19.六度目の夏に(8)

 リリィはふたたび本をひらいて穏やかな笑みを浮かべた。雲間からさしこむ陽光のようにやわらかで輝かしい。

「ねえクロウ、歌って」

「え……」

「さっき歌ってた歌の続きが聴きたい」

 あまりにも多くのことがありすぎてよく思い出せない。

「川辺で歌ってた、花売り娘」

「ああ……」

 湯あがりに風にあたっていたことを思い出す。

 クロウは歌うことをためらった。クロウの歌はもう光を失くした。乾いてしまった歌がはたしてリリィに届くのか。届かないときのことを思うと怖くてしかたない。

 息をするたび胸が痛んだ。目眩がおさまらないので背中をベッドに預ける。体は熱いのに悪寒がする。熱があるようだった。

 リリィの手がクロウの頬に触れた。冷たくて気持ちがいい。やがてクロウは掠れた声で歌いだした。


 あなたは町いちばんの船乗り

 わたしはただの花売り娘

 海より深くて青い恋だったわ

 溺れても助けは呼ばない

 沈んでいくわ

 いっそ貝になって

 いつかばらばらに砕けたら

 星になって空へ

 さまようあなたの手をひいて

 どうかどうか

 しあわせでありますようにと


 歌っていると痛みや苦しさが消えていく。歌に飲み込まれて体のすべてが歌そのものになる。光は失ったはずなのに、それでも歌があふれてくることが嬉しくて心が震えた。そしてそれがかなしかった。

 雨音に混じって午前零時の鐘が鳴る。クロウは気を失うようにして眠りに落ちた。

 たぶん夢を見ていた。石畳が続く川沿いの道を歩いている夢だった。片手にぬくもりがある。どうしてもそちら側を見ることはできないが、たしかめなくてもクロウにはこのぬくもりの持ち主がわかっていた。道先に本で見た聖堂の屋根が見えた。ようやくついたと息をつくとぬくもりが消えている。クロウは彼女をさがして名を呼んだ。返事が聞こえる気がするのに、どこにいるのかわからない。次第に声が出せなくなり、もどかしさで息苦しくなった。クロウは自分の声で目を覚ました。

 雨はすっかりあがっていた。いまにも夜が明けようとしている。起きようとすると床で寝たせいか体中がひどく痛んだ。腹には毛布がかけられていた。

「リリィ」

 クロウは部屋のなかを見回した。彼女の姿はない。布靴もなくなっていた。クロウは毛布をはねのけて飛び起きた。まさかこんな早朝から組合が来たのかと、慌てて一階へ駆け下りた。応接室を開けるとアウルとシスルがソファで眠っていた。ここにアウルがいることにクロウは安堵する。夜のあいだは組合員も自分たちの館の仕事がある。動くとすれば昼からだろう。

 外へ出ると泥濘に、青鷺館から川のほうへと足跡が続いていた。

「リリィ……?」

 泥に足を取られながら川沿いへ出ると足跡は護岸の手前で途切れていた。土が大きくえぐれている。そこに汚れた布靴が片方落ちていた。拾いあげて泥を払う。なんの変哲もない布靴だ。リリィのものとは限らないと何度も心に言い聞かせる。

 護岸に沿ってまばらに生えた草花になにか花とは異なる色を見つけた。小さな黄色い花の陰に挟まっている。手を伸ばしかけてクロウは息をとめた。指先から凍えていく。

 落ちていたのはリリィの栞だった。色褪せたピンクのリボンが風に揺れている。そのリボンに見覚えがあった。

「まさか、そんな」

 それはかつてクロウが贈った花に結ばれていたリボンだった。ゆうべのリリィの言葉が繋がっていく。

「リリィ……、うそだろ」

 泥だらけの靴を握りしめる。泥水が血のようにどくどくとあふれて腕を伝っていった。これがもしリリィの血ならなんて冷たいのかと、いてもたってもいられなくなった。

「リリィ! リリィ!」

 雨で増水した川は茶色く濁ってすっかり姿を変えていた。どこかで凍えているに違いなかった。雨の日は血色が悪くなるから頬紅の色を変えていたことを急に思い出す。はやく見つけてあげないと。そう思ってクロウは川へと足を踏み出した。

「クロウ! 待ちなさい、クロウ!」

 うしろから腕を引かれて行き損ねる。クロウは腕を引くのがリリィでないことをたしかめると振りほどこうと抗った。

「リリィ、リリィをさがさないと……」

「落ち着いてクロウ! ……シスルはやく来て!」

 駆けつけたシスルがアウルとともにクロウの腕にしがみついた。

「お姉さん、わたしたちだけじゃ無理だよ」

「それでもとめるしかないでしょ!」

 アウルはシスルとともにクロウの腹に抱きついてもつれあい泥のなかに倒れこんだ。アウルはすぐに起き上がるとクロウの上にのしかかった。

「しっかりなさい、なにがあったの」

 クロウの目がようやくアウルをとらえる。

「リリィが……いないんだ。いないんだよ」

「いないって……」

 シスルはそう呟いて川を振り返った。

「だからってそんな」

「おれ、あとから行くって約束したんだ。通行証もらって、それから一緒に聖堂を見にいくって。だから行かないと、リリィをさがしに」

 クロウはアウルに構わず体を起こす。だが行こうとしたところで頬を強くうたれた。

「シスル、組合に知らせて。わたしたちだけじゃどうにもならない。リリィをさがす人手を呼んできて」

「わかった」

 うなずいてシスルは川沿いを走っていった。

「クロウ、あんたはすこし休みなさい」

「アウル……」

 クロウの赤く腫れた頬にアウルの涙が落ちる。アウルは涙をこらえようと唇を噛みしめていたが、それでもあとからあとからこぼれてくる。それを見ながらクロウは泣くという行為があることを思い出していた。

 強く握りしめていた拳をひらくと、雨と泥で汚れた栞が紙くずのように丸くなっていた。そこからつまみ出してほどいたリボンを額に押し戴く。リボンからは雨と泥といのちのにおいがした。


 シスルの要請ですぐに捜索がはじまったが中洲にも川の下流域にもリリィらしき人は見つからなかった。

 人々はみな、川へ身を投げたのだろうと噂した。思い悩んでいたとか客をひどく怒らせたとか、まるで見てきたようにいった。

 それから二日後、リリィ自身は見つからないまま彼女の書類上の死が確定した。

 おなじ日、クロウは灰猫歌劇場の舞台で産声をあげた。

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