21.姫王子のなみだ(2)

 落日前の空は燃えるような夕景に染まっていた。クロウは『クロウ』の歌を口ずさみながら水たまりを飛び越える。

「そういえばクロウは『魔女のなみだ』の意味を知っていますか?」

「芝居のなかでは散々男をだました女が最後に自分の子どものために泣いてたけど」

「はい。実は二区では夕焼けのなか降る雨のことを魔女の涙と呼ぶんです」

「へえ」

 空はよく晴れて雨が降りそうには見えない。

「今日は泣いてないってことか」

「そうですね。二区の魔女は愛する人を助けたくて縋った相手が悪魔とは知らず、願いを叶える代わりにみずからは異形となり、人としての時の流れから切り離されてしまった女性です。夕暮れのときだけ人としての意識を取り戻すので、夕焼けは魔女の叫びだとも。スネイクはこの話を支配人から聞いて『魔女のなみだ』を書いたそうですよ」

 大通りまで出ると建物のあいだからいまにも落果しそうによく熟れた太陽がのぞいていた。魔女の叫びと聞けば、太陽が口に見えなくもない。

「どうせならそんな意識なければいいのにな。人に戻れないのに、人であることも忘れられない」

「あわいの生きもの、ですよね。ただ、どちらでもないからこそうつくしいこともあるように思います。昼でも夜でもない、すこし怖いくらいのこの夕暮れみたいに」

 クロウは大きく膨れあがった太陽に目を細める。魔女の叫びは切実で哀しかった。

 開演一時間前には立ち見のチケットも完売となった。報告にきた支配人が長々と話すのをウィルが追い出し、ようやくクロウも準備に取りかかる。ウィルは楽屋をあらかた片付けて下がった。ひとりきりになった楽屋でクロウは鏡の前に座る。

 客を誘導する声、楽団が練習をする音色、照明や設備を点検する人々のかけ声、走りまわる音……。開演までの、皆がおなじほうを向いていると感じられるこの時間がクロウはすきだった。化粧筆を手に持って誰にも聞こえないように歌を重ねる。白粉をはたいたうえに陰影をつけて、客席の奥まで眼差しが届くようにまぶたには濃くあざやかな青を選んだ。そうやってクロウは『クロウ』へと生まれ変わっていく。性別や年齢や生い立ちを越えて、虚構と現実の境を化粧で塗り潰していく。

「あわいの生きもの、か」

 血の色のように生々しい紅で唇を彩ると、ちっぽけなクロウのいのちが凍りついて身震いした。目に映る世界との距離が曖昧になり、ゆっくりとまばたきを繰り返すうちに感覚は研ぎ澄まされていった。喉から歌がほとばしる。歌うためだけの生きものになる。もっと歌がほしくて、歌を求めてほしくてたまらなくなる。歌といういのちを食らいたくて仕方がない。クロウは語るように歌いながら髪をゆるく結わえて、金属のように七色に輝く孔雀の羽根を挿した。

 楽屋の奥のドアが向こう側からひらく。舞台へ続く階段に足をかけると、暗がりから手が差し出された。甘い煙草の香りがする。クロウはその手をとって一段ずつ確かめるように階段をあがった。

 舞台上はすっかり準備を終えて、皆が自分の持ち場について定刻を待っている。目の前にはここまで手を引いてくれた男が立っていた。

 クロウは先ほどまで繋がれていたはずの手を見おろした。指に結びつけた繻子にひとつだけ色褪せたものがある。それを額に押し戴いてから、クロウは男のとなりに並んだ。

「昨日の話、受けてやるよ」

「おれの復讐の手助けをしてくれるのか」

 スネイクは煙草をくわえたまま冷たく笑う。クロウは目を伏せて、さらりと首を振った。

「そうじゃない。もっと濃い歌が、いのちがほしい」

 がらんどうの空間がまばゆく照らし出されている。あちらこちら傷んだ舞台もクロウが立てば華やかな楽園へと生まれ変わる。観客も音楽もすべて飲みこんで、クロウがこの劇場そのものになる。その瞬間の恍惚を思うとため息がこぼれた。そしてもっと欲しくなる。

 クロウは伏しがちにスネイクに微笑みかけると毛皮の裾を翻して舞台の中央へと進み出た。重たげに垂れ下がる緞帳は母の子宮のようだった。胎内に包まれている感覚に安心してクロウは静かにそのときを待つ。

 今夜もまた世界に生み落とされる。光という血を浴びながら歌の産声をあげる。

 午前零時の鐘が鳴る。 

 狂乱の幕は、あがった。



―おわり―



「午前零時のアリア」にお付き合いいただきありがとうございます。

次話からは続編「午前四時のノクターン」です。

時間軸としてはマダムが倒れたころから始まり、本編「午前零時のアリア」後のエピソードや再会などとなります。

楽しんでいただけますと幸いです。


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