15.六度目の夏に(4)
「リリィ……」
彼女は薄暗い明かりのなか床に倒れ込んでいた。クロウは転げながら膝をつく。
「リリィ」
呼びかけにわずかに顔をかたむける。乱れた髪のあいだから目がのぞく。
「ああ……、来てくれた」
のろりと起きあがってクロウの首に抱きついた。下着すらつけていないので手近にあったシーツを掴んでかけてやる。
「ずっと待ってた、来てくれるのを。待ってた」
どうやらクロウをスネイクと思っているようだった。ここにいるのが本当にスネイクだったなら彼女を抱きしめてあげられるのだろう。クロウにはシーツの端を掴んでいてやることしかできない。
情をうつすなというマダムの声が遠くに聞こえる。どうしてそんな約束をさせたのか、クロウは何度もマダムに訊ねようとして、けれどいまだにできずにいた。ロビンとおなじ轍を踏ませまいという戒めならば、そもそも世話を任せなければよかったのだ。距離を近づけておきながら心を許すなというのはあまりにも酷で非現実的だった。
おねがいとリリィが囁く。彼女はクロウに強くしがみついた。胸もとにぽたぽたと人肌のしずくが落ちてくる。
「ねえ、おねがい……」
抱きしめてと言葉にしなくても、細い肩は震えていた。スネイクの代わりに抱きしめるのだとして、はたして本当にただの身代わりかと問われればクロウには答えられる自信がなかった。
クロウの情は、心は、もうとっくにクロウのもとにはない。ずっとむかしに奪われたまま、みずから触れないというかたちばかりが残っている。そこにいかほどの意味があるのかクロウにはもはやわからなくなっていた。
リリィが息を張りつめているのが伝わってくる。クロウのことをスネイクと思いながら触れられるのをじっと健気に待っている。その切実さにクロウははっとする。リリィがもてあます情愛は、たとえ彼女が求めていたとしてもクロウが代わりに応えていいものではなかった。
スネイクでなければ。
「リリィ」
クロウは静かに彼女の名を呼んだ。リリィは腕をゆるめてクロウと向き合う。
「クロウ……」
頬にはいくつもの涙の跡がある。いまも花びらのようにはらはらと涙が落ちた。シーツの端でそれを拭ってやり、化粧をなおす。クロウにできるのはこれが精一杯だった。
「待っててリリィ。すぐに帰ってくるから」
クロウは細い腕からすり抜けて部屋をあとにした。
階段をおりると奥からシスルが呼んでいた。手招きされて厨房へ入る。
「リリィは大丈夫?」
「震えて泣いてた」
「怪我とかは」
「ごめん、それは見てない」
クロウは帳簿をひらきながら悪びれずにいう。リリィの客の記録を見ると三日前からスネイクは来ていなかった。その前日は休みをもらってスネイクの舞台を観に行っている。そのときになにかあったのかもしれない。
「クロウちょっと来て」
シスルに腕を引っ張られる。彼女はマダムの私室に繋がるドアを開けようとしていた。私室の向こうは応接室になっている。あいだにドアはなく目隠しの布がさげられているだけだ。応接室にはいまマダムと客がいる。
クロウは足をとめて逆にシスルを引っ張った。
「いや、ちょっと待って。なんでおれも」
「共犯者がいたほうがいいでしょ」
「おれは盗み聞きなんて」
「なにいってんの。あんたはリリィがヘヴンから追放されてもいいわけ」
すべての娼館は組合の庇護のもとにあった。一度でも問題を起こした客はヘヴンにあるすべての娼館において出入り禁止となる。そのためヘヴンへ通うのは素性の明らかな好人物ばかりだった。逆に娼婦が問題を起こせば多額の借金を背負わされヘヴンから追放された。十七区にはヘヴンのほかに組合に所属しない野良の娼館がある。追放された娼婦の多くはそこへ辿り着き、やがて壊れた。
「追放、されるの……?」
「わかんないけど。それを聞くのよ」
シスルとともに私室へ忍び込んで息を殺す。組合へ報告するといって折れない客に、アウルは頭をさげてそれだけはやめてくれと懇願している。いつもは穏やかなアウルのこんなにも必死な姿はクロウも見たことがなかった。
実際のとこなにがあったのとシスルが耳打ちしてくる。クロウは目を伏せて首を振った。拒んじゃったのかなあと、シスルはひとりごとのように呟く。
話し合いは平行線をたどった。アウルの説得も虚しく、客はもう話すことはないと大きなため息を残して部屋を出て行った。
ソファではアウルがうなだれて頭を抱えていた。
「お姉さん……」
「どうしよう、シスル。あの子はもうすぐ契約が終わるんだよ、なのに……。わたしの力不足だ。先代ならきっとこんなことにはならなかった」
「そんなことない。お姉さんがこんなに頭をさげてるのに聞き入れない客だって――」
「シスル」
厳しいアウルの声にシスルは口を噤んだ。
窓にぽつりぽつりと雨粒があたる。クロウは胸に手をあてた。リリィが流した涙はとっくに乾いている。そこにはただ決心だけがあった。
「アウル、シスル、おれがなんとかするよ」
「なんとかって……、そんな、気持ちだけでどうにかできるものじゃ……」
アウルはなにかを察したようにクロウの腕を掴んだ。
「待ちなさい、なにをするつもり」
「おれはリリィに笑っていてほしいだけだから」
「それはわたしもそう。だけどわたしはあんたにも笑っていてほしいんだ、わかる?」
クロウはうなずく。
「だから、なんとかするんだよ」
アウルの手をふりきって、クロウは雨の街へと飛びだした。
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