4.夜明けをまとって(1)

 昼食のあと皿洗いをしていると、横からリリィが猫みたいにすり寄ってきた。皿を落とさないよう一瞥すると、彼女は顔の前に手のひらほどの四角の紙片をちらつかせていた。

「なにそれ」

「なんだと思う?」

「質問に質問で返すのはよくないよ」

「クロウってときどきお母さんみたい」

 薄いシャツ越しにリリィの体温が伝わってくる。今日の肌はすこし熱っぽい。

「ねえクロウ、今夜ってなにか予定ある?」

「ないけど、どうして」

「これね、チケットなの。昨日彼からもらったの」

 彼とはスネイクのこととわかりながら、クロウは首をかしげる。

「かれ?」

「スネイクがくれた、今日のお芝居のチケット」

 リリィの声でかたちになるスネイクの名を、クロウは自分で乞うておきながら砂を噛む心地で聞く。ほかのどんな言葉を口にするときよりも、あまい香りがした。苦しさとよろこびが体の半分ずつを支配して、そのはざまで笑顔が出遅れる。

 ゆすいだ皿を片付けて、続けて夕飯の仕込みをはじめる。今夜は先ほどしめたばかりの鶏を香草焼きにする。

「行くの?」

「もちろん」

 チケットには午前零時開演と印字されていた。

「それならちゃんとアウルに言わなきゃだめだよ」

 下処理をした鶏肉にワインを振ってスパイスを手でもみこむ。ハーブをのせてオーブンへ放り込んだらあとはじっくり時間をかけて焼くだけだ。

「ねえ、マダムにはクロウから話してくれない?」

「は……?」

 クロウはすぐそばのリリィを見おろした。目があうと彼女はゆっくりと顔をほころばせる。

「やっとわたしのこと見てくれた」

 いとおしさが込みあげて苛立ちになる。クロウはどこにもやり場のない情動を持て余して眉を歪めた。

「いつだって見てるよ」

「うそ。さっきから全然こっち見てくれなかった」

 クロウがふたたび手元に視線を落とすと、リリィは身を乗り出して視界へ入ってこようとする。

「お願いクロウ、わたしいま彼女と話したくない」

 名前のことを考え直せと言われるのが嫌なのだろう。気持ちはわかるが代わりにクロウが許可をもらいにいくのは筋違いに思う。

 リリィはそんなクロウの思考を読んだように得意げに笑った。

「クロウにとっても他人事じゃないんだよ」

「どういうこと」

「ここよく見て」

 リリィはチケットの端を指さした。そこには同伴者必須とある。

「舞台なんだろ?」

「お芝居の途中で舞踏会があるんだって」

「それで? おれにとっても他人事じゃないって?」

「そう」

 リリィはまっすぐクロウを見あげた。

「今夜一緒に行ってほしいの」

 体温や眼差しから彼女の真剣さが伝わってくる。

「わたし、たくさんの人の前に立つ彼を、光を浴びている彼を見に行きたい。お願い……、ほかに頼める人がいないの」

 ほしい服や髪飾りをねだる相手はいても、一緒に他の男を見に行ってくれる客なんてどこにもいない。

 クロウもスネイクの舞台にはすこしばかり興味があった。こんな機会でもなければそうそう観に行くこともない。

「まあ、アウルの許可がおりれば」

「じゃあ……」

 リリィの顔が一気に華やぐ。クロウは弱々しく微笑んだ。

「いいよ。行くよ一緒に」

「ありがとう!」

 リリィは飛び上がるようにしてクロウに抱きついた。

「やっぱり優しい。だから好きだよ、クロウ」

 たとえそれが情愛でなく親愛であっても、クロウには至上の言葉だった。


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