17.六度目の夏に(6)
雨は、さらに強くなっていた。
大通りを見渡せる劇場の正面階段で雨宿りをしながらクロウは白く煙る街を眺めていた。どうやって十七区を出ようか、そればかり考えている。
十七区にかかる橋を渡るには通行証が必要だった。ヘヴン生まれのクロウは申請すれば数日で発行されるが、リリィは契約が終わるまで申請は通らない。過去には泳いで渡河した娼婦もいたというが、この雨では川は増水してとても泳げない。荷馬車は御者である商人の通行証さえあれば荷物まで調べられることはないが、雨の日のこんな時間に橋を渡ろうとすれば話は別だ。怪しまれてなかをあらためられるだろう。娼婦の逃亡や持ち出しは窃盗にあたる。そんな危険をおかす商人はまずいなかった。
ロビンは娼婦をつれてどうやってこの街を出ていったのか。むかしスネイクに話を聞いたときから気になっていた。なにか方法はあるはずなのだ。
劇場で馬車を待つ人の姿はさきほどより減っていた。喧騒は雨で掻き消されるほどのものでしかない。クロウが雨宿りをしている劇場はずいぶん前に公演が終わったようで、ドアのガラス越しになかの明かりは見えるもののひっそりとしていた。そこへ向かってくる馬車が一台あった。階段の下で停車すると御者が馬車をおりてきて劇場前をうろうろと歩いた。しばらくして劇場のドアがひらく。
「奥さま」
御者がしわがれた声で呼んだ。劇場から出てきた女はぶつぶつと文句を言いながらクロウの横を通って階段をおりていく。若く身なりのいい女だった。
「遅いじゃない、なにしてたの」
「すみません、奥さま。実は……」
御者の話では彼の主人、つまり彼女の夫が通行証を失くしてしまい今日中に一区へ帰れなくなってしまったのだった。そのため今夜は十七区に泊まって明日通行証を仮発行してもらい帰るという。夫は友人と語り足りないのでこのままカフェで夜明けを待つと御者に話したそうだ。
「なんですって」
女は長く待たされた苛立ちもあって棘のある声で御者に詰め寄った。
「それであの人はわたしにどうしろと」
「奥さまにはこちらで宿をとってもらって……」
「宿? わたしは明日朝からアカデミー訪問があるのよ」
「はあ……、そう言われましても」
「あんな人、放っておけばいいのよ。カフェだなんて嘘ついて。どうせろくでもないところにいるんでしょ。さあ、帰るわよ」
「ま、待ってください奥さま。それではわたしが首になってしまいます」
「そう。あなたもいい思いをさせてもらえるのね、そういうことでしょ。わたしには関係ありません」
困り果てた御者はかぶっていたフードをおろして汗をぬぐう。クロウはあっと声を洩らした。御者だ。御者は馬車の一部と見なされているため通行証の提示が不要だ。
気づくと同時に階段を駆け下りていた。あの、と声をかけると女は不審げにクロウを振り返った。
「なにかご用?」
「すみません、先ほどから話を聞いていました。お困りのようですね。よろしければ他の御者を手配しますよ」
「他の御者?」
「はい。そうすればあなたは今夜中に帰れるし、そちらはいい思いができる。お宅に御者と馬車はこれだけですか?」
「まさか」
「それなら十七区に残るおふたりの明日のお迎えは大丈夫ですね。迎えに来られる御者の通行証は必要になりますが」
クロウが話し終わる前に御者が夫人に耳打ちをした。夫人は冷たい目をしてクロウを上から下まで舐めるように見る。
「その御者っていうのはあなた? 男娼なの?」
「おれじゃないです。女の子です」
「娼婦なのね」
断定にも近い問いにクロウはこたえなかった。それは肯定にほかならない。だが嘘をつくことはできなかった。
夫人はじっとクロウを見つめていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「それで、対価はいかほどかしら」
「対価?」
「見ず知らずの御者に馬車を任せるんですから、いくらわたしたちが困っているとはいえ、対価は必要ではないかしら」
「でもいまは手持ちが……」
「お金だなんて。あなたのような人からもらおうとは思いません。それよりどこか、ふたりきりになれるところはない?」
夫人の指がクロウのベルトに触れた。そういうことかとクロウは確信する。
戸惑いはあった。それ以上にリリィを助けられることが誇らしかった。クロウは夫人の手を取り指をからませた。
「このすこし先に灰猫歌劇場という劇場があります。その裏口で待っていてください」
体で済むなら安い。それよりずっと大切なものをこれから失わねばならない。クロウはふたたび雨のなかへと駆けだした。
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