18.六度目の夏に(7)

 灰猫歌劇場の裏口ではスネイクと守衛が煙草をくゆらせながら談笑していた。彼もすぐにクロウに気づく。

「よおクロウ、おまえもメシに行かないか」

 さきほどの会話などまるでなかったように、スネイクはいつもと変わらない気軽さでクロウに向かって手を振る。クロウはそれにはこたえずに頭をさげた。

「楽屋を使わせてくれないか。一時間あればいい」

「かまわないよ。それよりさっきの話は覚えてるか」

「わかってる」

 雨はいつしかクロウの体の内側にまで染みこんで降っていた。ぽつりぽつりと胸をうがつ雨音の奥からは綿雲の唄が聞こえた。触れればすぐにも砕けそうなほど繊細で、新緑のようにあざやかな輝きに包まれている。どんなときも胸のうちにはこの光があった。クロウのただひとつきりの情愛のいのちだった。

 クロウはオルゴールを閉じるように、まばゆい思い出にそっと蓋をした。

「やってやるよ、代役」

 光を失った胸はみるみる冷たくなっていく。それを知られたくなくて、クロウは力いっぱい笑った。

 スネイクは乾いた笑いを洩らす。

「まだおまえの歌を聞いたわけじゃないんだけどな……」

 スネイクの視線がクロウの背後へと向かう。振り返ると先ほどの馬車がいた。

「まあいいか。好きにしろ」

「ありがとう」

「稽古は明日の昼からだ。遅れるなよ」

 クロウの肩をかるく叩いて、スネイクは守衛とともに大通りへ向かった。クロウは馬車から降りてきた夫人の手を引いて館内へ入った。

 楽屋の明かりをつけて、前髪から落ちてくるしずくを指で払う。

「ずぶ濡れじゃない」

 夫人の細い指が首もとへ伸びたかと思うと襟を掴んで引っ張られる。唇を重ねるとキャラメルのように舌がからみついて離れなかった。息つくまもない。肌という肌は燃えるように熱くなっていくのに、濡れた髪だけがいつまでも冷たい。クロウから伝った雨が夫人を濡らしていく。指で拭おうとすると下唇に歯をたてられた。思わず息を洩らすと重なったままの夫人の唇がかわいいと囁いた。

 クロウの体を夫人がたしかめる。ベルトを外され、心得た仕草で手なずけられていく。口づけながらソファへ近づき押し倒されるようにして腰をおろした。その上へ夫人がスカートをたくしあげてまたがる。飲み込まれていく感触に息を殺しながらクロウは夫人の胸もとをほどいた。

「おじょうず」

 夫人は笑ったようだったがすぐに夢中になった。だらしなくひらいた唇に吸いついては見つめあって、夫人がだめというまで繰り返す。やがてクロウを道連れに夫人はソファへ倒れこんだ。もはや体の継ぎ目がわからない。

 夫人は懐中時計をクロウへ向けた。十一時十分をすぎたところだった。

「午前零時の鐘が鳴るまで待っててあげる」

「もし間に合わなかったらどうするつもりなんですか」

「帰るかここに残るかってこと? あなたに関係ないでしょ。わたし待つのはきらいなの」

「わかりました」

 ソファから抜け出して、肌に張りつくシャツを脱ぎ捨てる。手近にあったスネイクの服を掴んで青鷺館へ急いだ。空を音のない稲妻が走る。雨は変わらず降り続けている。火照った体はあっけなく冷えていった。

 青鷺館の正面にかかる明かりは消えて、なかはしんと静まり返っていた。アウルやシスルの姿をさがすが見当たらない。組合に呼び出されているのかもしれなかった。

 走り続けたせいか割れそうなほど頭が痛い。クロウは階段をあがり廊下を奥まで進んだ。

 ドアが薄くひらいている。百合の花の濃い香りがする。明かりのない部屋でリリィは窓辺に腰かけて大きな本を広げていた。クロウがそばに立ってもリリィは顔をあげようとしない。

「その本、どうしたの」

 ひらいたページには塔をそなえた荘厳な建物が描かれていた。端に大聖堂と書き添えられている。

「むかしお客さんが忘れていったの。また来たら返そうと思って置いてあるんだけど、すっかりぼろぼろになっちゃった」

 ひっきりなしに空が光る。クロウは黒くうねる川の向こう側を見やった。

「ねえリリィ、絵じゃなくて本物を見たくない?」

 リリィは声が聞こえなかったかのように本のなかの聖堂を眺めるばかりでクロウを見ようともしない。クロウはリリィの視界に入れるよう彼女の前に膝をついた。

「お願いだリリィ、逃げてくれ」

 下から見あげたリリィの眼差しは虚ろに揺らいでいた。唇を噛みしめて涙をこらえている。

「逃げるって、どうやって」

「故郷で荷馬車を動かしてたって言ってたよね。客を載せた馬車を一台用意したから、その御者になって。御者なら通行証の確認はされない」

 リリィが靴を履いていないことに気づいたのでベッドの下に並んでいた布靴を足もとに置く。

「もうあまり時間がないんだ。急いで」

「わたし、ひとりで……?」

 本を持つ手が震えていた。たまらなくてクロウははじめてみずからリリィの手に触れた。

「おれもあとから追いかける」

「いまは一緒じゃないの?」

「手元に通行証がないんだ。いまは橋を渡れない」

 掴んだ手を強く握りしめる。祈るように頭を下げた。

「このままじゃリリィを守れなくなる。お願いだから……」

「だったら、行かない」

「リリィ!」

 クロウはあいた手で壁を殴った。リリィはすこしの怯えも見せない。

「ここを出てどこへ行くの。抱かれることしかできないわたしがなにをして生きていけばいいの。どうせおなじ娼婦でいるならクロウがいるここがいい」

「だからさ、おれも行くよ。一緒にこの聖堂へ行こう? 信じてよリリィ……」

 視界の端をひらりと薄い紙片が通り過ぎた。リリィがあっと声をあげて拾う。それはピンクのリボンを結びつけた栞だった。リリィはしゃがみこんだまま栞を胸に寄せた。

「じゃあクロウはわたしを抱ける?」

「なに言って……。もう時間が、馬車が行ってしまう」

 繋ぎなおそうとしたクロウの手をリリィはすげなく払う。

「できないでしょ。なにが約束よ、そんなのわたしには関係ない。わたしがいつ守ってなんていった? わたしはただクロウと一緒にいたいだけなのに」

「どういうこと……、だってリリィはスネイクのこと……」

 ひどい目眩がしてクロウは床にへたりこんだ。

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