午前四時のノクターン
1.花の名、鳥の名(1)
午前四時の鐘が鳴るころ街からは明かりが消えていく。
劇場の扉が閉ざされ、客を乗せた馬車が橋を渡り、辻々の屋台が店じまいを済ませると、さきほどまでの賑わいが嘘のように静まり返り、夜明けまでのすこしのあいだ街は深い眠りに落ちた。
クロウはいつもその静寂で目を覚ました。窓を大きくあけると川で濡れた風が吹き込んでくる。空には薄ぼんやりとした明るみが霧のように漂い、乱反射した青が散った。まばたきをするたび少しずつ途切れていく夜を眺めていると、自分ひとりが世界に取り残されたような特別な孤独感があった。
部屋の窓からは川と、その向こうに一区の街並みが見える。川面には街灯の明かりが等間隔ににじみ、大聖堂の壁はほの白く浮かび上がっていた。河岸を散歩する人や荷を運ぶ人たちの姿は小さくしか見えないけれど、翳りや澱みとは無縁の軽やかさが伝わってくる。
目に映る景色が一区のすべてではないと頭ではわかっている。実際、十七区で狂ったように騒ぐのはみな決まって一区の高給取りだ。正しく、清浄で、うつくしいばかりの世界なんてクロウは信じない。それでも朝がくるたび夢見ていることに気づかされてしまう。
川に隔てられたふたつの街はあわせ鏡だとおとなたちはいう。街から出たことのないクロウは外から見た十七区を知らない。あちら側から臨む楽園はいったいどんな光をまとっているのだろう。
短く息を吸って、起き抜けの掠れた声を震わせる。歌声はクロウの血肉を離れて紙吹雪のように風に散っていく。
どこか愛なんてない場所まで
わたしを連れていって
いばらの道も
海の底まで
しがみつくわたしに
あの日あなたが見せたほほえみ
もう終わりにしてあげるから
『クロウの歌は神さまに愛された証しなんだよ』
神さまの愛なんて知らないけれど、リリィが喜んでくれるならそれも悪くない。歌はどんなときもクロウの心に寄り添う。もしも神さまがほんとうにいるならば、それは歌だとクロウは思う。
空の端に夜明けが兆す。クロウは大きく伸びをして仕事に取りかかった。
起きたときには夜風で冷えていた体も、風呂場の掃除を終えるころには汗だくになっていた。連日蒸し暑い日が続いている。マダムのところへ持っていく着替えを薄手のものにしようかと考えながら、クロウはマダムの青白い寝顔を思い返す。
どんなときも気丈で頑強な人だった。そのマダムが昏睡状態から目覚めてひとこと、青鷺館をアウルへ譲ると呟いたときには胸がしぼられるようだった。マダムだけは老いと無縁であるように思っていたのだ。気づけば髪はまっしろになり、顔の皺は深く、痩せた手の甲には骨が浮いていた。いつから、と思うと同時に情けなさがこみあげた。
自分がもっと大人だったなら気づくことができたかもしれない、マダムのほうから相談してくれたかもしれない。そんな苛立ちが消えない。
せめてこれからはアウルの力になりたい。クロウは自身の将来をそう考えるようになっていた。
廊下に出されたタオルやリネン類を回収してまわる。最後に拾いあげたシーツからは百合の香りが立ちのぼった。スネイクはもう帰ったはずなのにふたりの楽しげな笑い声が聞こえるようだった。それがリリィの幸せとわかっていても、いまばかりは陰鬱な気持ちになった。
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