2.花の名、鳥の名(2)
発酵させたパン生地をすべてオーブンにくべたころにはすっかり日も高くなり、開け放った窓からは動きはじめた街の呼吸が聞こえた。贔屓の行商から搾りたてのミルクを買い付けて遅めの朝食にする。半端に余っていたチーズを卵でくるんで、焼き上がったばかりのパンに挟む。値段に惚れて買った安物の茶葉は大雑把に掴んで、煮立てたミルクに放り込んだ。
両手にパンとカップを持って、背もたれのない、踏み台がわりの椅子を足で窓際へ押しやる。膝を片方抱えるようにして座り、熱くやわらかなパンを卵がこぼれないようにほおばっていると、香りにつられたアウルが顔をのぞかせた。
「わたしのも頼めるかい」
「もちろん。待ってて、持っていくよ」
生クリームを使ったふわふわのスクランブルエッグとすこし焦げ目がつくまで焼いたベーコンをパンに添えて、お湯をたっぷり注いだティーポットとともにトレーに載せる。砂時計をひっくり返して一階奥の部屋へ運んだ。
ほんの二週間前までマダムが使っていた部屋は、いまはアウルの荷物も持ち込まれて雑然としていた。壁際に積み重ねられた木箱を倒さないよう、トレーを持ったまま体をそっと滑らせる。机の上は書類や手紙に占められていたのでベッド脇のテーブルに朝食を置いた。
「朝まで片付けてたの?」
「まだ暗いうちには寝たよ。若いころのようには無理がきかないからね」
「あとすこしお酒を減らせばきっと元気になるんじゃない」
「そりゃあんた、わたしに死ねって話かい」
「長生きするためにね」
クロウがゆっくり微笑むとアウルは天を仰いでため息をついた。
「その強引さ……、まったく、あんたも立派なヘヴン育ちだね」
アウルが呆れたときに見せる鼻梁の皺がクロウは好きだ。
ベッドに腰かけてアウルが食事をするあいだクロウは机に座って書類の束を眺めた。新館長の署名欄に見慣れない名前がある。
「何十年ぶりだろうね、その名前を書いたのは」
ちぎったパンでスクランブルエッグをすくいながらアウルは小さく笑った。
「もう忘れたと思ってたのに、案外すんなり書けて自分でも驚いた」
ためらいのない流れるような筆致がアウルの言葉を証明する。家族をほとんど知らないクロウにとってアウルはもっとも家族に近しい存在だ。その彼女がいまは悲しいほど遠く感じる。
「みんな、こうやって本当の名前があるんだよね」
羨望と寂しさが言葉をからからに乾かしてしまう。
アウルは微笑むことも顔を曇らせることもなく、ただじっとクロウを見つめた。
「あんたのいう本当がどういうものかわたしにはわからないけど、クロウ、あんたの名前はロビンが何日も考えて付けたもんだよ」
そのときのことを思い返しているのかアウルはいとおしげに目を細める。
「ここでまだ誰も使ってない名前にしたいって。言い出したらきかないだろう? がらにもなく古い名簿を片っ端から調べたりして大変だったんだから」
ヘヴンでは多少の差はあれ、屋号にちなんだ名付けをする。青鷺館では年季が明けるまでは花の名を、明けてからと生まれたものには鳥の名をつける。
ここから飛んでいってもいいのだと、名前に込める。
「マダムを筆頭に、その名前に反対する子は多かった。わたしも鴉ってのはすこし気味が悪いと思ったけど……」
「言い出したらきかないんだよね」
「そう。どこから調べてきたのか、遠い国では神さまの使いだったり太陽の化身だったりするから、ここらでどんなに不吉だろうと関係ないって」
「関係、ないって……。人の名前だと思って」
クロウは思わず弱々しい笑いをこぼした。寄り添うようにアウルも笑う。
「ほんっと」
言い出したらきかない、とふたりは声を揃えた。ひとしきり笑って、アウルははあっと息を吐く。
「そうまでしてロビンがクロウって名前にこだわったのはね、これは……わたしの勝手な解釈なんだけど、きっとなにものにも囚われてほしくなかったからだと思うよ。だって鴉は人に飼われたりしないだろう?」
ロビンのことを話すとき、アウルはいつもすこしだけ悲しそうな目をする。その眼差しがどんなときよりもきれいだから、クロウはロビンのことを恨まずにいられたのだと思う。
「だからね、クロウ。あんたは自由になっていいんだ」
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