配の色を浮かべたコウはステラに問いかける。ステラは首を横に振って、コウの手を取った。


「いこ!」

「えっ、ステラ?」


 驚いて彼女を呼んだ、頓狂な声にも構わない。ステラは「セイヤ、レナ、またね!」と言い残してコウの手を引いて走り出した。





「ステラ、ステラ。どうしたの?」


 その声でやっと、ステラは我に返って足を止めた。「わっ」急なことに勢いを殺しきれず、コウはステラの身体にぶつかった。ぐらりと彼女が傾いたのに慌てて、彼はとっさに手を伸ばす。


「大丈夫?」


 離された手の代わりに、しっかりとつかまれた肩。転びそうになったことにも、ステラの肩がすっぽり収まるくらいの大きな掌にも驚いた。繋いで、引っ張っていたときには気にならなかったのに。


「う、うん。平気。ごめん」

 ステラは上がった息を整えながらしっかりと地面と辺りを確認した。ここを目指していたわけではない。むしろ、どこをどう走って来たのかすらもおぼつかないというのにそこは、祭りの中心から離れた、彼女のお気に入りの小さな丘の上だった。


「……急に引っ張ったりしてごめんね、コウ」

「ううん、気にしないで。でもちょっとびっくりした」


 急にどうしたのかと思ったよ、コウはまた笑った。よく笑う人だ、と思った。ステラは今日、この少年に出会ってから、彼の笑った顔しか見ていないことを思い返す。


「んー、どうしたのかな」


 わたしにもよく、わからないんだけど。そう言ってステラも口角を上げてみた。コウのようにきれいに、笑えているだろうか。不思議と、ある種のすがすがしさがステラの心を満たしていた。


「セイヤとレナには今度ちゃんと謝らなくっちゃ」

「いいやつらだったな、おまえの友達」


 ステラは頷いた。そして、丘の上から見渡せる町を見る。町のはずれにある小さな丘。忙しそうな街が、せわしない人々が、いつもより小さく見える場所。沈んでゆく太陽が、昇ってきた月が、瞬きはじめた星が、いつもより近く思える場所。遠い水平線の向こうが、少しだけ見えそうな場所。


「ここね、ステラの秘密の場所なんだよ」


 彼女にとって、宝物のような場所だ。幼い彼女が一番広い世界を見渡せるのがここだった。友人と喧嘩をしたあとに、母や父に叱られたあとに、何となく元気が出ないときに、決まってここにきては町を、空を、海を一人で眺めるのだ。


「へえ」


 コウはきれいだな、と言った。気づけばもう、燃えるような赤がゆらめいて、水平線に溶け込み始めていた。眩しそうに目を細めた彼の横顔が、橙色に照らされている。ステラには、その横顔はなんだかずいぶん、大人っぽく見えた。見つめていると、視線に気づいたコウと目が合う。やさしく微笑まれると急に照れくさくなって、ステラはすぐに彼から、すでに半分が水面にゆれる夕日へ視線を外した。


 心臓がやさしく音を立てている。寄せては返る波のような鼓動が、いつもより幸せそうに鳴っているのが分かった。





 翌日も、その翌日も、商人隊がまた新たな地に向けて旅立つ日まで毎日、二人は一緒に過ごした。祭りの賑わいを見尽くしたあとは、ステラはこの町の至るところにコウを連れて行った。市場や商店街だけではない。学校、広い牧場、ささやかに遊具が置かれている町の隅の小さな公園にまで。


 幸いにも、セイヤとレナは祭りの日のことについては怒るどころか、驚きはしたもののまったく気にしていない、とのことだった。改めて、コウとまたたく間に打ち解けたステラの友人たちは、彼を手厚く歓迎し、ステラとともに様々な場所を案内して歩いた。


「ねえ、ステラ」


 あの丘に連れて行ってよ。コウがそう言ったのは、商人隊が出発する日の前日の夕暮れ、二人でぼんやりと、町の広場で祭りの片づけを眺めていた時だった。セイヤとレナは、明日は見送りに行くねとコウに約束し、二人より一足先に家に帰っていた。コウの言葉にステラは頷いて、二人は歩きはじめる。広場の噴水は、夕日と町のきらめきを反射させてはのみこんで水飛沫みずしぶきをはじかせた。


 二人は足早に石畳を叩いた。コツコツと、無機質な革靴の音が、いやに寂しく響く。


「お祭り、終わっちゃったね」

「うん」


 青空高くに浮いていたはずの色とりどりの風船は、すっかり小さくしぼんで、敷き詰められた灰色の上に落ちていた。じきにゴミ拾いの人に拾い集められ、料理の容器と一緒に、まとめてビニールに詰めて捨てられるだろう。屋台の装飾や町の飾りつけも、もうほとんど取り外されている。ステラは横目にとらえたそれらから逃げ出すように、足取りをさらに早めた。


 沈黙が続く。地面が石畳から砂に切り替わると、硬い足音が和らいだ。目指す丘はもうすぐだ。


「なんだか、寂しいな」


 ぽつりと、ステラの言葉が地面に落ちた。声として耳に入ってくると、現実を認識した思考に刺激されて、目頭が少しだけ熱くなる。


「……おれ、」


 滲みそうになった熱を振り払うように小さく首を横に振って、ステラはコウを見た。コウはステラの数歩前、トン、トンッと軽やかに丘のふもとから駆け上がる。振り向いて、ステラに手を伸ばした。


「ここの町の祭りが、今までで一番楽しかったよ!」


 掴まれた手をグイッと、身体ごと引っ張られる。そこからちらり見えた夕日はまだ、水平線よりもだいぶ上にあった。


「早く、てっぺんまで行こう」


 日が沈んじゃうよ、とステラから手を放し、彼は先を急ぐ。「ま、まって」あわてて後ろを追いかけた。


「ねえ、さっきの本当?」

「さっきのって?」

「ここの、ノクターンのお祭りが一番楽しかったって」

「ああ、その話ね」


 コウは頷いて、嘘なんかつかないよ、と目元にしわを寄せる。


「ほんとに決まってるだろ。ステラのおかげだよ」

「え?」


続いた言葉に、ステラは一瞬耳を疑った。


「……わたし、の?」


 視界が開けて、一気に夕焼けに照らされる。丘の頂上に着いたのだ。まばゆい光を放つ太陽は沈みかけていたが、そのもう半身はまだ町を染めていた。


「はじめてだったんだ」


 コウは眩しそうに目を細めて、赤々とゆらめく夕日を見ていた。


「商人隊としては歓迎してもらえるし、もちろん友達だってできなかったわけじゃない。だけどこんなに、おれと仲良くしてくれたのは、ステラが初めてだったんだ。だからさみしいのは、ステラだけじゃないんだよ」


 そう言ってコウはステラを見る。うまく笑えていない、不格好にゆがんだ口元を、ステラは一番きれいだと思った。


「また来てくれる、よね?」

「もちろん」


 三年ごとに商人隊はこの町に訪れる。三年待てば、また会える。だけどそれは、子供であるステラにとっては、途方もなく長く、長く長く感じるものだった。


「また会えるよ」


 ステラに言い聞かせるようにコウは繰り返す。ステラもまた、その言葉を体に、心になじませるように噛みしめて頷いた。


「……一緒に、行けたらよかったのに」


 まだコウと一緒にいたい、ステラは自分の心がそう叫んでいるのを知っていた。その感情の名前はまだ、分からないけれど。


 コウは何も答えなかった。それでいい、と思った。彼も彼女も、その望みが今、叶うことはないことを分かっていたからだ。彼の見つめる先では、水平線で燃え尽きていく炎を、淡い紺色の空からの波が飲み込んで、包み込んでいく。


「おれ、夢があるんだ」


 彼の言葉が耳に届いたとき、ステラはひとつ、大きな空にきらめきを見つけた。一番星だ。


「夢?」


 聞き返すと、コウのその瞳がきらりと輝きを増した。


「いつか、この世の端っこを見に行くんだ」

「この世の……端っこ?」


 ステラは彼の言葉を繰り返す。彼女には、コウの瞳に、まるで満点の星空が映っているように見えた。


「世界はものすごく広いんだって、おれはまだ、ほんのちょっとしか知らないんだって父さんが言ってた。見たこともないような海の色、氷の陸に囲まれた銀色の世界、星の間で揺れる虹色のカーテン、どこまでも続いていくような深緑ふかみどりの森、太陽の沈まない夜……それだけじゃない、もっといっぱい、この世界にはおとぎ話みたいな景色も、わからないこともたくさんあるんだ。おれは、この目で全部それを見たいし、全部が知りたい。世界のすべてを、この目で見たい!」


 コウは星空だけを見据えているわけではなかった。彼の目には、どんな景色が見えているのだろうか――きゅ、と胸が痛む。ステラは、明日には旅立つ彼の、心まですぐにどこか遠くへ行ってしまうのだと思った。すぐ隣にいるというのに、手を精一杯伸ばしても、とても届かないような気がした。輝き始めた星たちに、一番星も紛れてしまっていた。


「ステラ、どうしたの?」


 呼ばれてハッとした。自分でも気が付かないうちに、コウの服の袖に手を伸ばしていたのだ。ステラの小さな手のひらは、しっかりと彼の上着の袖を掴んでいた。まだ、手が届く。月明かりに照らされるなかで、コウと目が合った。ステラは握った手のひらに力を込める。


「ステラも、一緒に連れて行って!」


 わたしもコウと一緒に世界を見たい。今じゃなくてもいい、いつか、コウと同じ景色を見たい。


「……いいよ」


 コウは一瞬驚いて、すぐに笑う。二人は小指を重ねた。


「ステラのこと、迎えに来てあげる。一緒にこの世の端っこを見に行こう!」


 空を見上げると、ヒュッと一筋、きらめきの間を光が駆けていった。

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