3.花の名、鳥の名(3)
みずからの将来についてクロウは誰にも打ち明けていない。クロウは自然体を装ってわずかに眉をひそめた。
「なにが。なんの話」
「とぼけても無駄だよ」
ぴしゃりと言い切られて、クロウは首をすくめる。
「決め打ち?」
「どうせあんたのことだから青鷺館のためにできることを、とか考えてるんでしょうけど、わたしはね、いまだってあんたがここで働いてることを納得してるわけじゃないんだ。血縁者であるマダムを差し置いて言っていいことじゃないと思ってたから、なにも言わずにいたけども」
「これはおれの意志でやってることで、一度だってマダムに強要されたことはない」
「そんなことはわかってるよ」
「だったらなにがいけないの」
書類を持つ手に力がこもる。アウルに気遣ってもらえるのが嬉しい一方で、いまさらという言葉が頭のなかをぐるぐるとまわる。寂しさ、虚しさ、よろこび、さまざまな感情が綯い交ぜになって形を持たないまま、膨張して体から溢れてしまいそうだった。青鷺館での仕事に不満がないからこそ、どれかひとつの感情を拾い上げることはできなかった。声に出してしまうことで他の思いが死んでしまうことをおそれた。
やわらかな赤毛が頬にふれる。風に包まれるようにふわりとアウルに抱きしめられていた。
「大きくなったねえ、クロウ」
首のうしろに回った手がクロウの襟足をぽんぽんと撫でた。クロウはたまらず唇を噛んだ。幼いころから、アウルに抱きしめられると不思議と泣きたくなる。ある客がアウルからは深い森の香りがすると話していたことを思い出す。クロウは森を知らないが、絵本で読んだ森で暮らす動物たちの気持ちならわかる気がした。
川の向こうから聖堂の鐘の音と、午前十時を告げるカリヨンの演奏が届く。そろそろ女たちが起き出してくるころあいだ。食事の支度をはじめてしまわないと、あれが食べたいこれが食べたいと好き放題言われてしまう。
クロウはアウルの肩に頭を乗せて、息を吐くように微笑んだ。
「ありがとう、アウル。でも話の続きはまた今度にしよう。どちらにせよ、マダムが元気になってくれないと落ち着かないからさ」
「それもそうだね」
「これ、ごめん。ちょっと皺になっちゃった」
強く握ってしまった書類を返す。かまわないよと受け取るアウルの手から、あいだに挟まっていた小さなメモが抜け落ちた。
「アウル、落ち……」
拾い上げると、そこには二十ほどの鳥の名が並んでいた。
「ねえ、これって……」
クロウは顔をあげてアウルを見つめた。
「誰のための名前」
アウルは眉間にしわを寄せてしばらく黙りこんでいたが、クロウの視線に耐えきれずしぼりだすように言った。
「リリィだよ」
クロウはアウルの言葉を何度も頭のなかで繰り返し、たしかめて、やがて奥歯をきつく噛みしめた。
「どうして」
「あの子にはまだ帰る家があるし、前までは契約が終わったら出ていくって話してたんだけどね……、今月に入ってからだよ、急に残るって言いだして」
「まさか……」
クロウは息をのんだ。唇が、声のないまま彼の名をなぞる。いまは役者をしているという彼の、出会ったころから変わらないすこし重たげな眼差しが記憶のなかでこちらを向く。
アウルはクロウの気づきにゆっくりとうなずいた。
「スネイクだろうね。そばにいたいってんなら、それこそここに残るのは違うと思うんだけどね」
ここに残るということは娼婦を続けるということでもある。それはつまりスネイクが来ない日には他の客をとるということだ。
アウルのように鳥の名をもらって館に残るのはほんのひと握りで、多くの女は花の名のまま館を去る。ましてや男との未来のためにここに残る女なんて聞いたことがない。金のためかもしれないが、クロウにはどこかぴんと来なかった。
「契約満了はたぶん夏の終わりごろになると思うから、それまでに考え直してくれるといいんだけどね」
そうだねとやわらかく微笑んでクロウは朝食のトレーを下げた。厨房へ戻ると飲みさしのミルクティーが初夏になじんでぬるくなっていた。表面に張ったままの薄膜に指を差し入れると蜘蛛の糸のようにまとわりついて、舐めとるとミルクのざらつきだけが舌に残った。
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