20.姫王子のなみだ(1)
人の気配に目覚めると、すぐそばにウィルの笑顔があった。いつのまにか添い寝をしている。
「おはようございます、クロウ」
「どうでもいいけどおまえはほんとうに人との距離感がおかしいな」
「そんなことをいうのはクロウだけですよ」
「だったらおれ限定でおかしい」
「もう一年半になるんですからいい加減慣れてくださいね」
「めちゃくちゃだ」
反対側へ寝返りをうって、ここがリリィの部屋だったことを思い出す。以前ならこの部屋に誰かが入ることを嫌ったし、ましてや自分以外の男がこのベッドに触れるなんて許せなかった。クロウは自分の心の在りように戸惑った。
ウィルは二区の商家の生まれで、おさないころから店番をしていたため人当たりがよく、姿がいいので微笑むだけで絵になる男だった。しかしそれはあくまでウィルの外面の話だ。
「一年半……、そうか、もうそんなになるんだな」
「はい。あれは『魔女のなみだ』のリバイバル公演でしたから」
灰猫歌劇場の支配人と遠縁のウィルはそのつてで楽屋まで押しかけて自分を雇ってくれとクロウの足に縋りついた。正直クロウには面倒でしかなかったが支配人からどうにかと言われれば断ることはできなかった。なかば強引なかたちでウィルはクロウの付き人になった。姫王子の愛称もウィルがつけたものだった。
代役を務めた『魔女のなみだ』以降もクロウはときおり舞台へ呼ばれた。それがやがて月一となり、姫王子という名が広まってからは灰猫歌劇場のポスターにはつねにクロウの姿が描かれるようになった。はじめに舞台へと引っ張りあげたのはスネイクだが、そのあとさらに深い奈落へ突き落としたのはウィルのほうだとクロウは思っていた。
ウィルはベッドから起き出してクロウの着替えをベッドに並べる。二年前の今日のことについてウィルはなにも言わないが、知らないはずはない。
寝そべったまま肩ごしにウィルの背中を見あげる。
「なあ、ウィルの目にいまのおれはどう映ってる」
「すこし浮腫んでいますね、あまり寝られなかったんでしょう?」
「そうじゃなくて……」
「一年前よりずっとやさしい目をしています」
そうやって笑うウィルのほうがずっと優しい。
「なんだよそれ」
「いいんですよ、そのままあなたはあなたを許して」
クロウは顔をこわばらせた。ちがう、と掠れた声で首を振る。
「そんないいもんじゃない。おれはたぶん、ただ忘れていってるだけなんだ。忘れられないと思ってることだって、時々それがほんとうにあったことかどうかわからなくなる。おれがそう思いたいだけの都合のいい妄想なんじゃないかって」
「妄想じゃだめですか?」
「だめ……じゃないけど、たしかにあったことだっていう確信がないと不安になる。ほんとうにリリィがいたのかどうかも曖昧になってしまう。だっておれは……」
苦しくて喉が詰まる。クロウは両腕で顔を覆った。
「おれはいまもまだ歌ってる。リリィのために殺したはずの歌を……歌ってるんだよ」
息をしようとすると胸が痛んだ。それでも泣くことができない薄情な自分をクロウはひどく軽蔑した。舞台のうえでなら、芝居のなかでなら、いくらでも好きなときに涙を流せるのに、リリィのための涙はあのときからずっとひとしずくすらない。
「それでもあなたが歌うのは彼女が求めたからじゃないですか」
歌ってとせがむリリィの声はいまもまだ耳の底の深いところで、川底の水草のように揺れていた。ときおり水が濁ってもやがて晴れれば聞こえてくる。
『ねえクロウ、歌って』
その声がこだまするうちはクロウの歌は生かされているのだろう。その声のあるじはリリィであり、リリィでないかもしれない。リリィがいう神さまの声かもしれない。どちらにせよクロウはこの二年、歌に生かされてきたのだった。
口をひらくと自然と歌があふれてくる。
「そういや今日は『クロウ』の最終日か」
「はい。異例の三度目のリバイバルでも連日の立見ですから、はたしてほんとうに最終日になるかどうかはわかりませんけどね」
「支配人のひとの悪い顔が浮かぶな」
クロウはウィルが用意してくれたシャツを着て青鷺館をあとにした。
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