16.六度目の夏に(5)
劇場街沿いの大通りは客を乗せようとする馬車でごった返していた。雨と終演時間が重なったせいかどの劇場の玄関ホールも混みあい、小競り合いにまでなっているところもあった。そのなかで灰猫歌劇場はしんと静まり返っていた。今日は公演がなかったようだった。クロウは裏口へとまわり、守衛の男には青蜥蜴から来たと告げて館内へ入った。
壁はポスターと落書きで埋め尽くされていた。破れたソファや椅子が廊下を塞ぎ、積み重ねた雑誌や新聞がなだれを起こして床に広がっている。まさに足の踏み場がない。どこからか楽器を吹く音が聞こえてくる。ひらいていたドアからなかをのぞくと、青年と老人が管楽器の手入れをしていた。ときおり見せ合って手をとめては話に花を咲かせる。その奥ではみな台本を持って集まっていた。だがスネイクの姿はない。クロウは廊下をさらに奥へ進んだ。
つきあたりにドアがある。耳をあてると話し声が聞こえた。男がふたり。片方はスネイクの声だった。クロウはドアをたたいた。
「スネイク、おれだ、クロウだ」
話し声がやんでドアがひらく。スネイクは苛立たしげにクロウを睨みつけた。
「なんの用だ」
「話がある」
「おれはいま降板した女優の代役さがしでそれどころじゃない。悪いが他をあたれ」
ドアを閉じられそうになる。クロウは隙間へ足を入れた。
「おまえじゃないとだめなんだ」
「ああそう」
「頼むスネイク、頼むよ……」
スネイクは冷たくクロウを見つめていたが、しばらく考えたのちドアから手を離した。なかにいたもうひとりの男に声をかける。白髪の背が高い男だった。
「すみません、話の続きはまた明日」
「そのようだね。夕方にはおもてにポスターを貼り出すから、それまでに何人か候補を見つけておいてよ」
「わかりました」
男はスネイクに向かって笑顔でうなずいてクロウの前に立った。にこにことしながら細い目でじっとクロウを観察している。
「きみが噂のクロウくんか」
「うわさ?」
「そうそう。むかしからね、ヘヴンにはスネイクが贔屓にしてる子がいるってもっぱらの噂でね。一度でいいからお目にかかりたいと思っていたんだよ」
「は、はあ……。おれは部屋を持ってないですけど」
「え、そうなの?」
男はスネイクを振り返ってもう一度、そうなのと首をかしげた。スネイクは呆れながら煙草に火をつける。
「そうですよ。いいからもう行ってください」
「なんだあ。じゃあ、噂はただの噂か」
あからさまに肩を落として男は笑った。クロウもつられて笑いを浮かべる。
「なんか、すみません……」
「いいのいいの。それにしてもきみ、どことはなしに似てるねえ」
「え?」
「支配人」
「はいはい。ではまたねクロウくん」
スネイクに睨まれて支配人と呼ばれた男は楽屋出ていく。スネイクははあっと声に出してため息をついた。
「それで、話ってなんだ」
ソファの背もたれに頭をもたせかけて、スネイクは目を閉じていた。向かい側にもソファはあったが座らず、クロウは立ったまま部屋のなかを見渡した。
壁には大きな鏡がつり下げられていた。そのため部屋は狭いが息苦しさはない。ソファのまわりは片付いていたがあとは衣装や小道具で足の踏み場もない。奥にはどこへ繋がっているのかわからない薄暗い上り階段があった。
クロウは手前へ視線を戻す。
「リリィをさらってくれないか」
スネイクは目を閉じたまま眉ひとつ動かさない。
「故郷まで送ってやってほしい」
「あいつはもうすぐ契約切れじゃないのか」
それは問いかけのかたちをとった拒絶だった。スネイクは頭をごろりと動かしてクロウを見あげる。
「どうしておれに頼む」
「なんだって?」
「なにがあったか知らないが、おまえが血相変えてくるんだ、客と問題を起こして組合から追放されそうなんだろ。あいにくおれはいまさら組合と面倒を起こすなんてごめんだ」
「いまもリリィはあの部屋でおまえが来るのを待ってるのに、それなのにおまえはそういうことをいうんだな」
雨に濡れた体がかっと熱くなる。
「スネイクは知らないだろう、おまえと出会ってからリリィがいかに満たされた顔をするようになったか。知らないだろう、あんまり寂しいからおれとスネイクを混同したりするんだ。そのくらいリリィは……」
そこまで口にしてクロウは眉を歪めた。
スネイクが笑っている。声をこらえきれず顔を手で覆い肩まで震わせていた。
「なにがおかしい」
「いや……、不憫なおんなだと思ってな」
「なんだと」
「なあクロウ、おまえもう帰れ」
外の雨音が強くなる。クロウはとっさに怒ることができずに立ちつくした。すぐに、傷ついたのだと自覚する。
「彼女を救いたいんだろう。それならクロウ、おまえがさらってやればいい」
「なにいってるんだ。それならはじめからここに来たりしない。おれじゃ無理なんだよ、おまえじゃなきゃ」
「だから不憫だといった」
スネイクは静かな冷たい声でいい放つ。
「できないなら諦めろ。ヘヴンはそういうところだ」
かつてリリィとおなじ立場だったスネイクの言葉は氷のように冷たく重い。クロウはなにも言い返せずに唇を噛んだ。スネイクにはスネイクの事情がある。ヘヴンとの契約は切れていても十七区で生きていくなら組合とは穏便に付き合いたいはずだ。スネイクは正しい。
「それともなにか見返りがあるなら話は別だ。たとえば……、ああ、おまえが降板女優の代役をやるのはどうだ。歌えるらしいじゃないか。もし引き受けてくれるなら青鷺に顔くらい出してやる。それにはおまえの歌を聴いてからになるけどな」
スネイクはへらへらと笑いながら寝ころがる。それを見おろしながら、彼の正しさなんて理解できなければよかったのにと悔しく思う。
「わかった、もういい」
クロウは楽屋をあとにした。
廊下を歩くうちすこしずつ駆け足になる。息があがっているわけでもないのに苦しくて荒い呼吸を繰り返した。叫びたいのに、口をひらくと歌がこぼれそうになる。いまは歌いたくはなかった。ここからではまだスネイクに聞こえてしまう。誰にも聞かせたくなかった。クロウの歌はリリィだけのものだった。
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